• 締切済み

悟り

仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義があると思いますが、 自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? 現代的に言うとメタ認知ですかね?

noname#224523
noname#224523

みんなの回答

回答No.3

『自分というものを完全に客観的に見れるようになり』と云うことに付いては『ある程度』と云ういいかがが適当です。 そして、『自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか?」と云うことに関して言うなら『釈迦も弥勒菩薩もまだ修行中』と云う答えが正解だと思います。 人間は神や仏にはなれないからです。只現世の欲と得には『その筋書き』が見えるために人を羨んだりすることは無くなります。お金持ちを見たとしても、そのお金持ちの苦悩と喜びが同時に見えるからです。 お金を持つ事の良い点も悪い点も同時に見えるからです。そうしてそのお金を手にするための苦労も犠牲にする事も在る程度推察出来るからです。 人間を苦しめているものは『欲』と云う事がよく判ります。欲を捨てよ、と云う意味も判ります。欲を捨てよと言う本当の意味は『ものを欲しがるな』と云う意味では有りません。 人間の幸福を求める気持ちは判ります、或いは人間が体も心も健康を求める気持ちは判りますが、そういった欲を捨てよと言う意味になります。 意識して眠ろうとした場合眠れなくなります、或いは眠ったとしても、もっと眠ろうとしたりもっと熟睡したいと思う事があります。この場合求めれば求めるほど『求める事は』遠ざかってゆきます。 心や体の健康にしたところで同じです。求めたらその強さに応じて遠ざかって行きます。 お金にしたところで、同じように求めに応じて(お客が引く用に)遠ざかって行きます。 体の健康を自我意識が求めた場合に『自律神経失調症』になってしまう確率が増します。 感情(心)の浮き沈みを自我意識がコントロールしようとする事から『心や病む場合がある』という事です。 自分の行動を自我意識の計らいでコントロールしようとした場合には『眠る事』さえ出来ないかも知れません。話す事や、書くことも皆一緒です。人に会う場合に『堂々としていたい』と計らう事から対人恐怖にまでなってしまうかもしれません。 そのような事から身を守る教えが『悟り』です。悟りと云う意味は自我意識が自身の『命の働きのの意思』の働きを知ると云う意味があります。眠る事も、話すことも、人と会う事も、体の健康も、心の健康も『自我意識には出来なかった』と知るところにあります。 人間には生まれながら備わっている『生命』としての働きがあると云う事を知ると云う意味です。生まれたばかりの赤ん坊に備わっている働きです。心臓や肺やホルモンなどの調節をする機能です。 生命を保つための機構にも、ちゃんとした主人公(人格)が存在しています、自我意識には出来ない事を、脳の機能の関係から『もう一つの意識』には出来るようにセットされています。 そうして人間の悩みや疑問にも答えています。人間は何のために生きているのかと云う問いは、逆に『自身の命の働きからの』問いかけです。 脳の機能分化の完成によって、自我意識は顕在意識として表面に出ます。そうして言葉によって全てを把握しています。 もう一つの意識は『無意識の意識として』自我意識からは身を隠しています。このために心の問題は判り難くなっています。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.2

人々は善は善である、と考え善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜であることをしらない。善と悪、美と醜、・・等々。相対立する二つの概念は互いに否定し規制しあいながらも、一つの統一体をなすものである。という、へーゲルの弁証法が書いてあります。 名は名にして常の名にあらず。の説明としての「老子」の2章です。 老子の考え(=私の考え方)は 善=善 では意味が起きない。名、としての存在にならない。善ー善=0 なのです。 存在となるためには、常でない名、が一体でなければならない。 善×(1/善)=1  となって。一つの統一体としての、名=認識単位 となる。 そして、(1/善)は、悪、と名付けられる。 すなはち 善と悪は、一体のものであり、一つの概念の表裏である。人を愛する心が人を憎む心であり。善に執着する心が、悪に執着する心である。 人を愛する心を滅した者が人を憎むことはなく、善に執着しない者が、悪に染まる事はない。 という事なのです。 、悟り、とは? との答えの難しさは、悟りという、名、言葉、と一体になっている、名、は何かが特定出来ない事なのです。それが出来れば答えは出たようなものでしょう。 老子の悟りは、無為自然、(作為、思惑を捨て在るものを在るがままに見て、あるがままに生きよ) とすれば。悟りとは、自分の生き方を見いだし、自ら決めること。となります。 キリスト教徒の悟りが、神の教え、導きを知る、であるなら。ある時、神の声を聞いた、神の啓示を受けた。というような、体験(錯覚?)と云うようなことになるはずです。 仏教、釈迦の思想に於ける、悟り、は。ブッデイズム、悟り=仏(導くもの)の形態であり。 悟り、とは、仏(自分を目覚めさせ、気づかせてくれる、縁)に出会い。この世界の在り方起こり方を知る。と云うようなものになります。 釈迦以前のバラモン宗教、そして、仏教を吸収する形で復活した、ヒンズー教では。 ・・と悟った者はこの世(心の世界)を捨てる。さらに・・と悟った者は、かの世(知恵の世界)を捨てる。心も知恵も超えた、精神的な、境地、が悟りなのでしょう。 メタ認知という言葉は、このサイトで始めて聞いた言葉ですが、認識の認識ということであれば、50年ばかり前によく言われ。私も考えた事があります。 知恵を深めるとはどういう事か、たとえば囲碁や将棋に、三手の読み、というのがありますが。 人間の脳が、今という認識単位で出来ることは、自分がこう打つと相手がここににうったら、自分はこう対応しよう。という、3っの事しか出来ないはずです。しかし、その答えを、最初の一手に置き換えて、繰り返すことは出来る。囲碁のあるプロが、読むだけなら1000手先でも読める。といってました。 珠算による暗算も、今という認識単位でやっている事は、数字を、そろばん珠の一に置き換え、それに、もう一つの数を加減乗除して、新たな、珠の位置を作り出す、そしてそれを繰り返す。というですが。訓練によって、数の桁を大きくし、何回でも繰り返せるようになり。暗算名人の計算力は、暗算力で知られる、インド人もびっくり、の能力になります。それが、知恵、とはなりませんが、人間の能力の可能性は示唆していると思います。タメ認知も、それだけでは、今の認識単位ですが。どう繰り返すか。繰り返せるか。の方法が見いだせれば、考え方、理法に成り得ると思います。 しかし、それは、悟り、ではなく、人間の内なる仏、ではないでしょうか。

回答No.1

逆でございます。 自分というものを、客観的に見る事は出来ないという事に明確に気付く事でございます。1回も1秒も客観的に見た事はありません。そして、そのままの状態では常に自分というものを客観的に見る事が出来ないんだと自覚する事です。 皆さん、よく勘違いをされるのですが自由自在に自分をコントロールできない事に気付く事が悟りの第一歩ではないでしょうか?思った様にならない、うまくいかない。 それが明確に心に落ちた時に、全ての差を取る世界に出会います。その出会いが悟る(差を取る)ことです。

noname#224523
質問者

補足

釈迦の無我の思想は間違っていると?

関連するQ&A

  • 悟りについて

    仏教の『悟り』 エックハルト・トールの『悟り』 神との対話の『悟り』 老子の『道(タオ)』 キリスト教では何というのか分からないんですけれども、 他にも『覚醒』とか『アセンション』とか言いますが、 全て同じ状態を示しているのでしょうか? 『欲』や『怒り』や『後悔』や『不安』や『エゴ』などを、 乗り越えた状態なのでしょうか? 悟りを開いた方がいらっしゃったら、教えて下さい。 よろしくお願いします。

  • 悟り 現代

    昔は何人も悟りを開いた人がいるのですよね。   先週、、、とはいいませんが、20世紀とかに悟りを開いた人とかはいないのでしょうか? 現代に居なければ、一番最後(最も最近と言った方がいいかな?)に悟りを開いた人は誰なのでしょうか? 例えばマザーテレサとか、ガンジーとか。 歴代ダライラマ達とか、その辺なのでしょうか? また、悟り、涅槃、などは仏教の中だけの話なのですか?  どなたか詳しい方がいらっしゃいましたら、是非教えてくださいな。

  • 悟りとは

    悟りを開いた状態と言うのはどう言う状態なのでしょうか? 「悟り」という言葉は仏教でよく出てくるように思うのですが、他の宗教でも似たような概念はあるのですか? また、悟りを開いた方は実際この世に現存するのでしょうか? 「私は悟りを開いている」という方がいらっしゃいましたら何故そう思うのか、単なる思い過ごしでない事を示してください。 悟りを開いた所以なども教えていただけるとありがたいです。 宗教関係の方はどう言う宗教なのか、専門家の方は何の専門家なのかお知らせの上、お答え頂ければと思います。

  • 記憶を失ったら仏教の悟りも失われる?

    不退転の悟りを得た仏教徒がいるとして、その人が、頭を打つなどして過去の記憶を失ったとします。彼は、言葉は話せても、自分が何者で何をしてきたかすら思い出せません。そうなると、悟りも失われてしまうのではないかと思います。悟りが失われてしまうと、再び執着心が生じてしまうと思うのですが、どうなのでしょうか?それとも、不退転の悟りは記憶に依存しないと考えられているのでしょうか?

  • 悟りとは主観と客観の一致である。

    ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。

  • 般若心経における悟りとは何でしょう

    私は無宗教ですが、般若心経について少し興味があるので教えてください。 「悟りとか煩悩の克服にこだわると悟れない」とあるサイトに書いてありました。経を唱えるとか、写経とか、修行とか座禅などは悟りの境地に近づくためにするもの、つまりこだわっているものだと思っていたのですが、このへんがよく理解できません。 また、「悟りを得るための仏教の教義にこだわることも間違い」という説明もありました。仏教の教えを守ろうとすることも間違いという意味なのでしょうか? 「一切のこだわりがない状態が良い」というのが教えだとしたら、般若心経の教えを理解しようとする気持ちもない状態が良いということになるのでしょうか。また、仏様を崇拝する気持ちもない方がよいということなのでしょうか。

  • このカテにおいて、釈尊の覚りを否定する流れ

    最近のこのカテでは、釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか? 何か根拠でもあるのだろうか。 大昔のこと、現代に生きる我々としては、釈尊に出会ったわけでもないだろうに。 どうやら、無というものがひっかかっているようですが、 無とは本来、何かが無いという意味であり、全部が無いとか、あれは無いとか、これは無いとか、主語に対して使う言葉であって、どうも無の覚りが云々という言説が舞い上がっている意味がよくわからない。 自分も十年ほど前は、無というものが何処か自由を保証するような気がして、それにかぶれた記憶もありますが、それから延長して釈尊は覚ってないとか、そんなことは言ったことがない。破門で始まる仏道があるとかのたまって、自己に酔いしれた経験はあるが、それでも今振り返れば、若かったな、何もわかってなかったなということに終始します。 このカテで、釈尊の覚りを否定する方は、何を根拠に言うのでしょう。 釈尊や仏教の肩を持つわけではないが、このカテのその風潮のうき具合が少し心配に思えます。 どちらかと言うと、徳とか、そういう話がもっと出ても良いと思うのですが。

  • キリスト教の聖人という人たち。

    キリスト教の聖人という人たち。 キリスト教には「聖人」とされる人がいますよね。 この人たちは枢機卿というキリスト教の最高機関みたいなところで決定されると聞きました。 じゃあ、仏教とかにもこの「聖人」みたいなくくりの人はいるんでしょうか? 仏教でいくと、悟りを開いた人になるのかな? 悟りを開くとどうなるんでしょうかね?

  • 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • キリスト教の本質

    例えば仏教なら「悟り」を求めて修行します。 キリスト教は何を求めて祈るのでしょうか?