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存在って 何でしょうか? これこれが存在するって言うものでしょうか?

存在って 何でしょうか? これこれが存在するって言うものでしょうか? 存在の定義が哲学者 哲学傾向によって違うと思います あなたはこの世に何が存在し また存在してないと思いますか? 教えて下さい。

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回答No.8

お邪魔します。存在論は、相変わらず問題が多いようですね。 少し問題点を整理してみます。 1)存在と言う言葉の定義の問題。 2)存在と言う言葉による、二分法の問題。 3)存在という言葉による、論理的排中律の問題。 4)方法論的問題。 以上ですべてというわけではないでしょうが、この辺りの事を書いてみます。 1)の問題ですが、ある言葉の定義が、人によって全く違わない、つまり、全ての人が、存在に関して、同一の理解の仕方が出来るというような状態は、実際にはありえないのです。目の前にある、PCとかが、有るとか無いとかと言う事は単純ですが、現在のように、社会科学的な概念が、問題になっているような時代では、定義の統一自体が、なかなか難しいことのようです。 2)定義の問題と重なってきますが、歴史的に、二分法の方法で十分事足りていた時代から、二分法では、色々な問題の出てくる、社会科学的概念が重要になるに従い、二分法的な存在論ではなく、多元的な存在論を必要とするようになってきた。現在はその過渡期で混乱している。 3)この問題は、わりと論理的な問題ですが、量子力学以来、排中律の論理の通用しない、確率論的な存在、と言った現象がみられるために、トータル的な存在論が、動揺している、といえるのでしょうか。 4)この問題が、一番厄介なようですが、わたしたちは現時点で、なんらかの結論、言いかえれば、終着駅に着くことができるのだろうか?という問題です。こんなことを書いては身も蓋もありませんが、「AはBである」と証明できたところで、明日それを否定する現象が出てこないとまでは、証明できないようです。逆に反対の証明はできているようなのですが。そこで、我々としては、哲学者に倣って、エポケー(ある時点で詳細は棚上げする)という方法が一番賢明かと思いますが、どうでしょうか。 おまけ 棚上げ時点での、回答者の存在に関する整理 A 語ったり関係したりすることが可能なすべての対象は存在している。 B 存在していないものに対しては、そもそも思惟する事すらできない。 ここで問題は、Bで回答者は、存在していないものに言及していますが、この辺りが必殺の棚上げ回避、突っ込まれても知らん振りです。 以上ご参考になれば幸いですが、おおいに不安ですが。

yuniko99
質問者

お礼

どうもありがとうございます 存在論の整理 よく分かります 存在とはどんなことを言っているのか。 在るか無いかだけではなく 物質と性質と霊等在ると言う基準は何か。 量子論に置いて 何か人間の限界を露呈してる感もありますねえ。 我々には分からないものだらけですから 分からないものを棚上げして置く必要は在ると思います。 私なりの解釈ですが 間違っていればまたご教授願えると有り難いです。 たいへんありがとうございます(*^^)v そうそう おまけですが Aで 例えば矛盾の盾と矛はどうなるのでしょうか 概念として存在するのでしょうか?

その他の回答 (11)

回答No.12

存在の基本単位は、存在しないものです。 存在は、存在によって創られているのではなくて、存在は、存在しないものによって創られていますね。 それでも納得いかないものでしょうか?

回答No.11

この問題の根底には、『自我』と云う意味の自身の心が問われています。この問題の意味するところは『人間の意識性』が問われているという事になります。この問題は『心の矛盾』の産物という言い方も出来ます。 この問題に深刻に悩む人が『宗教家』になっています。軽く疑問に思う人が哲学や心理学に興味を持つようになります。又この疑問から悩みが始まって、出口が無い場合に、色々な障害が待っている場合もあります、つまり心を病むと云う言い方をする場合や、神経症や、自律神経失調症になってしまう原因を孕んでいると云う意味です。 この問題の本質とは『心の矛盾』です。心の矛盾とは何かという事を書いてみますので参考にして下さい。古今から人間は悩み苦しんできました。この原因は『一人の人間には心(意識=人格)が二つ在るからです』 今の精神科医達は『内因性の精神疾患の原因がわからない』という立場を取っているように見えますが、実は、機能的に問題がない場合の、内因性の精神疾患の原因は大概、脳内の二つの意識との間の、コミュニケーションのとり方の誤りから、端を発しています。つまり心の矛盾の産物を『症状』として受け取っている事になります。 人間の脳内に二つの人格が存在する、研究成果をコピーしてみます。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” 何故今言った事を書いたかの理由を書いておきます。宗教の存在する意味とも重なってきますが、人間としての理想郷を天国と形容していますが、その天国に一番近い存在が『幼子』という事の証明に使いたい思ったからです。 大人の脳になったと云う意味は、左右の脳の機能の分化が完成に近くなったと云う意味になるからです。脳の機能分化の完成を持って、人間は悩みが生じ始めると云う事です。 昔の宗教家が『無情を感じて出家』する年頃の事です。ここを持って、『知恵が付いて天国から追放された』という事になります。悩みや不安や恐怖や疑問に押しつぶされるようになると云う意味です。この漠然とした感覚をキリスト教では『罪の意識』仏教では『業』と呼んでいます。 『あなたはこの世に何が存在し また存在してないと思いますか?』と云う疑問も全てが貴方の脳内からの情報から出ています。言い方を替えるなら『貴方の脳内にはその答えがわかっている者が存在している』と云う意味です。 左脳の意識を自我意識と呼んでいます。この意識は顕在意識です。物事の優劣を決めたり割り切ったり計算できるコンピューターと考えたらよいと思います。その機能には『あなたはこの世に何が存在し また存在してないと思いますか?』と云う事に対する答えを導く事が出来ない機能しか入っていないと考えて下さい。 又計算する能力とは、割切れるものに対してしか、その能力が発揮できないと云う意味があります。従って自我意識が逆立ちしたとしても、『永遠』と云う割切れないものに対しては理解する能力は何も持っていないと云う意味です。 逆に右脳の意識は言葉を持っていません、右脳の意識とは『命そのものを働かせている者』という言い方が適当です。何も学ばなくとも先天的に脳に刷り込まれている性質があります。生まれたばかりでも泣く事も、怖い事も知っている能力です、或いは心臓や脈拍や発汗やホルモンの調節までも、学ばなくとも知っている者の事です。 この者にも意思や人格としての自覚があります。ですがこの者の性質上『自我意識は』認識できないようにセットされています。その事を仏教の経典では『不識』と形容しています。簡単に説明すると『眠る事』でさえ自我意識は、不識です。何故ならば眠る時には意識が無くなっているからです。自分が眠る時の事や起きる時の事を知っていると云う事は『大いなる誤り』という事になります。 今の精神科医達でさえも今言ったことは理解出来ていませんが、眠れないと云う事は『無意識の意識』とバトンタッチが出来ていない事を意味しています。 人間の正常な生活とは、意識と無意識との交替制がスムーズに行われていると云う意味があります。交替制のバランスが崩れた事を、心に感じた時『心を病む』と言います。自分の行動に感じた時、主に『神経症』としての症状と感じています。体に顕われた時『心身症や自律神経失調症』として受け取っています。 これ等の障害の完治が『見性』と云う事です。

  • gadovoa
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回答No.10

唯物論的に言えば、 有無の「有」。つまり有形(存在)。 唯心論的に言えば、 思考(存在)。

yuniko99
質問者

お礼

私は 唯物論で言う有形(存在) の存在は 個性ある性質を持ったエネルギー という構造をしてると考え その個性ある性質が思考になってる つまり 思考は性質で出来ていると考えているのです。 どうも大変明快な答え ありがとうございます<m(__)m>

回答No.9

おや、いい加減な回答に、突っ込まないでと釘を刺したのに、書き方が悪かったのか、BはダメだけどAはOKと理解させてしまったのでしょうか。 こちらの書き方も悪かったので、知らん振りするわけにも行きませんね。 おまけで付け足した、個人的な存在論ですから聞き流してくださいね。 前回の回答で、2)で扱った二分法の問題点を、もう少し詳しく説明すれば、こうした反応は無かったと反省しております。ここでは、二分法の変わりに、論理学などで時々現れる『真理値』を借用して、『存在値』なんていうような、造語を作って整理しているんですね。 存在値の大きなものから、存在値の小さなものまで、色々な存在様式を認めてしまうことです。そこで、矛盾に見られるような「盾」と「矛」も、無神論者の私が、有神論の人々の言動や行為に影響を受けるという、間接的な意味合いで、存在値の小さな存在として、無神論者の私も神を存在値の低い存在として認めてしまうことと同様に、ありえない存在も、誤りの存在として、存在値の低い存在として、認めてしまうことですね。 まぁ、眉間に皺を作らずに、考える、生活の知恵でしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 矛盾してても存在値を低く認めると言う事でしょうか。 どうもありがとうございます(^^)v

  • hanniyagi
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回答No.7

爺です。2度のお礼と、6個の?に応えるべく、再度投稿します。 インターネット(やる気も興味もありませんでしたが、思惑?もあり)を始めて2月ケ月になります。アドレス帳には1人の名もありません。練習に相談箱の回答を2度書いて送って見ようと試みましたが。失敗でした、一度送られ、掲載されていたとおもったら、次には消えていました。(、、の有効期限が切れています。とかの表示が時々あらわれ、何とかしようといじりまわし。危険にさらさないでください、基本ソフトのコピーを取って下さい、などとパソコンも悲鳴をあげているようです。 三度目の試みでやっと送信できました。(少し、喜んでいます)「確認する」で校正出来ない事も知らず、失礼しました。 空間×時間=世界 ということですが。 空間×時間=係数×世界=E=一定 というのが、アインシュタインの謎の方程式。と言われています。 時間空間というものが存在する、という前提で考えるかぎり、この式は永遠に謎なのです。 そして、エネルギーという概念も、架空概念(神がいなかったとしても、として起こった物理学が陥った神の概念?)であり、間違いなのです。 物理学も最近は、エネルギーという言葉はなくそう。すべて カロリー(熱量、エントロピー量)で表記しよう、という方向になっていると聞きます。エネルギーとエントロピーの違いは何かエントロピーは反重力であり。 重力はエントロピーではない(狭義に於いてですが)。世界は、重力と反重力によって、重力と反重力が一体となって(重力×反重力、として)起こり、変化を続けているのです。 仕事とは、反重力形成であり。生命、生きるとは、反重力を形成し続けること。なのです。 時間、とは何か、アインシュタインは、特殊相対性理論て、 (波長×振動数)/時間=C=一定 と置いた時、はっ、とした筈なのです。 式は、波長×振動数、は、時間、である。波長も振動数も、時間、なのだ。と言っているのです。 それが正解なのです。つまり 重力=力=加速度=距離=熱=電気=、、、=生命=心=知恵=精神 となる。実体としては存在しないが、変化するもの、変化を起こ す、能力、方向性、「時間」なのです。 空間とは何か、変化する単位、色形あるもの、実体がある、固定的と捉えられるもの、「空間」 なのです、簡単に言うと。物が空間であり変化が時間なのです。エネルギーという名は、時間、と重複物が変化する、物がなければ変化はない、物=変化であり。物と変化は一体である。 物×変化=変化した、物、となります。 つまりは。空間=時間 であり。空間×時間む=起こる事象、すなはち、世界、ということなのです。 釈迦と老子がそういう考え方をしているのです。釈迦や老子の思想を、時間、空間、という枠、入れ物の中で、と考えると、難解、理解出来ない、ことになるはずです。 長くなりましたが。かって理解出来た者が一人もいない、と言われる難解な哲学、との評もありますが、「老子」の考え方を紹介しましょう。 道(とう、万物の根元的在り方)は道にして、常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず。 道=道 である。しかしそれでは、存在、にならない。道-道=0 である。 存在となるためには、常でない道(道の逆数)が一体でなければならない、 道×(1/道)=1(いっ)となって、一つの事象単位としての、存在、となる。 無を天地の祖に名付け、有を大地の母に名づく もって無はその檄を現さんと欲し、有はその、嬌、を誇示せんとす。 無はその能力ほ現そうとし、有、はその姿形を誇示せんとする。 無=有 であり。無×有=1 す。 無とは、実体はないが、有と一体として、有を変化させる能力、であり。 無とは、0、ではない、(老子の考え方に0はない、すべては、1(いっ)であり。 老子の無とは「×1」の概念になります。 この老子の考え方と、全く同じなのが、般若心経の、一節 色不異空、、色即是空、 形あるもの、実体のないもの、であり、形あるものは実体のないものと一体として、あらゆる事象が起きている。 色=空 色×空=諸相  と、言っており。その一節だけが、別品、別格の理論になっている。多分翻訳者の玄奘が老子を知っており、老子の思想を当てた、と推測されます。 長くなりましたが。?を減らすことは出来たでしょうか。増えたかも?今度は不精故に校正せずに送らせてもらいます。 時に、ソクラテスが言った。思惑愛好家、とは誰のことでしょうかね。悪妻で有名な、古女房、一般大衆、それとも、ユダヤ思想、 素飲む経粗和讃粗和讃3尾0xy荒和讃荒和讃 するのです。

yuniko99
質問者

お礼

私 実は腹痛持ちで 腹痛を堪えて何とか読みましたが 随分色んな思想哲学に造詣が在られる様ですが >重力=力=加速度=距離=熱=電気=、、、=生命=心=知恵=精神 と書かれても 私のような度量のないものには測りかねます。 何やらパソコンと格闘しながら送信して下さったようですが まずはありがとうございます。 よくは分かりませんが 何やら禅問答のような 老荘思想のような あえて?は付けませんが 思想哲学と言うものは 面白いものですね^^ どうもありがとうございます(*^^)v

yuniko99
質問者

補足

私 一応持論があります もしよかったら見てください アドレスはかけないですが 存在性思想を「存在性理論」で検索すると見つかると思います どうぞよろしく♪

回答No.6

難しいことはわかりませんが、本当に真実をわかっている人は言葉は文章には表現できないが、直感で感じる場合もあります。また、シンプルでもあります。 何か難しい言葉を並べてあたかもわかったように書いたりするのも少しあやしいはないですか。 物事を複雑にむずかしくいうのでなく、こどもにでもわかることばで説明できないものか? こどもがアインシュタインに「相対性理論て何ですか?」と聞いた所て「好きな人とデートするときは時間が早く感じるでしょ」 時間とは時計の時間ではなく自分の意識の時間をいっているのではないでしょうか 存在ある、ないを考えた所で答えなどありません。

yuniko99
質問者

お礼

なるほど 自分の感覚というか 自分の思いが大切なのでしょうか? ひょっとすれば答えはないかも知れませんね^^ どうもありがとうございます(^^♪

回答No.5

>私にとって全てが存在し客観的には存在してるとは分からない と言う事でしょうか?  ちょっと違います。あなたが知り得た物事においてその客観性の限界面には必ずあなたがいます。客観的に存在すると言うとき、どうころんでもそこにはあなたがいるということです。  他人からみてもその対象の物事は存在するのでしょう。しかし、それはその他の人もあなたと同じようにそれを存在させていて、あなたもその他人も同じ認識でいるにすぎないのでしょう。それは、突き詰めるとその物事をあなたの中に存在させているのはあなたなのだということに気づきます。時間も空間も物質も、これらが時間であるかのように空間であるかのように物質であるかの如くすべてをあなたが存在せしめているのですよ。  私は、人間のこの驚異的の能力を正しく見極めたほうがいいと思うんです。  あなたの宇宙はあなたの外側に厳然と存在しているのではなくて、あなたがあなたの内側に存在させているのです。宇宙に時間などありはしません。宇宙に空間など広がってはいないのです。宇宙に人間が認識するような物質は存在していないのです。  自分の外にあると思っている宇宙を科学的に観察し分析し新しい知見を得ることは非常に役に立ちます。しかし、それは宇宙を観察しているのではなくて、人間を分析していると言うことに還元されるのです。  にわかには信じられないかもしれませんが実はそうなんです。

yuniko99
質問者

お礼

仰る事は分かるのですが 私は違う考えです 人間の知りえていない いや私が認識していない、あるいは認識し得ない存在が その世界 宇宙には数多に無数に在るのだと思います。 むしろ認識しえるものはほんのごく僅かです。 我々には分からないものが存在するだろうという訳です。 だろうという訳で それを証明は出来ないかもしれません。 しかし私はそう認識する事が妥当だと これまでの学びや経験から判断します。 日本には数多の会社が在ってそれぞれに仕事や人間関係が在るのだろう と思います。 どうもお考えありがとうございます。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.4

:現代は、哲学、が存在しない時代だと思います。 「在る、ものを、在るがままに見る者は、思惑愛好家、ではなく、哲学者(知恵を愛する者)と呼ぶ べきではないかね。」とソクラテスが言った、とプラトンが書き残していますが。 プラトンがソクラテスの弟子、継承者であるなら、プラトンの考え方は、ソクラテスの考え方の、肯定=否定、の形態になります。在るものをあるがままに見ることは出来ない。本当の存在、エイドス(実相)を知るためには、エイドスと合致する考え方、イデア、が必要となる。というようなものになります。 後の西洋哲学(哲学とは言えないレベル?)が、神をもまごう知恵、現代に至るまでプラトンを超える哲学者、登場してすない。と評するプラトンには。哲学者とは言えない、思惑愛好家を超えていない。と思えるような話が伝わっています。デモクリトスというのが、知恵者=哲学者、だったようで。プラトンは彼の知恵を恐れ、デモクリトスの書を買い占め、広まらないようにしたというのです。 プラトンが恐れた、デモクリトスの知恵とはどんなものあったのか。推測されることは、イデア、が実際の 考え方、方法論、理法、として示されていたのではないか、ということです。そして、デモクリトスには、 インドに遊学し、修行者たちと交わっていた。という経歴があるのです。古代インド哲学との関わりがある。西洋の歴史の中で、異常に知恵が突出している、と言われる。古代ギリシャの知恵、はインド哲学の流入によるものではなかったのか、と考えると。ギリシャ神話、神々の神話、説話を信仰の柱とする。 古代ギリシャの多神教は、ヒンズー教、と同型であり。プラトン゜の哲人政治、はバラモン階級の創設、とも、見れるのです。ギリシャ哲学の完成=終焉、としてアリストテレスが概念の統一、知識の体系とて 、後にマルクスが知恵を台無しにしたとひょうする、形而上学、を構築し、アカデミー学舎を創設する。 アリストテレス大先生をあざ笑うかのごとく、まるでインドの修行者、樽の中の哲人、デイオゲネスが登場しているのです(こちらがギリシャ哲学の頂点?) 前置きが長くなりましたが。古代インド哲学において、在る、とはどういうことか。基本は仏教が、 諸行無常、と伝えるように。常なるものは無い、世界は変化してゆく過程として、今、在るのみ。 という考え方なのです。そして古代インドには、バラモン哲学の、肯定=否定として、釈迦が登場します。 釈迦の考え方は、縁起の理法、と呼ばれていますが。 すべては縁によりて起こる、在るのは、形あるもの、固定的と認知される、「物」、が縁によって、 物、に変化が起こる。在るのは、物、と、物の変化、があるだけである。縁とは、変化を起こす、能力、方向性、であり。物と一体である。という考え方なのです。 言葉を換えると、物が空間であり、変化が時間であり。 空間=時間 であり。空間×時間=世界=一定 という考え方なのです。そして全く同じと言える考え方をしているの者に、「老子」がいます。両者のもう一つの共通点が、知恵×心=一定 という認識なのです。だから(知恵を得たくば)、欲望=心、を滅せ。作為思惑をすて、無為自然に生きよ。なのです。

yuniko99
質問者

お礼

ギリシャ哲学 インド哲学の解説 どうもありがとうございます(^^)v しかし最後の方はよく分かりませんでした >空間×時間=世界=一定 ??どういうことでしょうか?次元が増えるということでしょうか? 世界は一定なのでしょうか?エネルギー保存則でしょうか? どうもありがとうございます(*^^)v

回答No.3

>あなたはこの世に何が存在し また存在してないと思いますか?  ことごとく何も存在などしていません。  しかし、「あなた」「この世」としている あなた が あなたにとってのすべてを存在せしめています。

yuniko99
質問者

お礼

どういうことでしょうか 唯心でしょうか?私にとって全てが存在し 客観的には存在してるとは分からない と言う事でしょうか? いずれにしても ある一つの見方として参考になりました ありがとうございます(^^)v

回答No.2

全ての認識は究極的に、感覚器官表面での量子相互作用パターンに還元されます。 また、超弦理論において、全ての存在性が量子性に基づく振動に還元されます。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります(それは存在の確定化の極限における無限不確定性と等価)。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 不確定性原理において、原理的に確定化すると無限不確定に発散する=現象表面的にいい加減に捉えると有限化する‥‥無いとは分からない事が有なのです。 量子(光子)相互作用は、原理的には、瞬間作用とされます。 「静止」している(無の不確定性無限の潜在としての)自我仮説性の方が、光速で移動(プランク定数の収束の時系列化)する事で無の闇は、相対的な光の風になります(光とは闇なのです)。 四次元時空を記述する式において時間項にはC(光速)が掛けられています=時間は光速で過ぎる。 自我仮説の相補としての、時空仮説に対する無の射影なのです。 相対性理論の四次元時空の方程式において、時間項はマイナスになっており、そのために空間軸と時間軸の等距離点に、“ゼロの面”ができます。 それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速以下の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面原点なのです。 そして超光速においてエネルギーは虚数化し、相互作用=二乗において負=過去(時間的反転)と等価になります。 現在(光速=感受表面・自我仮説性)から仮説的に対発生した、過去(超光速=記憶・時間)と未来(光速下=予測・空間)を、時系列化(宇宙膨張=物体収縮=プランク定数hの収束)する事において、「経験による予測=階層現象表面的定性化=絶対確定による無限不確定化を回避した有限的存在性」は可能になるのです。 その認識体による大ざっぱな認識=階層現象表面的定性化における非光速性に基づく時空仮説に対する、無の射影が量子=エネルギーなのです。 「物理」とは、あなたが存在するための、無にまで遡った補完であり、存在とは、自我仮説と時空仮説の相補分化を無に還元する。 「何かあるんじゃないの?」という自我仮説を、「もし自己が存在するならば」という相補的な時空仮説において、「ホントは無いんだけどね」という、補完的に無に還元する。

yuniko99
質問者

お礼

>「静止」している(無の不確定性無限の潜在としての)自我仮説性の方が、光速で移動(プランク定数の収束の時系列化)する事で無の闇は、相対的な光の風になります(光とは闇なのです)。 >そして超光速においてエネルギーは虚数化し、相互作用=二乗において負=過去(時間的反転)と等価になります。 >現在(光速=感受表面・自我仮説性)から仮説的に対発生した、過去(超光速=記憶・時間)と未来(光速下=予測・空間)を、時系列化(宇宙膨張=物体収縮=プランク定数hの収束)する事において、「経験による予測=階層現象表面的定性化=絶対確定による無限不確定化を回避した有限的存在性」は可能になるのです。 難しすぎて分かりません。私は馬鹿なのでしょうか? どうも大変ありがとうございます(^^ゞ

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