スピリチュアリズムから見たキリスト教の教会とは?

このQ&Aのポイント
  • スピリチュアリズムの視点から見たキリスト教の教会(カトリック等)について考えます。
  • キリスト教の教会には神様は居ないのか、それとも分霊として鎮座されているのかを探求します。
  • スピリチュアリズムからの視点でキリスト教の教会を解説します。
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スピリチュアリズムの視点から見たキリスト教の教会(カトリック等)

スピリチュアリズムの視点から見たキリスト教の教会(カトリック等) 近頃スピリチュアリズムについて色々と考えを巡らせている内に、一つの疑問が浮かびました。 神道では、鎮守の森と言われる様な中に佇む、歴史ある神社等にはそれこそ高い波動の高級霊 が居そうですし、あらゆる霊魂などを説く部分で、スピリチュアリズムにも矛盾しません。 仏教寺院なども、成仏した、しないに関わらず、そういった霊魂が居そうな感じがしますし、 輪廻転生という部分でも矛盾しません。 しかし、一神教を説くキリスト教の場合は神は父なる神一人(三位一体という意味でキリスト と聖霊はありますが)という事になります。そうなると、それぞれのキリスト教の教会には 神様は居ないとう事になるのでしょうか?それともキリスト教徒が父なる神と崇める神が分霊 という形で世界中のそれぞれの教会に鎮座されている形になるのでしょうか? ここではキリスト教の教義うんぬんではなく、スピリチュアリズムからの視点で解説して頂ける とありがたいです。よろしくお願いします。

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noname#189246
noname#189246
回答No.2

神道は自然崇拝で、これは八百万の神ということでズバリ、スピリチュアリズムで言う自然霊を祭っているようです。そこで、アンテナである神社で神に祈ると、祈りの波長によっては高級な自然霊に届くようですね。脇の方には、現世に直接影響する比較的低次元を担当する神様の社があって、そっちにも祈ると、動機が善良なら願いを実現させてくれるようです。あくまでスピリチュアリズムに則った動機なら、ですけどね。私も試験とかで色々お世話になりました。ただし、対応を間違うと怖い神様ですからお気をつけて。というような感じで、神道は的を得ていると思います。 仏教は、元々は霊的真理を得た指導者によってもたらされたスピリチュアリズムだったようですが、口伝で500年、巻物で1000年と経つうちに教義が捻じ曲げられ、ただの文化に変貌していきました。例えば輪廻転生は意識の継続性がなく次に生まれ変わるものは一寸の虫かも知れません。実際には人間の魂が人間以下の生物に退行して生まれ変わることはありません。人間以上に生まれ変わります。意識も霊界では永遠に継続します。個性は永遠に続きます。 日本の自然霊は仏教を方便と称しています。仏説がいくら捻じ曲げられていると言っても、霊的真理が全くないわけではないですから、熱心な仏教信者には、死後、仏教的雰囲気を導入して徐々に霊的真理に導くとのことです。また現世で仏に祈る者も動機がちゃんとしていれば、高級霊がそれなりに対応してくれます。 キリスト教も仏教と同じようなものです。元々は人類最高の霊格を持つイエスという指導者によってもたらされたスピリチュアリズムでしたが、政治目的の聖書の改ざんが頻発したおかげですっかり教義が捻じ曲げられたとのことです。キリスト教も霊界にとっては方便で、ただの文化というのが実態です。キリスト教は人間の信用を得るのに教会を飾り立て権威を見せつけます。それはイエスの指導に反しています。権威は人間から冷静な判断を奪い、考えさせず操るものです。そうではなく、人間一人ひとりが等身大の自分で素直に納得することをイエスは望んでいます。教義がちゃんとしていれば綺麗な装飾の派手な教会など必要ない筈なのです。スピリチュアリズムでは現在のキリスト教をただの形骸に過ぎないと称しています。 ただし、これも仏教と同じで、祈りがちゃんとしていれば高級霊が対応してくれます。 神様とはいわゆる高級自然霊のことです。永久の先には大霊と称する部分がありまして、神道の天照大神が控えていらっしゃるわけですが、現世の人間にそこまで認識する必要はありません。土地の自然霊で十分最高の神様と言えます。イエスは人霊で最高の部分の類魂に属します。教会で祈った時イエスの人霊部隊が対応しているのかどうかは定かではありません。ですが人霊自体が霊格に限りがある訳でして、高級自然霊の霊格には永遠の高みがあることを考えれば、イエスでさえ神様と崇める高級自然霊があるのです。聖書でイエスが祈っているのはこの神様です。本当のイエスは自分に祈れとは言わないのです。あくまで神の使いとして働ける自分の立場を喜ぶのです。 まとめ、というかご質問にお答えすると、鎮座、という言い方は少し違和感を感じます。神社にしろ寺にしろ教会にしろ、それは人間が祈るアンテナであり集中力の対象に過ぎないのです。どこでいつ何を祈ろうとも、念力と清らかな想念があれば神様には届くのです。もっとも神様が出動するような事案はあまりなく、大抵自分のバックサポーターの霊たちで完結しますが。 ただ神社は土地の自然霊を祭っており、産土の神はその土地を確かに管轄しているので、霊のチームワークが神社を中心として成り立っている気がします。そういうところをパワースポットと称するのではないかと思います。神様といいましても色々な担当がありますので、人間が祈願しやすいようになっているのではないかと思います。

cyberpolis
質問者

お礼

詳しい回答をどうもありがとうございました。 スピリチュアリズムを意識する様になってきて、もともと理屈っぽい 性格が仇をなし、既存の伝統宗教とスピリチュアリズムの関係性を悶々 と考えておりました。 当然、自然崇拝者にしろ、仏陀にしろ、イエスにしろ人智や現世を 超越した何かを感じ、それを確信したからこそ彼らは仏法や福音とし て彼らが感じた物を伝えていったと思うのですが、それらの教義が 後の世で一人歩きして真理から遠ざかっていったという所でしょうかね? こんな事を理屈っぽく考えている事が同じ二の舞を踏む事になるのか もしれません。もっと頭で考えるのではなく、真理を悟るというか感じる 方向性で行こうと思います。

その他の回答 (2)

  • Wendy02
  • ベストアンサー率57% (3570/6232)
回答No.3

キリスト教なら、スピリチュアリズムでも、既存の宗教でも、基本的な概念は同じはずです。 >それぞれのキリスト教の教会には神様は居ないとう事になるのでしょうか? キリスト教について言えば、神の基本的な概念では、神の絶対性は維持していると考えてよいのではないでしょうか。 「神というものは、めいめいの心の中にある」ものであり、「教会」とは、神社のような建物のことを示しているわけではありません。「真の教会とは、あなたの心の内にある」と教えているかと思います。ただし、クリスチャンの方でも反論があるかもしれませんが、これはスピリチュアリストの言葉です。これについては、私も同感だと思います。つまらない議論に発展したくないので、この人の名前は出しません。知っている人は知っている名前です。 >既存の伝統宗教とスピリチュアリズムの関係性 本来、既存の伝統宗教とオカルティズムまたは、神秘主義(ミスティシズム)とは切っても切れない関係ですが、スピリチュアリズム(心霊主義)は、既存の宗教とは結びつきが少ないのではないかと思います。例えば、沖縄のユタや青森のいたこなどは、スピリチュアリストですが、宗教性が低いようです。スピリチュアリズムというのは、アフターライフ(死後の生命)が存在するという信仰ですが、既存の宗教とは別のものと考えてよいような気がします。それに、霊感とスピリチュアリズムとは似ているようで違います。 しかし、スピリチュアリズムでさえ、いろんな種類があるし、キリスト教系のものもあれば、仏教系のものもあれば、他宗教のものもあります。それらは、全て、宗教以前、宗派未満というところですが、どれもが「異端」に属するもので、枠囲いをすればずくに異端宗教団体が出来上がってしまいます。それだけに、私には踏み込めない部分が多いような気がします。(一般的な宗教では越えてはならない部分が存在するから、という意味です。) >それらの教義が後の世で一人歩きして真理から遠ざかっていったという所でしょうかね? 宗教というのは、文明や文化の中で生まれたもので、根本的には、その民族の死生観に基づくものではないでしょうか。もし、宗教・宗派を越えた真理というものがあるとすれば、「自然法則(自然律)」のようなものかもしれません。真理とは、元来、旧約聖書の創世記にある「産めよ、産めよ、地に満ちて地を従わせよ」かもしれません。こういう考え方は、旧来のスピリチュアリズムには反します。スピリチュアリズムというのは、本来は、人格的なものを持たないものを認めないと言います。

cyberpolis
質問者

お礼

ご回答どうもありがとうございます。確かにキリスト教的な感覚で言うとやはり 神(教会)は各々の心の中にある、若しくはこの世界に遍く存在しているという 表現が妥当かもしれません。 宗教の教義や、それぞれの道徳観等は各宗教毎に違ったものとなるのは 当然だと思います。ただ、神社などの場合は取り敢えずそこに祭って ある御神霊がいるとされる分けで、じゃあ一神教であるGODは世界に幾つ も教会があるけでどそこにいらっしゃるのかどうか?という疑問が浮かんだ のであります。

回答No.1

良く分かりませんが、神は遍く在している、つまり遍在している、ということなのではないでしょうか? 何と言っても、神は全ての子等を常に見守っているらしいですから・・・・。

cyberpolis
質問者

お礼

素早い回答をどうもありがとうございました。 神がこの世界を作ったならば、この世界が神そのものと言える様な気がします。 我々全てを見守っているとすれば、大変有難い存在ですね。 その代わりそれでいくと、悪いことはできませんよね。。。(爆)

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