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私は韓国史の研究者です。
私は韓国史の研究者です。 百済が日本の満州のような国であったという観点から 当時の歴史を考察しています。 韓国では日本こそ百済の植民地であったと考える人が 多いです。 貴方はどうお考えですか?
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質問者が選んだベストアンサー
白村江の戦いのあと、百済人が大勢、日本に亡命してきましたが、みんな、大和朝廷の家来になっていますが?
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貴方が脳内で何を考えようと自由ですが。 仮定・仮設があるのなら、その根拠もなく漠然と質問しても 説得力がない。 韓国では自国に都合良い考察が一般に通りやすいお国柄ですいから、 あまり参考にはならないでしょう。
補足
倭の五王の上表文 白村江の戦い が根拠です。
- sudacyu
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本当に歴史学者ですか。当時の実情を知っているプロとは思えないコメントです。 漢書東夷伝などの記述や考古学的発掘から見て、倭人とは九州・瀬戸内海・山陰・朝鮮南部の海岸地方で半農半漁の生活をしていた人々が該当します。 今のように国境線が引かれているわけではなく、深い森林に覆われた陸上を移動するよりも、海岸を船で移動するほうが便利な状況です。多島海を生活基盤とする同じ生活文化を持った人々が、朝鮮半島南部・九州西部北部・瀬戸内海を一体の広域生活圏としていました。 後になって、内陸部の開発と農業生産の増大によって、中国の影響を受けた国家=領土国家が成立することで、政治権力の線引きが後から行われ、交通路である海が障壁と化していくことになります。 百済成立のはるか以前から、後に百済の国土となる地域、特に南部の人々と倭人と呼ばれる人々のうち朝鮮半島に住む人々は、交易・混血を行っていたと見られます。 古代国家の成立前に、既に人は住んでいて隣人関係を形成していました。広域交流圏のある部分に領土国家が出来て国境は引かれましたがたが、国家権力に関係のない人々の交流は当然続きます。 百済が出来てから、朝鮮半島の人々が日本に来たのではなく、そのはるか以前にこれらの地域は広域圏として成立していました。 この地域の経済基盤は「稲作」によって支えられ、現在も続いていますが、稲作は華北→百済へ伝わったのではありません。揚子江流域より伝わっており、百済の成立よりはるかに古いものです。
補足
百済は日本の属国だったと私は仮定しています。
- kanetugu20
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「つり」ですか?まともな研究者は「韓国史」ではなく朝鮮半島史研究者と自己紹介する筈ですど・・
補足
アマチュア研究者です。
- RTO
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歴史の捏造を国是とする韓国の歴史学会の方に何を言っても無駄だとは思いますが。 植民地の定義と、当時の国交、経済、物流量を考えれば考えるまでもなく、そんなことはありません。 過去に日本国が半島の軍事力に屈したことも一度もありません。
補足
百済は日本の属国だったと仮定しています。
お礼
亡命百済人の多くが半島に渡った日本人であったと考えています。