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天智と天武

 天智と天武は、実は兄弟ではなかった。というのは、本当なのでしょうか。学生時代、教科書には確か、兄弟とあったように思うのですが。

  • ekubo
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  • aminouchi
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回答No.5

天智天皇と天武天皇が兄弟ではなかった、という説の論拠は 天智が671年に46歳で死んだという記述です。 しかし、一般的には56歳で死んだとされています。とすると このとき、天武は50歳であって、「年上の弟」などという事 態は起こりません。 なお、いわゆる「騎馬民族征服説」はロマンチックな作り話で あって根拠に乏しい言説です。また、天皇家の家系が万世一系 であるというのもフィクションであります。 人は歴史について事実を認定することの難しさもあって、つい ついロマンを求め、「こうあって欲しい」という説を支持しま すが、かならずしもそうはいきません。今のところ、天智と天 武が実母を共にする兄弟であったとして問題はありません。

ekubo
質問者

お礼

 ありがとうございました。  一般人は、ロマンを求めたがるというか、変わった説に興味を持ちがちですよね。自分自身、反省。反省。  天智と天武が兄弟じゃない、という人もそれぞれいろんな説を持っているし、兄弟だ、とする人もいろんな説を持っている。言論の自由と言ってしまえばそれまでですが、「ノストラダムスの大予言」の時と同じだな、なんて思ってしまいます。  あの時は、一般人(世界的というより、日本人だけだったような・・・)を恐がらせるだけ恐がらせておいて、結局、何も起きなかった。ああだ、こうだ、言っていた人たちは、本で儲けるだけ儲けて、後は、知らん顔。  同じにするな!とお叱りをうけそうですが、あの時と同じだ、あの時のようにならなきゃいいけど。なんて、思ってしまう私は、変ですかね?  そういう説もあるらしい。という程度に考えておくのが良いのでしょうね。  ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • shoyosi
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回答No.4

 書き方が足らなくて、すみません。 当然、少数説であり、万世一系を信じている人は決して、認めることはないでしょう。

  • aminouchi
  • ベストアンサー率46% (376/804)
回答No.3

下でshoyosiさんが長々と述べられておりますが、これは そういう説もある、というだけでこれが正しいとはまだ認 められておりません。

ekubo
質問者

補足

 ありがとうございます。  kyaezawaさんの参考URL、shoyosiさんのお話でなるほど・・・と思いました。また、aminouchiさんのお話で、まだ専門分野では認められていない説なのだということもわかりました。  これは、「専門家は確固たる証拠もなしに軽はずみな発言はできない」ということ以上に、この説に対して何か大きな矛盾点・問題点があるということなのでしょうか。

  • shoyosi
  • ベストアンサー率46% (1678/3631)
回答No.2

この考え方は、作家の佐々克明氏が1974年8月号の「諸君」で問題の提起をされ、作家の金達寿氏や鈴木樹明大教授が関心を寄せられ、一方古代の権威、坂本太郎東大名誉教授からは、真っ向から否定されたという経緯があります。彼の推論は次のようです。 岩波書店の「日本史年表」で天智天皇のくだりに「671年12月天皇没す(46)」となっているそうなると、天智天皇は626年に生まれたことになる。一方天武は「686年9月没(65)」とあるから逆算すると622年の誕生だから、同母兄弟とされている兄の天智の方が弟の天武より4歳年下ということになります。調べてみると、「年表」の根拠は天智は日本書紀の舒明記、天武は「本朝皇胤紹運録」の記録より取ったものとわかりました。学会では。天武の死亡年の65歳の記述は56歳の誤りとしていました。彼は、日本国の成立、日本人のルーツは古代のアジア全体の流れと深くかかわっており、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」を避けることはできない、天皇家系譜は記紀編集辞典の政治、経済、社会情勢とは無縁でありえない、さらには、王朝の交代があったと考えざるを得ないと述べています。その根拠として、交代したと見られる系譜の継ぎ目には、極端な近親婚が見られ、たとえば、継体朝の王朝が切れたと思われる欽明は異母兄とされる宣化の皇女と結ばれ、天智・天武のところでは天智の姫、持統天皇は天武の皇后であり、天武36歳、皇女13歳ときわめて不自然であり、天智はさらに3人もの姫を送りこみ、実の弟にこれまでサービスをする必要がどこにあったのかと書いています。彼は、次のような仮説を立てています。  当時、東アジアは唐と朝鮮3国が入り乱れ、日本もその激動に巻きこまれ、新羅対百済の争いに挟まっていた。647年新羅から王族の金春秋が質として、来日し、2年後、金多遂が代わって来日した。これ以後、金多遂の記録がなく、氏はこれを大海人(天武)と疑しています。以下続けています。 日本の朝廷は欽明以来百済系と見られるのに、一応中立主義のポーズを取り、天智(中大兄)、藤原鎌足らはお目付け役の大海人を賓客扱いにして懐柔する。鎌足も娘を大海人に妃として送りこみ、天智に至っては4人もの娘を差し出した。次第に、大海人は本来の役目を忘れ、日本にのめりこんでくる。当時新羅系はたくさん日本に居住した上に、天智は大海人を「皇弟」と呼び、もしかすると「自分の後を継がないか」などと甘心したかもしれない。しかし、東アジア情勢は険悪の度を加え、唐新羅の連合軍が百済の王都を占領した。斉明女帝は中大兄、大海人を伴なって、北九州に向かうが、女帝は疲れて崩じ、西征は中止される。663年、天智は百済軍を応援するため、大軍を派兵したが、白村江の戦いで大敗し、百済王国は再興の望みをなくし、大海人には、居心地の悪いものとなった。万を越える亡命者が来日し、天智はそれらを厚遇し、667年には飛鳥から近江へ遷都を強行し、高句麗と連携して新羅との戦いに備えるが、高句麗も滅亡してしまいます。百済王と同根と見られる天智王朝は露骨な反新羅政策に踏み切り、大友皇子が皇太子に就任すると大海人の身辺が危ないものとなり、政界引退表明し、吉野に亡命します。672年に天智が崩じ、大友皇子が即位すると百済色に塗りつぶされた近江王朝は新羅系帰化人のホープである大海人の圧殺を謀り、大海人は持統らと共に吉野を脱出し、新羅系の渡来人の多住地方である美濃に拠って近江に宣戦し、壬申の乱が起こり、飛鳥、大和地方の旧百済豪族も新来者が中核の近江朝を嫌っていたので大海人に加担し勝利しました。天武持統期に編集の始まっていた「日本書記」は、朝廷の政策を取り入れて編年し、系譜を造作したとしています。  この文章は、佐々克明氏の論文「天智・天武は兄弟ではない(歴史と旅・昭和53年1月号)」を要約したものです。詳しくは、そちらを見てください。

noname#24736
noname#24736
回答No.1

以下のページに書かれているようです。 参考にしてください。 天智天皇と天武天皇 part1http://homepage1.nifty.com/sibaurataro/rekisibun/ten1.htm 天智天皇と天武天皇part2 http://homepage1.nifty.com/sibaurataro/rekisibun/tenmu2.htm 皇室王朝交替についてYO・JO http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/kousitu1.htm

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