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「男時」と「女時」についての書籍。

「男時」と「女時」についての書籍。 能、でしょうか、 「攻めの時機」の意味で「男時」 「守りの時期」の意味で「女時」という言葉があるそうです。 だいぶ以前に目にして以来、調べずに来てしまい、関連知識が無くなってしまいました。 言葉の意味もあっているかしら。。。汗 何か読みやすく、深みある解釈をしている書籍をご存知の方、 いらっしゃいましたらご教示頂けないでしょうか。。。 よろしくお願いします。

noname#122427
noname#122427

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回答No.2

こんにちは。 以下のサイトにて「男時」「女時」をご覧になれます。 どうぞ、そのままに素直にお読みいただきたいと思います。 『風姿花伝』 http://www.janis.or.jp/users/shujim/fusikadn.htm >深みある解釈をしている書籍 と仰るのであれば、むしろ、適うことなら、是非一度能をご覧になることをお勧めします。 いかなる処世術又は人生訓として、わかりやすい現代語訳と共に意味付与しようとしても、元々が能楽論ですから、能について微塵も知り得なければ、それこそ想像又は理解し難い部分も残るかと察せられます。 つまり、安易に現代語訳を手に取る前に、まずは岩波の『風姿花伝』を再読(もしくは観劇)なさったほうがよろしいように思われます。 なお、岩波の『風姿花伝』に携わった野上豊一郎氏の『能とは何か』より、思う所を引用致しますので、よろしければお読みくださいますか。 自由で新鮮であった舞楽を「今日では殆ど美しき屍骸ともいうべき状態」とあらわしているこの著者は漱石門下です。 ──「花」の大事は秘するところにある。「秘スレバ花ナリ、秘セズバ花ナルベカラズ」と説いた世阿弥の言葉は、「花」の構成の最奥の機微に触れた示顕である。  すべての秘事なるものがそうである如く、能の「花」の秘事とても、暴露して見れば、何のへんてつもない単なる一技法に過ぎないものである。 手の一つの動かし方とか、足の一つの動かし方とか、或いは、首の振り方とか、腰の曲げ方とか、いつ、どこででも見られる舞台技法の一要因以上の決して何物でもない。 それが表現の仕方によって、「花」ともなれば、凡技ともなる。 「花」となって爛漫の光輝を発する時は、われわれは未だ曾って何びとに依っても斯くの如き至芸を見せられたことがなかったと感じるほどに震駭させられるけれども、後になって静かにその技法を解剖して見ると、少くとも視覚神経の到達し得る範囲の判断に於いて、それはもっとも平凡な肉体的運動の一つに過ぎなかったことを発見する。 そうして類似の動作を他の多くの凡庸な演者もしばしばわれわれに示したことを思い出す。 然るに後者の場合には何等の感激も起さなかったものが、何故に前者の場合に限ってわれわれを圧倒したのであろうかと考えて見て、結局、それは、その動作を挿入する《時》の問題であったことに気づく。  同一の動作も、約束の《時》に挿入されれば、無難ではあるが平凡に見過され、約束外の時に挿入されれば、いちじるしく目立ち、注意を惹き、異変を感ぜしめることは「花」の《手》で、「メヅラシキ感ヲ心ニ得ル」という言い方が含蓄的にいいあらわしているように、見物人の不意を衝いて予想を裏切るのであるから、裏切られた者にとっては、世にも稀な技法ともそれは感じられる。 その「花」が秘されていたからである。 「秘スレバ花ナリ」というのは、秘することが「花」であるという意味で、別に秘すべき特殊の「花」があるわけではない。 言い換えれば、「花」を「花」だと知らせないこと、それが「花」である。 秘されてあったものは何であるかというと、実は《時》が秘されてあったのである。  だから「花」を知る演者は《時》を知る演者でなければならぬ。 但し、捉むべき《時》をさえ知れば、必ずそこに「花」が現前されると考えてはならない。 「花」の現前は技法の習得から来るもので、それを支配するものは犀利な叡智の発動に待たねばならぬことはいうまでもない。 すべて此処に甚だ実際的に述べられてあることは、そういった精神的の素養は論外の規定の事実として習得しつくしている有能の芸術家を対象としての言議であるから、読者は実際的演出者としての世阿弥の影像を演劇学的認識を以って捉えていてもらいたい。  世阿弥は「花伝」の奥義中の奥義として、「時ニ用ユルヲモテ花ト知ルベシ」と喝破した。  それは、要するに、「花」の素材としての技法を持ち出すべき《時》を知る心がまえの教訓である。 時を知る心が即ち「花」だったのである。  この最後の認識に立って、世阿弥は常にいかにして見物人を「ばかす」べきかを考えた。 「ばかす」という言葉は露骨であるが、露骨であるだけに「花」の工作について真意をば最も端的に言い表している。 見物人は気まぐれでわがままではあるけれども、初めからばかされることを期待している。 それをばかし得ないとすれば、演者が鈍根で、「花」の要領が呑み込めないからである。 併し、聡明な実際家であった世阿弥は、機微に見物人の心理を知り尽くしていたから、「ばかす」ことによっていかにたやすく彼等を懐柔し得るかの妙諦を体得していた。 懐柔は世阿弥にとって演出の虎の巻であった。──『能とは何か【上】』奥義論四(p165~p167) 書肆心水

noname#122427
質問者

お礼

丁寧なご回答、ありがとうございます。 >以下のサイトにて 興味深く読ませて頂きました。 特に初っ端からの「七歳」。 育児そのものの理想とも感じ、育児論ではなかろうか、とまで思いました。 常々、梨園やその他古典芸能の世襲というものを「反抗期」や「子の意思」という観点から、不思議に思っておりましたので、その謎が少し解けたように思いました。 >是非一度能をご覧になることをお勧めします。 ふっ、夏休み中に夫とのデート計画に組み込んでしまおうかしら。 今からではチケットなど難しいのかも知れませんが、面白いかも。。。^^ >安易に現代語訳を手に取る前に、まずは岩波の『風姿花伝』を再読 恥ずかしながら、未だ未読の書物です。 しいて「原典を」を言ってくださるあたり、お心遣いの深さが伝わってまいります。 ありがとうございます。 今回の質問を立てた背景には、「女時、守り時」に他ならない我が身の現状にあって、守り方がわからなくなってしまった、と言う悩みがあります。 守りすら手放すべき時、と言うのもあるのだろうか、とか考えますし、とにかくもその言葉の真実を知らねば始まらぬとご教示を仰いだしだいです。 >野上豊一郎氏の『能とは何か』 漱石門下との注釈に、お心づくし、の感ありです^^ >自由で新鮮であった舞楽を「今日では殆ど美しき屍骸ともいうべき状態」 それでもそれが受け継がれていき、いつか「生きる姿」として蘇るなら、今こそ舞楽における「女時」ではなかろうか、とたいした知識も無いまま思います。 屍から、屍と思われていた状態からの蘇り。 人生にもそれが可能であるならば、その道を探りたく思います。 その力が尽きる前に。 ご推薦の本二冊、必ず読ませて頂きます。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.3

ご丁寧なお礼を頂戴し、またご覧頂き光栄です。 >夏休み中に夫とのデート計画 >今からではチケットなど難しいのかも知れませんが、面白いかも。。。^^ でしたら、以下のサイトで「懸賞に応募」なさってみて下さい。 私自身も本当に当たったことがあります(封筒で送られてきました)。 「チケットプレゼント」表示が目安です。 なにぶん子育てでお忙しいはず、当選して都合がつけば…というスタンスでよろしいのでは^^ http://www.nohkyogen.jp/event/kanto/index.html >今回の質問を立てた背景 >我が身の現状 はい、それでしたらなおのこと、世阿弥その人について思いをめぐらせてみてはいかがでしょう。 白洲正子の『両性具有の美』(新潮社)、『世阿弥』(講談社文芸文庫)では、彼女の能や世阿弥に対する格別の想いが伝わって来るように感じられ、また読み易いと思います。 また、『能楽史事件簿』(横浜能楽堂編 岩波書店)では、日本史における能のエポック・メイキング的な出来事を、関係人物像をも交えて語られています。 世阿弥の人生は波乱万丈で、晩年は佐渡へ流されるという酷い境遇の身でした。 ですが、かの地であっても、以下のように気丈だったのかもしれません。 ──又しても原因は不明でしたが、利休の末路ほどでなくとも、そこにはあらゆる天才が負わねばならぬ宿命的なものが感じられます。 新しい将軍にとって、三代も仕えた芸道の達人が、傍らにいることは、煙たく思われた筈ですし、多くの貴族や大名と交わることも、色眼鏡で見られたことでしょう。 その頃には、もはや舞台に立つ機会も与えられませんでしたが、配流の身になっても、創作欲はおとろえず、「金島書」と名づける一れんの小謡を作って、後世に残しました。 佐渡は、「こがねの島」と呼ばれる所から出た名前ですが、それらの謡には、「げにや罪なくして、配所の月をみる事は、古人の望みなるものを」云々といったような、意外と明るいものが感じられます。 これまでの生き方から推しても、佐渡での生活は私たちが考える程、苦痛ではなく、うるさい世事から逃れて静かな道に入る「こがねの島」とうつったのではないか。 寂しいには違いなくとも、その寂しさを自然に受け入れて楽しんでいるような所があります。  度々いいますように、世阿弥の一生をつらぬいている思想は、今の言葉でいえば一種の幸福論ですが、晩年におそった数々の不幸は、天が与えた試練のようにも見えます。 が、世阿弥の芸は、もうその頃には、時世や逆境の前にびくともしない、見事な人間を造りあげていました。   花鏡、至芸道所以後に書かれたと思われる「器」の一文は、十六部集の中でも最も深い思想を語るものだと思います。 ・・・行く道はちがっても、世の中のあらゆる達人は、みな同じ所に到達するのかも知れません。 ただ世阿弥の場合、俗な所から出て、俗を脱した所に、私達の共感を呼ぶものがあるのです。  そういう世阿弥の晩年の姿には、舞台からも、申楽からも解放され、宇宙の調和の中に没した感があります。 将軍の迫害も、佐渡への配流も、そこまで至った人間に、打撃を与えることは不可能だったでしょう。 いつ頃許されて、都へ帰ったか、そんなことも世阿弥は語りませんが、死ぬまでの何年かは、婿の金春禅竹のもとですごしたと伝えられています。    そして、八十の高齢をもって、無名の一老人として世を去りましたが、その死はきっと静かなものであったでしょう。 最後の日々についても、本人は勿論のこと、一つの消息も残ってはいません。 が、それはもしかすると、こんな風な姿ではなかったかと、私はひそかに想像しています。  中国の話で、私は実は中島敦の小説で読んだだけですが、ここにひかして頂くと、昔、紀昌と名づける弓の名人がいた。 文字どおり、百発百中の名手で、天下に名をとどろかせたが、晩年に至ると、弓を取らないでも飛ぶ鳥を落とし、見えない賊を射るという不思議な働きをするようになった。 その頃には、精悍な面魂も影をひそめ、木偶のように無表情な顔つきに変っていたが、「すでに我と彼の別、是と非の分を知らぬ。 眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる」と述懐し、ある日知人が弓を見せると、たしかに見憶えのある道具だが、一体何に使われるのか、どうしても思い出せなかったというのです。──『世阿弥』白洲正子 講談社文芸文庫(p196~p201) なお、『すらすら読める風姿花伝』林望 の後半辺りで確か「男時」「女時」に関する現代語訳が載っていたはず、でもあまりお薦めしません。 質問者様にはやはり、原文並びに世阿弥の生涯に先ずふれて頂きたいと思います。 暑い日々が続きます、どうかお大事になさって下さい。

noname#122427
質問者

お礼

大変にお礼が遅れました無礼をお侘び申し上げます。 教えて頂いたチケットプレゼントは現金にも早速応募したのですが、 お礼はすっぽかし状態で重ね重ねの失礼を致しました。 でも忘れていたのですが、私って「くじ運悪い」んです。。。汗 商店会のくじ引き、10回連続で引いて最高3位と言う成績しか無く。。。 他の1回とか2回とかの時は、当然ティッシュのみ。。。笑 夫の名前でも応募してみようかな。。。 ご紹介頂いた本、喜び勇んで図書館へ、、、と思ったらその後そのまま寝込みまして、未だ手に入っていない状況です。 稀に見るスバラシイ夏休みを過ごしています。はあ。。。。 引いて下さった文章の中に利休が出てきた事がなんともわくわくしています。 丁度三浦綾子さんの「千利休とその妻たち」やら「細川ガラシャ夫人」を読みふけっておりましたので。 そうなのですね、、、同時代なのですね。 長い長い自国文化の爛熟の後の、他文化とのせめぎあいの時代。。。 きっと世阿弥も一枚噛んでいるに違いない、とわくわくです。 早く体調の安定を得て、自ら図書館に出向くなり、夫に頼むなり(これも難しい。汗)してお奨め頂いた本を読み始めたいと試行錯誤中なのです。 いつも暖かいお気遣いに満ちた回答に元気付けられております。 ありがとうございます。 回答者様もご家族皆様、笑顔で過ごされていらっしゃいますように。。。

  • tanuki4u
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回答No.1
noname#122427
質問者

お礼

早々のご回答、ありがとうございます。 読みやすそうなのと「処世術は、、、」と言うところに、興味をそそられます。 能の鑑賞は未だ未経験でして、いつかは!と思いつつ実らずにおります。 ご推薦頂いた本を含めて、いろいろ読んで想像し、鑑賞出来る折の楽しみを今から膨らませていきたいと思います。 ありがとうございました。

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