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大学院で論文や学会発表について教えてください
- 大学院での論文や学会発表について詳しく教えてください。大学院生が自力で論文を書いたとしても、指導教官の名前は載せる必要があるのでしょうか?指導教官の研究成果になるのでしょうか?大学院の学生はどのような指導を受けているのでしょうか?
- 大学院生が論文や学会発表をする際、指導教官の名前を著者に入れる必要があるのでしょうか?また、指導教官の研究成果になるのでしょうか?大学院の学生はどのような指導を受けるのが一般的なのでしょうか?
- 大学院での論文や学会発表について教えてください。自力で論文を書いた場合、指導教官の名前は載せなければならないのでしょうか?指導教官の研究成果になるのでしょうか?大学院の学生はどのような指導を受けているのでしょうか?
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No.6の補筆。忙しいので混乱して失礼。 >「できるだけ共著は望ましくない」を理念としている たしかに,2年間もつきあえば,教員の考え方が指導学生に転写されることもあるでしょう。ひとりでテーマもたてられず,研究方法もいちいち教えなきゃいけないこともあるでしょう。考察も穴だらけで,ていねいな穴ふさぎも必要になるでしょう。学生が使った大学の実験機材や図書も,教員に配分された予算から購入したものもあるでしょう。投稿論文原稿にもかなり朱筆を入れないと,どうしようもないこともあるでしょう。 それでもぼくは,共著にすべきではなく,院生個人の成果として発表させてやりたいと思います。これは,院生が論文内容の全責任を負うという意味でもあります。ぼくらは院生時代にそういう個人主義で教育されましたので,それを「常識」としているのです。いっぽう,そうではない人もいます。これは「文化」のちがいというべきかもしれませんね。 ぼくが譲歩して共著で書くのは,学生・院生が卒業・修了して就職して多忙をきわめ,学位論文を投稿論文にする気がないときです。むろん,内容をかなり改めつつ,ぼくひとりで投稿原稿を書きます。
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- otx
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よくわからないので、質問です。 質問者さんが言う「指導」とはどのようなことをおっしゃっているのでしょうか? 私が思うことですが、 >現在の指導教官に自分の研究室でその研究ができると言われ、研究室に入りました。 この文章と >指導教官に「君の研究内容は自分の専門外だから、自分でやり方を見つけて指導教官の所属する学会(おそらく自分も入会することになると思われる)で発表したり論文を投稿し、その時に私(指導教官)の名前をセカンドで入れてくれたらいい」と言われました。 この文章、 内容は全く同じである気がします。別に話がころっと変わった気はしません。 要するに「質問者さんは好きに研究できている」のですよね? >研究は自分のこれまでの素地からその道の専門家(他大学の教授とかではない)などに自分でコンタクトを取ったり、文献を調べて進めている状態です。 うん、研究は自分でするものですよね・・・。 そのうえで、質問者さんは何を望んでいらっしゃるのか?多分「指導」というキーワードだと思いますが、 質問者さんが思う「指導」とは何で、それがどういう風だから不満なのでしょうか? それが聞きたいです。 どうしても、私には「手取り足取り、どうして教えてくれないんだ」って言っているように聞こえるのです。 大学「院」なのです。 次の点ですが、 >その時に私(指導教官)の名前をセカンドで入れてくれたらいい」と言われました。 「共著」と「論文に名を連ねる」は全く意味が違います(言葉として同じに使っている人がいるとしても) 「共著」とは「その論文を書くにあたって同じように働き、同じように立案した人が2人以上いる」ということです。 「共著」であるということを論文に明記します。1番目と2番目の人は「共著です」って。 「論文に名を連ねる」のは「論文を書くにあたって多かれ少なかれ関連した人がいる」ということです。 「共著」とことわりがあれば、「これは1番目と2番目の人の論文なんだ」と思います。 しかし、それが無い場合、 主に活躍した人は1番目に名前を書きます。そして、その次の人が2番目、その次が3番目・・・。 そうやって下位に名前を連ねます。 そして最後に名前が入るのは、その研究に責任を取る形で「ボス」であることが多いです。 2番目以降の人は、例えば、実験の手伝いをした人でも名前を入れることがあります。 それからもわかる通り、2番目以降の名前の人は、あまりその論文において評価されません。 その論文は誰の論文か?というときは、「1番目の人の論文」なのです。 ですので、 私が思うのは、その教官が2番目にでも名前を書いてくれれば良いというのは、 別に自分の論文と言いたいというよりも、研究室を主催する者として 関連した人として名前を入れてくれないかな、という話であって 業績を横取りしたいという話では全くないと思いますが。 ただ、それは学生が今までこの研究室にいて卒業して行きましたという業績になるというのは その通りです。 ですが、席を置いて研究することができているのですから、そのくらいしてやっても良いのではないでしょうか? それを拒否してわざわざ人間関係を遮断する人は、逆にケツの穴が小さいと思うのは言い過ぎでしょうか。 >大学院がこんなに閉鎖的なものだとは思っていなかったため、とても残念です。 私は、質問者さんの少し考え方がネガティブで、嫌なほうにばっかりに取っていると思います。 研究は与えられるものではなく、求めていくものです。 指導も与えられるものではなく、求めていくものです。 頑張って下さい。
再訪です。午後も会議が詰まっていますが,急いでお答えしましょう。 >修論の内容の一部分ずつそれぞれを3つの学会に投稿する・・・その全体を修論としたらよい 分野やテーマによるでしょうが,ふつうはまず修士論文を大学に提出して合格し,そのうえで頭を冷やして雑誌投稿用に改稿するでしょう。そのとき,部分ごとに分割することもあります。理由は,修士論文が大部な労作であったり,あるいは単純に業績の本数稼ぎのためです。 しかし,「途中経過を小出しにして公刊論文として成立しうる」という指導教員の意見なら,ぼくは口出しできませんね。 >既卒の人の修論を見たことがあるのですが、それは学生の単著だったと思います。 大学に提出する修士論文や博士論文は,どんな場合でも単著です。 >そこで、自分は修論の一部分ずつは指導教官の名前も連ねて投稿するのに、修論は単著になる、 上記した途中経緯の分割発表についての疑問は,学術的見地からのものです。 制度的見地からいえば,「既刊の共著論文を学位論文の一部とするとき,その共著者の了解を得る」のが常識でしょう。つまり,あなたとX氏の共著論文の内容を,あなた個人のものである学位論文の一部として使うなら,あなたはX氏からその了解を書面で得て学位請求論文に添付する必要があります。こういう事態がおこるのは,ふつう博士論文の場合です。 この慣習を適用すれば,あなたは共著者である指導教員から,「自分の指導学生の修士論文の一部として使用を認める」という一筆をもらうことが,必要になるように思います。 >研究の指導を受けていないのに。指導教官に(というか大学院に)してもらっていることといえば、文献などを大学のお金で買ってもらう位です。 人によって,ぼくのように「できるだけ共著は望ましくない」を理念としている教員と,「共著があたりまえ」という理念をもつ教員がいます。あなたの考えはぼくと共通するようですが,それが通じない人もいる,としかお答えできません。もし何か行動するなら,「先生との共著はお断りします」とはっきりいうしかありません。
一般的に、大学院(特に修士課程)では教員の指導のもとに研究が行われ、その成果を発表します。そしてそもそものアイデア自体が教員のものであることがほとんどだと思います。したがって、発表する論文は共著になります。 あなたの話だけから判断すれば(あなたの指導教員の言い分はわかりませんから)、一般的な例とは言いがたいようです。教員の資質に問題があるかもしれません。そういった例外的な状況のみから全体を判断されるのであれば残念ですし、不適当だと思います。
No.3の補筆です。答えていないことがありましたね。 >自分が書いた研究成果が指導教官の研究成果にもなるのですか? 連名で書いた場合は,筆頭者(または責任筆者)かどうかが問われます。そうであれば,業績としてのカウントは高くなります。そうでない「金魚のフン」として連なった場合は,カウントを低めるのがふつうでしょう。でも,あなたの指導教員が業績リストをつくったとき,1本になることにはちがいありません。いまは業績評価がうるさいので,ひどい場合には業績詐称(書いてもいない論文をリストする)して懲罰をくらう人もいます。 だから,教員と院生があわせて8人いて8名の連名で4本の論文を書けば,個人的な業績カウントでは32本ぶんに相当します。これが理系実験系の業績水増し法です。
>学生の自分が発表したり書いた論文はすべて自力で書いたとしても、セカンドに指導教官の名前は載せないといけないのですか? 業界の風習によります。ぼくらは原則として単名で書きます。指導学生と共著にするときは,かなりの部分に関与している(手取り足取り論文指導をしてきたとか,卒論・修士論文を指導教員が徹底的に改稿して投稿する)ときです。 理系実験系では,関与しなくても,カネをとってきた教授を連名の最後に書く,などの風習もあります。しかし,質問のように,「まったく違う分野だから勝手にしろ」と突き放し「名前だけ書け」というのは,むしのいいはなしです。この教員にはたいした人格も良識もないでしょうから,あなたのほうから破門しましょう。
研究内容についてディスカッションしてくれないのはひどいですが、基本的には文系の大学院てそんなものだと聞いています。 教授はあなたの「居場所、肩書き」を与えてくれたので、あなたはそれを大いに利用するだけです。 だから他の教授(他大学含む)や施設を今の教授の名前を用いて「××研の○○です△△についてお聞きしたいので時間を取って下さい」といった具合に肩書きを使い倒すのです。 一般人が借りたり閲覧できない図書にもアクセスできますし、大学の内部外部のネットサービスも使い放題です。 全てはあなたの熱意にかかっています。 理系でも、米国の某超有名日系教授は三ヶ月指導も何もしないで「論文は書けたか」と聞きます。そこを出た人はものすごく鍛えられます。^^;
お礼
回答ありがとうございます。 ご存知でしたら教えていただきたいのですが、学生の自分が書いた論文は自力で書いても、セカンドに指導教官の名前を載せるものなのでしょうか? またその場合、それは共著になり、指導教官の論文の1本に数えられるのですか? 自分が書いた研究成果が指導教官の研究成果にもなるのですか? よろしくお願いします。
- arasara
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あくまで私の経験からくる私見です。 >学生の自分が発表したり書いた論文はすべて自力で書いたとしても、セカンドに指導教官の名前は載せないといけないのですか? >大学院がこんなに閉鎖的なものだとは思っていなかったため、とても残念です。 その通りです。全部とはいいませんが、ほとんどがそうでしょう。 質問者様は選択を誤りましたね。リセットはできませんか?
お礼
回答ありがとうございます。 リセットとは指導教官を変えるという意味ですか? 同じ大学院では私の研究内容に合う先生はいないように思います。 arasara様のお答えだと、学生の自分が書いた論文は自力で書いても、セカンドに指導教官の名前は載せるものとのことですが、それは共著になり、指導教官の論文の1本に数えられるのですか? 自分が書いた研究成果が指導教官の研究成果にもなるのですか? ご存知でしたら教えて下さい。
お礼
回答ありがとうございます。 指導教官が投稿しろと言っているのは、修論の内容の一部分ずつそれぞれを3つの学会に投稿するように言っていたと思います。 修論は大きな一つのテーマをいくつかの観点から考察する予定で、観点ごとに学会の投稿締め切りにあわせて書いていき、その全体を修論としたらよいというようなことを言っていました。 passersby2様は自分のような状況の場合、共著にしないとお答えいただいてますが、自分の指導教官は学会に投稿する論文はセカンドに自分(指導教官)の名前を入れるように言っています。 既卒の人の修論を見たことがあるのですが、それは学生の単著だったと思います。 そこで、自分は修論の一部分ずつは指導教官の名前も連ねて投稿するのに、修論は単著になる、 逆に修論は単著なのに、その一部分ずつは指導教官の名前を連ねて投稿するということに矛盾を感じます。しかも、研究の指導を受けていないのに。 指導教官に(というか大学院に)してもらっていることといえば、文献などを大学のお金で買ってもらう位です。(ただその本の管理はもちろん学校にされています) 自分としては「単著で書けるものを、大学院に所属しているから共著にせざるおえない」ような感じがしてすっきりしないというか納得がいきません。 長文になってしまいましたが、よろしくお願いします。