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江戸時代の藩主と庶民の交流は?
- 江戸時代の藩主や将軍の生活について、庶民との交流はどの程度あったのか疑問に思います。
- 現代の天皇や総理大臣といった公人と庶民の関係を考えると、江戸時代でも一般の庶民との交流はあったのではないかと推測します。
- 一般の庶民との交流があれば、藩主や将軍の地位を獲得維持するためにも重要な要素となるでしょう。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>ところで江戸時代の藩主や国主、さらには将軍という立場の人たちは一般市民との交わりはどの程度あったのでしょうか。 (1)将軍も大名もそうですが、結構、「鷹狩り」と称して城中からは抜け出していました。 もちろん、本当に鷹狩りはしましたが、休息時には、地元の豪農(庄屋)の家などに立ち寄り、お茶を振舞われたり、昼餉(ひるげ)を振舞われたりもしています。 ですから、全く庶民とのつながりが無かったわけではありません。 ただ、特定の人物であったことは確かです。 これが唯一の城中の煩わしさから抜け出す手段でした。 「暴れん坊将軍、吉宗」などは、大ウソ。 まあ、一年中生き抜きのできない城中暮らしをしていました。 (2)奥向きとの接点: 将軍が大奥に入ると、その世話をする者がいました。 しかし、大奥にも序列があり、次のサイトの「御末」「御犬子供」は、一番下の位でしたので、将軍と顔を合わせることさえできませんでした。これを「御目見以下」(おめみえいか)と称しました。 大名たちも、家格に応じて、将軍家を真似て「奥」をつくり、大奥にならって奥向きでは女性の序列は同じで、やはり、「御目見以下」は大名と顔を合わすことができませんでした。 ただし、大名の場合は将軍に遠慮をして「表」と「奥」だけで、「中奥」や「大奥」とは言わず「表」と「奥」だけで呼びました。 http://bungetsu.obunko.com/newpage503.html (3)大名屋敷に農家? これは、大名の江戸下屋敷には、大小の規模は違っても、必ず田畑があり農家があり農民が住んでいました。もちろん農民との接点もありました。 これは、大名に年貢である米が収穫できる苦労を知ってもらうためでした。 こうした農民は、住所があって無いようなものでしたので、「○○守殿百姓」と呼ばれました。 現在も皇居内に田があり、天皇陛下が「お田植え」をなさいました・・・などと報道がありますよね。 (4)大名が吉原へ? これは「ありました」。裕福な大名や家臣たちを散財をさせて、経済力を減じ、幕府に対して謀反を起こさせないために、吉原ができた当初は武士たちだけの遊び場だったのです。 これには、当然、「お忍び」でしたので、例えば、子どもができて「お世継ぎ騒動」などは起こさせないように妓楼でも、いちいち、どこの殿様などという詮索はしませんでした。要は、金さえ貰えればそれで良かったのです。 なお、吉原は江戸の人口が多くなり、しかも、男6割、女4割と極端に男性が多くなったため、元禄年間頃より庶民にも開放されました。 それまでは、武士だけにしか開放されていなかったのですねぇ。
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- take-plus
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藩内であり、ある程度の自由がある藩主であれば、平時の場合はお忍びでも藩としての執務でもお城からお出かけしていたと思います。 ある程度の自由というのは、お飾り藩主や病弱でほとんど軟禁状態、お城から一歩も出してもらえない藩主だっていたかもしれないという勝手な想像です。 あくまで平時の場合、藩内を見回るのは現代で言えば会社で社長さんが各部署を見回るようなもの。悪君で名高い吉良上野介だって地元では名君、「赤馬にまたがり巡回をして親しく領民と接し、人々から信頼されていました。」とあります。 http://www.town.kira.lg.jp/pub/kyouiku/sanninsyu/kirakou/index.htm あくまで領内での平時の話です。生麦事件のような他国通過中の事件とは違い、領内では人を殺めたりする行為は領民の不信を招きますので藩主といえども、庄屋クラスの農民とも交流はしていたと思います。 お忍び 八代将軍吉宗公が倹約令を出していた頃、尾張徳川家藩主の宗春公は幕府の命令に背き豪遊していました。 「徳川宗春は、享保18年(1733)に岐阜を訪れ、鵜飼を見物したり、お忍びで伊奈波神社の門前の茶屋へ行ったりしたという。」 http://l.lets-gifu.com/shop/index-3079.html もちろん、そういう行動の積み重ねの挙句隠居させられていますので、悪いことだった可能性もありますが、自由は利いていたと思います。 >趣味の研究の世界で交流のある学者さんなども居ることでしょう。 例えば、安政の大獄で有名な井伊直弼の参謀であった長野主膳なんかは「私塾の先生」が藩に重用されたわけです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E4%B8%BB%E8%86%B3
お礼
面白いお話をたくさんうかがえて感謝です
- isa-98
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織田信長は庶民と対等に会話をし、祭りの時には町民の汗を拭いてやったと言う記録が残っています。 フロイセンの言う、大名を見下し、家臣のように言う。 は、表面だけです。 当時は大名も民衆も服従する自由がありました。 信長は民衆の評判を最も気にしていました。 もちろん、服従しないなら死あるのみで、古今東西仕置きに違いはありません。 信頼の置ける場所では庶民と一緒に遊んでいた訳です。 江戸時代になりますと、領主と領民と言う関係が確定してしまいます。 殿様1人がどうこう出来る物では無くなります。 殿様の籠に下馬の礼をしない不逞な輩を成敗。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6 客は正門。使用人は勝手口。(御用聞き、商い全般など) も戦前は珍しくありませんでした。 侍屋敷の勝手口などで、対等な口で良いと言うような所や 町民でも慇懃に丁寧な挨拶をする低腰な侍もいたようです。 ですので、 勝手に出入りを許される町民もいるはずです。 ただ、玄関は難しいと思います。 しかし、それでも婚姻と言えば家柄の問題であり、決して町民など許しはしませんでした。 苗字帯刀、家柄と言う 決定的な物がありました。 将軍様ともなれば警備は厳重です。 近づく事すら困難でしょう。 また、夜には監視役が一人必ずいます。 女が将軍におねだりするのを監視しているのです。^○^; 侍であれば 出世欲で近づいているので警戒せよ。 商人であれば 御用商人を狙う節あり。密偵を出せ。 なーんにも知らない町人なら抜け出して一回ぐらいは対等に喋って楽しい思いをしたかもしれません。
お礼
お教えくださりありがとうございました
お礼
いつもお世話になっております とても参考になりました