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自我 2

自我 2 お世話になります。 前回「自我」について質問させて頂きました。 結論からいうと自我というものは存在するが、 客観的な判断のもとに自分というものを捉えないと 社会との摩擦を起こしてしまうとの回答を頂きました。 では自分の求める自我「理想」と 社会側から捉えられた私「現実」は どちらが本当の私ですか。 伝わりにくかったらすみません。

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noname#118718
noname#118718
回答No.1

以下で少し説明が足りなかったようです。ごめんね。 http://okwave.jp/qa/q5987547.html >自分の求める自我「理想」と社会側から捉えられた私「現実」はどちらが本当の私ですか。 自我は存在するのですが、その中身の自我像というのは換えていくことができます。 つまり、「本当の自我」というものはあまり気にされない方がいいと思います。 社会側から捉えられた私「現実」も社会で活躍していく為には「なりたい自分」よりも「社会から観た自分」もしくは「実能力にふさわしい社会的ポジション」を基準にした方がよりよいということに過ぎません。 反対に、家で独りでくつろぎたいときは「社会から観た自分」像よりも「なりたい自分」像を優先した方がリラックスできるかしれません。 自我像を固定的にしてしまうと環境の変化についていけず環境との調和が乱されます。 詳しくはカール・ロジャーズのロジャーズ選集下第8部にあるので興味があれば読んでみてください。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.3

まず、実体としての「自我」・「変わらない私」というものは成り立たないものと思います。 前回の回答を見ても、最初あると言い切っていますが、 『「ない」とするのではなく「そういった心的機能は停止できる」』 というような表現からみるに、ここで説かれているのは 心的機能として変化生滅するものとしの自我であるとおもいます。 (勝手な憶測ですが・・・) 自我自体は我々が錯覚して思い込んでいるものであると僕は考えてます。 感覚も心の機能も一つ一つみても変化生滅しない性質のものはみつかりません。 どれもこれこそ変わらない実体としての「私」だ「自我」だといえるものはみつかりません。 存在する有るものではなく、一定期間区切った変化生滅の流れに 「私」という「自我意識」を錯覚するだけだと・・・。 そもそも「変わらない何か」とは関われませんからね。 関わった瞬間変わらない何かではなくなってしまうでしょうし。 その「エゴ・自我」という錯覚によって、諸々の煩悩が生まれ、悩み苦しみが生まれると思っています。 自己の「エゴ」が強ければ強いほどに他者との軋轢が増しますね。 逆に「エゴ」が少なければ少ないほどに軋轢はなくなると思います。 その軋轢は「自己内の希望」と、「現実」の軋轢によって生まれる感情にもいえると思います。 生命・人間として幸福に生きるには その両者の軋轢を減らすことなくすことにチャレンジする必要があると思います。 何かしら参考になれば幸いです ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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回答No.2

「自覚された自己」と「社会的な自己」が分裂しているのなら、自己存在の本質に根差した自覚によって生きていない=他律的に生かされている、という事です。 今や個人の生存は、衣食住どれも世界中の人々の営為によっており、本来「利己」は「利他」を包含します(そこに求められるのは、他我(=自己の延長として他を認識する=愛)です)。 宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動=自我仮説に対する、相補的な時空仮説として生じています。 そこにおいて、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質=異なる認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は依拠しており、過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じです。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として発生し、実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言えます。 宇宙が認識に於いて生じるならば、生きるのは楽しむためです。 その「楽しみ」の原因をつくる欲求は、遺伝子によって発生し、また我々の生きた結果が、淘汰として遺伝子に刻まれていきます。 もし、楽しくなくてイヤイヤ生きるならば、その個体は活性が落ちて淘汰され、その状況でもイヤじゃない個体が増殖するだけです。 それは短絡的な快楽主義を意味するのではなく、生きるのに反したり、認識を低下させる欲求は、人生を通算した充足量の総和の最大化に反します。 人の「生き方」には、認識性の発達(より深い認識的な目標の達成による充実感)や社会生命性の発達(社会的行動=助け合いによる喜びor社会的価値(お金や出世)の取得による喜び)といった、二次的な要因があり、人生を通算した“喜びの最大化”には、工夫が必要になります(短絡的な快楽主義には帰結しない)。 宇宙の発生に、異なる認識可能性(h)の時系列化が必要であったように、その補完(時空仮説に対する無の射影)としての存在性に於ける認識可能性の他我化=愛こそが、生理的な認識性の最大化とその充足の最大化を両立させるのです。

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    私は「自我」という言葉をこのように解釈しています。  自分ひとりで考えてきてしまったもので  別に矛盾とかは いろいろな体験からも無いと思えるのですが 皆様のご意見をお聞かせいただければと思いました。 視点が違えば こうした考えは それによってさらに豊かになるという期待もあります。 よろしくお願いします。 ↓↓↓ 私の人生(現在63歳ですが)からは 誰もが「自我」は、持っているという観察結果が 狭い視点なのかもしれませんが 出てきます。 しかも、それを 人と隔てる殻とすると かなり強固な殻として表現可能なものとして「自我」は存在してしまっています。 そこを 私はまず、 卵の殻ではなくて 鉄のような堅固な殻を持ったの球や円を 便宜的説明図として ここに想定させていただきます。 それは、まず そのへんをこのように考えるからです。 人を助けたいという気持も 多くの場合、 自分の満足や 自分の名誉  人から善い人と思われたい心からとか、 それによって信用されたいから あるいは感謝されるのが気持いいから あるいは見返りがいつかは期待できるからとか とか なんらか 自分のためであったりするところ  そのへんを冷徹に見つめるとなのですが、 自分をまず、大切にしたり 自分にまずゆとりを作らなければ どうせ人へのなんら助けにならないことからも   また さらには ほんとうに気持にも生活にもゆとりがなければ 人は 人を押しのけてでも まず自分の欲望を 人を助けることより優先します。 普通は こうして ゆとりさへあれば 自我の堅い殻の中にても、法律は守りますし、 人助けもします。  それが常識の範囲というものでしょう。 戦争のような極限状況で無い限りの 私たちの神経は 自分のためにも 平和を望んでいるからです。 しかし平和であっても この自我を知ってしまうと、 人の存在すら認めない考えの人も出てきます。 ただ のけものにされたくないから、いい人のふりをしているだけとなったりします。 善人でありたい 道徳心とかも強い人は多いですから これはとてもきつい冷たい見方でしょうが  私は まず このへんは冷徹に しっかりと 自我の構造を見つめておいて 真実の追及してゆくべきところと思えてしまっているということです。 そうすることによって それでも崩れない 他の人へのあたたかい思いやりの気持の所在はどこにあるのかをより明確にあぶりだしたい気持からの 冷徹さでもあると思っていただいていいところでもあるのですが、 ともかく 最初は この鉄のような硬い殻の ボールをイメージしてください。 次に、何故、 その殻は それほど硬いのか?  それは 欲望の存在がそのエネルギー 出発点では必ずその殻を持った円や球体のうち側のエネルギーを持ってしまい それに覆われるような形で その殻が形成されているからです。 そういう便宜上のイメージの話ですが、 そういうふうに表現することができると私はですが思っています。 「人はみなそれぞれ絶対弧」という哲学言葉があると聞いていますが それは又別の意味合いの「弧」の世界の表現でしょう。 むしろ人の存在を認めるからこその尊敬とう文字の裏返し その基点のようまものの表現であるのだろうと感じます。 そうではなくて、 死が絶対的別れであることを知る時のような深い奈落の孤独の世界が 見えにくくてはあっても そこには あるということです。 誰もが その「巨大な」とさえ言えてしまうような殻の硬さの中に置かれているという図、 しかも欲望が故という理屈、 ここまで 文意は理解できましたでしょうか? これは 左脳(論理脳)で捕らえると そのようにも表現できるという意味合いでもあるのですが、ともかくまず 論理的には そのような図が考えられることを念頭の置いておいてください。 しかし 欲望は さまざまなニーズの総合、 その重複性の奥に 時に無意識的にかもしれなくても《幸せを願う》という究極へと向かいます。(ここも反論があるかもしれませんね) 幸せは 音楽への感動や この大地への感動 大自然への感動、その中での安らぎや新鮮な気持といったことを心に見出す時にやってきます。 ある意味欲望は そのへん ほんの薄皮をむけば その心の故郷と一体となった美の世界をともないます。(この欲望自体の構造については、 別に質問したいとおもっていますが) いずれにしても  その「幸せ」感と一体となるようなエネルギーが希求の中に入り込むと(その実感が命に宿り始めると)その中からは 他の人の幸せも 自分と同じ様にせつせつと願う気持も 同時に生まれると私は思っているのです。 もっと単純な話が 人って ほんとうにうれしい事があると 人に伝えないではいられない気持になります。 そういう気持を知らない人はそれだけうれしいことがあまり無くて 記憶に残っていないからだと思いますが ともかく その延長線にある 人間性の必然だと思っていただけると解りやすいかと思います。 つまり ちょうど 磁力線のように それはなんと いとも簡単に 鋼鉄のように固い殻を突きぬけてしまいます。   それがどんなに硬くてもです。 別に それで 聖人とかになれるとか言いたいのではなくて、 かならず そこには、これも誰もが、少なくとも心の奥は 暖かい気持になってしまうということです。 これを卵に仮に例えるなら 黄身の部分がそれかもしれません。  偉いとかかいいとかのえらい違い^^は考えないで下さい。 自分のことのように 相身互いの気持にはなれるようになるということです。 この自我論が意味しているものは、 誰もが まあそんなものではないでしょうか、という大局的意味合いです。  誰を低くみたり 誰を英雄視したりすることもなく もっとみんなが 自分を見つめ 信頼し、  相手を認め 信頼しあい、 語り合えるようにするための図のつもりなのです。 しかし 私は わりと幼い頃から こうした人間についての考えを真剣に考えてきた者ですが、 本とかをあまり読む機会がないまま 忙しい人生を生きてきました。 他の人の心理学とか 哲学とかで すでにこうした自我論というのがあるのかないのかもわかりませんし、 他と比較できないので 自信とかも沸いてきません。 それは、それでいいのかもしれませんが、 やはり 対話は 勇気や力を私に与えれくれると思うのです。 もしよろしければ、 この考えの欠点、 間違っていると思える点、 感想、その他 ご意見をお聞かせいただけると ありがたいのですが、  どうかよろしくお願いいたします 人生観から生まれた論の一つですので、この紙数ですべて書けるものでは無い論文となっているところ もしご意見をいだだけましたら そのつど お一人お一人に 補足文を書かせていただこうと思います。 よろしくお願いいたします。

  • 機械が自我を確立した場合の問題点とは

    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • 自我の目覚め~みなさんはいつから自分という存在を理解しましたか?

    文章が分かりづらいと思いますが、読んでいただけると幸いです。 僕は、24歳の男です。 ここ三年程前に、自我というものに目覚めた気がします。 その前までは、ずっと本能というか感覚の世界の中に生きていました。 その頃は、考えるということよりも、直感的で感覚の世界で生きていました。 例えば、悪いと思ったことをしたら、恐いとか、感覚の中にこうなるんじゃないかという論理があったような気がします。 だけど、いつも漫画を読んで不思議だったのは、主人公が自分の中で会話をしているということです。 それが、いつも不思議でならなかったんです。 自分の中で自分と話しているということが、僕には理解できなかった。 みなさんは、それはいつから出来るようになりましたか? なぜ、そんなことを言うかといえば、三年前に彼女といるときに退行(赤ちゃん返り)のようなものが起きました。 その時に泣きながら「お母さん、行かないで~」とずっと叫んでいました。 家庭環境が、すごく複雑だった僕にとって、多分昔から孤独だったのだと思います。 子供の僕にとっては、訳が分からず、ただそれを自分ではないと思い込むことによって、 その辛い自分を守るために、自分ではない違う人間がやられていると思うようにしたのでしょう。 そういう所から自分が来ているのかなと思いました。 その退行が起きたときに、初めて自我というものに目覚めた気がしました。 自分ではない人間が、泣いている。 すごく冷めている自分がそこにいて、初めて「この子は過去の僕か?」という言語で自分で自分を客観的に捉えている僕がいました。 その時に、初めていつも漫画で見ている、主人公が自分の中で会話している感覚が理解できたような気がしました。 思えば、それまでの僕は自分の事、私というものを深く考えたことがありませんでした。 自分が何になりたいのか、何者であるか、どんな性格か。どうしたいのか。 今までは、すごく直感的に、感覚的に生きていました。 非常に流されやすく、そして人から自分がここにいるんだって事を多分わかってもらいたくて、 色んなことをしていましたが、全て人に対して、自分がここにいるんだという叫びそのものでした。 存在を認識してほしいという欲求です。 自我に少しづつ目覚めた僕は、今すごく人との差異を毎日感じています。 なんというか、置いていかれている感じです。 自我に目覚めている人にとって、多分昔から自分というものに対して考えてたからかもしれませんが、 意思や「こうしたい」と思うものがあって、また自分がどんな人間かというものも知っているような気がします。 でも僕はそれが今だもって分からないし、 また内在的な自分と、現実の僕が一体になってくれない、自分にいつも腹がたちます。 自分というものを認識したのは、いつ頃からでしょうか? そして、何かを考えている時は、音声が聞こえるのですか? それとも文字が見えるのですか? 僕は考えている時は、文字が見えます。 映画のように字幕で言葉が出てくるんです。 なぜそんなことをいうのかといえば、僕はよく考えている自分が消えてしまうからです。 本能の僕になっている時は、自分が何をしてるか全くわけのわからない状態になってしまうんです。 自分という認識を逃がしたくなくて、いつも考えている状態に置いていたくて、 そのヒントが欲しいんです。

  • 全ては意識の中の存在 2

     こんばんは。  私は素人なので、易しく教えて頂けたら助かります。  前回「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく、自我の意識の中の存在でしかない可能性もあると言うのは本当ですか?」と言う質問をさせて頂きました。    今回も前回と同様の質問ですが、もう少し的を絞った質問とさせて頂きます。  ★今回の質問★  ご回答を頂いている皆様方、頂いたご回答、当サイト、インターネット、パソコン・・・友人、親戚、兄弟、親、自分の肉体(感覚器官含む)・・・等の存在も含め、全ての事物は私の意識の中の存在である可能性の有無について教えて下さい。  宜しくお願いします。

このQ&Aのポイント
  • DCPーJ4215は、黒のみ印刷ができない問題が発生しています。ヘッドクリーニングを数回試しても改善されず、純正インクに戻しても解決しない状況です。
  • この場合、修理を依頼するしか解決策はないのでしょうか?もしくは、他の方法で改善できる可能性はありますか?
  • ブラザー製品のユーザーの方々にお聞きしたいです。同じような経験をされた方や、修理や書き直しの方法についてのアドバイスがあれば教えてください。
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