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なぜ土佐勤皇党の武市瑞山が評価されているのかわかりません。

なぜ土佐勤皇党の武市瑞山が評価されているのかわかりません。 浅学な私がwikiなどで調べる限りでは「攘夷」のためと称しての人斬り指示しか行なっていない印象があります。 死後勤皇党が壊滅したのでしょうがないところもありますが、土佐藩を指導したのも暗殺した吉田東洋系の人材ばかり。 よく評価されている「高潔な人格」というのも、捕縛された岡田以蔵への対応を見る限りそれほどほめられたものではないような気がします。 結局のところ武市さんの評価としては三文字の切腹をしたことぐらい。 実際のところ武市半平太という人物は何を成し遂げ、どこが評価されているのでしょうか。

  • 歴史
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  • xzxkk
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回答No.8

簡単なことですが、同時代の人が最大限の評価をしているからですね。 薩摩の樺山三山は西郷と桂を足したような人物だと言っていますね。 山内容堂は腹を切らしたことを後悔していますし、板垣や後藤ですら 下士では彼のみ別格扱いですから、しかし暗殺を是とした政治手法は 後世の人には受け入れられないですね。私の中では維新四傑ですね。

回答No.7

龍馬や中岡の影に隠れてしまいがちですが、武市も立派な 幕末の志士でしたよ。当時の土佐では、大多数の武市派と 少数派の坂本派に分かれていたので、龍馬を主役に見立てる 物語では、対比させるために冷酷な部分を際立てる演出が 多いかと思います。 幕末当時は、水戸学が流行っていたこともあり、神の国 日本を異国から守ろう。徳川ではなく、一番偉い天皇様の 家臣として国を守る。という「尊王攘夷」という考えが イケイケでした。 関が原の代から、徳川に恨みを持っている長州は声高に 尊王攘夷を叫びます。そして、国を動かしての攘夷運動を 行うのです。 それぞれの国の殿様は、好き勝手やっているものの、 一様は徳川の家臣であるので、国をあげて攘夷なんて しようものなら、取り潰される可能性大です!そんな 軽挙は中々行えずです。 武市の凄いところは、ほんの一時であるものの、下士の 身分でありながら、国を動かし攘夷風を吹かせ、更には 朝廷に取り入れ、日本を動かしたことになります。 もちろん、長州と結託した動きなのですべて武市の功績で はないですが。長州も大いに武市を信頼し、共に国を挙げて、 尊皇攘夷を決行しようとしていました。 龍馬や中岡などは、土佐を捨てて自由の身で活動していた ことに比べ、武市は藩の重役にまで登りつめ、常に責任 ある立場で活動していたことから、そのプレッシャーは 相当なものかと思われます。 剣術も一流、教養もあり、人徳もあることから、彼を慕う 人は非常に多かったです。 確かに、以蔵や新兵衛を使い、佐幕派の人間を闇討ちして いましたが、そのお陰で長州や薩摩が思うように攘夷活動 ができたのも確かです。吉田松陰に似ているところがあり、 「公のためなら私情を一切捨てる」それが非情にも感じら れる一面だと思います。(土佐勤皇党の輩が色町などに繰り 出しても、武市は一切行かなかった。仕事(公)を成さずに 自分のためだけの行為はしてはいけない、と戒めていたよう です) 土佐の情勢が変わり、久坂などが執拗に脱藩を勧め、長州に 身を隠すように説得するものの、自分の命を惜しんでは、藩 を動かせないと決め、土佐に帰り藩主を説得するものの、 最期は三文字の切腹にて人生の幕を下ろします。 武市は何をした人?と聞かれれば、下士の身分で土佐一国を 勤皇色に変え、朝廷を動かし、幕府にまで影響を及ぼした。 龍馬や中岡に、国の情勢を詰め込んだ。(彼らは離反しますが 武市の影響力も多分にうけてると思います)彼が生きていれば 間違いなく、長州:桂、薩摩:大久保、西郷、土佐:武市の 構図ができており、土佐ももっと多くの人材が出ていたと思い ます。まぁ、武市が禁門の変で生き残り、暗殺などされなかっ たらの話ですが。。。

  • 500416
  • ベストアンサー率34% (15/43)
回答No.6

理由は簡単です。英雄である竜馬に関った人物で、なおかつ竜馬はもちろん土佐中の下士から慕われた人物だったから。 当時の武市は全国的な有名人でもないし、実際たいしたことをやってません。 基本的には小説による誇張。まぁ竜馬の逸話も大半が小説の誇張ですが。 でも武市は長州の元勲達からはそこそこ評価は高かったようですよ。 実は倒幕派上層部では武市よりも竜馬よりも中岡慎太郎の方が才気があると評価されてたらしいです。

009-1-1
質問者

補足

木戸孝允が維新後、武市を切腹させたことで容堂公をなじったという逸話があるそうなので、長州系の人には評価が高かったようですね。 でも、どこを評価されていたのでしょう? 禁門の変以前から支持してくれていた郷愁でしょうか?

noname#125540
noname#125540
回答No.5

最近、大河ドラマの影響で雑誌で取り上げられることが多いのでちらっと読んだんですが、当時のことはあまりよく分かっておらず、小説などで有名になったから人気が出た・・・・・ということらしいです。 坂本さんも、竜馬か龍馬か分からず、 「りゅうま」か「りょうま」かも定まっておらず、 地元の有名人としては銅像が建っていたが、全国的にはそれほど有名ではなかった。 龍馬は梅毒だったという説がある。 など書かれておりました。 武市さんもイメージが膨らんでいるのかもしれませんね。

  • shin1417
  • ベストアンサー率27% (199/721)
回答No.4

坂本竜馬に絡んだ小説に登場したから。 そもそも坂本竜馬が幕末の偉人として一躍世間に名前が知られるようになったのは、明治時代中期に発行され大ベストセラーになった小説のおかげです。 それまでは世間の人は誰も知らなかったんですよ。 そして、小説ですから当然「作り話」です。 有る事無い事書いて、英雄のように仕立て上げてますが実際はたいした事をしてませんので。 武市半平太や岡田以蔵も同様です。

009-1-1
質問者

補足

戦前に流行った戯曲? の月形半平太のモデルだったとか。 その中での悪役は新選組なので、戯曲イメージとの混同は確かに強いかもしれません。

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.3

長州は変な藩で 元旦の朝 家老が殿様に 支度が整いました といいます そして殿様は時にあらず と答えます。 徳川への戦です 関が原以来 毎年の密かな行事です それほど 恨み骨髄 ですから 倒幕のためには 尊王であることを外せません 朝廷なしの開国は 待っていましたでしよう 攘夷は倒幕の裏返しで 一貫していましたでしよう 薩摩は現実的な藩ですから 情勢外交に長けていますよね 土佐は 改革派と守旧派との抗争がまずあって 守旧派との連携での 地位向上をかけての 攘夷の一環としての勤皇の 性格が強いようです ただ個々の運動ではなく 全藩上げてのものを目指し その意味での力の集中を図ったことは 企画統率能力はあったでしょう さっさと脱藩して 薩摩長州の活動家と連携していれば 名はもっと 大きくなったでしょうかね いずれにしても、 その後の勤皇党(全藩としての性格が強いものですから)の粛清は その後の 尊王各藩から 一歩遅れをとることになり いい場所(ヘゲモニー)が取れなかった 武市を先頭に あのまま突き進んでいたら を思えば 初代首相もあったかとね 評価も違ったものになっていたでしょうかね  

009-1-1
質問者

補足

個人的には、歴史資料などでの武市さんの行動を見ていると「お勉強のできる馬鹿な子」的なイメージを持ってしまいます。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

反面評価対象が後藤象二郎だからでしょう。 明治初期の権力体制を見れば、薩長土肥が明治維新の功績を上げたと評価されています。 薩長肥は、明治後半までそれなりのビッグネームがいますが、土佐では本来後藤象二郎あたりが、ビッグネームになるはずが、自由民権運動での腰砕けなどで高知出身の首相は、浜口雄幸までいません。 生きていれば総理にもなった人なのに・・・という残念感が、評価を上げているかと。 ※ けど、人材の摩耗という話で言えば、長州の方が激しいので、生きていれば総理だった武市ってのは、なんか違うような気がします。

  • chie65535
  • ベストアンサー率43% (8508/19344)
回答No.1

坂本龍馬も武市半平太も、特に評価されるような人物ではないし、ロクな事をしていません。 逆に、政敵に失脚させられた人物などは、かなりの高評価を受けて然るべきの偉業を成し遂げている筈なのに、その記録や手柄が政敵に揉み消されたり奪われたりして後世に記録が残らなかったため「悪人としての評価しかない」と言う場合もあります。 そう言う訳で、坂本龍馬も武市半平太も、後世に脚色混じりで書かれた「時代小説」で脚光を浴び「小説に書かれた脚色により、なんか、とても凄い事を成し遂げた人物のように思われているだけ」です。 当時は「内戦勃発前のテロ多発状態」だったので、勤王側も佐幕側もどっちも、今から見れば「殺人過激派集団」です。 >捕縛された岡田以蔵への対応を見る限り 以蔵が捕縛された時には、既に武市は投獄されていて、武市は殆ど何も出来なかった筈です。出来たのは「外部と連絡を取る」くらい。なので、対応しようにも対応できませんよ。外からの連絡が来た時には手遅れでしょう。

009-1-1
質問者

補足

以蔵の自白を防ぐため、自分に心酔している獄吏を使って毒薬を渡したという逸話がありましたよね。 拷問の苦しみから救うやさしさと見ることもできるのでしょうが、個人的には姑息さを感じてしまいます。

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