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卑弥呼について詳しい方、ご回答お願いします。
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質問者が選んだベストアンサー
服装は、時代ごとの服装が載っているような書物が図書館でも書店でも何らかのものが見つかるはずです。 そんなに難しいことはないかと思いますが・・・。 ただ、口語の口調というのは口伝えでしか(完全には)伝わりきらないので、敢えて言うなら時代劇等で 皇族や公家が話している口調が何とか面影を残している程度でしょうか(古代のものはテレビ等でも なかなかやらないでしょうが・・・)。一番良く見聞きする形のものは平安時代の皇族・貴族の 物なので、これでもかなり後の時代のものです。 どのくらいの規模でやるのかは分かりませんが、形の部分だけにこだわるよりは、観客にちゃんと 話の流れや臨場感が伝わることの方がよっぽど大事です。服装はともかくとして、口調は必ずしも 現物に忠実でないといけないかは疑問です。むしろ、現代人に通じなさ過ぎてどういった舞台の 流れになっているか伝わらなくなってしまう危険を考える必要がありますし・・・。 その時代にあった出来事そのものをちゃんと観客に伝えることの方が劇を成立させるのには もっと優先すべきなのでは・・・と思います。
その他の回答 (3)
飛鳥時代や奈良時代以降であれば文献史料が残っているので 口調などを解読する事も、ある程度は可能でしょうが 卑弥呼の時代は、日本における文献史料が一切残っていないので 口調まで解読するのは困難だと思います。 服装は…どうなんでしょうね。 まぁ、なんとなく中学や高校の教科書で 弥生人たちのルックスを知る事は可能だと思いますが それも想像の範囲でしかないような気がします。 それにしても卑弥呼・・・ずいぶんと大役を任されましたね!
- rurubonpp
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「はひふへほ」を「ぱぴぷぺぽ」と発音していたと、この前、BS2の深夜番組でやっいたのを見たことがあります。 その番組では、今の沖縄の言葉が古代の奈良の言葉に近いと言っていました。 BS2の深夜番組というだけで、番組名までは知りません。クイズ形式の番組で現在でも放送してます。ほんの今月か先月の終わり頃に見たのですが。 まあ、邪馬台国が奈良にあったという説になってしまいますが。
- Hamazon_com
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その質問に答えられる人はいません。 魏志倭人伝という中国の紀行文(?)に卑弥呼という名前が出てくるだけで、口調はもちろん服装も現代に伝わっておりません。 そもそも日本語をしゃべっていたかも不明です。 ただ、現代人が漠然と捉えている卑弥呼のイメージはあるでしょうから、過去に卑弥呼を扱った映画等を参考にされては如何でしょうか? さらっと探したところ、2008年に「まぼろしの邪馬台国」という映画が公開されていて、吉永小百合さんが卑弥呼役をやっています。 http://www.cinematoday.jp/page/N0014968
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