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葛藤を超えるには?

葛藤を超えるには? 私は葛藤の多い人生をやってまして、よく言われる「本当の自分がない」ってこういうことなのかなと最近つながりました。 本当の自分とは何か?どうやってそれと知れるのか?選択するときの基準とはどこにあるのか?(食べたいラーメンが2つあって、どちらかを選ぶかでも人生の重要なことでもいいのですが) そんなことで日々心的エネルギーを使いすぎているので、葛藤やジレンマを解消する方法がありましたら教えてください。個人的な経験や考え、出典などなど何でもよいです。

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回答No.18

 回答No.4のお礼を見て、思いました。  frauさんは、取り付けられた“箍(たが)”をはずしたいのだと。  酒樽の箍。  酒樽は箍をはずせば、ばらばらになって崩壊。  酒樽は箍があってこそ。  その箍は、酒樽の役目を支え、生かしています。  でもfrauさんに取り付けられた箍は、frauさんを生かしていない。  だから苦しい。  その箍をはずしにかかっているfrauさん。  たぶん箍は、はずせます。  自身のことをよくわかっているから。  人を思いやる優しい気持ちがあるから。  時間はかかると思うけど、  だんだん自分が見えてくる。  人の意見も気にならず、  元の自分を生かせると、  思えば心も晴れてくる。  嗚呼・・・・・・私も心を晴らしたい。            

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >酒樽の箍 なるほど!とても分りやすいイメージをいただきました。 箍があるからこそ、分裂しそうな心の形造っている。 >でもfrauさんに取り付けられた箍は、frauさんを生かしていない。 本当にそうなんですよ。生かされてない=本当の自分ではないとは思いますがここでは「本当の自分とは何か?」という高尚なことを訊いているのではないんですね。もっとシンプルに今までの自分では居心地が悪くなってきたというような感じのことです。たとえば身体が成長してきたので、服が窮屈になってきた、というような。 今の自分への違和感は他者の自我を背負っているからだと気づきました。その他者とは私の場合主に「親」なのですね。また社会というのも人格化したとき、親の人格を拡大したようなそれからも影響を受けている自分なんです。ですがそれは負の部分が強すぎて、本当の私が違和感あると感じている今の自分の足をひっぱってるんですね。しかしそれは病んでいる心の部分を引っ張っているわけですから、足枷をつけられているのは実は健全な自分なのだ!と気がつきました。 箍はそのように、箍は心にとって必要なものですから外すべきは本当の自分だと自分を偽ってきた仮面なんですね。 >人の意見も気にならず、 これも悩みだったのですが、こうして変わり始めてから、このような他のことも同時に変わり始めてきました。過剰に気にしていた人の目を気にならなくなってきたところです。今、自分を少し好きなっているところです。

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noname#112269
noname#112269
回答No.21

おそらくですね、親御さんなどは関係ないと思います。 いろんな重篤な弊害をこうむることも世には沢山あるのは、知られていないのも含め事実ですが、では、自分の不幸、病は、親のせいだ、世間のせいだっていうのは、不毛だと思います。 それ言い出したら、世の中のすべては不幸ということにできるし、挙句の果てには、宇宙って基本的にアウトコースだよね、って話になるではないですか。 だから、そういうのはちょっと待ってよ、いいわけすごくないですか?と思うのですよ。 色々あるけど、自分も含めみんな正直きついんだろうけど、やっぱりここでは晴れがありますよねって言うのが本当の、そうあって当然の自分としての、本性と思います。 病や厳しさは否定できないけれど、そういうものとして受け止めて、そう、だから、こうですよねというのが、筋道ではないのかなと思います。 前回答文中の、容赦という語には曖昧さがあったかとも思いますが、要は、きついこと、つらいこと、目を背けたくなるような状況を、スルーするって訳にはいかないですよねってことなのです。かといって、何ができるかと言ったら、そう特別なことは何も無いのですが。でも、何もしないわけでもないから、答えは失われてはいません。 ただ、絶望はしなくてもいいと。状況が絶望的であったとしてもです。絶望しても何にもなら無いでしょう。   あとは、この文言を聞いた人が、いろいろ都合ごとに解釈する事の功罪について、私はどうしようもないから、(文章は整えたつもりですが)その点それぞれ気をつけて欲しいところですね。リテラシーということにしまして。 拙文ではありますが、これにて。

frau
質問者

補足

一見前向きなご意見ですが、あなた様自身が「親」という刺激に対し過剰反応している防衛なのか、それともまったくの短絡的態度からきているのかは分りませんが、あなた様ほどの賢いお方よりこのような回答がきて驚いてます。 >いろいろ都合ごとに解釈する事の功罪 いえ、功罪はむしろこちらの方にあります。私がしたお礼が共感を求めての感傷、もしくは相談室だと思われたのでしたら私の過失でした。感傷的、感情的に訴えて見えたのでしょうか?このような断定をされるほど、私はそれ以上に個人的なことは述べていませんし、言い方には気をつけたつもりです。 >幸、病は、親のせいだ、世間のせいだっていうのは、不毛だと思います。 まだ日本人のDNAに残ってるんですね。あなたにとって親は神聖かもしれません。その神聖なはずの「親」に子が毎日のように殺されている現実。生き残った子供の傷や疾患はサバイバルきた証。それがまた新たな問題を自分に他人に作る。これが不毛ですか?連鎖です。悪いけど親や社会のせいなんです。あなたも社会の一員です。 >要は、きついこと、つらいこと、目を背けたくなるような状況を、スルーするって訳にはいかない >宇宙って基本的にアウトコースだよね、って話になるではないですか。 だから逃げているのも、そこに追いやっているのもあなた方のような罪なき傍観者です。マイノリティーの人たちの複雑な問題、不幸をあなたは「不毛」な問題だと一蹴している。社会問題を共有する意識はまるで無いんですね。 私はこれまで病気を利用して依存や甘えに陥ることもせず、そこから、実証され確立を得ている理論を知ることにより因果関係を知ることで、ある直感の裏づけや思い込みからの解放、心の新たな展開があるとします。私の場合一般向けの出典から専門分野まで調べ、知り、学ぶことをしました。そこでは「親のせいにすることができる病」とはどこにもかかれてません。ですが発達心理学でもほとんどの原因は親、それに代わる養育者との因果関係とあります。 「こうありたいという自我理想が高まっても否定される不安が生じ、いつも自分が望むような行動が取れない葛藤が起こる」 子供が身代わりとして親が人としての弱さの身代わりになり必要以上の超自我を与えられることで不必要な自己否定感を和らげることができた、それが私にとっての「晴れ間」です。 「幼児期早期より、深刻な対人関係の問題を抱きながら対人交流を蓄積してきたことは、思春期、青年期を迎えても主体的に生きられない深刻な問題を生み出しているととらえられる」 主体的に生きることができない私は異例ではなく「本当の自分がない」状態だと気づいたわけです。親のせいにしていたら私が求めている真実を感情に邪魔され、学ぶという姿勢すらもちえなかったかもしれません。誰かせいにすることができたらどれだけ楽だったでしょう。憎しみだけ感じていれば激しい葛藤もおきず、その感情を捨てればよいだけの話になります。 では単純に。あなたが足をぶつけて痛いと泣いているときにそんなことたいしたことじゃないという一般論を言われたとしたらどう感じますか?・・・ 一般論の功罪についてわかってください。同情が優越感を感じさせるのと同様、心の病を感じている人に対してそれは刃物です。たとえばカウンセラーはその言葉の刃で患者をさらに傷つけてしまう失敗も多々あります。一般論とは何も知らない第三者が高みからみている姿勢です。 <心の問題は、本人がどう感じたかによって決まるのであって、客観的にどうであったとかは関係があるようで無いものなのです。それこそよく親御さんが「十分に愛情をかけて育ててきたつもりなんですが・・・」とおっしゃることがありますが、親の「つもり」と子供がどう感じたとかは、そういうわけで関係がないのです。親子といえども別の人間ですから、それぞれが別の「心的現実」を生きているのです・・・>「普通」がいいという病~泉谷閑示 >絶望しても何にもなら無いでしょう。 パンドラの箱に残されていたもの、それをあなた様は本当に見たことがありますか?その箱を自ら開けて出会う幾多の絶望の、さらにその果てに行ける者だけが出会えるそれを、ご自分で求めたことはありますか?でなければ希望を持てなどと安易に言える訳ありません。 >やっぱりここでは晴れがありますよねって なかなかそう思えない人は不幸?親のせいにしなければ皆その「晴れ間」が見えるんですかね。 >いろいろ都合ごとに解釈する事の功罪について、私はどうしようもないから 考えることや想う事に対し怠慢的な人たちが導き出した「標語」に拠って、私達のようなマイノリティがさらに傷つくという「功罪」についてもう少し考えていただきたい。

回答No.20

 No.7です。  ★ しかし人間は一人では決して生きられず社会的な生き物です。クーリーという社会学者はデカルトを批判し「我々思う、ゆえに我あり」と我々的自我、社会的自我を説きました。  ☆ この世の中に 《自我》というものが往来を歩いているというわけではありません。《自我》という概念が あっ そこの街角を曲がったというわけのものではありません。    ひとはみな《わたし》と自称します。この《わたし》の動態が 人間という存在の中核であり現実です。そこに――仮りに取り出せるとするなら―― 《自我》も《超自我》もあるいは《あれ(エス)という無意識》もおさまったかたちになっています。  ですから たとえば自分にそのつもりがなかったことが ふと意識に現われたり その意識を持つ前にすでに行動に表わしていたりということがあるとき この《無意識》と称するものも 《わたし》です。その一部です。あるいは事後的に《わたし》の意志行為であるとして認めるかたちになります。(自分でおこなったことなのですから。容易にゆるされるでしょう)。  ことほどさように 《自我》も《超自我》も 同じことです。すべて《わたし》であり その一部です。  なんで《わたし》を分断するのか? とわたし( bragelonne )は言っています。  ですから もし仮りにコギトの基礎が《自我》だとすれば そのような《わたしの一部分としての〈考えるわたし〉》〔としての自我を当てているのですが〕 この《自我》を捉えてなお存在の全体を思いあるいは社会の全体を考えるのが 《わたし》です。  それは 《あやまつなら われあり。 Si fallor, sum. 》という原点があるからです。その《われ》の一部として《コギト。 Cogito, ergo sum. 》がデカルトによって取り出されたという趣きです。  ★ 我々的自我、社会的自我  ☆ もデカルトと同じ概念を使っていますね。《あやまちに気づき われに還る》という《わたし》ではありません。言いかえると この《我々的自我、社会的自我》を捉えなおそれぞれの人が《わたし》を思い社会のあり方を考える《わたし》をとうとぶ のでなくてはならないでしょう。  ★ 葛藤やジレンマを解消する方法  ☆ は《自我》がただの分析によって得られた部分概念でしかないと捉えることです。自我が主体なのではなく わたしが主体です。自我は わたしの一部です。  けれども《自我 das Ich 》は ただ《わたしなるもの》と言っているに過ぎません。いちいちわけの分からないことを概念と称して取り出してきただけです。  分析は分析であると分かっているぶんには 問題はないのでしょうけれど。  つまりは そうではなく人びとは 無意識を言い訳に使うのをつねとしていますね。自我は あたかも仮想敵がないとわれは生きて行けないと言うかのごとく わたしの対手(あいかた)として横に置いておいてそれとのあいだで何か均衡を図っているかのようです。均衡を図るということは――つまり そういう構造をすでに前提としていることは―― 現実に《葛藤やヂレンマ》が起こると言っているようなものです。起こってもらわねば商売が上がったりだというふうに 初めから想定しているようなものです。  精神分析は――ひとまづ休息が必要なまでの状態(症状)にある場合を特別の場合としますが―― 入門即卒業なのです。そうでなければ おかしいのです。ただ《分析》するだけの話なのですから。  わたしが分析しているのですから。そこに一部分として取り出したのが 自我です。しかもただ《わたし》という言葉をそのまま使っているだけです。分析する主体としてのわたしは いったいどこに行ったのでしょう?  あたらしいご設問〔でのやり取り〕を合わせて わたしの文章に対する  ★ 「我思うゆえに我あり」ですね。  ☆ というご理解に異議をとなえました。

frau
質問者

お礼

>ことほどさように 《自我》も《超自我》も 同じことです。すべて《わたし》であり その一部です。なんで《わたし》を分断するのか? 分断されてはいまえせん。エス、自我、超自我は扉ひとつ隔てて自由に行き来できるイメージと思ってください。でも扉の鍵は緩めることもできます(それが催眠状態です)。ですがおっしゃるようにそれらすべて自我と一括りにすることに対しては疑問です。 >この《無意識》と称するものも 《わたし》です。 >事後的に《わたし》の意志行為であるとして認めるかたちになります。(自分でおこなったことなのですから。容易にゆるされるでしょう 自我は局限された世界、自己は果てない世界と思ってます。無意識は「自分で行ったこと」ではありません。オートマティックの世界、「うっかり」のように意識でしたことではない考えや行為です。「うっかり」して言ったこと、やったことこそが本音であるとするのが無意識です。とすればそれも確かに「私」でしょう。しかし自我という理論、思考、理性でそれをコントロールもできるはずです。 > 《自我》も《超自我》も 同じことです。 私は自我と超自我は似て非なりと思ってます。 よくある例えでは「超自我」は法廷での裁判官のようなもの、エゴは罪人、自我はそれを調整する自分です。超自我は親から植え付けられます。「~してはならない」「~しなければならない」というように「躾」といわれていますが、節度な愛情、客観性のある躾だったら問題がないのですが、親が自分の弱さや「エゴ」を子供に身代わりにさせるために躾を支配やコントロールにすると心の問題が生じます。この肥大化した超自我は自我でしょうか。構造はそのまま自我でしょうが、他人からのお仕着せの自我ということです。窮屈な服を着せられた自分に対し本当の自分が違和感を覚えます。そこに葛藤が生じるのではないか? >自我が主体なのではなく わたしが主体です。自我は わたしの一部です。 >無意識を言い訳に使うのをつねとしていますね。 bragelonneさんは無意識の世界に拠るのではなく、無意識(的)にしたことも意識によるものだ、というお考えのようですね。それとも無意識は存在しないというお考えなのでしょうか?しかしその精神分析でも以下のように無意識も意識のうちとカテゴライズされています。 「自我と超自我の多くの部分は無意識、あるいは前意識に属している。局所論で考えられた無意識の領域には、エスのみではなく、自我、超自我も含まれていることになる。こうして、人格は、エス、自我、超自我の間での力のやりとりの総体として考えられているのである」 分析とはそのように総体を解体し、問題を探る・・・というイメージをもっていますが、この形のように自我を個、無意識(混沌)を社会と拡大して考えることもできるかなと。 >分析する主体としてのわたしは いったいどこに行ったのでしょう? その「わたし」とは世界からの問いだと思います。主体としての私が問うとき、客体としての外部世界がヒントを与える。その逆の形もありえます。そのヒントとは「経験」という刺激です。外界という記号、象徴の世界から答えを得るしかないのです。そのためのエネルギーは心にあります。しいていえば「たましい」です。ところでユングのいう「自己」は自我を超越している集合的無意識にあると考えました。それは氷山の一角(自我)、水面下にある(無意識)氷山が根底でつながっている部分で例えられますが、そこから心的エネルギーを得ているのではないか、と考えます。 「我」は社会との相互関係なしにはありえない、つまり「我々の中の我」を前提とする「我」だとやはり思うのです。 >自我は あたかも仮想敵がないとわれは生きて行けないと言うかのごとく・・・均衡を図るということは・・・現実に《葛藤やヂレンマ》が起こると言っているような そのように自我という同じ領域にある、と譲ってもやはり私の考えとしては均等を図ると同時に緊張状態や拮抗状態に導くのは時に超自我、特にエスが自我を引っ張る。それは独立しているのではなく性質の違う自我であるゆえ引っ張り合う化学反応のようなもの。またそれゆえに人間らしさも生まれるわけです。

回答No.19

こんばんは、frauさん。 ●葛藤やジレンマを解消する方法がありましたら教えてください。 至福のときを思い浮かべ…挑め、挑め、日々練習(日々挑戦) (-_-)/~~~ピシー!ピシー! レシピ~♪ http://www.sunshine.ne.jp/~hina/oyatu/guri.htm ●このリンク同士がどのような関連をもっているのか フライパン返しの極意(タイミング)

frau
質問者

お礼

今考え中だけど、littlekissさんのおかげで食欲に邪魔されてしまいましたw おいしそう♪

  • la0t5u
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.17

>よく言われる「本当の自分がない」ってこういうことなのかなと最近つながりました。 とても深い理解だと思います。葛藤のなかに本当の自分が埋もれています。そしてそこから一歩下がったとき、つまり、「自分」と呼ばれる者が葛藤していることに気づくとき、そこに本当の自分が現れます。 本当の自分が主体であり、葛藤している自分が客体です。その距離が広がれば広がるほど、くつろぎが回復されてきます。 葛藤しているの状態が問題ではありません。葛藤しているAというものを、葛藤は良くないとそれに抵抗しているBというものが、あなたの意識のフィールド内で起きています。 そして、先にも書きましたが、それを眺めることができたとき、葛藤を起こしている自分との距離ができ、葛藤を許せたとき、そこに本当の意味でのくつろぎが回復されてきます。 次に葛藤される状態が来たときに、「じゃあ、もっと葛藤してみよう」と意識的に言ってみてはどうでしょう。しばらく、葛藤のエネルギーに巻き込まれるかも知れませんが、無意識になってはいないので、心理的な不幸は作り出しません。そして、葛藤、といわれるエネルギー自体も、根のないものなので、しばらくすると通り過ぎていきます。 と、つらつらと書きましたが、Eckhart Tolleと言うPower of NOWという本を書いた著者の受け売りです(笑)。 自分も葛藤ばかりだな~。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 埋もれていることに気づかない状態だとそれが見えない、という理解でよいですか?としたら今一歩下がっている状態だということに気がついてきました。そしてその「自分」とは、それまで怖くて向き合いたくない自分だったのですね。 >本当の自分が主体であり、葛藤している自分が客体です。 なるほど、なるほど。ANo.4の方へのお礼でも述べたのですが、その主体と客体との距離が離れていくと葛藤が生じ、心の病になる、というのは私のバイブルともいえるある本でとても優しく説かれていたのです。その本に >葛藤しているの状態が問題ではありません。 >無意識になってはいないので、心理的な不幸は作り出しません。 その本にも「葛藤している状態はむしろ健全な状態」「抑圧しすぎて逆にエネルギーを溜め込む方が病的」とあります。つまり抑圧しているときには「病的な安定」。「病的な安定」から「健全な不安定」の方にもっていく作業をすること、それが治療本来の姿、だそうです。本当にこの著者には救われたのですが、ここでもお伺いを立ててさらに救われました。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.16

「あいまいな決め打ち」で前に進めるシステムというのは、現代のマーケティングに は、まだ健在なんでしょうか。 例えば、「小どんぶりラーメン2点セット」や、サラダバーなどのバイキング方式 おだやかであやふやなコミットを現代の人間が欲している、そういうことですか。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 曖昧さって必要だと思います。マーケティングのことは分らないですが、世の中二分法が蔓延してるのなら人にプレッシャーを与え、葛藤しやすい人間を作ります。特に当方のような。 >おだやかであやふやなコミットを現代の人間が欲している なので人の心が欲するものはそういう流れに時代をひっぱってると思います。

noname#123390
noname#123390
回答No.15

>私は葛藤の多い人生をやってまして、よく言われる「本当の自分がない」ってこういうことなのかなと最近つながりました。 私自身もくよくよ思いわずらうことが多い人間です。ですから質問者様の悩みが良く分かるような気がします。 この種の悩みには大きく分けて 1)過去のことを後悔し、思い煩う。 2)未来のことを心配し、実行の前に考えすぎる。 があると思います。 両方とも必要な心の働きなのです。要は必要以上にそれをしないということに尽きるでしょう。 1)は反省ということです。これを未来のための糧だと割り切り、悪い結果には将来これを繰り返すまいと記憶し、固定するのです。 2)は時間がある限り考える事が大事です。言い換えれば、考察の時間を限定しておくことです。レストランの前で天丼にするか、らいすかれーにしようかということを延々と無限の時間考えることは出来ません。ここは2分だけ考える。その代わりに一生懸命考えるということにするのです。もちろん最善の選択のために、自分の好みは事前に決めておき(いろんな応用が利きますから)、更にそこのレストランの特徴をよく研究して、どちらが世間では美味しいと言う評価を得ているかという情報を手に入れておくのです。最善を尽くして選択行動して、たとえ結果的に間違ったとしても後悔は最小で済みます。 すべてはそういう手法で解決すると思います。 そういったことの毎日の積み重ねが次第に本当の自分を創りあげていくと思います。 葛藤やじれんまは貴方の前から次第に少なくなっていくと思います。 ご参考まで。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私の場合は 1)過去のことを後悔し、思い煩う。 だと思いました。 後悔することは過去を繰り返しているわけですよね。原因のリサイクル状態なんです。なのでこの螺旋階段状態を打ち切りたいんです。同じ過ちを繰り返す予防として私は記録をすることにしています。 >考察の時間を限定 なるほど、と思いました。それは対象の重要度によってかける時間もまた違ってくると思うのですが、後悔するのに人生の分かれ道ほど選択や後悔に悩まない食事などでは、それより先、現実的にその時間が限定されてます。でもお客はメニューを選ばなくてはならないという半ば強制的なところですから、時間的な制約をかけられることはプレッシャーとなり選択が本心のものではないかもしれません。 >2分だけ考える しかし自分で決まりを設ければ自分の責任ということにもなり納得がいく。というわけですね。 また場所的にも限定すればよいかなと思いました。 たとえば外食は当分そこのレストランにしか行かない。初めて食べるものに3段階くらいの評価をつけ、いちばんおいしかったものを定番とする。つまりメニューをすべて食べてみる。私は欲張りですから(笑)フリーな状態だけど自分の中では評価によって味を覚えているわけですから、定番の中から何を食べるか決めることができる。こういうのを心の問題にも応用できたらいいのですが・・・ >本当の自分を創りあげていく って素敵な言葉だと思いました。

回答No.14

葛藤が多い人は、あるものに対して欲張りなんじゃないかと思います。 たとえば、塩ラーメンと味噌ラーメンの間の葛藤ですが、葛藤が強い人は、塩ラーメンのおいしさと、味噌ラーメンのおいしさの両方を得たいと考えている傾向があります。 例外的に、塩ラーメンのまずさと味噌ラーメンのまずさの両方から逃げたい場合もあるかと思いますが、これは解決が簡単で、醤油ラーメンを選んでしまえば良いわけですから、あまり真剣な葛藤になりえません。 さて、結婚しようか、独身でいようか、なんてのも塩vs味噌と同程度に重要な課題であり、それぞれの良さを同時に手に入れようという欲の深い人間にとってはこの葛藤がなかなか解消しないようですね。 葛藤の解消に際して、本当の自分、とかとか難しい課題は不要で、単純に欲望を少し減らせばよい。 たとえば、塩ラーメンのあっさり味を堪能している時まで、味噌ラーメンの豊潤さを求めたりしない。 普通の人の欲望レベルに制御することができれば、もう塩vs味噌の葛藤に悩むことは無くなり、気がつくと、それ以外の葛藤、たとえば、独身が良いか、結婚が良いかなんて葛藤も消えちゃうよ。 いいですか、本当の自分が有っても無くても、塩ラーメンを選ぶことに何も躊躇しない人がいる事をわすれないでください。 ただ、欲望を多少抑えるだけです。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私は「あれもこれも」というような欲望は薄いかも。ラーメンレベルだと欲求の方が強いです(笑) 欲求も「マズローの五段階欲求」のようなものもありますが、本能でもあるわけです。ここからくるものは私にも止められませんし最高段階である自己実現の欲求も誰にもとめられませぬw。しかし取捨選択の選択肢を減らしたり衝動のようなものはコントロールできると思います。 でもそれが抑圧になっていくとしたら・・・それも葛藤を生じさせるストレスにならないかと・・・これについては考え中です。 結婚が例に出ていますが、一件結婚に向いていないように見える人は実は向いているのではないかと常々思ってきました。 興味の範疇にないのですから欲求の対象としていないものについては「追う」ことをしません。「追えば逃げる」というのは恋愛の駆け引きだけではなく無意識のしくみや現象にもいえるそうですが、その現象を逆手にとれば意外と上手くいくということになるのかなあと思うのです。つまり期待や条件があったとしても逆手にとる。だから結婚願望が強いのにできない悩みをもっている人などみると、何か他の興味や仕事、趣味などに夢中になり、人として輝いていれば女としても魅力的になって、自然といい男は寄ってくるのになあと思っているのですwおっしゃるように「欲望を減らしている状態」ですからある意味現実に迎合していることにもなるのではないかと。 そういえば、昔雑誌で、松田聖子は「あれかこれか」というそれまでの女性的な生き方ではなく選択肢を「あれもこれも」手に入れるという生き方をしているという分析があってなるほどなあと感じ入りました。彼女は確かに仕事と結婚を実現してきましたが、維持できなかったのは結婚でした。しかし彼女自身がそれを本気で望んでいたのかは疑問です。だからできたのかもwでもあれだけの人ですから何でも経験派、離婚も経験として望んだひとつ、なのかもしれませんね。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.13

本当の自分探しはひとまず置いておいて 「生きる」ってなんなのかを探索する道を お釈迦様(僕が知るのはパーリ語三蔵)が残してくれてますよ^^b そして選択する基準は 優先順位を決めることです。 その前に必要か否か、という視点も役に立つでしょう。 あと、最低限これだけあればいいという 生きていくための最低限の衣食住薬を確かめておけば 結構日々恵まれていることに気づくかもしれません。 個人的には心を余計な苦しみから避けさせ、葛藤やジレンマから離れる 八正道を基準にすることをお勧めします^^b その中に含まれる訓練で、慈悲の冥想やヴィパッサナー(明確に気づく)訓練もお勧めです^^ スマナサーラ長老の「現代人のための瞑想法」に解説がありますのでぜひ。 何かお役に立てれば幸いです

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 優先順位を決めることも悩んでます。私の人生のテーマは3つあると近年やっと結論がでましたが、限られた残りの時間をどれを優先順位にしていけばよいか悩んでました。(やっと答えがでましたが) この3つをどう、時間的に配分しようかと考えると、自分の性格は凝り性なので一度はまると抜け出せず、頭の切り替えも苦手なため、没頭できるものは1つでよいとも思うのですが、どれも譲れず、そうなると切り替えのための訓練が必要になってきます。答えが出たのは実践したからです。考えるな、行動しろということの意味を知りました。 今の私には心を整理し、休めるときに瞑想は必要です。ですがむろん、何か新しい啓示をそれらの方法は与えてくれるのでしょう。「現代人のための瞑想法」、心にとめておきます。

  • bakkyy
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回答No.12

No.2です。 お礼拝見しました。 プロではないので、意見として参考頂ければと思います。 まず、無防備で衝動的な性格と言う事を前提に推察するに、 ごくオーソドックスな整理をされているかと思いました。 回避回避に関しては、 例えば、生きていく事も回避すると言う事になるので、 接近回避になると思います。 一般的な考え方ですが、精神的なストレスはこの葛藤によって引き起こされるので、 回避の考え方を変えていく事が、 葛藤をなくしストレスの低減につながってゆくものと思っています。 ですので、 先の例で、失恋した場合のストレスは、 1、好きな人に思いを伝えたいのにが届かなかった 2、付き合いたいけど、実現できなかった が大半だと思いますが、 1、今回は縁がなかっただけで、また新しい恋ができる 2、付き合う条件が合わなかったので、条件の合う人をまた探す。 などと次のステップで考えていけば、ストレスは低減すると思います。 自分自身もわかってはいるが出来ないのが現実ですが、 私の場合、4年前に自分自身で取り組んだのは「自分の棚卸し」です。 これが非常に自分にはフィットしたのか、 自分に「今が必要なのか」「何を求めているのか」を明確にする良い作業でした。 生きていく中での自分の明確な目的を持つと、 意外と悩む事は少なくなるかと思います。 下記参考です。 http://oshiete.nikkeibp.co.jp/qa5647298.html

frau
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 「自分の棚卸し」という言葉にはすごく感じ入りました。 失敗することは何かをリサイクルしているんですよね。例えば自分への否定感や自信のなさからくる負の経験など。 ご紹介いただいたリンク先、ぜひ参考にしてみます。

回答No.11

「本当の自分がない」のに、なぜ「葛藤」に結び付き得るのか。 欲の深さが、葛藤に結び付いているのではないですか。 と言って、欲の深さが、「本当に自分がある」、ということになるわけでもないだろうから、 葛藤やジレンマを解消する方法:個人的レベルの欲を超えることでしょう。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「本当の自分がない」のに、なぜ「葛藤」に結び付き得るのか。 葛藤は本当の自分でも自分に嘘をついている状態でもあると思います。たとえば真の自分対嘘の自分という葛藤からきている葛藤状態。 >個人的レベルの欲を超えることでしょう。 うーん、難しいです。

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