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(今度は違う視点から)朝廷

幕末、井伊直弼が朝廷の勅許を得ず外国と調印をしました。朝廷の勅許を得るというのは義務だったんでしょうか。というか、それ以前に外国と条約をむすぶというのがあったんでしょうか。なかったとしたら、貿易などを行う際の細かいとりきめなどは朝廷からの許可を得たりしていたんでしょうか。 また朝廷の財源をつかさどるのは大蔵省であり、それを管轄する大蔵卿ですよね? それに任命された武将や公家は金を集め納める義務があったんでしょうか。それともよく金を寄進してくれる者が任命されたんでしょうか。

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  • tanuki4u
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回答No.2

朝廷の勅許をもらおうとしたのは、幕府側に責任を負う自覚のあるものがいなかったということです。 「おい、だれが責任持つ?」 「うーん、んなこと、そんな部署ないしな」 「朝廷にでも、勅許もらおうか?幕府内の役所じゃないから」 ってな、流れです。 責任あるものが、責任を持ってやるというのが、基本です。というのも、江戸幕府初期においては、外交政策は、正規の征夷大将軍である、秀忠ではなく、単に将軍の父親という立場でしかない、徳川家康が専断していました。 実力者だからです。家康認可の朱印があったので、御朱印船と呼ばれる貿易船が出ていました。 家康没後は、老中発行の許可書(黒印状)を持って、貿易に行っていました。 徳川政権樹立時にすでに、外交権は徳川家のものでした。その前段階でも、足利家は造天竜寺船とか、義満の日本国王号の件とか、朝廷は外交権を手放していたとしてよいでしょう。 幕末に幕府側が上記の先例を思い出して、責任持って印状を出していれば、違った展開になっていたでしょうね。 大蔵省の件に関しては、江戸時代においてはすでに、有名無実、名誉職です。

回答No.1

井伊直弼の件については単純で、形式上幕府の将軍は「征夷大将軍」という役職に朝廷から任じられています。 よって、老中といえど朝廷から見れば陪臣であり、外国との調印などという大事を勝手に決める権限はない、と解釈することもできます。 しかし、主権がどこにあるのか、という視点で見れば、幕府にあったわけですから勅許は義務でないと取ることもできます。 無論、朝廷をないがしろにする行為になりますから、幕府と朝廷の関係が悪化するので幕府内からも反対意見が出ると思います。 なんだか、今の政治と似た感じ(あちらを立てればこちらが立たず)ですが、こんな感じだったのではないでしょうか。

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