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遊戯とは

念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)  したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。  きみが自ら投げるものをとらえる限りは  すべては たくみと任された獲物  きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき  正確に可能にされた飛翔のなかで  神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・  そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の----  そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば  いや もっと不思議なことに  勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・  あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を  若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように----  そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者  投擲はきみに軽くもなく 重くもない  きみの両手から流星が輝きいでて  自らの空間を駆けめぐる・・・            (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書 

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回答No.4

こんにちは。 健やかにお育ちのことと拝察致しております。 寝かしつけの際には子守唄か絵本の読み語りでしょうか…。 まことに勝手ながら、私にとって懐かしい、「遊戯」に関する物語にふれさせていただきますね。すみません。 『だるまちゃんとかみなりちゃん』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=180 天から落ちてきた”かみなりちゃん(鬼のこども)”を見つけた”だるまちゃん”。 だるまちゃんは、高い木にひっかかって取れないかみなりちゃんの浮輪を取ってあげるべく、自らの傘をめがけて投げる「遊戯」をするものの。 何と傘が当の浮輪にひっかかってしまい、二人で途方にくれてエンエン泣いてしまいます。 そこへかみなりちゃんのパパが探しにやってきて、お礼に?かみなりちゃんの天の国へと招待されることに。 大歓迎を受けただるまちゃんは、180度異なる「異界体験」を大いに満喫したのち、お土産を持って無事戻ります(傘を開いて空から飛び降りる!)。 古来、「鬼」とはトリックスターのごとく、春をもたらす祝福の、そして「陰(おん)」の存在でもありました。 かみなりちゃんが悪戯心で天から落ちてきたり、だるまちゃんの傘投げを通じた人助けも、屈託のない好奇心と探究心に満ち満ちていています。 本来、こどもたちの世界とは「境界」を行ったり来たり自由自在であり、こども自身が想像力の豊かな異人的存在なのでしょう。 そして現代のこどもたちは、魑魅魍魎としたこの世の「陰の鬼の存在」を、どのように幼心に察していくのでしょうか。 『ゆきむすめ』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=8777 かぐや姫と似たプロットの、ロシアらしい素朴な民話です。 ”ゆきむすめ”が火の上を順番に飛んで、最期はふわっと消えてしまうところが、とても儚く切なくて。 春の到来を告げる祝祭の一幕なのでしょうけれども、 こどもたちの発案する「遊戯」とは、何と危険で残酷なのでしょうか。 いえ、こどもたちの他愛も無い「遊戯」だからこそ、半ば容赦なく時に危険、或いは残酷がまかり通るものでなくてはならないのかもしれません。 広い空の下の野原は家庭規範の及ばない治外法権の独立国、仲間外れや喧嘩は承知の上。 「ここまでやったら(言ったら)マズイ!やめとこうよ!」と、相手を最後まで追い詰めさせない限界基準や、最悪追い詰めてしまった果ての失敗などなど、 観念の理屈ではなかなか得られにくい稀有な「感性」だと思います。 ロシアの冬は長く厳しく、さぞ鬱々とした荒涼たる世界のはず。 それなのに、まるでなごり雪を愛で惜しむかのようなお話が生み出されたあたりに、 ロシアの大地や交響曲にも似た懐深さ、鷹揚さを感じずにはいられません。 ちなみに──"j"を辞書で追ってみると… ──jeter(to throw/投げる) ──jeu(game, play/遊び、遊戯) ──jeune(young/若い、幼い) ──jeuness(youth/青春、若さ) ──joie(joy/歓喜、喜び) ──joli(pretty/綺麗な) ──joue(cheek/頬) ──jouer(to play/遊ぶ、戯れる) ──jouet(toy/おもちゃ) ──jouir(楽しむ、味わう) …と、何とも若々しく楽しげな言葉が列記されてありました。 Jeunesseの古語はjouvence。 まるで「青春、若さ」と「戯れ」とが、同源のようでもあり。 あの頃──自らが投げていたのはいったい何だったのか── そしていま、いつの間にか「大人」になってしまった自分にとっての「遊戯」とは、何なのだろう、と── ご教示下さった美しい詩を拝見して、ふと、そのように思った次第です。

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。 核家族のほかにだれも、子育てに手を貸す者も口をはさむ者もないものですから、 何だか締まらない空気ですが、お陰様ですくすくと成長しています。 なにか透明な気持ちにさせる「遊戯」をめぐるご本2冊、ご紹介いただいてうれしく存じます。 絵本が大好きな子なので、どちらもぜひ手にとってみたいと思います。 だるまちゃんとかみなりちゃんは動きのあるお話ですね。 落とす、放り投げるって最初の身体運動なのでしょう、少し前までさかんにやっていました。 はじめての主権発揮?世界征服?かなと見守るしかないのでしたが。。。 ゆきむすめはわたしが好きそうなお話です。ペチカ燃えるお部屋で読みたいですね。 異界をかんたんに受け止めて、渾身の力で投げては受け止めてという、子供というのは不思議なものですね。 そもそもこの世界に来た最初から異界体験でしょうし、手に触れて、獲得していくことに残酷の境界はないのかもしれません。 世界といっても実体などは習慣みたいなものですから、 身体運動の手応えの中や、スラップスティックだったり残酷だったり儚かったりする形で遊戯の中に、じわじわと現れることになっているのでしょう。 jの項は、面白いご観察をなさったのですね。 jazzも付け加えたいところ。jojo(悪ガキ)と。 throw and catch で世界を味わえない大人になると寂しいですね。弱くなる気がします。

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  • ENERGEAR
  • ベストアンサー率18% (7/37)
回答No.29

 人殺しのカインねぇ...  解釈の仕方が既に「ヤハウェが正しいものとする」という前提によって展開されているようで。  どのように解釈し、何を見出すかでその人間の今の課題がわかるのではないかな。  最初の前提が間違っていたとすれば間違った解釈をして当然か。  本人に聞こえるように噂話をすることで貶めようとする陰険・陰湿な遊戯であればここまでとした方が良いか。

amaguappa
質問者

補足

解釈: どじゃを連発するから、煙たがられて、よこしまな蛇さんの役になっただけでは。 よこしまな蛇さんは、人類に知恵を与え、やがて母なる地球は汚染に至り、人類は自分の首を絞めているので。 知恵に長けていたために、かみさまから愛されなかったカインは、よこしまな蛇さん同様、罪に通じやすい。 比較もできるし、状況把握も的確なので、感受性もするどい、苦しみも激しい。 人類のいっぽうの姿は、そんなカインであり、殺されるがままになろうとしているもういっぽうの姿は、無能のアベル。 解釈を書くと、キグルミさんみたいだ。ははは。なんでかなぁ。 あなた、別に賢くないでしょ。ひとごろしでもないでしょ。 羊飼いの弟もいないでしょ。まあ罪は人並みに深いでしょうけれど。 個人的に気にしなくていいんじゃない。

  • ENERGEAR
  • ベストアンサー率18% (7/37)
回答No.28

訂正:  質問からかけ離れた瑣末なをし、さらに 指摘にしつこく食いつくバカ ⇒質問からかけ離れた瑣末な指摘をし、さらに 指摘にしつこく食いつくバカ  質問文は難しいね。  なにかしらの意味はあるんだろうけど...  なんせ自分の中だけの世界の言葉みたいだからさっぱりだ  言葉の限界を感じるような  物理学などで言い換えるとどうなるんだろうね。 >* ゾンビは たぶん 空気のような身体になっているのではないかと推測します。何もかも ふわふわなのでしょう。  「ふわふわ」感がいちばんあるのはbragelonne君が一番だと誰もが思うのではないかな  どこにも根付いていない根無し草 >意味があるとしたら それは 鏡に映った自分を描いているからです。    ふわふわが けっこう世間のことばとしては有力になるようです。スサノヲ語に根差すような雰囲気を持ちつつ アマテラス語もどきになっている。意味はない。意味を持たないという意味を持つ。  まさに自分のことw  自分で自分の恥を宣伝して自分の状態を暴露しているようでww  @クルクルパーのブラジュロンヌ@によれば  「人の心は環境に左右されない」www  

amaguappa
質問者

補足

質問文というより、質問文に引用した文は難しいですね。変な文だと思います。訳者の力不足か、フィンクが悪いのか、どちらかでしょう。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.27

お礼ありがとうございます。 キャッチボールが苦手というのは、少し多義的にとらえてます。コンプレックスですね。 私が自閉症だという認識は私の母親にはありません。認めたくないかもしれないし、知識があまりないこともありますが、お医者さんから説明してもらってもだめでした。理解できないみたいで。 私が、サガンに共感するのは、その辺にあるかもしれません。 幼いころに心配かけ過ぎて、母には責任感から子供に逆を進め過ぎてしまう癖がついてしまったかもしれません。 私にも、完了形を避ける癖があります。途中感、刹那を求め、達観や悟ることを嫌う。 私には子供を見守ることしかできそうにないように思えてくるのです。 キャッチボールの習得は私自身の今後の課題です。

amaguappa
質問者

お礼

> キャッチボールが苦手というのは、少し多義的にとらえてます。 そうですか。 対人関係や対物関係を幅広く指していらっしゃるなら、課題でしょうね。 でも、程度はどうあれ、みんな苦手みたいですよ。 > 私が自閉症だという認識は私の母親にはありません。 それは、たいへんな思いをしましたね。 お母様自身にも人とちがったところがあったのかな。。。わかりませんが。 > 完了形を避ける癖があります。途中感、刹那を求め、達観や悟ることを嫌う。 ミニアチュールや文様を描く脳と、俯瞰図を描く脳は違いますからね。向いたことに従事なさっていればよいのですけれど。 > 私には子供を見守ることしかできそうにないように思えてくるのです。 昔話に出てくるおじいさんやおばあさんに育てられた子供が、現代に来たらどうなっちゃうのでしょうね。 案外、流されないし主張のできる人間に成長するのかもしれません。 そして、よい友情や恋愛に出会って充実した社会生活を送るかもしれません。

回答No.26

 おぎないます。  《ネボケー親父》と見て エポケー神父かと思った。(わたしがそうだからというのではなく そういう読みに慣れていたからでしょう)。  ◆ 「われわれは幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」(18:3) / だってさ。  ▼ (マタイ18:1-5) ~~~~~~~~~~~~~~~~  そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。  そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。   ――はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、    決して天の国に入ることはできない。     自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉    いのだ。     わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わた    しを受け入れるのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さて 《遊戯》は  どのように位置づけられるでしょう? この《子ども》との関係において。  少し逸れます。わたしが言おうとしていたことは:   (1) 《天の国》は あくまで譬えです。非思考のなぞとしての異界を持ち出すなら 《なぞ》とは 不明瞭な偶喩と聞きます。たとえであるだけではなく 不明瞭です。つねに不明瞭です。  天国や地獄と聞いて 分かったようになるのは 哲学としては 危険です。  (2) しかも 《文字は殺し 霊は生かす》の問題があります。文字通りに読み取っても ほとんどの場合 間違いか 間違いにみちびかれてしまいがちになるものです。  これは アマテラス語の問題でもあります。中身は正しくても その文字通りの意味が 《神》ではありません。《非思考》は《なぞ》においてあります。だからこそ 《生きる》において《あそび》が成立します。  ▲ 《心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。》  ☆ アマテラス規範語は この文字で あたかも枡にあふれる米を掻き棒で縁の高さに均すように 四角四面に作り上げます。こころのなぞの窓ではなく 人工の窓をつくってその模造の規格にあらゆるものを合わせさせます。縁からあふれ出る部分を 強制的に削り散らします。《文字は殺し なぞの霊は生かします》。  ですから もし仮りに《あそび》さえもが アマテラス人格語によって規格統一でもされたらと思うとぞっとするはずです。  ▲ しかし 《やすらかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから》と懺悔するだけでは 鎮魂にはなりえぬ。  ☆ となります。通り一遍の みたまの鎮めではなく 自然児スサノヲの人間語をとおしてその前に みたまの振り起こしが必要であり大事だと考えます。  そのためには わたしたちは心がきよめられなければならなかった。心の清いひとはさいわいである。神を見る。  てめえ 聞いたか? 耳の穴をかっぽじって何度も聞きやがれ。

amaguappa
質問者

お礼

    補足欄に記入します。

amaguappa
質問者

補足

『「われわれは幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」 だってさ。』 これは、 『ほら、こう言う言葉があるけど、そうともさ、考えてみたらいいんじゃないの、ねえきみ、出来てるかしら。』 という調子で発せられているものと思います。 地域性ですかね、ご出身地がお二人はたぶんすごく離れているから、ニュアンスがなかなか。 構造上、対話できないという由もありますが、鎮魂の話題を掘り下げるレベルに筆談で届くのは無理でしょうね。

noname#105763
noname#105763
回答No.25

てめぇ一人の鎮魂してるだけだろが 死にながら生きてるような 生きていながら死んでるような そんな風に在りながら。 てめぇだけに罪おっかぶせて他の奴らは鎮魂を忘却の彼方にやったら どうよ。 それこそ未来は危ういだろうが。 頭悪いんじゃないの? こうなったら鎮魂は薄く広く背負わせりゃいいんだよ。 ユダヤ教の原罪みたいで腸が煮えくり返るくらい気にくわねぇけど。 てめぇ一人におっかぶらせる問題じゃないだろ。 あんたがほんとに人を幸せにしたいんだったら 自分が幸せになれなくっちゃだろ 人々の幸せが僕の幸せとか言っちゃって その人々から見ればあんたは不幸せ そういうのは嫌なもんなんだよ。人ってのは 人に気持が分からなくて ホントに人を幸せにできると思う? それも独りよがりな話だよね。 「われわれは幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」 だってさ 清い さやか 澄んだ 童心 無邪気 おたがいなかよく 昔はこうだったんじゃないの? こういうものを好んだ。 君も遊べなくっちゃね。 大人の童心ってやつ ホント言うと俺も下手くそなんだけどさ。。。 現実世界では。。。 君は現実世界ではどうか知らんけど 仮想空間ではド下手っぽいよ。 最初っから父兄みたいに人が遊んでるのを見ながら解説してんじゃない。 ここが閉められる頃までには童心に帰って遊べるようになって 卒業しなくっちゃな。 心の友へ みんなともだちになれるといいな                        龍の尻尾ke-twoより

amaguappa
質問者

補足

こどもが夕方「ぜんまいざむらい」を見ていますけど 善をほどこして頭の上のぜんまいが巻かれるお話。でも。 染汚意 なんでしょうねえ。。。みんなともだちは難しいですね。

回答No.24

 ときどき朝早く起きたときにこの質疑応答を見ますが けさは投稿したあとただちに応答を得て これに答えてまいります。  ★ (No.43補足欄) あとの方々は、ごらんになるところのそのポジションや性質について、本人たちの承諾を得られるかどうか、はなはだ疑問ですね。  ☆ むろん自由です。わたしの見方は それが 甘やかしだと考えるというもので その見解陳述のみです。自分のポジションを明らかにすることと 承諾を得ることとは むろん 別です。  ★ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  みなが違う方向へ視線をのばしているという具合にあっては、  児戯にふけるagrippaさんは罪がないという、いいポジションを獲得しておられて。  変なのは本人も承知のことでしょうし。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては 直前の回答No.44を合わせて考えるということになるのでしょうが そのNo.44の内容はよく分かりません。  ◆ 弥勒下生 / パープリン / イルミナティ  ☆ の用語じたいが分からないのと そして言っていることが こちら(= bragelonne )のことを受け取ったはずのその内容として何を言っているのかよくつかめません。  もしこれらの《児戯》もすべて《承知の上》だとすれば どう受け止めればよいか?  ★ 罪がないという、いいポジションを獲得しておられて。  ☆ これは 侮辱ぢゃないのでしょうか? もし  ★ みなが違う方向へ視線をのばしているという具合にあっては、  ☆ という条件としての情況を加味して考えるとすれば どうか? 侮辱を超えて 気のふれた人間扱いになるのではないですか? つまりもしそうだとしたら 甘やかしのサッカリンの砂糖漬けですよね。  それとも それゆえにこそ 聖なる甘え――母の愛は海よりも深しの謂われどおりに――を互いに享受しているというのでしょうか?  ▲ ・・・人間的生存の遊戯的開示性  ☆ は 人それぞれの主観内面における心的現象に尽きるとおっしゃっていましたが それもこれも いまわたしが過激に(?)おこなっているそれぞれの相手との対話をもって初めて湧き起こるもののように思えます。というのが このようにずばりものごとを指し示すわたしのやり方です。  たぶん基本的な考え方としてわたしの持っている回答のほとんど全部を述べたのではないかと思いますので あとは わたしの意図は控えて 成り行きにのみ従うことにします。

amaguappa
質問者

お礼

> ☆ これについては 直前の回答No.44を合わせて考えるということになるのでしょうが そのNo.44の内容はよく分かりません。 いえ、全体的な傾向のことを言いました。44の内容はわかりません。見たところ43の呼びかけに応じて、 おたまさんとよくやりとりなさったbragelonneさんに充てられているのだと思いますが。 弥勒下生は有名な話です。イルミナティは倫理の完成を掲げる秘密結社です。どちらももうご確認済みであろうと思います。 パーブリンはさすがに説明すべきでしょうか。のーたりんのあほうといった意味。パープーともいいます。 > 侮辱を超えて 気のふれた人間扱いになるのではないですか? つまりもしそうだとしたら 甘やかしのサッカリンの砂糖漬けですよね。 これは、わたしとbragelonneさんの話題にはなりえません。 わたしがbragelonneさんを扱うやりかたや、 わたしのbragelonneさんへの対応についての話であったなら、お応えのしようもあったでしょう。 > それもこれも いまわたしが過激に(?)おこなっているそれぞれの相手との対話をもって初めて湧き起こるもののように思えます。 そうですか。自分がそこにあるという人間生存を賭けて、世界が開示されてくるという様相だと思います。 ここでは、対話は、わたしと回答者の方々のあいだにしか、成り立っていないようです。 一方通行がいくつか、交わらずにあるのはわかりますが、 呼応しているレベルの言語活動が見当たりません。 わたしは国語の偏差値が関東圏で83でしたので、読み方がそんなに劣っていることはないと思うのですが、どうなのでしょうか。

回答No.23

 No.40のご返事をいただき――ありがとうございます―― したためます。  三すくみのことはよく知りませんが けっきょく アグリッパくんが 立派ではないからでしょう。しっかりせいのひとことだと考えます。  ゾンビが人間として話し合えると思うのは トンビが人間になると錯覚する以上の幻想でしょう。  怒りの持ち方がまづいのではないでしょうか?  ゾンビになってしまうというその思考形式 これを憎むのだと考えます。これは 徹底的に憎みます。これをおのれの内面において棄てます。存在は 自分のと同じように愛します。  存在を愛し 欠陥を憎む。  わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけになっています。  ここから すべてが生きることであり そのすべてが あそびです。  あぐりっぱよ しっかりせい。アマテラス語のもろさを知るべきです。  * ゾンビは たぶん 空気のような身体になっているのではないかと推測します。何もかも ふわふわなのでしょう。  ふわふわが けっこう世間のことばとしては有力になるようです。スサノヲ語に根差すような雰囲気を持ちつつ アマテラス語もどきになっている。意味はない。意味を持たないという意味を持つ。  《人としては既に逝っています。》《「ぬぉーっ」とゾンビが地下から這い上がって登場》――もしこれらに意味があるとしたら それは 鏡に映った自分を描いているからです。《存在》に関することは 意味を持つところがあるはずですから。  * ついでですから 《質問からかけ離れた瑣末なをし、さらに 指摘にしつこく食いつくバカ》をめぐって ななくんも 考え違いをしていると添えておきます。  * 《どうされましたか。》(No.31お礼欄)は 宛先がぎゃくです。――これを言うと みづからを貶めることになりますが ここ数件のやり取りを経てしまっているので もしあとになって言うとなると それも いま以上に変な問題を引き起こすでしょう。  アグリッパくんを あまがっぱさんは 甘やかしていますよ。そして もう一人のひとに対しても その同じ姿勢を取られたのですが そしてここまででは うまく行っているのにその途中でこうやってわたしが 波風を立たす言葉をさしはさむことになったのですが やはり甘やかしにわたしが加担するわけには行きません。  《火》は上がっています。めらめらと燃えています。受け止める手法で まいりましょう。

amaguappa
質問者

補足

みなが違う方向へ視線をのばしているという具合にあっては、 児戯にふけるagrippaさんは罪がないという、いいポジションを獲得しておられて。 変なのは本人も承知のことでしょうし。 あとの方々は、ごらんになるところのそのポジションや性質について、本人たちの承諾を得られるかどうか、はなはだ疑問ですね。

回答No.22

 ★ (No.36補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  えねるぎあに関しては bragelonneさんと意見が合うかもね。  だいぶ困らせていたようですから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 誤解です。  ええーっと 死んでも死に切れなくて生きている人びとの世に出て来るのが 幽霊。生きていながら死んだ状態にあるのが ゾンビ。でしたか。  ですから ゾンビと捉えたというのみです。  この認識のほかに 感情も思いも何もありません。  《困らせていた》というのが わたしが投稿者となってやり取りしたことを言うのでしたら それは これも誤解です。  自分が論争に勝ったと思っているようですが これが誤解です。頭が回らないだけです。文章の理解が行きとどかないだけです。自分でその質問を締めてしまったので あたかも勝負あったという格好になっていると思っているだけです。  これだけはわざわざにでも言っておかないと 文字になって出たことが そのまま間違いではないと認められてしまいます。わたしが承認したということになってしまいます。ので ひとこと したためました。  いろいろお騒がせして澄みません。また お世話さまです。

amaguappa
質問者

補足

これは、お気持ちを煩わせてしまいました。 むしろ、bragelonneさんが質問を立てるたびに、もつれた話で絡んでいたのを、困らせていたと表現しましたが、 とくにお困りだったわけではないのは、わかっています。相手をしておいででした。 買ったも負けたも一昨日来やがれの空気にしか見えませんでしたけれど。 しかしそのagrippaさんへの言葉「えねるぎあに関しては bragelonneさんと意見が合うかもね」は、 agrippaさんは可愛らしく「あまがえる」に、 えねるぎあは「どぢゃの蛇」で (エデンの園の蛇と同様に象意があるような蛇) わたしは「なめくじ」にされちゃうという三竦みよろしくお戯れになった経緯のあとの  えねるぎあのひとごろし という叫びに対する返答なのでして、 いつもの人殺しなら削除を意味するところに加え、 そこに  蛇の人類殺し という潜意とがあるかな、と思ったのです。 わたしはわざとあのように言ったのでした。

noname#105712
noname#105712
回答No.21

>視線の先が。。。はるか彼方だなあ。 >空間も時間も離れた彼方だ。 根本的に勘違いしてない? それ餌のつもり? 指導と導き方が完全に間違ってるとは思うけど 私には判らない。 思考が現実を反映しない魑魅魍魎のカオス状態のようだけど?

amaguappa
質問者

お礼

勘違いどころか あなたの視線の先をたどっても、わたしには 何も 見えません という呟きなのです。 IDの凍結や投稿の削除を指して ひとごろしと言ったのかと思いましたが 勘違いならそれまでで、 現実を離れた思考にはならない。 えねるぎあのひとごろし、と言われたところで、 あなたのカオス、そのうねりをもたらしているエルゴンの仕事、あなたの中の蛇の ほかには、わたしの視界には映らないのです。 運営という名の暴君も、ましてや、どうにも関わりのない、えねるぎあって名前の人も。 だから、わざと言うんだ。 bragelonneさんと話があうんじゃないの、と。餅なら餅屋に売ってるよ、って。 わたしは 指導も導きも しないけど 誰を指導するのですか? 言われて無理のない対象として思い当たるのは、子供くらいかな。遊戯の質問だし。 だとすれば、、、 二歳にまだ届かない歳で、自然の芽、自然の発露を、損なわないようにと思うだけですが、 おかげさまでいまのところ、和食の大好きな、集中力と落ち着きと聞き分けのある、病気知らずの子に育っています。 ほかの方とのやりとりに出てきましたが、 きぐるみの趣味がわたしにないので、耳付き尾つきのきぐるみなどを着せることはありませんが また、アクションが自動的すぎるところに面白みがあるという類の観賞玩具も、 自分で好むまでは、ほとんど持たせないことになるだろうと思うのですが、 こんなことは親がどう楽しむかの域を出ないので、、、 年増のおかあさんとしては、ただ天然のままでうんと可愛がるだけでじゅうぶんと。 足し与えるよりは引き出すものを ということだけで済む年齢なのですから。 もっとずっと後に、難しい年齢になるでしょう。 そうしたら、そのとき、ご縁があったなら、 あなたのご経験から、教えていただけることがたくさんあると思います。

回答No.20

  No.4&8&25&31です。  ★ (No.31補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうされましたか。  回答No.8 補足欄 拙文  「たぶん和訳が原語のクリアーさを伝えていないので、ここで詩を取り立ててもあまり実りがないと思うのですが」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《詩を取り上げる》ことと《詩を取り上げたことを取り上げる》こととは 別ですよ。  ふりかかる火の粉は払わずばなりません。

amaguappa
質問者

補足

火はありません。 女性という性は、自分の幼年期を抱えながら、振り返りながら、生きています。 リルケのこの詩は、女性的な、そしてこども特有の、静かな自己洞察によく呼応しています。 与えられた生とつながっている自己の、あろうとする生が、 勢いよく輝くことと、廃園の景色になることのあいだを、さまよっています。 わたしはお二人のリルケの読み方に、性差がよく表れていると思うだけです。

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    「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)  ↑この文章の意味が解る人いますか?また、妥当性はありますか?

  • ふしぎ遊戯【漫画本】好きな方!

    私は、ふしぎ遊戯が大好きです!! ふしぎ遊戯【漫画本】が好きな方、よろしくお願い致します☆ 原作が大好きなので、アニメは第一部と第二部しか見ていません☆ でもOVAは無理です嫌いです(;_;)少し見てしまい、とても後悔しました。 あれはほんとに別物として考えているので、漫画本限定でお願い致します。 最近、再びふしぎ遊戯にハマりました!! 自分なりに解釈していたつもりなのですが、 理解したいのに理解できない壁にぶち当たりました。 好きすぎて、どう解釈したら良いのか困っています。 なので、ふしぎ遊戯が好きな方たちは、どういう風に考えて捉えているのかなぁと、とても気になり、質問させて頂きました☆ ●美朱は、鬼宿を美朱の世界の人間に生まれ変わらせてと、朱雀に願いました。 そして、第一部の最後の所で、生まれ変わった鬼宿(魏)と出逢いました。 ●ところが、第二部で、鬼宿を美朱の世界にした瞬間、鬼宿は四神天地書の世界に、記憶(心)(7つの石)を置いてきてしまった。鬼宿は美朱への愛だけで魏に生まれ変わった。と、朱雀星君が言った。 ●そして、太一君は、魏に、『宿南 魏』として、今のお前の持っている記憶は朱雀によって作られたもの。朱雀に祈ったその場で、お前は美朱と一緒になるために美朱の世界の人間になった。 だが、やはり異界への完璧な『転生』は望めなかった。お前は『鬼宿』としての記憶をこちらの世界に忘れていった・・・と。 ●魏『半年前に生まれ変わったんなら今の家族も小学生のオレの記憶もその時、朱雀に作られたってことなんだな・・・』 ●朱雀の力でさえ不可能かも知れなかった美朱の世界への転生、その奇跡が起こった時、出来た時空のひずみに天こうが圧力をかけて、鬼宿から7つの記憶を奪い、散らせた。 ↑天こうが邪魔しなければ、完璧な転生が出来たってことですよね! ●魏は、鬼宿の心(石)だけで作られた人形(よう師)を受け入れた。オレの中へ帰れ!お前の全部を受け止めてやる。おまえはオレだと。 魏(オレ)は鬼宿を受け入れられた。魏は鬼宿(オレ)を受け入れた。 魏(オレ)は最初から魏(オレ)だったんだ。美朱と出逢って愛するために愛されるために、鬼宿を受け入れるために魏(オレ)はきっとこの世に生まれた。 ●最後、朱雀星君の言葉 魏ーーーそなたは朱雀(われ)が作ったものではない 宿南 魏の記憶も想いもそれは真実 そなたのために『鬼宿』の存在はあった 時も次元も越える力を我は貸しただけ 2人の出逢いは、そなた達自身のあいの力だったのだよ。と・・・。 とても長くなって申し訳ないのですが、ここから質問です!! (1) ★本の中の時間と現実世界の時間は、比例していないことはわかっています。では、 朱雀に祈ったその場で、転生した鬼宿、半年前に生まれ変わったと知った魏、 ↑”その場”と”半年前”はイコールで結ばれますか? 半年前というのは、本の世界での半年前なのでしょうか? 本の中では、時間が進むのが早いから、考えてしまいます・・・。 (2) ★太一君は魏に、『宿南 魏』として、今のお前の持っている記憶は朱雀によって作られたもの。 ★朱雀星君は、魏に、そなたは朱雀(われ)が作ったものではない。宿南 魏の記憶も想いもそれは真実。 ↑太一君と、朱雀の言ってる事がちがいますが、朱雀の方が正しいのですよね? (3) 魏★鬼宿を受け入れるために魏(オレ)はきっとこの世に生まれた。 朱雀★そなたのために『鬼宿』の存在はあった。 ↑鬼宿は、本の世界から美朱の世界に転生して魏になった。 なのに・・・現実世界に魏は最初から存在していた・・・ということにも捉えられますし、 そうすると、転生とは言わないですよね・・・? 魏は最初から存在していて、鬼宿の事、美朱のことを忘れていたとか・・・? 美朱が、魏の前世(鬼宿)と出逢って、朱雀に願ったことにより、魏は美朱のことを思い出したとか・・・? 本=過去へのタイムスリップみたいな・・・ 半年前に生まれ変わったのなら、魏のこれまでの18年間の記憶は一体・・・? だけど、魏は朱雀が作ったものではないから、宿南 魏の記憶も想いもそれは真実・・・ 鬼宿は、本の世界から美朱の世界に転生して魏になった。 私、鬼宿と魏の関係を上手く解釈できないのです・・・(;△;) (3) 時も次元も越える力を我は貸しただけ ↑転生したということ 2人の出逢いは、そなた達自身のあいの力だったのだよ。 ↑これは、 ★本の中で鬼宿と出逢ったこと?それとも、 ★現実世界で転生した魏と出逢ったこと? まとめ◆要するに、鬼宿が美朱との愛のために生まれ変わったと純粋に単純に想えればいいのに、好きすぎて、難しく考えすぎちゃって、グルグルしてしまっているのです(T_T)マニアックでバカですよね・・・自覚しているのですが、なかなかコレだ!というひらめきも考えも浮かばず、こうして質問させて頂いています。 参考にさせて頂きたいので、気軽によろしくお願い致します☆

  • 性質としての精神・人間存在、唯物・唯心の融合?

    私達人間は精神です、精神は性質で出来ています、性質としての存在が人間存在です 我思う処の我は 性質としての人間存在です。実存です。 実存でなくても客観視すれば世界が存在している事は自分が世界であることから間違いありません 物質が存在し その脳内物質の性質が精神としての実存を実現してる 唯心論と唯物論の融合です。人生観と世界観の根拠です。 存在性について語りたいのですが 分かる人が少なくて困っています。 誰か分かる人はいませんか?

  • ライプニッツの最善説と悪

    ライプニッツの最善説と弁神論に関する質問です。 ライプニッツは、この世界は可能世界の中では最善の世界であり(最善説)、この世に悪が存在するのは、被造物である人間に問題がある(弁神論)があるといっています。 しかし、この主張からは 「悪に満ちた人間が、神の作ることのできた最善の人間の姿である。つまり、神は『悪をなさない』という完璧な人間を創造することはできなかった」 という、神の全能性を否定する立場が読み取れますが、ライプニッツはそういう立場だったのでしょうか?

  • 量子論? 光の粒子と私達は互いに影響を与え合うということですか?

    こんにちは。 量子論の入り口で悩んでいるものです; もともと文系です 私達は光によってこの世界を知覚しますよね。つまり、私達の世界(=私という存在)は光によって存在するとも言えると思います。 …ところが、私達が「光を介してこの世界を知覚」したことによって、光の粒子(つまり光量子)も変化または変質するのでしょうか? それによって、私達の知覚する世界も姿を変えたりするのでしょうか? つまり、私達の存在も、光(そして光によって現れる世界)というものに影響を与えているってことでしょうか?? 私は量子論について正直ほとんど理解していないような人間なんですが; 「シュレディンガーの猫」の話などを読み、量子論の本質って、もしかしてこういうことなのかな???……などとひらめきました。 これって、 ・量子論的にも ・物理学的にも ・哲学的にも 的外れな発想なんでしょうか? どのような意見・アドバイスでも構いません。 どなたかご助言、よろしくお願い致します。。。

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • 「存在」について

    存在そのものに対する疑問は哲学者で誰が研究されたことがありますか?できるだけ世界的に有名な哲学者の名を挙げてください。できれば著書もお願いします。 存在は人間に認識されて初めて価値を持つでしょう。しかし人間が認識せずとも、それは存在し、そのものは自然界においての自らの役割を果たします。存在って何なのでしょうか?

  • 社会に出るにあたっての抽象的な相談。

    大学生です。 今の世界の組織は人間を代替可能な存在として扱っているように見えます。 しかしそんな組織の中にいる個人にとって自身は代替不可能な存在であって当然です。 この矛盾を解消するために個人は所属している組織にとって代替不可能な存在となることをこれからの時代より一層求められてくると考えます。 そこで、組織の中でのし上がる力、その中の自分を豊かにするためにまず他人を豊かにする力がこれからの時代重要になってくるんだと思うのですがどう思いますか。

  • ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

     ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。