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自殺と他殺それぞれのしてはいけない理由をお聞かせください。

1)自殺をしてはいけない理由はなんでしょうか? 2)人を殺してはいけない理由はなんでしょうか? 社会通念では自殺も他殺も認められるものでは無いと思いますが、宗教や哲学の観点からはこの問題をどう取り扱うのでしょうか?「死」について様々な宗教や哲学の見方を知りたいと思い質問しました。上記の質問に対する皆さまのご意見をお聞かせください。宜しくお願いします。

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  • covanonki
  • ベストアンサー率48% (219/448)
回答No.12

No.11です。 文末の表現は、自殺という問題を軽々しく扱ってほしくない、という、 私なりのメッセージと受け止めてください。 一人称としての立場から「不快感を覚えます」と表現しましたが、こ れは実際に深刻な希死念慮を抱く方がこの質問文を見たときに、そう 感じるだろうな、というイメージ的なものも含めています。 特にそういった立場にいる方にとって、大切なのは表現をする際に、 記述者がどのような意図を持って記したか、ということよりも、それ を読む立場の人がどう感じるか、ということの方が大切だと思いま す。(希死念慮を抱く方は、他者との距離感が曖昧な方が多く、特に 注意が必要です) 「たかがそんなことで」、と思われるかも知れませんが、「自殺」が 「認められない」と表現されただけで、絶望感を覚える方も多いのが 現実です。 これは、bonnnou03さんだけがそうだということではなく、まだ大多 数の国民の中には、自殺問題に対して、「自殺は(なんとなく)いけ ないことだ」というイメージがあるようです。それは仕方のないこと で、私たちが教育を受け、育ってきた環境の中で、そういうイメージ を教えられて生きてきたのですから。 矛盾するようですがこのことが却って希死念慮者を苦しめ、そして追 い詰めていることもまた事実です。 こういった問題は、「形而上(けいじじょう)の問題」と呼ばれ、具 体的に、こうであるという形には出来ない問題なのです。 受け止める人や、その立場、育ってきた環境などによって、本質がが らりと姿を変えるため、私が同じメッセージを伝えたとしても、受け 止める相手が渡したイメージしたとおりに受け止めることはほぼあり ませんし、だからこそこの問題に正解など存在しません。 普遍的に、存在することがごく当たり前のこととして、この問題を多 くの人がとらえることのできる世の中こそ、本来のめざすべき姿だと 思うのです。 特別なことでなくなれば、希死念慮者は今以上のいろんな人に相談し やすくなるでしょうし、相談を受ける側も特別なこととして考えなく なるため、変に解決しようとしたりしなくなります。 「まあ、よくあることよ」と。 このことがどれほど希死念慮者の気持ちを楽にすることでしょう。 少し偏見だと感じられるかもしれませんが、例として分かりやすい ので「ガン」と言う病気を例にしてみます。 その昔、「ガン」は特殊な病気でした。人によると何か悪いことをし たためにガンが出来たのだ、などと宗教的な捉え方をする人もいたと 思います。原因を人にあらざるもののせいにして、ひょっとすると お払いをする人もいたかもしれません。 ですが、今はどうでしょう。ガンになればまず病院にいくでしょう。 末期でなければ治癒できるケースもあるため、先生に必死に相談する かもしれません。先生も、昔のように隠すことも少なくなったのでは ないかと思います。 宗教的なものに原因を求めようとすれば笑われることもあるかもしれ ません。「ばかやなぁ」と。(偏見があることはご容赦ください) 自殺に関する問題も同じことです。哲学や宗教のせいにするのではな く(人によっては宗教が原因で自死を選ぶ人もいますが)、家族の構 造や社会のシステムに原因がある(家族の構造も場合によっては社会 システムの影響下にある場合すらあります)んですから、そのことに 対して関心を持ち、人が自死を選ばないで済む世の中にするにはどの ようにすればよいか、と考えを馳せるべきではないでしょうか。

bonnnou03
質問者

お礼

covanonkiさま ご回答ありがとうございます。 「希死念慮」と言う言葉は初めて知りました。今回の質問は実際には大変デリケートに取り扱わなければならない、不特定多数が閲覧できる環境にあるがゆえに配慮には配慮を…とのお気持ち深く共有したいと思います。 振り返れば、質問を投げ掛けた時分よりお蔭様で私の中も変化して参りました。それは「理由」を求めることは淡い希望であったと言うことです。ただ、後ろ向きと言うことではなく、むしろ自明にも似た偽善に近い「してはならない」と言うことから離れつつある自分がいると言うことです。いのちを大切にすると言うことそれだけで良いのではないか。言葉を多用したところで実際の問題に対処できないのであれば文字だけの理由は所詮意味を成さない。公式方程式のように美文を思い描いたとてマスターベーションなのかも知れませんね。一言で言えば「短絡」であったと思います。 そう言うわけで質問を締め切りたいと思います。とても参考になりましたありがとうございました。

その他の回答 (11)

  • covanonki
  • ベストアンサー率48% (219/448)
回答No.11

自殺をしてはいけない理由って、あるんでしょうか。 もちろん、宗教的に捉えれば今までに延々と続いてきた血統を途絶え させることになる、とか霊的なものをその地に縛りつけ、因縁を残 す、だとか、神から与えられた命を人の愚かな意思で自ら絶ってはい けない、だとか、様々な視点があると思います。 現存する法律や社会通念も、下を正せば古代のアミニズムから派生し たもので、哲学は宗教から生まれたといっても過言ではないと思いま す。その逆もまたしかりで、宗教そのものも哲学的なものから生まれ たのだと思います。 様々な地域、環境、人種の間でお互いにぶつけ合い、時に習合させ、 ときに妥協することもあったでしょう。さまざまな意見を戦わせて、 結果生まれたものこそ、法律や社会通念というものではないでしょう か。 「権利」という考え方も、結局はユダヤ的な思想の行き着いた先で、 人が人と言う種別として末永く存続し続けるためにはどのようにする のが良いのか、という考え方の中で、お互いの権利を保持しあうこと が最も良い方法であると言う結論にいたったから生まれたものだと思 います。 時に血を流し、戦争という手段を用いて、「権利を守るため」に人を 殺してしまったりしながら。 とくに人を殺すという行為に関しては、この「権利」を保持すると言 う思想の上で、個々で考えれば、無節操に他者の権利を奪う、と言う 行為。何のルールもなく、これが許されてしまえば、結果的に秩序を 維持することが出来なくなり、種は滅んでしまいます。 ですが、このルールはどんなルールでも良いわけではなく、やはりよ り多くの人々に何の抵抗もなく受け入れやすいルールである必要があ ると思います。人を殺せば怨恨が生じ、イスラム教でいう聖戦の考え 方のように、延々と人殺しのループが繰り広げられてしまいます。 ですから、どこかでルールを設定して、どんな事情があれ、人を殺せ ば殺したものも罰せられるのだと言うことを定める必要があるので す。 ですが、「自殺をしてはいけない理由」なんてあるのでしょうか。 もちろん、子どもがいて、両親がいて、パートナーがいて、自殺をす ることによって誰かを苦しめるのであれば、それを咎めることにも理 はあるといえるでしょう。 残された遺族もまた、同様の苦しみを背負っていくことになるのです から。 ですが、子どももいない、両親もいない、パートナーもいない、友達 もいない、そんな状況生き続けていかなければならないことを考えて みてください。貴方には耐えられますか? また、たとえ孤独ではない状況にあったとしても、虐待を継続的に受 ける状況であったり、その事が原因で精神的にとてつもない苦しみを 背負っていかざるをえない状況だったり、身体的、精神的な疾患を有 して言葉では言い表せないほどの痛みや苦しみと毎日戦い続けなけれ ばならない状況だったり…。 そんな方が自ら死を選ぶことを、一体誰がとめられると言うのでしょ うか。 自らの死を選ぶこともまた、人が人として与えられた最後の権利だと 私は思っています。 ですから、社会が行わなければならないことは、その人が死を選ばず とも生きていけるほどの状況を生み出し続けていくための努力です。 孤独に苦しむ人がいることに気づく努力。その存在を受け入れていく ための努力。疾患で苦しむ人が、少しでも生きていく勇気を保ち続け ていけるような関わり方を続けていく努力です。 「自殺と他殺」を同列に並べることにも不快感を覚えます。 貴方が自殺と他殺を同列に並べ、あたかも同じ罪であるかのように表 現し、「認められるものではない」と表現される、その論拠をお聞か せいただきたいと思います。

bonnnou03
質問者

お礼

covanonkiさま ご回答ありがとうございます。 > 自ら死を選ぶことを、一体誰がとめられると言うのでしょうか。 > 自らの死を選ぶこともまた、人が人として与えられた最後の権利だと私は思っています。 ご回答ありがとうございます。確かにcovanonkiさまの仰る「最後の権利」は否定されるものではないと思います。心が折れるほどの苦痛の中にあって、そこから解き放たれたいとする思い。大切な人がそのような状況にあるとき、誰しも言葉に詰まると思います。誰だってそうでしょう。私だってそうです。 いのちの大切さを思ったとき、自殺と他殺を同じ質問に載せたのは拙速だったかも知れませんが、他意はないのです。covanonkiさまがご不快に思われたことはこちらの不徳の致すところですが、質問に載せました「社会通念では自殺も他殺も認められるものでは無い」は私の言葉として断定まで及んでいませんし、事実、個人的解釈(所謂、思い込みの可能性もあるので)としてその後に「思います。」を添えました。まして「罪」などと表現したことなどありませんし大変心外です。covanonkiさまの仰る論点(末文の)がわかりかねますので論拠を示す事ができません。不快感より発せられた逆質問とは受け取りませんが、私の心だって総てを言葉だけで開陳するのは無理と言うものです。それは言葉は断定的な性格を持っているくせに、実のところ総てを表現しないからです。教えてもらいたいのはこちらのほうなので、派生的なことに触れる必要を感じません。 ただ、苦しみの渦中にある人への思いと言うものを理解しなければいけないんだということ改めて肝に銘じました。お話も今回の質問を総括してくださっているようで納得して拝見いたしました。特に最後のくだり「社会が行わなければならないことは、その人が死を選ばずとも生きていけるほどの状況を生み出し続けていくための努力です。孤独に苦しむ人がいることに気づく努力。その存在を受け入れていくための努力。疾患で苦しむ人が、少しでも生きていく勇気を保ち続けていけるような関わり方を続けていく努力です。」…は大変感銘を受けました。思いの詰まった力説、感謝しています。ありがとうございました。

回答No.10

自殺を肯定的に考える個体の性質は、遺伝的に伝わらず、 結果的にその種は、それを排斥する方向に収斂する。 社会生命性(分業化&組織化)のもとでも、その文化的伝承は 遺伝子に類似し、他殺に肯定的な慣習の集団の縮小により、 それを排斥する方向に収斂する。 (個体の短期的判断において、自殺は自由(罰する事は不可能) だし、社会生命性が弱まれば、戦争での他殺は善となる)

bonnnou03
質問者

お礼

psytexさま ご回答ありがとうございます。 (人類の集団意識とても解釈すればよろしいのでしょうか)種の存続にそぐわない個人の自殺と言う判断は「それを排斥する方向に収斂する。 」と言う「種」側からの理由から否定されるから、自殺はしてはいけません…と言うことでよろしいでしょうか。他方、個人としては自殺は自由ですと。 仰せの「社会生命性」に反するから他殺はいけません…と言うことでよろしかったでしょうか。社会の損失ですからと。ただし戦争ではそれは善だと。 思いますに「自殺と他殺をしてはいけない理由」としてはうなずけますが、死にたい殺したい当事者の心に届くか少し首を傾けてしまうかもしれませんね。実際問題として。心をともなう人間であるがゆえに、死にたい、同種である人間を殺したいと言うことが起こると思います。方程式を解くように「自殺はだめ、殺しもだめ」と当事者を説き伏せられたら良いですね。 ありがとうございました。

  • koko_u_u
  • ベストアンサー率18% (216/1139)
回答No.9

お気付きでしょうが、私もキリスト教徒ではありません。 >キリスト教の「神のものだ」と言う感覚(?)概念(?)は全くの無私なのでしょうか? キリスト教の考えかたを非常におおまかに把握する上で、「神のものだ」という表現をしました。 キリスト教徒の方は各人で色々思うところはあるでしょう。 >遠巻きながらも「自殺と他殺それぞれのしてはいけない理由」に繋がるようにも思った次第です 瀬戸際に立った時に、自殺あるいは他殺を思い止まる動機付けは「恐れ」だと思います。 キリスト教徒は「神への冒涜」を恐れているし、日本教の徒は「怨霊」を恐れている。ということです。

bonnnou03
質問者

お礼

koko_u_uさま ご回答ありがとうございました。 「恐れ」の具体的な内容であるとされる「神への冒涜」と「怨霊」のいずれも目には見えぬもの…と言いますか、なかなか観念的なものですね。その実害があるか?ないか?などと言うことも凡そ科学的には検証のしようも無いと思うのですが、観念的であるがゆえに当事者からすれば相当な現実感として迫るのでしょうね。そのことが「自殺と他殺それぞれのしてはいけない理由」として当事者、関与者に強制力をもって迫ることを個人的には望みます。これら求めたい「理由」を全人類共通でどんないのちも救えるような理想を求めるは難しいのでしょうね。共通は無理でもなにか説得力をもって迫る「理由」が見つかることを期待します。ありがとうございました。

回答No.8

 No.4&6です。  bonnnou03 さん お早うございます。ご返答をありがとうございました。  哲学に倫理がまったく欠けているというのは おかしいと考えなおして再度投稿いたします。  《自由》にかんして それはひとの行為としては 表現の自由などなどの意志行為として成り立つと思います。つまりその限りで 自由意志にもとづきます。  ところが ころすなどという行為は この自由意志のおもむくところに――おそらく――逆らって判断し決断することになるのだと考えられます。胸騒ぎがするなどの身体=精神的な現象が起こるのは こころに逆らっていることを表わしていると考えます。  したがって《自由》を細かく見ますと おそらく自然で妥当な意志行為としての自由と このふつうの自由にそむく自由とがあると考えられて来ます。  そこで 要するに《殺し》にかんして 一般にすでにその行為が行なわれていた場合 どう哲学するかを取り上げておかねばいけないと思いました。  ひとにそなわる自由には その自由を享受する生命存在そのものを無くすという自由さえあるというわけですが これを被害者はもちろんのこと加害者であっても当事者である場合には どう考えるかです。  早い話になりますが 自由意志を用いる存在じたいを抹殺する自由は――特に当事者になってみて考えた場合―― 果たして有効であるかです。  結論は 無効なのだと思います。《自由(ないし平等)》が公理であり 論証抜きでそのように想定されているのと同じように このひとの存在を抹殺することが無効であるというのも 無根拠においてそうであるとわたしたちは 思っている。こうなるかと一考しました。    はてさて なかなか一刀両断というわけにはまいらないようです。ここいらで bonnnou03 さんに回答者の位置をおゆづりすることにします。どうでしょう。

bonnnou03
質問者

お礼

bragelonneさま ご回答ありがとうございます。 そうですよね。やはりと言いますか、自殺も他殺も結論として無根拠に無効であることに同感します。実際としては自殺や他殺が無くならないうちは、無効であって欲しいと言うところに納まらざるを得ないのでしょうか。 自殺も他殺もいけないからいけないのです…と一見、理由ともつかない理由が説得力をもって浮かび上がるお話をありがとうございました。 bragelonneさま、今回は質問者の立場ですので回答者の位置は引き受けかねますが、今回の回答については特定や断定、正確な回答は無いように思えてきています。今もって「自殺と他殺それぞれのしてはいけない」様々な理由を教えて頂けたらと思いつつ、そして多くの人に有効なその理由があるのなら…などと考えていました。 ありがとうございました。

  • koko_u_u
  • ベストアンサー率18% (216/1139)
回答No.7

>瀬戸際にある人に『生命は「神のもの」だから』と同意できる人は少ないかも知れませんね。 >説得力に欠けると言いますか、実感として難しいと言いますか…。 実感できないのは、あなたがキリスト教徒ではなく、 自分の命は自分のものだと思っているからです。 今さら「神のものだ」と言われても同意できないのは当然です。 瀬戸際にあればあるほど自分の信じる宗教が意味を持ってくると考えます。

bonnnou03
質問者

お礼

koko_u_uさま 確かにキリスト教徒ではありませんので実感は無理と言うものですよね。「瀬戸際にあればあるほど自分の信じる宗教が意味を持ってくると考えます。」につきましては私も同感ですね。日頃、自分が何者なのか?自己とは何か?…のような問いを持つこと、生死に向き合うことが重要なのだと思います。 私はどちらかと言うと仏教徒なのでしょうが、どこかの宗派に属しているわけでもありません。ですが、上述しました問い(今回の質問からは少しズレますが)に向き合っていくときに私の場合は仏教やインド哲学が役に立ったように思っています。 何が申したいかって、自己(≒生命)の在り処が肉体のみでなく、大宇宙とも同意であって、しかもその矛盾したような状況が同時に存在できていると言う具合に自分の中では理解していると言う事です。この観点で自分なりに理由付けした時に、それはそれで大事にしながらも、まだまだ様々な見方があるだろう…と思い立ち今回質問させて頂いたものです。 質問からは外れるのでしょうが、あえて伺いたいのですが、キリスト教の「神のものだ」と言う感覚(?)概念(?)は全くの無私なのでしょうか?神の所有物である実感はあるものなのでしょうか?そのような疑問も許されないものなのでしょうか?そもそも理解は不要なのでしょうか?遠巻きながらも「自殺と他殺それぞれのしてはいけない理由」に繋がるようにも思った次第です。どうぞ宜しくお願い致します。

回答No.6

 No.4です。bragelonne です。  bonnnou03 さん あらためまして こんばんは。  ★ 「ひとをころすことは ひとは単純にしないものです。」は理解がすぐに繋がらず難しいです。  ☆ かつて 次のように考えていました。(いまは おっしゃるように倫理学とは違って 哲学としては 自由というひとことで済ませられたならいいなという思いです)。  他殺されたにしろ自殺したにしろ 人生の途中でいわゆる寿命をまっとうしないという結果になるということについて取り上げます。そうすると やはりその人間のそれまでの人生でかかわりを持ち親しくまじわって来た人びとにとっては あたかもおれたち・わたしたちとのつながりは何だったのか?という疑念が持ち上がるのではないでしょうか?  いったいあいつは おれたちのことを何だと思ってやがるんだ!?となりませんか?  もしそうであるならば 自殺の場合には最低限おこなっておかねばならないことがあると思います。自分はこれこれの理由で自死をえらぶというその理由の説明をすること これです。  この説明を行なう機会をその人からうばって ころすという行為はやはりするべきではないでしょう。殺すまでにそういう人生の清算をしておく時間をあたえなければいけない。また なぜ殺すかを説明するべきでしょうね。  こんなふうにも思います。どうでしょう。

bonnnou03
質問者

お礼

bragelonneさま 何においてもスタンスとして「自由」を掲げられたうえで、やはり1人で生きている訳ではないと言う事実から、お互いの「心の在り方」が重要なのだ…とのことと受け取らせて頂きました。早合点でしたらすみません。お話を伺いまして凡そとして「自殺と他殺それぞれのしてはいけない理由」が浮上してきた感じがします。 1人で生きている訳ではないですものね。ありがとうございます。

noname#136007
noname#136007
回答No.5

  これは、答えは無いんじゃないか? 「哲学」でも、自殺、殺人を肯定する考えがある。 「宗教」でも、そうだ、 ピンとこなければ、中東での自爆テロを考えるといい。 体に爆発物を巻き付け、相手の兵隊に近づき、自ら爆発物を爆発させ、相手も巻き添えにさせるのが、ニュースでよく流れるだろう・・・ これは、問う問題じゃなく。 自分で、考える問題だと思う。  

bonnnou03
質問者

お礼

「答えは無いんじゃないか?」とのお話、そうかも知れませんね。「自分で、考える問題」であることもそうですね。結局は自分がどう思うか…ですしね。 ただ、子供から今回の質問を訪ねられたときはどうでしょうか?死にたい人や殺したい人にそれをすすめることが出来ますでしょうか、それを黙殺して不作為で済ますのでしょうか?世界人権宣言や基本的人権などに照らしたら?…と考えてしまいます。宗教や哲学は無力なのでしょうか。 関係性を無視した個人や団体のエゴのぶつかり合いとその成就が正義のように錯覚してしまいそうです。答えはないのかも知れませんが、たとえ方便でも、「自殺、他殺をしてはいけない理由」が幾つもあっても良いと思えてきました。 そういう意味で参考になりました。ありがとうございました。

回答No.4

 こんにちは。  哲学の観点からは 自由です。  自由というのが こたえです。  ひとをころすことは ひとは単純にしないものです。  社会通念では いやだ ひどいという気持ちと あわれだと思う気持ちとがあるでしょうね。  宗教はたぶん《いけない》というから いけないのでしょうね。  《自由》という概念また理念は 公理です。論証できないけれども ひとにとっての事割りだとわたしたちは思っているものです。  これを守るために わざわざ宗教が現われました。  《和を以って貴しと為せ》とわざわざ言われると むしろ和を乱してやろうかという気持ちが起こらないでもありません。和のもとに何となく 不合理で理不尽なこともまかり通っているばあいがあります。しかもその横やりを通している張本人が《〈和を以って貴しと為す〉と言うぢゃないか。な?》という場合が少なくありません。  宗教の明らかにしようとした規範は それでは通らないよと言おうとしているのでしょう。  ですから 自由だが ころすことはしないものだと わざわざ言おうとしたという部分があるのでしょうね。  この《汝 ころすなかれ》という規範をこころの奥深くにしまって――というよりは もともとたぶん そこにあるのでしょう―― 生きること・共に生きることにつとめるのが哲学です。つまりそのために考えるということをおこないます。  ころすことに関して 自分も他人も同じことです。

bonnnou03
質問者

お礼

bragelonneさま ありがとうございます。 哲学の観点からは自由なのですね。何と言いますか、哲学は倫理や道徳とはまた視点が違うということなのでしょうか。 「ひとをころすことは ひとは単純にしないものです。」は理解がすぐに繋がらず難しいです。すみません。 自殺、他殺のしてはいけない理由としては「生きること・共に生きることにつとめる」のだからそもそもそのようなことは考えるな!…ということになるのでしょうか。死にたい、殺したいという動機とは真逆なご指摘で気持ちとしてはとても共感できます。 参考になります、ありがとうございます。

  • OtamaFJ
  • ベストアンサー率10% (4/37)
回答No.3

自殺 社会の構成員が減るということは、社会に迷惑をかけていることになるから。社会の生産性が落ちると皆が困るから。 他殺 これは異なる社会同士が殺し合う戦争では当然の結果である。しかし同じ社会内での他殺は自殺と同じく、社会の生産性が落ちると皆が困るから。 短絡的な自殺も他殺もあり得るが、それは社会全体の利益を認識できていない自己チューな意識によるものである。

bonnnou03
質問者

お礼

生産性という観点、確かに理解できますね。皆が困る、迷惑を掛けると言うこと…ごもっともですね。我々は関係性の中で生きていますしね。 頂きましたご意見によりますと、他殺はともかく自殺願望のある人には頭では納得は行くかも知れないけれども、瀬戸際にあるとき「あぁ、自殺するの止めよう…」となるには少し弱いように思いました。自殺をしてはいけない理由としては理解できます。気持ちとしては社会の歯車に成りきったような感じで「寂しい」と言いましょうか。生命も所詮、歯車か…と。 参考になりました。ありがとうございました。

  • seednyan
  • ベストアンサー率28% (448/1568)
回答No.2

宗教とか哲学はいろんなものがありますから。。 私は、”生命は絶対無二”なもの物だからだと思います。 (なんか昔、読んだ本にこの言葉が載っていて記憶にのこってます。)

bonnnou03
質問者

お礼

少し感覚的・感傷的にも思いますが、やはり「生命はそれぞれが唯一無二の存在であって尊ぶべきものであるから」と言うことは納得に値するように感じます。お読みになられた御本がお分かりになるようでしたら嬉しいです。「いのちを粗末にするな!」と言うことですよね。ありがとうございます。

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