• ベストアンサー

やっぱし無意識の概念は要らないのではないか?

ga111の回答

  • ベストアンサー
  • ga111
  • ベストアンサー率26% (247/916)
回答No.2

なるほど、よく整理されていますね。 (α‐1)に関してはbragelonneさんは無意識という言葉は潜在意識に言い換えよう!というご提案かと思います。これは、定義の問題にすぎませんので、そういう先進的(?)、身勝手(?)な表現は嫌だ、といわれたら、その人とはそれで議論終了です。 無意識という言葉は良く使われるので、私的には、どちらを使ってもいいというのが融通が利いていいと思います。また、「やっぱし無意識の概念は要らないのではないか?」に関してもおかしい。無意識の「概念」は要らないのではなく、潜在意識の概念に置き換えても、必要ということではないかと思います。 (α‐2)イエス。大脳新皮質が記憶を司り、性欲などは旧皮質ですから、記憶野だけでは、無意識を全部カバーできません。 (γ‐1) >>>《ふつうの記憶》は むろん《意識化された情報》を含みます。そして《意識されていない情報》をも含みます。>>> (α‐2)へのコメント参照。 (δ‐1)自我つまり私に執着しない、、、というところが単に一般的ではないとおもいます。これは定義の問題なのですが、私は、「私に執着する潜在意識」が第七識のマナ識であるというのが一般的だと思います。 私は長い議論は避けたいので、よほどのことがない限り3度目のお答えはありません。

bragelonne
質問者

補足

 ga111 さん ご回答をありがとうございます。  おおむね賛同をいただいたようですので 細かい点について述べることになると思います。  ★ 無意識の「概念」は要らないのではなく、潜在意識の概念に置き換えても、必要ということではないかと思います。  ☆ 大きく《記憶》の領野にあって潜在意識と呼びうる部分 これは《意識していない》わけですから《無意識》とも呼べる。こういう整理になると思います。  無意識という言葉を使っても何ら問題はないと同時に この無意識という言葉をひとつの独立した概念として扱う必要はない。ともなりますよ。  過去の意志行為の未実現(未達成)の結果が 《無意識》というあたかも別個の領域に蓄積されてさらにその結果 そのひとに思わず反動の力のごとくして衝動を起こさせる。このように記憶野の一部分が 単独分立して独自のはたらきをするという意味合いでの概念化は 要りません。  これは 簡単に言えば 《わたし》の意志行為の未整理によって その過去の時間が幾重にも複合してしまい 錯雑となっている(つまり いわゆる《コンプレックス》となっている)ところから 時には思わぬ行動に出ることがある。こういうことだと考えます。《無意識》を・つまり無意識だけを 特別の犯人と見る必要はどこにもない。こう考えます。  ★ (α‐2)イエス。大脳新皮質が記憶を司り、性欲などは旧皮質ですから、記憶野だけでは、無意識を全部カバーできません。  ☆ 《旧皮質》は 記憶野に入れるわけにはいかないのですか? 自分で調べますが。というより 《おぼえる》という記憶行為は 情報を秩序をもってととのえることだと捉えられますから 欲求にしても《おぼえ》ておけばよいわけです。その欲求を自分の意志によって扱いきることができなくても その手に負えないものとしておぼえておけばよいわけです。  その意味では《記憶》は ひとの身も心も そして世界のすべてをも さらにそして記憶じたいをも 記憶の対象とするはずです。問題はないでしょう。→(γ‐1)についても同じくになります。  ★ (δ‐1)・・・これは定義の問題なのですが、私は、「私に執着する潜在意識」が第七識のマナ識であるというのが一般的だと思います。  ☆ おそらく〔解釈について〕おっしゃるとおりだと思います。わたしは  ☆☆ (No.1補足欄) わたしは このマナ識を広く《意志》ととったのですが   ☆ というように言っています。これは そのように広く採ったほうが一般的な理論になるのではないかという――ブッディズムを無視した勝手な――解釈です。  ▲ (中村元ほか編:仏教辞典:末那識) ~~~~~~~~~~  唯識派が説く 深層に働く自我執着心のこと。  末那は サンスクリット manas の音訳。原義は《考えること》。《思量》と意訳される。  この場合の思量とは《恒審思量》といわれ  ・ 恒(つね)に すなわち睡眠中でも覚醒の時でも 広くは生死輪廻するかぎり 深層において絶えることなく働きつづけ さらに  ・ 審(つまびら)かに すなわち根源的な心である阿頼耶識を対象として それを自分であると考えて執拗に執着しつづける心をいう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ一般に《自我執着心》として受け取られていることを確認できます。  つぎに 《考える》とありますが 《執着する》という意味を帯びるのならそれは《思う》の意味合いが強く しかもその思いは何かにつけて思惟や行動に現われることになるとすれば 意志行為に限りなく近い。こう思われます。ただし これはブッディズムに好意的に解釈したものですから このマナ識もアーラヤ識も 不必要だという見解のほうが一般的であり得ます。おっしゃるとおり  ★ これは定義の問題なのですが。  ご投稿をありがとうございました。

関連するQ&A

  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。

     この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。  さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。  (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。  《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?  (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。  人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?   *  *  *  なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。  この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。  すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。  人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。  《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。  早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。  というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?  《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。  このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

  • 人には認識能力がある。なぜ?

     人には認識能力がある。なぜ?  認識するという行為能力は 広く言えば知解能力だと思いますが しかもこの知解(特には理性)は むしろ意志という能力行為にしたがう。  〔むろん 意志と知解とは いまひとつの行為能力である記憶とともに 時間差のある三位一体を成すと考えられる。  意志行為の内容について 知解はその合理性如何んを正す。  そのとき 記憶という情報源から資料の助けを借りる。うんぬん  最終的に おのれの主観真実として 記憶と知解と意志とがともに同じ内容を持って一体であることを志向していると考えられる。その三位一体が実現するのは 時間過程の中にある〕。  なぜ人間には 世界を――感官で知覚したあとこれを概念化して――認識するという知解能力があるのか?

  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。(続編)

     この主題じたいが 広い範囲のことがらを扱うと思いますが この質問も 項目がいくつかあります。  質問の基本的な志向内容は なぜ無意識の理論を必要とするのかです。なくてもかまわないのではないかという見方からです。  (A) 《wiki:無意識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98》の中から 質問です。  (1)《言語能力は先天的であるので これは 無意識の領域である》との趣旨で伝えていますが これは 《記憶という行為能力》に含まれるとすればよいのではないか。  心臓の鼓動は 意識し得ますが なぜ動くのかは意識し得ません。では そのことを称して 無意識と言うのかと言えば そうではないはづです。それと同じように 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。  (2) フロイトは《精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した》というとき 《「抑圧する無意識」は 実証できない》とも同時に批判しています。上の応用は 分かったようになっているだけではないですか。言いかえると 意識的にしろ無意識的にしろ 《わたし》が 世間に倣ったり反発したり 発現しようとする自己を抑圧したりあるいはいろんな形で表現したりしているというただそれだけのことではないですか。  (3) ユングの理論に対して wikiは次のように批判しています。 《「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない》。つまり 記憶なり精神なり《わたし》の自己同一性のことを 《無意識》という言葉でわざわざ指し示す必要もないのではないでしょうか。  (B) 《wiki:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98》の中で質問です。  (4) 《三性》を立て   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):〔自己が世界を描き出したという〕構想された存在  2.依他起性(えたきしょう):相対的存在、他に依存する存在  3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ の如く――つまりはいわゆる《仏性》のごとく―― 最終的に《円成実性》を想定するときには その扱いが 《有神論》のようになるので微妙ですが そうではなく あくまで《識・こころ》も実体ではないという大前提に立つならば(立つのですから)  そうするならば なぜそのような《相対的で移ろい行くアーラヤ識》を《根本の心》として出してくるのですか。なぜ すべてを取り仕切る働きであるかのように  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この〔アーラヤ〕識が前五識〔* つまり眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚など)そして〕・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ということになるのでしょう? 《わたしとその記憶行為またその知解行為そして実行としての意志行為》では 足りませんか。世界とわたしとが互いに応答するというその相互作用という見方では 足りませんか。  * ご回答の中で 精神分析の継承・発展として ラカンやクリステワ゛を出されたときには 分からないなりについて行きますが そのほかの人びとを出されれば 一から尋ねてまいります。

  • 認識は 存在に先行しない

     【Q:存在と存在理由・・・】の姉妹質問です。ついでに問います。  1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成るのか?  2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っているのではないか?  3. 人間は モノに還元されるのか?  4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もがはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか?  5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。  6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は・そしてその認識の能力は では どのように存在するようになったのか?  7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか?  8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。  9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か?  10.  モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。  11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか?  12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。

  • 認識が存在に先行するか?

     1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成る のか?  2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っている のではないか?  3. 人間は モノに還元されるのか?  4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか?  5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。  6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は では どのように存在することになるのか?  7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか?  8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。  9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か?  10.  モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。  11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか?  12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。

  • 《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。

     (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。    ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~  § 広義の無意識と潜在意識  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、  20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。  意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。  なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。  これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。  すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。  すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。  (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか?   二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。  無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。  (4)  《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。  欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。  (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。  自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。  (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか?  《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。  《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

  • 神による人と世界とのデザイン

     1. ≪場≫が生まれる。(あるいは 元からある)。時空間として動いている。  2. 場が揺らぎ コトとしてある。  3. コトなる場が揺らぎ過ぎて 別の部分的な場が生じた。モノとして分かれる。  4. コトを起こしている場が 元の場とそこから分かれたモノとから成るようになった。  5. 場も言ってみれば存在であるが のちに人間は そこから分かれているモノのほうに≪有るか無いか≫の存在を見ようとする。  6. 人間は 場についても その知性を当てはめてそのモノとコトから成る世界を捉える。  7. 場がゆらぐ。場が場する。世界が世界する。というとき 初めの場や世界を ≪記憶≫と呼ぶ。  8. 記憶なる精神が精神するとき そこに≪知解≫が生じていると見る。納められた情報が 倉庫から出て顕在化する。  9. 記憶と知解との突き合わせをつうじて ≪意志≫が発出する。知解は 自分が部分観でないかとおそれて記憶に相談する。その結果である。  10. モノがモノするとき 熱を帯びユラギのほかにさらにエネルギーを生じさせる。このエネルギーを意志が帯びる。  11. 光のタトヘとして言って ≪光源≫が 記憶である。記憶が記憶するとき ≪発耀≫としての知解が生まれる。記憶と知解とのすり合わせをつうじて ≪明るさや温かさ≫としての意志が現われ出る。  11-1. 意志行為には プラスとマイナスとがある。そういう自由度が生まれつきそなわっている。明暖と暗冷との両面が表わされる。  12. 記憶は 社会形態としては 司法に当たる。知解は 立法である。意志が 行政にあたる。  13. この三つの事項の一体性が ≪神のデザイン≫である。三位一体なる神という想定になる神論から解釈したものである。  14. 神としての三位一体は 時間を超えているので ≪父なる神≫と≪子なる神≫とその両者から発する≪聖霊なる神≫とは 絶対の同一である。それぞれの個はほかの個と・そして全体とも それぞれひとしい。時間的な変化はない。  15. 人間の精神における≪記憶 ‐ 知解 ‐ 意志≫なる一体は・そして国家としての≪司法 ‐ 立法 ‐ 行政≫の分立=協働も それぞれ時間差をともなった一体性である。  15-1. 行政のおこなったことが 司法によって≪あとから≫その合法性いかんがあらそわれる。わが意志行為も あとで記憶に照らして間違っていたと分かることがある。  16. 人の一生のあいだには 意志ないし行政の行為が記憶ないし司法の判断とついぞ合致しないままに終わるということさえ あり得る。悪貨が良貨を駆逐し 表現のあやとして言って 巨悪はほろびず生き延び得る。  17. ≪因果応報説≫が 現実につねに当てはまるとは言えない。それは 時間的な意志行為には ズレがあり かなしいかな神の普遍的・不可変的な一体性は 破られ得る。相対性が絶対に対して勝つ。  17-1. 相対世界における或る人の意志行為に 絶対なる神が勝ったとすれば それはその意志行為のあやまちが明らかにされたことを意味するが そのような認識と判断は あくまで相対世界における人間の≪意志による知解≫としての判定である。それを神にかこつけて表現したに過ぎない。(神が勝ったのかどうかは 分からない)。  18. ≪ plan → do → see ≫のサイクルは ≪知解→意志→記憶(秩序作用)≫または≪立法→行政→司法≫のそれとして捉えられる。  19. これらのことをいにしへの聖書記者は 次のようにタトへにおいて記した。  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  20. 以上が 神のデザインについて曲がりなりにも哲学として考えようとした議論です。添削をどうぞ。

  • 感性は 理性よりもえらい。

    まづ 定義から入ります。  序  《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。    ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。      *  さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。  12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。  13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。  14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。  15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。  16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。  17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。

  • 意識

     多くの方が意識のことでご質問されており、何度か自分も四度、意識に関連して質問させていただいております。その折はまことに有難う御座います。心理学や哲学の専攻ではないのですが、ヒンドゥ哲学に関連した本を読んでおりまして、素通りできませんので、何卒お教え下さい。  私と致しましては、意識と大脳構造やその機能と働きについてのご説明もたくさん御座いましたが、それは私の手には余りますので、あまり専門に立ち入るご説明はつらいところとなります。  あいつは革新的で意識が高いだとか、政治意識とか、生活意識とかの意識という意味での意識は問題の対象にしておりません。  http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B0%D5%BC%B1&kind=jn&mode=0&kwassist=0での、(3)の(ア)思考・感覚・感情・意志などを含む広く精神的・心的なものの総体。とか、(イ)単なる直接的な情意作用や知覚ではなく、自他の在り方自身を察知する明瞭で反省的な心の状態。或は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98での意識とは自分の今ある状態や、周囲の状況などが正確に認識できている状態のことを指す。などで取り上げられている意識のことで教えていただきたく、質問申しあげます。どうかよろしくお願い申しあげます。  1. 私達が日常、知覚し、経験、認知、認識する主体としての意識は、これを顕在(wakeful)意識というと、これは何に根拠を、基盤を、根っこをおいておりましょうか。   (1) 潜在(sub)意識というものでしょうか。睡眠という状態或は睡眠での身体と心のことを管轄している意識は、顕在(wakeful)意識とは対照される意識機能なのでしょうか。   (2) 両意識の構造図式は上下でしょうか、並立並置でしょうか。基盤とその樹木や地表、表面でしょうか。  2. 意識の出てきている系統的構造のようなもの、生成歴史には必ずしもならなくても、そんなものはご説明いただけないでしょうか。    つまり、一定の樹木が、葉はこう枝とつながり、枝はこのようにして幹に、幹はこのように根っこに、そして地面にというような構造は、想像と創作を交えても、ご説明がいただけないでしょうか。  3. 意識を意識していくことは可能でしょうか。   (1)この普段の生活している意識を仮に私が、素人で反省し、分析していっても、それは意識していることにはなっていないような気がして致し方ありませんので。   (2)仮にそうやっていって、どこまで自分は意識を調べていくことができるものでしょうか。    つまりその根ざすところに到れない意識化というのは意識化ではない、横滑りでしかないとも、悲観しているわけなのです。  どうかよろしくお願い申しあげます。

  • 生成文法について-表層・深層構造とは?-

    心理学の勉強をしています。 チョムスキーの生成文法という理論で、「深層構造」・「表層構造」という言葉が出てきました。教科書の説明では、 「可愛いネックレスを着けた女の子」だけでは、「可愛い女の子がネックレスをつけている」のか、「可愛いいネックレスを女の子がつけている」のか、はっきりしない。このようなメッセージの意味内容を規定しているのは、 表層構造・・・文としての記号列の表面的な構造 深層構造・・・内部的な、階層をなしている構造 と書いてありました。・・・まったく意味がわかりません。 ネットで色々調べてみたのですが、自分の中でちゃんとイメージできないというか、つまりどういうこと?という感じです。 どなたかアドバイスお願いします。例をもって説明してくださるとありがたいです。(例え話がないと中々理解できない人間なもので・・・orz)