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認識者を想定しない「客観的実在」とは?

orimotoの回答

  • orimoto
  • ベストアンサー率32% (130/406)
回答No.7

【お礼レス】 >「何かがある。しかし認識主体とその認識能力を前提に立てなければ、何があるかは まったく語れない」この命題(?)からは一歩も外に出ることができないのでしょうか。 「銀河系は宇宙である」という例を西田流に解釈してみると、実在は「銀河系」にも「宇宙」にもない。「・・・は・・・である」という繋辞にあるとなりますが、この例だと恥ずかしながら理解できません。星を見たり、相対性理論によって、はじめて宇宙の実在が認識できると思ってしまうのです。 しかし最近もっと身近な例で、すこし西田の考えることが理解できました。それは商品開発の「場」のようなものです。いろんな開発者「個人」(主語)が出入りする場、社員や顧客(述語)が出入りする場、この「場」は個人と社員などの繋辞であり、かつ商品開発のための実在である。つまり人間でなく場が新商品を生み出すからです。 こうなると実在とは認識以前の存在なんでしょうか?

mori0309
質問者

お礼

orimotoさん、ありがとうございます。 > 人間でなく場が新商品を生み出すからです。 実在するのは「場」であるということでしょうか。 物理学でいう重力場とか電場とか磁場みたいなものでしょうか。 (ちがうでしょうね) 『ひとつひとつのモノよりも、むしろモノとモノとの関係が  本当の「実在」を出現させ、それが新しい何かを産む』 そう解釈してよろしいでしょうか。 人間は、やはり、自立・自律・普遍・不変・不動・固定・孤高の 認識者であるという超越者意識を、そろそろ脱ぎ捨てないといけない のでしょうね。 (かと言って虚無的相対主義思想に陥るのはイヤなのですが)

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