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太宰治のヴィヨンの妻について。

奥さんがお客に汚される下りがイマイチよく分かりません。 これは何を意味しているのでしょうか。

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  • toko0503
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回答No.1

全くの私見ですが、 夫の罪を償おうと、小料理屋で働き始めた妻は 予想外に、夜の客商売の楽しさを知るようになりますよね。 お店での人気も出て、家にはほとんど帰らない夫とも そこでは会えるという好都合も、楽しみの一つになります。 生活にちょっとした生き甲斐も見い出して、なぜか浮き浮きと 幸福さえ感じるのです。 この、ヴィヨンの妻、つまり放蕩者の妻は、決して 単に無償の愛や耐え忍ぶ愛だけを夫に捧げているのではなく、 また、ダメな夫に面と向かって恨み辛みを言って非難するわけでもなく、 明るく、たくましく、みじめさを感じさせずに生きています。 若いお客にあっけなく"手に入れられ"ても、何事もなかったように 翌日からまた働きに出ます。 この、ある意味、したたかな面も持ち、後ろめたさを表さず (本当は感じていたのかも知れませんが)(^^) あっけらかんとした生き方が、ヴィヨンの妻の妻たるところで、 どう考えても身勝手な夫の行動にも、暗黙の許容で、静かに夫を愛している……… そんな妻のあり方を太宰は描きたかったのかなぁ、という気がしました。 現代でしたら、たまったもんじゃありませんね~。(^^) 最後、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいのよ」 のせりふは、妻が人生を達観(諦観かな)しているようで、 湿っぽく終わらすに、なぜかホッとさせられます。 参考までに書いてみました。

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質問者

お礼

なるほど。 大変参考になりました。ありがとうございました。

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