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関東では中世の記録が少ないが関西は?
東京の郷土資料館などをの通史を観覧すると、中世以前の歴史的記録が少なく、様相を判断するのが難しいと言う解説をよく読みました。むしろ古代のほうがわかるくらいだと。関東圏は、中世は閑散としていたのでしょうか。しかし関西はどうなのでしょうか?大分違いがあるのでしょうか?
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私もそういう解説をよく読みます。特にそのことを解説した本などを読んだわけではありませんが、私は次のように考えています。 公家には日記をつける文化がありましたが、武家にはありませんでした。 鎌倉幕府で起こった出来事を詳しく知る方法は、幕府の公的記録という位置づけの「吾妻鏡」を読むしかありません。けっこう抜けている年代が多いので、幕府で何があったかわからない年がぽろぽろあります。 公家の日記に幕府での出来事が記されていることもありますが、遠くで起こったことの伝聞情報に過ぎなくなることが多いです。 逆に室町幕府で起こった出来事は、何人もの公家が日記をつけているので、一つの出来事でも色々な人の日記から知ることができます。公家のお膝元の京都で起こっている出来事なので、比較的 詳しいです。 また荘園経営の古文書なども、公家の家には多く残されています。 「中世以前の歴史的記録が少なく」 歴史的記録は文字史料のことを指しているので、日記などの古記録を記したり、古文書をあまり残したりしなかった武家の支配する関東には、あまり残っていません。古記録と言えるほどのまともな記録は吾妻鏡ぐらいしかないので、吾妻鏡に記されていない地域の歴史を探るには、関東に荘園を持っていた公家の記録に頼るか(その荘園も武家に奪われて、関東からはどんどん減っていきます)、板碑や墓石に刻まれた金石文に頼るぐらいしか方法はありません。 関西には公家という日記マニアが多くいて、公家の持つ荘園も中世を通じて多くありました。また、朝廷も幕府とは比べ物にならないほどの多くの記録を残し、比叡山・高野山といった 関東には存在しなかった巨大寺院も多くの記録を残しました。よって関西には関東に比べて 地域的にも時間的にも歴史の空白地帯が少ないと思います。 私の考えていた答えを述べている人がいなかったので、私見を述べてみました。詳しい方からの賛同意見、あるいは説得力のある反論を期待しています。
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- Pinhole-09
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関東地方では確かに、京都のように日記のような記録は残っていないようです。 しかし国司の記録は国府に、また各地の豪族も断片的でしょうが、館に記録があった筈です。 しかし平将門の乱以来、各地に豪族が群雄割拠し、「武蔵七党」などその数二百余りと言われ、これらが戦乱を繰り返しました。 鎌倉幕府成立で治まったのち、その滅亡から室町時代にかけ二百年、小豪族の戦いが絶え間なく、国府はおろか城、館も寺も焼かれ貴重な文書は灰になりました。 大きな勢力が無かったのがその原因です。 しかし古文書は結構あちこちの旧家に残っており、断片的情報から全体像が研究されています。 各県や市で「県史」「市史」が編纂されており、それを調べればわかります。 引用資料もわかります。
- debukuro
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政治の中心地に資料が多いのは当然です 南極には何もないでしょう 文化の中心に近いほど記録が多いのです 江戸幕府が置かれるまで関東は僻地だったのです
- mayoihito
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古代と中世の歴史的資料の内容が変わるから、結果として関東圏の中世以前の資料が減った、ということになると思います。 古代の資料というのは、歴史的な遺構(遺跡)から出てくる発掘物であることがほとんどです。吉野ヶ里遺跡、三内丸山遺跡、土器、青銅器などといったところでしょうか? 文字で確認できる有名なものは、私の知る限りでは、魏志倭人伝くらいです。「魏志倭人伝」というのは、必ずしも正しくなく、「三国志魏書東夷伝」が正式名称なのですが・・・。「東夷」の中のひとつとして日本の記述が出てきます。全文で2000字ぐらい。逆に言うと、それぐらいしか文章での資料はないのです。 日本側の資料となると「日本書紀」が現存では最も古いものになりますが、これでも奈良時代に書かれたものになります。 一方、古代以降となると歴史的遺構のみでなく、文字によって残されたものが多くなります。徳川移転までは、関東圏は単なる田舎、一方関西圏は朝廷があった側、ということになりますので、文字的資料が多く関西側に残された、という形ではないでしょうか? 結果、関東では関西に比べ「中世以前の歴史的記録が(古代と比べて)少ない」となってしまいます。 研究を見ても、古代に比べ、中性の関東圏の人口が減ったというわけでは無いようです。むしろすごく増えています。ただ、求める資料が古代より中世のほうが贅沢になっているので(笑)中世以前の歴史的記録が少ない、という形になっているのではないでしょうか?
- eroero1919
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一説によると、「江戸」というのは「蝦夷」からきているともいわれています。平将門の乱も、近畿圏による関東地方の実情を見ない支配に対する叛乱という意味合いもあったようです。 大阪を「上方」というのも、江戸から見れば大阪、京都が「上」だからです。大阪、京都から来た上質なものを、上方からくだってきたので「くだりもの」と呼んでいました。そこから、どうしようもないものに対して「くだらないもの」という言葉が生まれました。
- Willyt
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徳川家康が江戸に幕府を開くまでは関東は日本の片田舎でした。中世では歴史の重要な事件の殆どが京都を中心とした近畿地方で起きたのです。現在は重要な歴史事件は多くが東京で起きていますよね。それと同じ状況だと考えれば理解しやすいですよね。
お礼
公家の存在によって、関東圏関西圏の記録にずいぶんと差があるようですね。公家と言う存在が、歴史上貴重であったのですね。たいへん面白いお話しです。それにしても、文書で残らないと、歴史とは手がかりもないもんです。鎌倉時代なんて大まかにしかわからないというのも、心もとないものです。