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関係の絶対性
についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。 この言葉は 吉本隆明のものです。 ▲ 関係の絶対性 http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。 この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。 いまわたしが考えているところとしましては こうです。 (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。 ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?
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>《絶対者=神》のことを想定していますか? いいえ。違います。ここで、対象とは、相手であり、自己以外のあらゆる対象です。 無論、自己は対象を見て聞いて触れて知り得たつもりになりますが、 それをやっているのは、自己であり、 対象が対象を対象としているように、あるいは、神が対象を対象としているように 知ることは決してできません。あくまでも、自己が対象を対象としているようにしか 知り得ません。 これでは、対象を知ったことにはならず(不可知、知の限界)、自己を対象に反射させている にすぎません。この性質も自己内部の「関係」が絶対性を帯びる所以でもあります。 あとは、おっしゃる通り、《独立》、自由意志、責任、は孤独そのものの性質です。 へそ曲がりの謳歌は、こういったスタテックな話しではなくて、もっと具体的で 揺れ動くダイナミックな態様だと思います。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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(能動的な)質問者の質問に、(受動的に)回答者が反応し(能動的に)回答する。 (能動的な)回答者の回答に、(受動的に)質問者が反応し(能動的に)補足する。 。。。 このくり返しには、能動・受動が時系列に沿っているとしてなんら問題はありません。仰るように時間のズレ時系列全体に渡って「私」があるといってもいいです。 しかしながら、上記「能動・受動」ですが、逆の記述も可能だと思われます。 (受動的な)質問者の質問に、(能動的に)回答者が反応し(受動的に)回答する。 (受動的な)回答者の回答に、(能動的に)質問者が反応し(受動的に)補足する。 。。。 この反転が生じうるのは、意志・意識の方向性や情・情動の方向性が関与しているでしょう。 たとえば、何らかの事象を見て(見せられて)、大変なことだと思って(思わせられて)、強く主張した(させられた)。 程度の差とは、たとえば「見た」のか「見せられた」のか(また、「見たくない」)に関わる要因の程度の差ですが、これら反転するかのごとくの能動性・受動性といった概念は、まさに意志・意識の方向性や情・情動の方向性を意識した途端に、同時成立的に生じ得ます。 更に言えば、私が、私として、意志決定を行っているという過程において、純粋に能動性のみ、純粋に受動性のみということはあり得ません。両者の狭間(関係性)においてのみ意志行為(ないし《わたし》)という概念が成立しうると考えます。 前野氏の受動意識仮説ですが、下記リベットの実験結果を援用した「仮説」のようです。 ※ウィキペディアの「自由意志」の最下段、脳科学(神経科学)の項 >>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97 脳科学(神経科学) [編集] 現在では生きたままの脳を研究することが可能になってきており、『意志決定の「機構」』(the decision-making "machinery") が働いている様を観察することができる。 この領域における重要な実験が1980年代にベンジャミン・リベットによって行われた[49]。任意の時間に被験者に手首を曲げてもらい、それと関連する脳活動を観察する実験である(このとき、準備電位(readiness potential)と呼ばれる電気信号が立ち上がる)。準備電位は身体の動きに先行する脳活動としてよく知られていたが、行動の意図を感じることと準備電位が一致するかどうかはわかっておらず、Libetはこの点を探求した。行動の意図が被験者にいつ生まれるかを決定するために、時計の針を見続けてもらって、動かそうとする意識的意図を感じたときの時計の針の位置を報告してもらった。 Libet は、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に開始したことを発見した。これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、それから意識的決定へと翻訳されていることを暗示している。 後に Dr. Alvaro Pascual-Leone によって行われた関連実験では、動かす手をランダムに選ばせた。ここでは、磁場を用いて脳の異なる半球を刺激することによって被験者のどちらかの手に強く影響を及ぼしうることを発見した。例えば、標準的に右利きの人は実験期間の60%の間右手を動かすことを選ぶ、しかし右脳が刺激されている間、実験期間の80%の間左手を選んだとされる(右脳は体の左半分を、左脳は左半球を統括していることが想起される)。 この場合、動かした手の選択へ外的影響(磁場を用いた脳に対する刺激)が加えられていたにもかかわらず、被験者は「手の選択が(外的影響とは独立に)自由になされたことを確信している」と報告している。 <<<
補足
k_jinen さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 例によって反駁します。自然科学の知識の問題は 強行突破ですので そういう目で見てもらえれば こちらもありがたいです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 更に言えば、私が、私として、意志決定を行っているという過程において、純粋に能動性のみ、純粋に受動性のみということはあり得ません。両者の狭間(関係性)においてのみ意志行為(ないし《わたし》)という概念が成立しうると考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この中で ★ (ないし《わたし》) 〔および〕 という概念 ☆ の部分を取り除いてください。基本の中身は すべて ★ 私が、私として、意志決定を行っているという過程 ☆ という自己表現の行為です。 ○ わたしが 意志するのであって 意志がわたしするのではありません。意志が意志するのでもなくです。 ○ わたしが表現するのであって 表現がわたしを動かすのではありません。(補足修正をうながすことがありますが そのあらたな表現を決めるのは わたしです)。 ○ したがって げんみつな言い方をすれば 能動がわたしそのものに代わることはなく 受動がわたしを動かすものでもありません。 ○ わたしが 自己の内外の現象や新知見を受動するのであり わたしが意志行為を たとえいやいやながらであっても 能動的におこないます。 ☆ ですから やや別の新しい見方になりますが ○ 能動と受動 あるいは孤独と関係性 これらが同時に成立するかどうかと問うよりは どちらも 最終の状態においてはわたしの意志行為であり――確認したという受け身の態度だけであっても 意志行為であり―― しかもこの意志行為は わたしがおこなっているのだと考えます。 ――たぶん 再反論がしやすいと思います。 ▲ ※ウィキペディアの「自由意志」の最下段、脳科学(神経科学)の項――前野氏がその受動意識仮説をつくるのに援用したリベットの実験結果―― ☆ いくつかの疑問を箇条書きに記します。 1. 前提として 一般に統計学が 存在論や人間学をきづくひとつの根拠になるのか。 2. 《手首を曲げる》を《手を挙げる》に代えて考えるなら この行為には たとえば《賛成のひとは手を挙げて》という指示が先行します。そのあと すでに考えていた結論にもとづき 一たん賛成なら賛成という意見を確認しつつ《手を挙げ》ます。 2-1. ですから 意志行為には それ以前の知解行為によって結論がいくつか選択肢を用意されておりそのあと判断をくだすという一連の作業過程があります。このことを軽く捉えてよいのか。 3. 賛成のために手を挙げるという例で言って 右脳が刺激されていた状態において 左手を挙げたといった実験結果は いったいどれだけのことを経験科学として言えるか。 3-1. 右脳だろうが左脳だろうが そこに受ける刺激がどういうものかによって 違ってくることはないのか。 3-2. その刺激は けっきょく過去にすでに自分が考えておいた結論の想起という刺激であるかも知れない。だから ▲ 動かした手の選択へ外的影響(磁場を用いた脳に対する刺激) ☆ と言っても 《外的影響》であるとは一概には言えない。 4. 要するに 文学的に言わば 意志行為は そのつど 歴史的に一回きりの行為です。あとで訂正・修正補足することは出来ますが それらもそのつど一回きりの意志行為――すなわち ほかの誰でもない《わたし》の知解における思惟と推論とその結論についての自由な選択判断としての意志行為――であるしかありません。 5. 車を走らせるのに右側か左側かは 《わたし》たちが決める意志行為です。 6. そのようにどちらでもよい場合のほかにも 好きか嫌いかわたしが決めます。デートの申し出を受けるか受けないかをわたしが判断します。結婚するかしないか どちらの選択であっても意志による自由行為です。 6-1. 仕事はこれを――いかに周りの人びとの意見があろうとも――わたしがえらぶのだと言うべきです。影響を大きく受けたという場合も 最終的にわたしが決めたのであるにほかなりません。 6-2. (封建時代においても そういうものです。ほかの選択がありえたと知ったならば 意志行為は ひとつに決まっているのではなく 選択肢を自由に選び得るというのが 人間論です)。 7. 《『意志決定の「機構」』(the decision-making "machinery") 》ですって? ちゃんちゃらおかしいぢゃありませんか。 おあとがよろしいようで。反論がしやすいワ゛ージョンとなっています。
- 来生 自然(@k_jinen)
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逆方向からの視点を述べる前に、整理していただき、ありがとうございます。 私が「一方の極」として例示した受動側を中心に解釈すると、仰るように(※おそらく、7の表現は除いて) >>>=== ★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. ひとは その自然本性としての存在のあり方からして《逃れ得ない関連性》のもとにある。 2. ゆえに《孤独は錯覚である》。 3. したがってこう考えなさい: 《「人は、孤独である」という錯覚をどうして抱きうるのか?》 4. すなわちその答えとして: 《さて、〔脳のはたらきなどの〕受動性の側からの(極端な)見方を (二者択一的に)能動性の側が否定しようとすると、関連性を排除する 方向に向かわざるを得なくなり、(コギトであるところの我として) 孤立性・孤独性が浮き出してくることでしょう。》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おそらくこれですと まづは《孤独として自己を認識するという過程を通る必要はない》とすることになります。その代わりとしては こうです。 ★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 5. 孤独感をあなたがおぼえたのは 考えるという作業をあなた自身が――あなた自身の《わたし》という主体が――おこなっていると錯覚したからだ。 6. 考えるという作業は あなたが能動的におこなっていると〔思ったと〕しても そのとき同時に あなたの体や脳神経も共におこなっているのだから そのことを知れば 〔孤独感は〕錯覚と分かるはずです。 7. あなたの思惟や行動のすべてには あなたが意志行為を働かせる以前に活動している脳のはたらきが対応している。そのことを知りなさい。 8. そうすれば 孤独ではなくあたかも自然のふところに抱かれているというべき実態としての《逃れ得ない関連性》に あなたは包まれているとさとることでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ===<<< となります。 (※意志行為を離れて 知解行為を単独分立させて《わたし》としてしまうのではありません。知的行為のみでなりたつものは、既に存在する現存のコンピュータ全般が該当しますが、そこに《わたし》とか《コギト》とかを見て取ることはできません。) 受動性のみへと偏ることは、まさに、一切の自己責任を排除し、外部へ責任転嫁しうる概念でもあります。 さて、No.8で提示させていただいた参照URLを読んでいただければ分かると思いますが、「多くの人々が違和感を覚える」仮説でもあります。 ※この「仮説」に対する(能動性が存在しうるという)反証については個人的な見解を持っていますが本論からずれるので省略します。 で、私の立場は、何度か申しあげているように「能動・受動の双方の程度の差こそあれ、同時成立するところに私がある」です。 (他方を排除しようとする故に)どちらかの極にへばりついてしまう(そういう意志をもとうとする、ないし、そういう情況へ陥ってしまう)のは、いわゆる知情意のバランスが偏っている(ないし、それぞれの内部にて偏っている)情況とも捉えられるでしょう。 生まれてから死ぬまでの間、聖人君主のごとく、知情意のバランス(ないし能動・受動のバランス)を取って、孤独感に襲われることもなく、悟りきっている人はいません。「いくら知的に理解したとしても」です。 また、さまざまな情報を早熟な内に「知的に」得ることができたとしても、情意が伴わなければ、バランスを崩して様々な問題を併発することでしょう。そういった問題が発生する前に、自己の境界を揺り動かすのだと思います。 揺り動かす方向の、一方の極に「孤独」といった概念があると思います。 孤独へと至りたい時と、孤独感に苛まれる時と、それぞれの意志・情の有り様は、全くの逆方向を向いています。(※「知」のみでは、方向性は生じ得ません。) そのように揺れ動くことで生きている人間に対し、たとえ、「繭のごとく」包み込もうとしても、「矛のごとく」突き破ろうとしても、当人の意志・情は、繭であれば「食い破ろう」とし、矛であれば、「盾をぶつけて」くることでしょう。 いくら「反抗期がある」と知っていても、「反抗期」は突き抜けるためにあり、通過すべきものでしょう。 そこにおいて、知情意・能動受動のバランスは(いや、全体に対する認識すら)大きく揺れ動くのだと思います。 以前、私の言っているところの「全体」は、bragelonne様の「全体」とずれていることを知りました。そのことによって、(もはや、知的な対話が不可能になりつつある父ですが、)父に対する思いを再度(いや再々度)転換させるべき時期だと悟らせていただいたのかもしれないと思っています。
補足
★ 逆方向からの視点を述べる前に、 ☆ 全体観を得させるように 初めに《このあと 逆方向からの視点をも述べます》とひとこと事割るべきです。 一般に――あっ じねんさん ご回答をありがとうございます。いつも しっかり考えてくださっているという感覚は抱くのですが どうも焦点がずれたりしていると感じると もういまとなっては あなたとの対話において容赦をするなどということは考えられません―― 引用および参考すべき研究者ないし文献資料の紹介が 下手でいらっしゃる。 養老猛などは 解剖学の分野はいざ知らず 思想としては 片寄っていると思いますよ。悪しき唯物論のごとき思考形式だと感じます。 ★★ 一方の極としての「前野氏の受動意識仮説」を念頭に置いています。 ☆ というように たしかに《一方の極として》のみ引いているとしても この――まちがっていたら ごめんなさい――仮説は 他方の・能動のほうを想定していないのでしょう? もしそうであるなら 援用の仕方がまづいのと違いますか? ぎゃくの見方からすれば わたしの《要約》も その(6)で ☆☆ そのとき同時に ☆ と言っています。能動・受動の両方を捉えたかたちで要点整理しようとしています。そりゃあ たしかに わたしも ★★ 物理学的な相互作用全般 / 柄谷氏の「諸関係の束」 ☆ に明るくないという無責任さが顔をのぞかせているにはいますが。 さて前向きにまいりましょう。 ★ 意志行為を離れて 知解行為を単独分立させて《わたし》としてしまうのではありません。 ★ 揺り動かす方向の、一方の極に「孤独」といった概念があると思います。 ☆ という二点の確認ができれば 大同小異の大同が成ったと思います。やれやれですよね。 ただし次の事項は まだはっきりつかめていません。場合によっては 小異ではなく 大異であるかも知れません。 ★ で、私の立場は、何度か申しあげているように「能動・受動の双方の程度の差こそあれ、同時成立するところに私がある」です。 ☆ 《両極・両方向》があると言うのと《それら両方向が同時成立する》と言うのとでは 問題が違うはずです。別に 能動と受動とで互いに時間差があってもいいのではないでしょうか? 知覚としての受動のあと 知解し意志する。意志行為としての能動のあと その反応や反響を受動する。どうなんでしょう? 《同時成立》説によって言わんとするところは 奈辺にあるでしょうか? ★ 以前、私の言っているところの「全体」は、bragelonne様の「全体」とずれていることを知りました。・・・ ☆ 《境界は 断絶とともに・しかも同時に(これこそ同時に)関係をもつくる》あたりでしょうか? 《全体》観として特にどこかで強調して述べたおぼえがないのですが? ま そんなことはいいとしまして まづは同じ土俵に上がった段階でしょうか。《繭を突き破る》とも言っていただきましたし。 ところでわたしの経験からいけば ざっくばらんに打ち明けますが 親というものは 子に対して言うべきことを言って去って行きますね。言わなかったとしても あとでこちらが気づくようになっているようですね。変な言い草になりますが ちゃんとしたときに往きますね。ちゃんとしたときに健忘症にもかかるものですね。なかなか孤独関係というものを味わわせてくれるものです。 (どうもこういうことを言うのは われながら下手ですね)。 さてここからどう展開しますか。
袋小路は下麻呂さんもとい袋小路デブ麻呂さん。 車工場を例にとって見ましょう、 欠陥車両が公共の路上で走り回っているとします。 欠陥品を作った会社の処置はどうでしょう。 貴方の信仰を創った神は、それ相応に評価されるべきです。 欠陥信仰を作った欠陥神 どうでしょう。貴方が投稿をやめれば回答してもいいですよ。 いいかげん子羊からちょろまかすのをやめて、学んだ経済学を生かし慈善事業をしなさい。 ここからは立ち去ってください。 (文学に言って春樹の悪口をいいようにかいていてください。)
お礼
まづは 事実にもとづく話をこころがけるようにしましょう。 ★ でぶ ☆ は 二重あごの意味ですから それにわたしは該当しません。 ★ 学んだ経済学 ☆ 経済学研究科の所属でしたが 経営学専攻です。 ★ いいかげん子羊からちょろまかすのをやめて、 ☆ 得になったらそのとき考えます。 ★ 春樹 ☆ は放っておきますが ★ ここからは立ち去ってください。// 袋小路 ☆ この二点は あたかもご自分を鏡に見て思わず発したことばであるように聞こえます。 さて何とも読み取りにくい本論ですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 車工場を例にとって見ましょう、 欠陥車両が公共の路上で走り回っているとします。 欠陥品を作った会社の処置はどうでしょう。 貴方の信仰を創った神は、それ相応に評価されるべきです。 欠陥信仰を作った欠陥神 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 何とも理解しがたいですな。 ★ 欠陥信仰 ☆ 信仰に欠陥があったなら それは信仰とは言わないですね。せいぜいが信念をともなった思想です。一般には思い込みです。 神も同じようです。神であるか それとも 神でないか 二つにひとつです。欠陥神というのは 表現において矛盾しています。 なぜ神には欠陥がないか? 絶対として想定するものだからです。ですから 神といえば神。神と言わないならば 単なる神話の英雄や伝説の聖人があたかも神々のひとりに 人為的に加えられたに過ぎません。取り扱う必要がないしろものです。 ★ 貴方の信仰を創った神は、それ相応に評価されるべきです。 ☆ 人間が神を評価しようと またどう評価しようと 神には痛くも痒くもありません。ということで。 神の次元と 経験的な思惟や行動を表わす《車両》とは きちんと区別して話をすることにしましょう。後者を超えているからこそ 前者を想定するわけですから。 わかりましたか?
袋小路はげ麻呂さん ヘリクツは即刻やめるように。 貴方が袋小路です。 救われるものが信じる神が本当の神 貴方が信じる神は間違っています。
お礼
あぁ これはこれは nananisse さん。ようこそ。 こちらが勝手にお招きしたに過ぎないにもかかわらず こたえてくださりおそれいります。 そうですね。 どうでしょう? たとえば ほかの質問へのご投稿をそのままでいいですから ここへ寄せてみるというのは? 関係とか孤独とかという言葉をひとこと絡めてもらえば よいのでは? * きちんと言っとかないと あとあと困ることになるかも知れないので 事実はそのつど明らかにしてまいりましょう。 ○ わたしは でぶ気味だが 禿頭ではありません。部分的にもそうではありません。 * ご投稿を読み返してみて もう一点 いまはっきりさせておきましょう。 ★ 貴方が信じる神は間違っています。 ☆ ちょいと表現をいじくります。語弊のある言い方をしますが ひとは自分から《信じる》わけではありません。軽く指で触れるみたいに声をかけてくれるのは 神のほうです。その神は 普遍であるゆえ 間違いようがないのです。 なぜ普遍か? ですって? あなたが ★ 本当の神 ☆ という言い方を自由にするのと同じように それは 経験合理性に即して言うならば 無根拠のことだからです。ふつうに言えば なぞだからです。――これで 《孤独》の問題とつながりました。削除の対象をまぬかれたでしょう。 どうですか?
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.2です 養老氏の唯脳論(というより認識論)は、端的に言えば「人としての視点を介して」です。 >>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%84%B3%E8%AB%96 人は己の意のままにならぬ自然から開放されるために人工物で世界を覆おうとする。そのようにしてできた世界が脳化社会である。その特徴は下記の通りである。 人工空間の成立 仮想空間の成立 自然の排除 <<< にて、見て取ることができます。 上記記述の前段階、「人工」と「自然」とを分けている(分けようとしている)時点で、既に唯脳論的な捉え方をして(人としての視点を介して)います。 《関連性》ですが、どのレベルで取っていただいても何ら問題はありません。 私の場合、通常は(非局所的な量子エンタングルメントを含む)物理学的な相互作用全般を想定しています。場合によっては、柄谷氏の「諸関係の束」だったりしますが。。。 それゆえ、「コミュニケーション論だろ?」と言われたとしても、「そうかもしれないですね」としか答えようがないです。 《全体》については、既に解釈が分かれているので省略しますが、能動性・受動性との関連からすれば、一方の極としての「前野氏の受動意識仮説」を念頭に置いています。 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/27/news022.html http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/27/news022_2.html http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/27/news022_3.html >>>http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/28/news050.html それは各自が反射的にタスクをこなす機能の集積によるボトムアップのシステムである。我々の体内では膨大な反射からなる無数のタスクが機能しており、これらタスクの「並行分散処理」が行われている。そして局面ごとに活発になったニューロンが行動の主導権を握っていく。 このプロセスの連続が、私たちのふるまいである。そして意識は、こうしたプロセスの結果としてあとからアウトプットされる、いわば物語なのである。私たちがありありと感じる“わたし”という意識は、実は行動を決定していないのだ。 こう考えると先に提示した問いは解決する。受動意識仮説では、私たちのふるまいを決定しているのは、私たちの体の中で行われている活動のすべてであるといってよい。だから最初の「わたしという意識はなにゆえに?わたし?という個性を持つのか」という問いの答えは、無数のタスク、体内の小人たちの結合のあり方である。 我々はまず遺伝子にもとづいてこの世界に生まれてくるが、その後さまざまな経験を経て、自分であり続ける。その経験(それは外界のできごとのみならず、思考や読書を通じての体験のような内面世界の情報も含まれる)によって体内の小人のあり方は変わってくる。それが“わたし”という意識のユニークさにつながる。 <<< さて、受動性の側からの(極端な)見方を(二者択一的に)能動性の側が否定しようとすると、関連性を排除する方向に向かわざるを得なくなり、(コギトであるところの我として)孤立性・孤独性が浮き出してくることでしょう。 で、上述のような極端な場合であっても、能動的な側と受動的な側への端的な局在ではなく、能動・受動を併せ持っていて揺れ動いている情況であっても、そんなことなど考えもしないという状況においても、「《関連性》からは逃れ得ない」ということだと考えています。
補足
じねんさん このご文章を読むかぎり そこでのあなたは 袋小路に入っておられるとでも見ざるを得ません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・で、上述(* 省略したかたちで引用します)のような極端な場合であっても、能動的な側と受動的な側への端的な局在ではなく、能動・受動を併せ持っていて揺れ動いている情況であっても、そんなことなど考えもしないという状況においても、「《関連性》からは逃れ得ない」ということだと考えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という結論のところですが こういう意味において 《関係の絶対性》が言えるということでしょうか? ですが その情況 いえつまりは それは存在にとって基礎的な情況のあり方でしょうから言いかえると 自然本性としての存在のあり方ですね この自然本性そのままの《逃れ得ない関連性》なる情況にあって生きるとき そのときにもなおも人は いわゆる孤独感をおぼえます。 そういう現象が起こり しばしば人はこれを厄介に感じます。 このとき ここではすでにさいわいに bananasand さんより答えを得ております。たとえばわたしの言葉で ○ 孤独を突き抜けるとそこは 共生という現実だった。 ☆ になります。《共生という現実》が 《逃れ得ない関連性》です。問題にしたいとわたしが考える違いは ○ 孤独を突き抜けると ☆ という部分つまりそういう過程を捉えるか否かです。孤独を一たん通るか否かです。孤独を《錯覚》と見ないか見るかです。 つまりは じねんさんのご主張からすれば こうでしょうか。 ★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. ひとは その自然本性としての存在のあり方からして《逃れ得ない関連性》のもとにある。 2. ゆえに《孤独は錯覚である》。 3. したがってこう考えなさい: 《「人は、孤独である」という錯覚をどうして抱きうるのか?》 4. すなわちその答えとして: 《さて、〔脳のはたらきなどの〕受動性の側からの(極端な)見方を (二者択一的に)能動性の側が否定しようとすると、関連性を排除する 方向に向かわざるを得なくなり、(コギトであるところの我として) 孤立性・孤独性が浮き出してくることでしょう。》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おそらくこれですと まづは《孤独として自己を認識するという過程を通る必要はない》とすることになります。その代わりとしては こうです。 ★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 5. 孤独感をあなたがおぼえたのは 考えるという作業をあなた自身が――あなた自身の《わたし》という主体が――おこなっていると錯覚したからだ。 6. 考えるという作業は あなたが能動的におこなっていると〔思ったと〕しても そのとき同時に あなたの体や脳神経も共におこなっているのだから そのことを知れば 〔孤独感は〕錯覚と分かるはずです。 7. あなたの思惟や行動のすべてには あなたが意志行為を働かせる以前に活動している脳のはたらきが対応している。そのことを知りなさい。 8. そうすれば 孤独ではなくあたかも自然のふところに抱かれているというべき実態としての《逃れ得ない関連性》に あなたは包まれているとさとることでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしはこれは 自然科学の手法による観念の繭だと思います。 わたしの命題(α)を解き明かしたかたちになっているのですが〔たとえば (7)を参照〕 わたしのほうは (あ) 意志行為を問題としており(あるいは 孤独感を意志行為の問題として見ており) (い) したがって経験行為の過程を伴なうということが 特徴です。 ぎゃくに言えば じねんさんの命題は (う) 意志行為を打っちゃって 認識(知解)に還元していると人は感じるだろうということ それに(え) したがってその認識をおこなう時点に立つのみとなり 現実の行為過程から一歩退くかたちをとる。 わたしのおそれは これは コギト〔の悪い事例〕と同じではないか。すなわち意志行為を離れて 知解行為を単独分立させて《わたし》としてしまう悪い事例のさらに縮小版に陥るのではないかというものです。どうでしょう?
- bananasand
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まとめに挑戦してみます・・ この絶対は、自己が自己を自己とする完全性です。これが孤独です。 その絶対からして、対象は不可知であり、対象からの自己反射が「関係」となり存在ならしめます。 「関係」は自己に附従性を有し、不可分であるが故に絶対性を帯びます。それが現実です。
お礼
ふむ。今回は 満足してないですね。 どう不満かを言わねばならないですね。 ★ この絶対は、自己が自己を自己とする完全性です。これが孤独です。 ☆ 《わたしがわたしである。ほかの誰でもない。人間は生きることに限りがあるけれども そのあいだを貫いて わたしはわたし以外の者ではなくわたしであり続ける》――自己同一性のことですが いわば《完結性》とでも言うと分かりやすいようにも思いました。 言いかえると 《孤独》も わたしなる一人の人間において完結している。わたしの中に孤独はたしかにある。わたしの外は 分からない。外の人びとはそれぞれ 何やら人としては同じ存在であり同じ孤独のようであるが 分からない。わたしの孤独とは 一たん切れている。その意味でもわたしの孤独は わたしにおいて完結している。 この境界は 経験的で相対的なものだが それとして 定まっている。人びとの社会的な配置のあり方は 断絶とむしろそれゆえに互いに関係する位置取りと成っている。 これ以外の選択肢は ひとにないと思われる。或る種の仕方で この存在のあり方は 絶対である。 ★ その絶対からして、対象は不可知であり、対象からの自己反射が「関係」となり存在ならしめます。 ☆ これは ひょっとして 《絶対者=神》のことを想定していますか? 一応として不可知な対象は 神ですけれど。その ★ 対象からの自己反射が「関係」となり存在ならしめます。 ☆ 先の社会構造における《断絶と関係》あるいは《孤独と関係》もしくは《独立と関係》といった配置が 定まると言っていいでしょうか。 ★ 「関係」は自己に附従性を有し、不可分であるが故に絶対性を帯びます。それが現実です。 ☆ 《独立》は 自由意志につながります。《関係》は その自由意志の帯びる答責性(責任)につながります。意志の自由と責務がすでに 孤独そのものであるとも見られるし それが取りも直さず《関係》であるとも見られます。 おそらくこの基礎としての現実(つまりそういう社会構造)に則るならば あとはまったく自由であり この自由が対等であり そこにおいてわたしたちは 自由を享受することができる。 そして一般には この基礎現実の上でわたしたち人間は まだ 自由を曲げたり責務を素通りしたりして へそ曲がりを《謳歌》している。 どうでしょう。
- bananasand
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>《わたしのほかに一人として わたしと同じ存在はいない。=かけがえのないわたし》から孤独および それとしての孤独と孤独の関係 を見ていました。 この孤独は、相手の孤独を認容する単純な孤立の色を帯びてますよね。 でも、「関係」の絶対性を肯定すると、孤独にも絶対性が不可欠となりなりますので、 この御質問のそれが意味するところは完全な孤独だと思いますし事実そうなんですよ。 相手の孤独は、自分が完全な孤独であるのと同様の孤独であるかどうか、 完全であるか否か、自分は知り得ないということから自分の完全な孤独が成り立つのでは ないでしょうか。相手が完全に孤独であることを推定や共感の域を超えて、自分が実体験として 知り得るなら自分の完全な孤独は成り立ちません。 >ひと(他者)の孤独の中を覗こうとしたり忖度したりするのには馴染まない。といったところなのでしょうか? その推測、忖度、共感を駆使して、まさに、自分の孤独が「関係」作りをし現実を形成すると言うことですが、如何に懸命になっても絶対性を打破することは不可能という限界があると言うことになります。 >○ 孤独の中身は なぞである。なぞのまま 互いに自由に交通するなら そもそもの関係性が活かされて互いに対等の間柄になる。 核心ですね。 孤独の中身は、絶対である。存在の所以である。「関係」こそが現実である。 相手の孤独の中身はなぞである。なぞは絶対を映しだすが故に常に対等な間柄である。
お礼
お答えをいただきたいへんありがとうございます。 ほおう。 ○ なぞ ☆ でいいのですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 孤独の中身は、絶対である。存在の所以である。「関係」こそが現実である。 相手の孤独の中身はなぞである。なぞは絶対を映しだすが故に常に対等な間柄である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あとは 《絶対・絶対性》の意味を明らかにしておかねばならないようにも思いました。それは ★ 完全な孤独 ☆ というものとも関係しているようにも伺えますね。 というのも わたしの場合 ここでは 次のようです。 ○ 関係の絶対性というときの《絶対性》とは 《そのかかわりやつながり(=関係)を避けることが出来ない》という意味あるいは《選択肢がほかにないと思われる場合》のことです。 ☆ 要するに 離れ離れになるときもあるが そのかかわり(関係)は もう一生のあいだ そこから逃がれられないという意味に採っていました。親子の間柄と同じ関係なのだというような意味です。 そこらへんは いま少しあいまいな形になっているでしょうか? そのあたりについて触れて まとめていただけるならさいわいです。よろしくどうぞ。
- bananasand
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>○ 関係において ひとは孤独でなくなるというよりは 孤独なる自然本性どうしとして生きる。そのときひとは 孤独があたかも自由で独立していると 互いに認め合うかも知れない。時として 対等があたかも実現したと思う。 「お互いに認め合う」とする相手の孤独は絶対に知りえないのだという事実が、自分の孤独と「関係」に絶対性を与えています。 相手の孤独を推定し、共感し、対等があたかも実現したと思う相対性が、孤独を共生に変容させます。もちろんそこにこそ現実とか「関係」があるのですが、これらは、自分の孤独が作り出しているからこそ、元の絶対性が担保されていると言うことだと思うんですね。 しかし、そこが限界で、相手の孤独はどうしたって知りえない、もし知り得るなら自分は孤独ではなくなるという界面に到達します。 >○ 何らかのかたちで訣別したひとがいる。去って行ったのだ。このとき 離れていても 人間存在としては 関係が断たれたわけではない。それを 関係の絶対性ということばで表わそうとしたのですが とは言えそれは いったいどういう現実か? それは、その通りで、日常生活上や法律上あるいは生死で関係が絶たれたという現実と、自分の「関係」の存在という現実は別のことです。「関係」の絶対性というのは、自分の中にある「関係」ほど確かな存在はないということで、相手が如何に関係を絶ったのだとしても、自分の「関係」の絶対性は侵されることはないと言うことになります。翻すと、これが孤独の絶対性の所以でもありますね。 >○ 放っておけば その関係というのは言わばそれ自体で 時の経つにつれ あたかも熟れてくるということでしょうか? それは、関係の折り重なり、万物の変化、忘却により絶対性の中であっても熟成されると言うことでしょうけれど、真剣に議論すると存在論、時間論の迷宮へ誘われますね。
補足
球を打ち返していただいてありがとうございます。 ★ ・・・関係の折り重なり、万物の変化、忘却により絶対性の中であっても熟成されると言うことでしょうけれど、真剣に議論すると存在論、時間論の迷宮へ誘われますね。 ☆ なるほど。ひとつの簡便な答えは そうすると 《断たれていた関係(交通)が 或る日 つながった。つまり出会いが成った。》というときに その間の空白の時間には どのような熟成が出来ていたか分かるというところでしょうか。それまでの途中の段階において議論や推測には馴染まないということですかね。 ううーん。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「関係」の絶対性というのは、自分の中にある「関係」ほど確かな存在はないということで、相手が如何に関係を絶ったのだとしても、自分の「関係」の絶対性は侵されることはないと言うことになります。翻すと、これが孤独の絶対性の所以でもありますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひょっとすると このような意味で《じんるいはみな兄弟》といった見方になるのでしょうか。《信仰》の以前に・ふつうの社会生活という次元において かかわり(関係)とつながり(あたかも対等な兄弟姉妹関係)が捉えられるというところまで行きますか? だったら 自由にけんか(口論)が出来ますね。余分な感覚的反応ですが。 ★ 「お互いに認め合う」とする相手の孤独は絶対に知りえないのだという事実が、自分の孤独と「関係」に絶対性を与えています。 ☆ なるほど。こちらから攻めるのですね。わたしの場合は 《わたしのほかに一人として わたしと同じ存在はいない。=かけがえのないわたし》から孤独および それとしての孤独と孤独の関係 を見ていました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 相手の孤独を推定し、共感し、対等があたかも実現したと思う相対性が、孤独を共生に変容させます。もちろんそこにこそ現実とか「関係」があるのですが、これらは、自分の孤独が作り出しているからこそ、元の絶対性が担保されていると言うことだと思うんですね。 しかし、そこが限界で、相手の孤独はどうしたって知りえない、もし知り得るなら自分は孤独ではなくなるという界面に到達します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いいですね。何か心配をしていて損をしたといった感じですね。 《しかし》のあとが いまひとつ分かりづらいです。 孤独は 動態であり過程であり生きることそのものであるから 誰かと訣別したあとの離れ離れのときに その関係のときが満ちるのを憶測したり議論したりしても始まらなかったのと同じように ひと(他者)の孤独の中を覗こうとしたり忖度したりするのには馴染まない。といったところなのでしょうか? そうすると あれですね。わたしはいつも《なぞ》ということを言っているのですが ○ 孤独の中身は なぞである。なぞのまま 互いに自由に交通するなら そもそもの関係性が活かされて互いに対等の間柄になる。 ☆ ??? もう少し わずらわせ申し上げます。
- bananasand
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>孤独どうしの存在関係は 普遍的だという推定および推論および直観的な納得およびそれとしての生活感覚かつ生活共同が現実だというところまで延びませんか? 孤独と共生のパラドクスなんですね。 繰り返しになりますが、孤独どうしの存在関係を孤独側から見ると孤独では無くなるということです。この問題は、孤立ではなくやっぱり孤独でしょうね。 孤独どうしの存在関係は相対的であり、孤独に存在する関係は絶対的である です。 したがって、「普遍的だという推定および推論および直観的な納得」は、 あくまでも、孤独の内部にあり、共生の海に出航したとしても、 孤独が作り出している絶対的な関係であるということではないでしょうか。 後段の、生活感覚かつ生活共同が現実だということはその通りだと思います。 >孤独を突き抜けるとそこは 共生という現実だった。 これは、絶対的な関係であることから、その通りだと思います。 共生という現実を構成しているのは孤独だった。
補足
ご回答をありがとうございます。 大同小異になってまいりました。と思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 生活感覚かつ生活共同が現実だということはその通りだと思います。 >孤独を突き抜けるとそこは 共生という現実だった。 これは、絶対的な関係であることから、その通りだと思います。 共生という現実を構成しているのは孤独だった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 部分的な引用ですが 大同としての基本であるように思います。 小異が どのように異なっているか これがまだ つかみかねています。 どうも ○ 孤独 ☆ という言葉の定義にもかかわるのかも知れません。 ★ 孤独どうしの存在関係を孤独側から見ると孤独では無くなるということです。この問題は、孤立ではなくやっぱり孤独でしょうね。 ★★ (No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この「関係」には、二つの解釈があるように思います。。 一つは、自分からみた関係であり、まずは、その絶対性を肯定します。 もう一つは、関係そのものの絶対性なのですが、孤独どうしのかかわりなど / そもそも存在のしようがありませんから否定したいですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづこの二番目の《関係そのものの絶対性》は 別としてよいようですね。たぶん概念のいじくりのようなものになるかと思います。 と書いて来て いま分かったのですが 違いは次にあるのではないか? ★ ( bananasand さん) 孤独どうしの存在関係を孤独側から見ると孤独では無くなるということです。// まずは、その絶対性を肯定します。 ☆ ( bragelonne ) (1) ひとは おのおの《わたし》なる存在として 身体かつ精神のまとまった自然本性を持って ひとりにおいて生きる。同じ人間は 一人としていない。 (2) 精神=身体の――精神=身体の一体となった存在の――ところどころを他の人と取り換えたり しばらくの間他の人の代わりとなって生きたりするということは ない。 (3) この《世界に二人といない〈わたし〉は〈ひとり〉なる存在である》という《孤独》は 誰もがこの孤独であるからには その孤独どうしとしてかかわりあっている。(社会に生きるかぎりかかわっている)。 (4) 《わたし》は みづからが孤独であると知っている。と同時に 社会はその同じ《孤独》という存在条件のもとに共に生きる関係として成り立っている。 ・・・ ☆ ここまで来て 初めに分かったと思ったことが必ずしも明確ではなかったようです。初めに気づいたと思ったことは ○ 関係において ひとは孤独でなくなるというよりは 孤独なる自然本性どうしとして生きる。そのときひとは 孤独があたかも自由で独立していると 互いに認め合うかも知れない。時として 対等があたかも実現したと思う。 ☆ でしたが すんなりとは行きません。申し訳ないですが このまま球をそちらに投げ返します。 あと 質問じたいの動機は こうでした。それについても考慮いただけるならさいわいです。 ○ 何らかのかたちで訣別したひとがいる。去って行ったのだ。このとき 離れていても 人間存在としては 関係が断たれたわけではない。それを 関係の絶対性ということばで表わそうとしたのですが とは言えそれは いったいどういう現実か? ○ 放っておけば その関係というのは言わばそれ自体で 時の経つにつれ あたかも熟れてくるということでしょうか?
- 来生 自然(@k_jinen)
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「人は、孤独である」という錯覚をどうして抱きうるのか? おそらく、問題はそこから始まるのではないでしょうか? 意志行為の始まる前、ひとは母体から生まれいずる。。。 太古にて、生命がその息吹を「自然に」得たとしても、周囲との関連性があったが故に、それら周囲を含めた「自然」(母体)から切り離されては生まれ得なかった。。。 孤独という概念は、人が個別に、知的に思考しうるということと関連しあっていると思います。 養老氏の唯脳論(的な認識論)は、(脳側を中心とした)思考から排除しようとするもの(排除されやすいもの)が、(関連性を有しているが故に、不自由に感じる)身体側を通した自然(摂理)だとしています。 存在の側から思索すれば、「孤立して存在しうるものはあり得ない」になり、認識の側から思索すれば、「関連性から孤立した視点、ないし、あらゆる関連性を考慮に入れた視点、ないし、あらゆる関連性に影響を受けない視点、あるいは、自由な着眼点を求めようとする」ことになるでしょう。 知的思索が全体の部分でしかなく、かつ、全体との関連性から独立し得ないということは、(認識の側が存在の側をどのように捉えたとしても、)孤独(ないし孤独感)すら、全体の部分でしかありえないということになるでしょう。。。
補足
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. 孤独というのは錯覚である。 2. 存在が生まれてくるあり方は――それを自然本性と言うならば 自然本性は―― ほかのひととの関係性の内にある。 3. 孤独ともし言うとすればそれは 思考能力および実際の思考にかかわって――あるいはおそらくわたしの見方では 意志行為として―― 捉えられる。意志による自由な選択行為としての孤独。 4. 養老猛説は意味がとれませんでした。あしからず。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ となりましょうか。 例によって 反論です。 (3)の《意志による判断を代わりの人間がおこなうことは出来ない》ゆえの孤独は (1)に言うところの《錯覚》ではないでしょうし (2)の《自然本性としての関係性》と両立しうると思うのですが どうでしょう? 《関係しつつ孤独である》つまりは《孤独でありつつ関係し合っている》ことは まだ持ち堪えうるように思いますよ。 用語について吟味します。 ★ 関連性 ☆ は具体的なかたちで 血縁があるとかないとか 出身(地縁・国)が同じ・違うとか言う場合に用いるとよいと考えます。具体的な交通(まじわり)をつうじての関係性(かかわり)と言った意味合いです。ひとは特に関連性を持たなくても 存在として関係し合っているという見方です。(反論あれば乞います)。また ★ 孤立 ☆ も同じく具体的な要素や要因をつうじて現われた孤独のかたちに用いるとよいと思います。周りから《孤立》すると 存在感がないと見なされ発言の力も失われたりしますが このように《孤立》していなくとも ひとは存在として《孤独》としてあるという見方です。(反論をどうぞ)。 ★ 知的思索が全体の部分でしかなく、かつ、全体との関連性から独立し得ないということは・・・ ☆ たぶん上の(3)の問題だろうと思います。コギトつまり思考(知解)に限れば 存在ないし自然本性ないし精神(ここに記憶と知解と意志を含む)を代表させ難いのだと見ます。でも 意志行為は 存在ないし人格の全体を表わすと見うるのではないでしょうか? つまりは 知解の結果現われる意志行為という段階にあっては すでに他者との関係(つまりこのばあい交通)が前提されているからです。社会行為でありうる知解(思考)が 意志行為として現われることによって 実際に社会行為となる。 言いかえると 意志行為としては 意志じたいにみづからの価値観を排除しておらずその上に 知解のコギト(ないし理性)とともにすでに情感(感性)をも伴なっており これらが合わさってその場での人格の全体を表わすと言えるのではないか。 ですから――そうとう我が田に水を引いていますが―― ★ ・・・(認識の側が存在の側をどのように捉えたとしても、)孤独(ないし孤独感)すら、全体の部分でしかありえないということになるでしょう。。。 ☆ こうではないでしょうか? つまり 全体は・人格の全体が 《孤独でもあり関係性でもある》。 その上でこの質問は ○ 関係性 あるいはさらに関係の絶対性 ☆ とまで言い出してみたものの その実態は如何に? という恰好なのです。 ただし ★ 非孤独としての孤独説――自然本性において―― ☆ につきましては しかと受け賜わりました。つまりその上で 具体的にはどうなのか? と問いたい気持ちが残っています。 存在論と言いましたが コミュニケーション論でもあるようですね。つまりは コミュニケーションが取れていなくても関係の絶対性を言うわけですから その中身はいったいどういうことなのか? です。 * この場を借ります。nananisse さんに告げます。対話の意志がおありだと見ましたので どうぞよその場でそうしないで ここに投稿を寄せてください。
お礼
そうですね。そうでした。つまり ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《絶対者=神》のことを想定していますか? いいえ。違います。ここで、対象とは、相手であり、自己以外のあらゆる対象です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この対象たる相手は いわゆる《他者》のことでした。その他者について こちらは自分と同じ部分については分かるが 違う部分については分からないという視点ですね。なぞにもつながります。 ★ あくまでも、自己が対象を対象としているようにしか / 知り得ません。 ☆ したがって 断絶を見ることになるし むしろ断絶ゆえに関係しあう要因をおのづから持つことになる。断絶ゆえに 自由であり互いに対等になれるのかも知れません。 ありがとうございました。 k_jinen さん(No.2)のところで持ち上がったのは コミュニケーション論でした。コミュニケーションの断絶を超えてどのようにつながるか・かかわっているか。これは 広すぎますかね。かれの投稿をもう少し待って そのあと締めます。 《もっと具体的で揺れ動くダイナミックな態様》についても 設問を改めたほうがよいでしょう。 ただし 補うことなどありましたら どうぞお伝えください。 あらかじめながら 導いてくださってありがとうございました。