• 締切済み

考古学の存在意義

考古学の存在意義について皆様がどのように考えられているのかお聞きしたいので質問します。 乱文となってしまいましたが、質問させて下さい。 賛同、反論、ご意見や補足などお待ちしております。 (単なる賛同だけでも結構です) 考古学は何のために存在するのでしょうか? 一般的には、ああ、学者さんがやっているからきっと偉い事に違いない、でもおそらくは実用には使えない、くらいに思われているのではないかと思うのです(事実以前までの私がそう思ってました)。 ただ、私個人としては「考古学の為の考古学」ではなく、別の観点から社会的必要があるのだと思うのです。 哲学・思想に近いのかもしれませんが、私は、 ・文明や科学の進歩というのは本来の人間のあり方からすれば不自然なのではないか?  ・自然と共存すべきなのではないか?  という疑念に囚われており、もし人類そのものがすべからくして皆そうした思想を持っているなら、現代に至るまでも我々は洞穴に住んでいる筈ですが、そうではない。文明は発達し、科学技術は進歩する。知性は磨かれ、これらを道具として上手く使った集団が勝者となり、富を得、勝者側の人間としての人権を確保する事ができる。そうした「人類の文明や科学技術を進歩させるべきか否か」という哲学的命題(?)に対して、最初の考察材料、人類史から見る思想の変遷という建築物を構築する際の一番硬い足場を与えてくれるのが考古学であり、それが考古学そのものの存在意義なのだと捉えています。 以上は私個人の考古学に対する存在意義なのですが、本来の考古学の存在意義はどのようなものなのでしょうか?  ※ちなみに私自身は考古学は全く勉強しておらず(これから必要に応じて調べようと思います)、日本史は縦穴式住居と縄文式土器、世界史ではメソポタミア文明くらいしか覚えてません。 尚、この質問は学校のレポート絡みではありません。飽くまで個人的な知的欲求がある為に質問させて頂いております。私の質問はどうにも誤解されやすいようで、そのような指摘を頂く事が度々ありますので、一応念の為に書き添えておきます。

  • booter
  • お礼率59% (502/841)

みんなの回答

  • agathi
  • ベストアンサー率100% (6/6)
回答No.2

歴史学も人類学も学問において分類をしたのは大きな広がりが出来るからであるそのつながりを無視することは出来ないでしょう。 考古学を勉強していれば地質学や植物の知識その他多くの分野とのかかわりが必要になることが出てきます。 しかしここにはどの分野の考古学を見るのか といったことも考えることが出来ます。 海洋考古学、歴史考古学、人類考古学、植物考古学、環境考古学、そのた考古学としてはいくつ物分野が存在し、其処にそれぞれの異なりつつも共通の知識が必要となります。 人は先を予測することは出来ても知っていることはありません。 また古き事といわれる物事に関しても個人として経験ないし体験をしたのでなければ推測、憶測が飛び交います。考古学は 古き事を学び考える と私は捉えます。もちろん時のままであるのですがその捕らえ方は三者三様となるでしょう。言葉は時として不確かなものになります。 しかし、各分野の考古学上発見されたものが物証となり物事を裏付けて憶測や推測からより真実に近い歴史として捕らえることが出来るようになります。 そういった観点から考古学の存在意義というより、考古学という分野は人が考古学と名づけ分類した人の知識の形の一部でもあるように思われます。 私の研究している神話考古学は目に見えないものをとあり扱いながらも実際の遺跡にある遺物、遺構との照らし合わせを行なったりします。私の神話考古学は日本ではなくある決まった場所のみを対称としていますので他の方の事はわかりません。 しかし、私は大した知識も無いのに日本以外の国の考古学を自分から学ぶことを選び、独自で研究をしています。 それは私にとって自分自身の行なっていることに対する誇りであると同時に考古学をより深く自分の中で身近に、そしてその行為自体を誇りに思うものです。 たとえ自分のしている研究が誰の目にとまることも無く、誰かに嘲られ笑われるたとしても、否定されたとしても私にはその言われは意味を成さないものなのです。私自身が考古学、しいては自分の研究している神話考古学にを誇りとしていますから。 ですから大まかにいう考古学の存在意義というのは…どのような観点で見るかということになると思われますが、人間が知識を持っているのならば自然なものあるのであはにのでしょうか? 各分野の考古学に関してはその存在儀は本人のみならずその他の考古学や考古学以外の分野とを密接に繋げているものとでもいうのでしょうか。 まとまりが無く申し訳ありません。ただ、考古学とは という質問はとても大きいのではないのかと少々思いました。 長々と申し訳ありませんでした。

booter
質問者

補足

丁寧なご回答を頂きありがとうございました。とても勉強になりました。&御礼遅れて申し訳ありません。 考古学と言っても数種類あるのですね。不勉強でした。 またご自身の経験からの考えも非常に参考になりました。 重ねて御礼申し上げます。 >考古学という分野は人が考古学と名づけ分類した人の知識の形の一部でもあるように思われます。 私の感想なのですが、回答のここの部分は非常に美しいと感じました。 私自身は人間の思考のありよう、人間の存在意義の哲学を考察するのに人類考古学(かな? )が必要な為、考古学というジャンルに行き着いたのですが、学問の知体系をクロスオーバーで網羅した、結果、一部が「考古学」という部分になった、という事については哲学を考察するに考古学を土台としたい私の考えに非常にマッチしています。 >知識を持っているのならば自然なものあるのであはにのでしょうか? 人類が生存し、高度な学問、学術を備えるならば、必ず考古学に行き着くだろうと捉えました。私もほぼ同じ考え方です。 ちょっとだけ嬉しいです。 また、あるいは少し規模を小さくして、国体の護持、国体意義の強化をする為に考古学を使う事もある、というご意見なんかも期待していたのですが、中々出ませんね。 >たとえ自分のしている研究が誰の目にとまることも無く、誰かに嘲られ笑われるたとしても、否定されたとしても私にはその言われは意味を成さないものなのです。私自身が考古学、しいては自分の研究している神話考古学にを誇りとしていますから。 そうなのですね。現在の事象であれ、過去の事象であれ、それを研究して分析し、文章にして人に広めるというのは、役に立たない事はありません。必ずそれを必要としている人にとって役に立ちます。 (ただそれが見つかりにくいだけで・・・) ==補足== #1さんの御礼では書きそびれたので、私の意見を追って少し細かく書きますと、昨今の世の中では「核兵器なんて開発すべきじゃないよ」「科学技術の発展のしすぎは自分の身を滅ぼすよ」「そもそも人間というのは元々平和に生きていく生き物なんだからそうすべきではないよ」という事が言われているのですが、対して私が、「本当かなあ」「(上記説が)本当であれば、そもそも人間は技術の発展に力を入れずに今でも洞穴に暮らしているだろう。が、実態はそうではない」「技術の発展こそは人間の本能による行動なのでは」「昔の野生動物としての人間から社会を構成した高等知能生物への変遷で、どういう風に社会要素を為す技術がそれぞれ発達していったのか」という哲学(?)的な疑問が考古学へ触れる発端でした。ここから私は、私自身の考古学の必要性を見出したのです。 これが私が考える私個人にとっての考古学の存在意義です。 少し、上記の論を進めますと、それでは科学技術を生み出した文明は自然な状態ではないのか、と問うとそうでもない。 高等知能を持つ動物として繁殖すれば、人が集まり、国家が形成される。それが広がると戦争が生まれ、より知識や技術力が高い国が隣の国を併呑する。とすれば、人間が自らを滅ぼすにまで至る科学技術を発達させるのは自明である(但しその使用実績についてはこれを除く)という考え方が現在における私の結論です。

  • yuji_m2
  • ベストアンサー率41% (5/12)
回答No.1

一つ言える事として、あなたは考古学以前に歴史学を知らなさすぎると思います。その状況から考古学の存在意義を問うことは、考古学を真剣に研究している人に対する侮辱行為としか受け取り用がありません。 考古学がただ考古学のためだけに存在しているとしたら、考古学は学問としては成立しないでしょう。ただの骨董品を集める人と同じです。 途中の哲学?めいた理屈はあなた個人の意見であって明確な理論として受け取ることはできません。考古学は文献資料が登場する以前の歴史を解明するためだけの学問ではなく、それ以降においても非常に重要な役割を有しています。 つまり考古学で知りえた情報を歴史学に還元し歴史学としての役割も担うのが考古学であると考えます。歴史学なくして考古学は成立しないし、考古学なくして歴史学は成立しない。それは人類史についても同じことで、人類史も考古学もすべては歴史学・人文科学にとって欠かすことのできない学問だと言えるでしょう。

booter
質問者

補足

回答頂きありがとうございます。 「学問の為の学問」と書いたのは以前までの私の感想であって、現状は実益に則しているというのが私の考えによる私自信の認識です。 侮辱と捉えかねない文章になってしまい、お詫び申し上げます。 ただ、私のような素人一般の人間は「考古学とはなんだろう」「考古学とは何のために存在するのか」という点についてあまりよく知らないというのが現状であると思います。 私自身は考古学について正式な学問から入った口ではなく、「人間が野性的動物から高度な社会的知能集団へ変遷する際に、何の技術をどのように進化させてきたのか」という個人的興味から、いわばわき道からアクセスしてきたので、そもそもスタンダードな「考古学とはこういうものなのだ」という考えを知らない為にここへ質問させて頂いたのです。 以前、ここにも下記のような形で質問させて頂きました。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5266241.html 歴史学に無知であるというご指摘を頂いたので、早速調べてみました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6 >人間にとって、何かしらの物事の成り立ちや経緯・来歴を知ろうとするのは半ば本能的な行為である。 との事で私なりに「物事の成り立ちや経緯・来歴を知ろうと」して考古学にアクセスしたのは間違いではなく、脇道から入ってきたのにも関わらず、むしろその方法論として正当であると感じました。そして考古学はこの為にあるのだとも思いました。 ただ、歴史学の初歩さえ知らずに質問し、お恥ずかしい限りではございますが、前提知識もなく「考古学とは何か」という質問をするのはここではNGなのですね。もうすこし自分の方で調べて考えを練り上げてみます。 ただ、質問が乱文になってしまい、誤解も招くような文章となってしまいましたが、恐れ入りますがこの質問自体は継続させて頂きたくお願い申し上げます。

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