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研究者の評価観点と研究者への動機
- 研究者が他の研究者を評価するときの観点や回答者の重視ポイントを紹介します。
- 研究者としての評価は論文数と研究テーマが重視され、研究テーマの流行度はあまり関係しません。
- 研究者になろうと思った動機は単純に研究が面白いからで、一部の人は社会的な有名人になることを目指しているとも言われています。
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質問者が選んだベストアンサー
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定年退職しちゃたので研究者とは言えませんが、まだ専門家の内かなという者です。 一般的にはご質問者の判断基準が「ごく当たり前」の基準だと思います。 ただ、最近グラントを取ってくるのに「役者」稼業をすると有利になる傾向があるようです。それでも結果が付いてくれば構わないでしょう。 私が一番重視するのは数量ではなく「コペルニクス的転換」です。 論文数が極めて少なく弟子も大して育てなくても、学問に「後戻りできない」楔を打ち込む方が最も評価されるべきだと思います。 そんな方は少ないですけど。
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- GPCR
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質問が目に留まったので回答させていただきます。学部4年生の戯言ですので軽く受け流してください。 私の興味がある分野はまだ分かっていないことが多く、自分で研究することにより得られる新たな知見も含めて、いろいろ知りたいと思い、研究者を目指しています。 ここから先は質問者様の質問から少しずれてしまいますが、私が、教授や研究室のどこを見て研究室を選んでいるかお話したいと思います。 第一に研究テーマ・所属学会を見ています。 いわゆるタレント教授には興味がありません。 論文数はチェックしますが、絶対的な数を問題にしているのではなく、学生の人数と論文数を比べた時に極端に多すぎたり少なすぎたりしないか、というのを見ます。(前者は重労働すぎる、後者はなにかトラブルがあると考えています。)どんな査読誌の論文かも見ていますが、内容を重視しています。 研究室選びに大学名を気にするのは事実ですが、大学のレベルが下がると学生の質が下がり、テーマや研究室の雰囲気(どれだけやる気がある学生がいるかなど)にも影響を与えるからで、所属する大学のレベルと関係なくいい研究をしている人がいることは知っています。 科研費はチェックしますが、研究に困らないくらい貰っているのであれば、額は気になりません。 コネがありそうかは余剰博士問題を考えると気にはなりますが、結局は研究室を選ぶポイントにはしていません。 質問者様の話に出てくるような人は学部生でもまれだと思います(少なくとも私の周りの進学希望の学部4年生や大学院生にそういう人がいません。)
お礼
ご回答、ありがとうございます。 質問文が長いせいか、学生さんからの回答がなかったので、学部生の方にお答えいただけて、嬉しいです。 >論文数はチェックしますが、絶対的な数を問題にしているのではなく、学生の人数と論文数を比べた時に極端に多すぎたり少なすぎたりしないか、というのを見ます 論文数が少ない場合には、責任は教員のせいだけではなく、学生のせいかもしれません。一昔前なら、院生は放っておいても研究しましたが、今の院生は昔よりも手がかかります。論文を書いているときに、つきっきりで一緒に徹夜までしてあげないと書けないという学生もいます。そういう手のかかる院生が何人かいると、研究室全体の生産性は下がります。そういう実状は数の上からだけではわからないので、ご興味のある研究室があれば、教員だけではなく、そこの学生にも話を聞いてみた方が実態がわかると思います。 >研究室選びに大学名を気にするのは事実ですが、大学のレベルが下がると学生の質が下がり、テーマや研究室の雰囲気(どれだけやる気がある学生がいるかなど)にも影響を与えるからで、所属する大学のレベルと関係なくいい研究をしている人がいることは知っています。 大学院は外から受ける人もいるので、大学院の研究レベルは、学部のレベルや先生の知名度とは異なっています。 私大の場合には、大学院の研究室の状態はさまざまです。私大は一般的に学生の人数が多すぎるため、学生も教員も自分自身の研究以外の仕事が多くなります。私の知り合いの某有名私大の教授の研究室には学生が100人以上いるそうです。そんな状態ですから、学部生の指導は院生が主にやっていて、学生は指導教員に合うのに一ヶ月くらい待つのは普通だそうです。その先生は、その研究分野では非常に有名で有能な方で、ご本人自身の論文数もすごく多いのですが、いくら教員が有能でも会うことができなければ、学生はちゃんとした指導は受けられません。もし、質問者さまが私大に在学されているのであれば、国立大学の大学院に進学されることをおすすめします。
- otx
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質問者様の評価に、私も同意します。 しかしながら、世間は世知辛いです。 いい研究をしているといっても、研究費を稼がないと研究できないです。 今の世の中、いい研究か?と、科研費の申請を評価する人らが、まったく同じ専門をしている人とは限らないので、まっとうに評価する下地がない場合が多いと思います(No3様に同意です)。 そうなると、研究者の間でも客観的にわかる論文の数とか、お偉方のコミュニティーに面識があるとか(教授となると研究者というより政治家とはよく言ったもの)、そういうものにある程度走らないと・・・ ってなってしまいます。 今の学生は、研究者とはなんぞやというよりも、そういうコネを持っているとか、研究費を稼いでいるとか、そいういうものを感じ取る感覚に優れていると思います。 まぁ、ただラクしていい思いがしたいとか、同じ労力でいい思いをできそうなところに行きたいとかいう、あまり関心できないような動機だと思いますが、研究費を稼げないコネがない人には何も言い返せない痛いところだと思います。 夢だけでは飯が食えないという女の人、それに言い返せない男みたいな・・・。 愚痴になりますが、研究費を稼ぎながら研究をやっていると その研究をしたいからこの研究テーマで実験をしているのか 研究費を稼がなければならないから今のテーマで実験をしているのか どっちだっけ?って思うときがたまーにあります・・・。 逆に、研究の評価って何なんでしょうね・・・。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 >今の学生は、研究者とはなんぞやというよりも、そういうコネを持っているとか、研究費を稼いでいるとか、そいういうものを感じ取る感覚に優れていると思います。 そうですね。今は、インターネット上でもデータは調べられますから、研究費のような客観的なデータは学生さんにとってわかりやすい指標なのかもしれません。 大学院に進む前から、いろいろ調べて自分の将来の希望に合う研究室を選ぶ方もいれば、単純に有名な先生の研究室を選ぶ方もいて、学生さんもいろいろだなあと思います。ただ、どんなに有能な先生の研究室にいても、その後の研究者人生にはレールはないので、学生さんには、将来の進路は自分の力(努力、実力、忍耐力など)次第だということはわかってほしいと思っています。 >夢だけでは飯が食えないという女の人、それに言い返せない男みたいな・・・。 私は女性なので、この比喩にはあまりうなずけないのですが(夢だけで頑張ってたポスドク時代は苦しかったですし)、おっしゃるとおり、世の中は世知辛いと思います。
- imoriimori
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一応同業のはしくれです。 沢山査読付き論文を出している人を見たとき、ばりばり数を出す人だなとは思いますが、ばりばり研究しているすごい人だ、と思うことは殆どありません。こんなに書かなくてもと思うほうが多いし、この論文はまずい、出すべきじゃない、と思ったりすることだってあります。 ほんとに素晴らしい研究者かどうかは、数ではまずわかりません。他のかたもお書きですが、数以外のものでしょう。しかしながら、例えば珠玉のような成果を出したかどうかは10年か20年経ってようやく意義がわかることだってあるし、難しい。深く正しく理解し独創的で良い仕事をしているか、というのは自分の専門分野に重なる場合にはある程度わかりますが、ちょっと離れるともはや判断放棄するしかありません。結局判断できないのです。従って私の場合は(自分の専門分野とか弟子以外は)研究者を評価しようなんて発想はゼロです。 私は元は産業育ちですが、大学に来て業績とか成果イコール論文数というカルチャーの極端さにびっくりしました。内容評価できないから、客観評価というとやむなく論文数になるんでしょうね。そして外部に対するアカウンタビリティということもあるのでしょうね。まあしかたないと思いますが。。。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 >沢山査読付き論文を出している人を見たとき、ばりばり数を出す人だなとは思いますが、ばりばり研究しているすごい人だ、と思うことは殆どありません。こんなに書かなくてもと思うほうが多いし、この論文はまずい、出すべきじゃない、と思ったりすることだってあります。 そうですね。個人的には、他人の論文について自分論文についても、そのように思うこともあります。これは、本数稼ぎのためのジャンクペーパーだなぁとか、出せば通るような論文誌に書いても意味ないだろうとか。 でも、コンスタントにそれなりの論文をそれなりの本数書ける人は、やはり、すごいという気持ちもあります。例えて言えば、TOEICで990点を取るのはそれほど難しくないけれども、それを10年間ずっと保っていられるなら、毎年受け続けるという忍耐力を含めてすごいと思うような感じです。自分が私大の教員で授業にもかなりの時間を割かないといけないから、そう思うだけかもしれませんが。 >私は元は産業育ちですが、大学に来て業績とか成果イコール論文数というカルチャーの極端さにびっくりしました。内容評価できないから、客観評価というとやむなく論文数になるんでしょうね。 研究費を獲得するためには、それなりに客観的な評価ができるものを出さないといけませんから、確かに、大学ではそのような傾向になりがちだと思います。最近は、大学以外(産業界を含む場合も含まない場合もありますが)の一般社会に対して、もっと研究成果をわかりやすくアピールせよ、というプレッシャーもありますから、論文数をかせげる研究をしている人と一般の人にもアピールするような研究をしている人が研究費をさらっていくような感じだと思います。 質問に書いた知り合いの院生の考え方は、研究者としてはズレているのかもしれませんが、研究者をしばらくやっていると、ときどき自分が何のために研究しているのか(研究費を獲得して研究者を続けていくために研究しているのか、研究が楽しいから研究しているのか)だんだんわからなくなってくることがあります。そういうときには、有名大学の有名な教授になりたい、という単純な動機の方が強いのかもしれないと思ったりします。 参考になりました。ありがとうございました。
- kagakusen
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それなりの研究費は20年以上自助努力で稼いで研究をしている(企業からではありません)研究者のはしくれです。 一般的な判断基準はおっしゃるとおりだと思います。これらは研究者として生きてゆくには最低限必要なことでしょう。しかし本当の意味でのすばらしい研究者の判定は、論文数などではありません。私は適切な課題設定を行い、(1)きちんとした研究手法で考察ができる人と(2)ひらめきのある人だと思います。このような目で見ると、東大といえども8-9割がたの教員は不合格です。地方大学では9割以上がとるにたらない研究者です。いくらお金を取ってきても多くの論文を出しても評価に値しません。表面的な成果では評価できず本人と議論をしてみないと分かりません。それでも分からないこともあります。手八丁口八丁というやつです。実際のところ、研究はほんの一握りの人の研究成果によって進展します。もちろん、この基準にもれる他の研究者が全くダメということではありません。それらの成果の中には、後に評価されるものや偶然発見され評価されるものもあります。即ち、偉大な成果はそのような地道な研究の上に成り立っているともいえます。大学で行うべき研究に限って言えば、最近はお金になる共同研究的なものに終始している教員の多いこと、これも文科省に奨励されているので仕方のないことです。彼らは評価の対象外であると思います。大学にいるより企業や国の研究所で行うべきものです(そのため教育には大きな問題が発生し、10-20年後に大きな打撃となるでしょう)。創造性ある研究を日本に求めるのはとても厳しい状況ですね。すいません、これは愚痴です。 少し本題とは離れたかもしれませんが、研究者とは、きちんとした基礎能力をもち、ひらめきを備えた人で、適切な課題を見つけられる人です。実際には非常に少なく私の周辺を見る限りですが、外国人を含めて数百人の研究者とそれなりに突っ込んだ話す機会があったと思いますが、身分に関係なくその中でたった数名の方が本当の研究者といえるかなという感じですね ちなみに私は、研究が面白くて企業内定を振り切ってこの世界に入りました(今となってはもっと給料の良いお金のもらえる仕事のほうが定年後を考えれば良かったかなと思うこともあります)。これまで100-200報のオリジナル論文を一応一流と呼ばれる雑誌に出していますが、そのうちの数報が自信を持っている(自他共に認められる)論文です。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 >しかし本当の意味でのすばらしい研究者の判定は、論文数などではありません。私は適切な課題設定を行い、(1)きちんとした研究手法で考察ができる人と(2)ひらめきのある人だと思います。 そうですね。本質的な評価という意味では、お書きになっている通りだと思います。 今回、質問させていただいた理由は、知り合いの院生の評価基準の違いに驚いたからですので、一般的な意味での客観的な評価、というつもりでお聞きしたのですが、思いがけず、理想的な研究者についてのご意見もうかがうことができて、興味深かったです。
お礼
>定年退職しちゃたので研究者とは言えませんが、まだ専門家の内かなという者です。 ご回答、ありがとうございます。研究者としての大先輩の方にお答えいただけて、嬉しいです。 >一般的にはご質問者の判断基準が「ごく当たり前」の基準だと思います。 それをうかがって少し安心しました。こちらのサイトの質問を読んでいると、社会的な評価がほしくて研究者になる方もいらっしゃるみたいなので、そういう方の評価基準は、どれくらい有名であるか(有名な大学や研究所の研究者であるか)である場合もあるかしら、と考えてしまったので。 >私が一番重視するのは数量ではなく「コペルニクス的転換」です。 >論文数が極めて少なく弟子も大して育てなくても、学問に「後戻りできない」楔を打ち込む方が最も評価されるべきだと思います。 なるほど。確かに、そういう観点もありますね。この方の研究がなければ、今に続く○○の研究はなかった、ということはありそうです。