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愛についてどう思いますか?

聖書のコリント信徒への手紙 俗に言う愛の章をここに載せます。 コリント信徒への手紙1-13 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 世の中で言われる一般的な愛とは、テレビの恋愛ドラマのような愛をイメージされます。 それが本当の愛なら、別れる事も、離婚することもないはず。 本当の愛とは永遠に続くものだと思います。 皆さんが考える本当の「愛」とはどういうものですか?

noname#154451
noname#154451

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tokkey
  • ベストアンサー率42% (16/38)
回答No.7

先日回答させていただきましたtokkeyです。ルール違反で回答が削除されてしまいご迷惑をおかけしました。ブログのアドレスを載せたのがいけなかったようなので、中身をコピペしておきます。 この箇所は、別名”愛の章”とも言われる有名な箇所で、多くのクリスチャンに愛唱され親しまれている聖句の一つです。しかし、ここで言われている、愛とはどんなものなのでしょうか。  なぜ、愛がなければ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても何の値打ちもないのか。なぜ、持っているものの全てを、貧しい人たちに分け与えても、自分の命を焼かれるために渡しても、愛がないなら何の役にも立たないのか。なぜ、愛が信仰と希望よりもすぐれているといえるのか。  ここでいう愛とは、私たちが心に抱く、愛情のことを言っているのではありません。もしそうなら、持っている全てを分け与えても役には立たない、ということにはなりません。ではこれは、神様の私たちに対する愛のことをいっているのか。それも正確に言えば間違いです。私たちが神様に愛されていることは、絶対的なことであり、私たちが求めていかなければならないようなものではないからです。  使徒パウロはローマ人への手紙8章の中で、神の愛から私たちを引き離すものは、この世の中に存在しないと断言しています。  ですが、神様がいくら私たちを愛していてくださっていてもそれだけでは、私たちが何かするのも、しないのも同じことです。大事なのは、私自身がそのこと、つまり神様が私のことを愛していてくれることを信じていなければ何をしても、わたし達にとっては、何の意味もないことになるではありませんか。  このことをコリントI13章の御言葉に当てはめて読んでみると分かリ易いと思います。  たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、神様が愛していてくれることを信じていないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。  また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、神様が愛していてくれることを信じていないなら、何の値打ちもありません。  また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、神様が愛していてくれることを信じていないなら、何の役にも立ちません。  神様が愛していてくれることを信じている人は、寛容であり、神様が愛していてくれることを信じている人は親切です。また人をねたみません。神様が愛していてくれることを信じている人は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。  すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。神様が愛していてくれることを信じている人は決して絶えることがありません。  では、愛が信仰と希望よりすぐれているといえるのは、どういうことでしょうか。それは、神様が愛していてくれることを信じていなければ、信仰も希望も成立しないからです。神様から愛されていることが信じられなくて、どうして、信仰を持つことができるでしょうか。同様に神様から愛されていることが信じられなくて、希望を持つことなどできません。  ですから、コリント第一14:1は、こうなります。”神様が愛していてくれることを信じ続けることを追い求めなさい。” 追伸:この回答に対するお礼は、すでに頂いておりますので不要です。

その他の回答 (6)

  • youchan37
  • ベストアンサー率37% (248/669)
回答No.6

そもそも、愛は言葉じゃない、などと云いますが。 私は、イエズス会の神父であり、上智大学の教授でも在らせられたハビエル・ガラルダさんの 三冊の本を読んで、何かとても納得しました。 "自己愛とエゴイズム" "自己愛と献身" "アガペーの愛・エロスの愛" です。(講談社現代新書) まずは「好き(Like)」です。感じるもの。好きであればあるほど嫉妬も大きい。 それから「愛(love)」です。これは大別すると二つあるそうです。 一つはエロス愛です。一言で言うと「愛とは愛されたいことである」。これはジョン・レノンの言葉です。 愛されたいから、愛する。愛することで、愛されたい。 「好き」と「エロス愛」の違いは、好きは感じるだけのものですが、愛は築くものだ、と。 もう一つはアガペー愛です。「献身愛、捧げるだけの愛、見返りを求めない愛」です。 真実の愛とも云われています。 それで、三冊のうち一番最初の本が "自己愛とエゴイズム" です。~主として自己愛についての本です。 まずは自己愛なんだろうな、と最近よく思います。これがないと始らないのでは、と思うのです。 本物の自己愛があるということは、自己嫌悪を脱しているということだと思うのです。 本物の自己愛という土台がないと、人と付きあっても、何が何だか分からなくなってしまう、 ということがあると思うのです。 では「恋とは?」それは出し惜しみしたいと思います(苦笑)。 ハビエル・ガラルダさんが何と言っているか、ご興味があれば読んでみて下さい。 「恋に落ちた一瞬は、永遠の時間に繋がる」というような言葉があったと思います。

noname#154451
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 キリスト教では神様が自分を愛してくれて、神様が愛してくれた自分自身を愛するということで、今度は人のための献身への愛へと発展するという考えがあります。 自己愛というと単純にエゴイズムととらえてしまいやすいですね。 この話を突き詰めると深くなりそうですが、面白そうなのでその3冊の本参考のためいつか読んでみたいと思います。

  • hurasuke
  • ベストアンサー率18% (191/1056)
回答No.5

 私が思うのは、恋と愛は別物だということです。  恋とは、相手を自分のものにしたい、相手の全てを自分の手で掴み取ってやりたくなるようなもので・・・愛とは、自分の全てをその人の為にささげたいと思うもの・・・。似ているようで間逆なのではないかと思うのです。  その意味では、その手紙の内容は私の言う愛の形にとても近いように思います。そして、あなたの気にされている「恋愛ドラマのような愛」とは、私の言うところの恋ではありませんか?  永遠に続くものだけが本当の愛とは思いません。激しい炎は早く燃え尽きます。燃え尽きないように、火の加減を調整しながら、できるだけ長く燃えるようにしたいと私は思いますが・・・全ての人がそのようには考えません。  私の友人の例を出しますと、出会ったその日に付き合い始め、3日目には結婚の話が出ていたそうです。お互いに燃えすぎる程燃えまくり、半年後に結婚する頃にはセックスレスになっていたそうです(笑)。今も続いてはいますが、かなり冷めてますね。ただ、彼らが燃え上がったのは本当のことですから、永遠に熱さが続かなくても偽者だとは思いません。

noname#154451
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 激しく早く燃え尽きる愛、そういう愛を求める人もいるのですね。 愛の形は人それぞれにあるということですね。 しかし私が求める愛はやはりコリント信徒の手紙の内容のような愛が理想です。

回答No.4

ちょうどそのことをテーマに、 野島伸司がドラマ「世紀末の詩」を作ったのを思い出しました。 http://videonavi.blog66.fc2.com/blog-entry-372.html もし、人間が永遠に生きられたなら、愛についての捉え方も違っていたかもしれませんね・・・ ハローベイビー 僕はきっと愛を知らない 君もそうならついておいで この果てしない物語の彼方へ

noname#154451
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ドラマ「世紀末の詩」知らなかったです。 参考にさせていただきます。

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.3

確かに聖書に記載されている内容こそが、真実の愛であり、本来の愛であることは、間違いないと思われます。 とすれば、そうでない愛は、偽りの愛であり、自己中心的な愛であるとも言えます。 愛自体が善でも悪でもなく、その方向性がどちらを向いているかということです。 利他的な愛(与え合うはずの愛)⇔利己的な愛(奪い合う愛) 一対一で深まるはずの愛⇔複数に向かう移ろいやすい愛 心身共の愛⇔性愛先行の刹那的愛 真実の愛に反する愛がまかり通るようになったということは、人類が言わば「愛の病」に陥ったのだと言えましょう。 頭ではわかっているのです。誰もが真実の愛を求めながらも、偽りの愛から脱することができずにあえいでいるのです。 誰かを本気で愛そうとする時、私たちは「自分がどれだけ利己的であるか」に気づかされるでしょう。 人が最も利己的になるのが男女の愛においてであることは特に強調するまでもなく理解できることと思います。 本能の欲求に一切の努力は要らぬのですが、愛や人間性を高めるには人間の努力が必要です。 もし、自動的に愛が成熟するように神がインプットしてあったなら、一番つまんないのが神様ってことになりますよね? 「努力なくして愛の完成も人の完成もない!!」と思います。 普通の愛、即ち真実の愛を身にまとうためにも努力が不可欠であったなら、 まして偽りの愛に引っ張られる立場に陥った人類が、真実の愛に生きる自分になるには、 一層強い努力なしには到達できなくなったといえます。 しかし、真実の愛を復帰するためなら、どんな犠牲を払っても、何を差し置いてもやりがいがあるとも言えるのです。 何故なら入力よりも出力が大きくなるのは、愛のみが持つ特性だからです。

noname#154451
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私がこの質問をした意図はまさにそこにあったのです。 人類が言わば「愛の病」に陥ったのだと言えましょう。 私もその「愛の病」に気づき、世の中の愛そのものにむなしさを感じてしまったからです。 見方を180度変えていきたいと思います。 全ての人間が神のように完成された愛を持っていたらつまらないです。 自分自身が努力をして愛を身にまとうという目標を持って、それに到達したいと思うことがやりがいがあるし、素晴らしいということですね。

回答No.2

人が知らず知らずのうちに他人に求めていることは自分の思い通りのことを してくれることではないかと思います。 それを引き出すために『愛している』という言葉を使っているかもしれません。 もちろんそれは愛というものではなく支配というものだと思います。 愛というのは自分の思い通りにならないことを許せることかもしれません。 あるいは相手が成長して自立していくことを喜べること。 そのためには自分自身も成長していく必要があるでしょう。 でも正しく成長するだけではなく間違って成長することもあるでしょう。 愛いとは正しいことだけでなく間違ったことをする自由を与えること。 そして自らの力で正しい方向を見つけられるように協力はしても手出しは しないことではないかと思います。 もちろんそれは自分自身にも言えることだと思います。

noname#154451
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 愛という言葉で人を支配したいけれど、相手からは支配されたくない。それが矛盾になっていく。 本当の愛という言葉を知るにはおっしゃるように、自分自身が成長していく必要があるかもしれません。

  • rinnda2
  • ベストアンサー率54% (6/11)
回答No.1

愛とは、 自分しだいでなんにでも変わる変形自在なものだと思います。 愛によって、成長したり、 愛によって、何も見えなくなってしまったり、 愛によって、癒されたり、気がついたら憎しみになっていたり・・・ 愛とは、家族でも恋人でも、 人と人の間にある特別な空気だとも思っています。

noname#154451
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 同感です。 愛は自分しだいでプラスにもマイナスにも変えられるのですね。 できればいい方向に変わりたいですが。

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