• 締切済み

 肉体は賢い!でも心は?

 心の‘落とし穴’って自分ではなかなか気がつかないものですね。  この肉体は命を保とうとエネルギーの補給を要求します。心はそれを感知して食事します。  すると肉体は生命の維持に必要なものだけ摂取し不要なものは排泄します。この点に関して心は肉体にまかせっきりです。  排泄できなくて体調を崩したりと、肉体は完璧ではありませんが、そのことは於いといて。  我々(精神)は、この肉体の機能に匹敵するといえるような‘心の活動’を心がけているでしょうか。  感想など伺えれば幸いです。

みんなの回答

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.19

> ここに同士あり、と思えたのですが。  結局、真実を極めていくと ひとり になるのです  自分が存在している世界の主導権は自分にあり、他者を操作することで成る革命や改革などは、問題を先送りしにしているだけなのでは >社会的な影響力が無くても、個人の心にこうした事柄に対して、危惧する気持ちは持ち続けてほしく思います。  真に強い 影響力 があるとすればそれは何だと思いますか? 自分の振る舞い行動のみでなく、認識力と世界観を完璧に近づけるように心がけていれば、ただ存在するだけで、働きかけることなくとも(逆に、具体的に働きかけると良くない)その雰囲気や思念の影響力が波動として周囲に伝わっていくでしょう 常に  生きている人間は、誰でも 真実のみを追究せよ この言葉が当てはまるかと

yy8yy8az
質問者

お礼

 思いは同じではないでしょうか。  回答ありがとうございました。

回答No.18

 No.6&12&15&17です。  あぁ yy8yy8az さん 微妙に行き違いがあったと感じました。言いかえると わたしの舌足らずだったようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私の質問やお礼文に、小乗的仏教観を感じられて、‘順序がぎゃく’と指摘している。  このように受け止めてよいでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは yy8yy8az さんのご文章に  ★ 小乗的仏教観   ☆ を感じたということはこれまでなかったところです。感じたのなら すぐさまずけずけと言う人間ですから。  そうではなく ふたつの事柄でお応えします。  ○ そもそもこのご質問に接して初めにそして基本的に思ったことは 微妙な違いになるはづですが    ・ こころ論として扱うよりも 行動(実践)論を立ててその過程で   のこころ論を取り上げる。  のがよいのではないか。  ☆ これがひとつです。だから いぢわる心が出たのだと思います。  もうひとつは もし上座部仏教だとかあるいは〔ここでは触れておられませんが〕宗派だとかの問題ではなく そうではなく  ○ いわゆる宗教は 組織立って行動しており社会全体の文明にまで広がる要素を持っているけれども 個人の信仰としては しかるべきまともな宗教であれば 同じものである。  ○ 基礎はすべて 信仰として同じであるか 互いに通じる内容のものである。  ☆ このことをむしろ言おうとしていました。  たしかに   ☆☆ 順序がぎゃく  ☆ という言い方をすれば 宗派の問題あるいはブッディスム内部のおしえの展開・また批判をつうじての弁証法的な発展 こういった問題だということになるかと思われます。この点で舌足らずでした。  もっと簡単に申せば  ○ いっさいの宗教としての枠をもはやとりはづそう。  ☆ という趣旨です。  ▲ 宗教の精髄は感情にあり。  ☆ とは このいま上にわたしが述べた謂いではないですか。まったくああぢゃこうぢゃ言う必要のないことだと理解します。そこに こころ論も含まれるのではないですか?

yy8yy8az
質問者

お礼

 ‘実践’  まさにここでこうした問いを発するのも‘実践’ではないでしょうか。  bragelonneさんが、ここで‘実践’していることを私もやっているのだと思っていました。  また、‘一切の宗教の枠を取り外そう’と言う訴えも、私のブログ(‘小学生レベルの訴え’のことです)からも感じていただけるのではないかと思います。  でもたぶん、目指す方向が‘微妙’に違うのかもしれません。    ―――――――――――――――――――――――――  私事ですが、明日から早朝の仕事に入るため、時間が取れなくなります。心残りですがこれで締め切りたいと思います。    感謝の気持ちをこめて、回答してくださった皆様に20ポイントを受け取っていただきたく思います。  本当にありがとうございました。

回答No.17

 No.6&12&15です。  yy8yy8az さんとは やり取りがつづくこともないと思っていました。yy8yy8az さんは 相手の発言を受け取り消化なさった上で その受けとめたところをのみ――だいたいは それをのみ――お答えになるので 議論ではなく 意見の言ってみれば優雅な交換をなさっている恰好だと思っていました。  ここに来て やや問答がかみ合いましたね。  ただし今回は わたしのほうからは簡単です。単純です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ダイヤモンドも元は鉱区の中。煩悩の垢を削り取ってこそ、光り輝く宝石と成る。  お互いこういうことを言おうとしているのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 順序がぎゃくとお伝えしたこと それのみです。  ○ いまだ宝石にまで磨かれていない状態において すでに――あたかもまやかしの如くにでも――われは宝石なりと何なら宣言までして 道をあゆむ。  ○ 磨きに磨かれ練りに練られ金剛石になったあかつきに われはブッダとしての実践をするという順序ではない。  ☆ と申し上げている。これのみです。ちがいはです。  * 言うなれば   ○ 煩悩丸出し 頭のてっぺんから爪先まですべて凡夫のまま すでにいまここからただちに しかも《先度他》をおこなう。  ☆ ものです。これでなければ ゴータマくんのおしえは死にます。安楽死でしょうから 気づかないでしょう。或る種のオーピアムだと考えます。ブッディスムはです。  別の見方をしている者の側から見れば ブッディスムは時間かせぎに持ってこいだという意味です。

yy8yy8az
質問者

補足

 私の質問やお礼文に、小乗的仏教観を感じられて、‘順序がぎゃく’と指摘している。  このように受け止めてよいでしょうか。  大乗的仏教観に立って、研鑽しなければ落ちない垢のあることも承知しています。  もっと早い段階で、bragelonneさんの言わんとするところを敏感に感じ取るべきでした。  ☆bragelonneさんの用意した‘土俵’に上れたでしょうか。  

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.16

No.4,No8,No.13です。 根拠は存在理由と考えてください。 質問者様は考えないかもしれませんが、 私は、 なぜこの世界が存在するのか、 なぜ私はここにいるのか、 なぜ社会に貢献する必要があるのか、 など、 なぜ~で始まる疑問を自他問わず、問いかけてしまうのです。 この根拠や理由を求めることが欲なのかどうかはわかりません。 多くの人は、なぜ、という疑問を考えていないようなのですが、 私は、ついつい考えてしまうのです。

yy8yy8az
質問者

お礼

 私も‘なぜ’と思うような時期がありました。  でも釈尊やキリストは、その‘なぜ’に答えてくれているのでしょうか(勉強不足です)  そこで、神や仏も答えられない‘なぜ’にこだわるよりも、どのように生きればよいのかを、考えるべきだと思いました。  この宇宙の存在は無い、と想像して見ると、それよりは‘在る’と見たほうが自然のように思えるのです。表現を変えると‘無い’があるからその反対に‘在る’が現象するのだと。こう考えるとそれは、なぜと言うよりも‘必然’であると思えるのです。理由などないと。  そして‘宇宙’が‘現象’しています。無機質の宇宙に地球が誕生しました。  ‘在る’と‘無い’(二面性)が有るように、無機質があれば有機質が有って当然かと思えます。  地球が有機質を誕生させる環境になって、生命が誕生しました。  これも必然と捉えるべきではないでしょうか。  そう考えていくと、‘私’が存在するのも‘理由’があるわけではなく、短に必然の結果であったと思えるのです。  ですから、前に戻ってしまいますが、この世に生を受けてしまったのだから、どのように生きるべきかを考えるのが、よいのではないでしょうか。  回答ありがとうございました。  

回答No.15

 No.6&12です。  ★ (No.12)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  心の欲望も多種多様。その欲望は理性や感情に大きく影響を与えます。  そういった点を自覚(客観視)することで、心の糧を処理する能力をつけなければならないと思っているのですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さあて ここから bragelonne シェフの料理教室の始まりです。  yy8yy8az さん 順序がぎゃくです。  まづたとえば《自未得度 先度他》です。菩提心というのでしょうか。そういうおこない(実践)が先に来ます。  この《先に他を度する》の《他》は 九十九匹から見捨てられた一匹の状態にあるひとでしょうね。  おのれの責任にてこれを引き受けるかどうかの問題です。  何でも食べるかどうかの問題です。  一たん食べると決めたら 知恵を尽くし知識を尽くしこころを尽くして さらに食べ続けていきます。解決法がみつかるはづです。  この過程で こころはさらに鍛えられていきます。なぜなら ひとは生まれたときの自然本性においてブッダだからです。  順序がぎゃくです。  ★ 心の糧を処理する能力をつけなければならないと  ☆ ではなく 《ブッダとしての実践》が先に来ます。その過程でいよいよこの能力がついて来ます。  だまされたと思って やってみてください。  * こいつは食べられないという場合は 遠慮したほうがよいでしょう。  * 料理教室ではなく 料理の喰い方でした。

yy8yy8az
質問者

お礼

 多少のずれを感じながら。  ダイヤモンドも元は鉱区の中。煩悩の垢を削り取ってこそ、光り輝く宝石と成る。  お互いこういうことを言おうとしているのではないでしょうか。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 今回は(いつものことかもしれませんが)bragelonneさんと私との会話の会場(リング、あるいは土俵)が、違うように思います。  明日、ご返事をしたいので、ちょっと待ってください。

noname#100496
noname#100496
回答No.14

前回は、どんな質問に回答してたんでしょうか、覚えていません。なぜ仮の世界かというと、不調和と調和の正反対のものが同居するからです。本当の世界、宇宙の大元は、完全調和の世界です。完全調和の世界が、成長、拡大するには、回りの周辺部の、不調和を調和に変換する必要があります。そこで不調和を調和へ変換する場所として、地球が創造されました。だからシュミレーションの世界です。仏教では、諸行無常の虚像の世界といいます。仮の世界ですから、始めと終わりがあります。マヤ暦では、2012年が終わりだと言われています。この世界が終わると、また仕切り直しになりますから、人の心は解体されて、それぞれ元の世界へ帰ります。自我は脳の世界へ、人は神の子ですから、神の世界へ調和世界へ帰ります。

yy8yy8az
質問者

お礼

 脳を休めること。心を落ち着かせること。  これが、不調和から調和へ変換する鍵となるわけですね。  確かに池の水も、かき回せば泥が舞い上がって濁ってしまいますが、静かに落ち着けば、水は澄んできて水中の様子がよく見えるようになります。  同様に心も落ち着かせれば、物事の良し悪しを正しく判断できるのかもしれません。  回答ありがとうございました。

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.13

No.4,No.8です。 心は根拠を求めるという、私の考えは揺らぎません。 ただ、本当に心が正常に働いているのならば、 根拠を求める、ということすらしないと思います。 正常に動いているのならば、心は必要ではないのです。 だから、心の活動が活発なときは、不具合が生じているはずです。 いかがでしょう。

yy8yy8az
質問者

補足

 ‘根拠’を別の言葉で表現してみていただけないでしょうか。    心の活動が活発なときは心は正常ではないと言っているのですね。  たぶん欲望の赴くままに振舞う状態を正常ではない、と言っているのだと思えるのですが。  ちょっと分かりづらいなぁ。

回答No.12

 No.6です。  けっしてふざけたものではありませんが 表現が舌足らずだったかと思います。  ★ 半歩先に思え、と言う言葉の意味が分かりません。  ☆ これは 《隣り人を 自分と同じように 愛せ》のことですが 《同時に同等に》というのはむつかしいことです。それで 一歩とは言わず半歩だけ自分のことより先に 相手のことを思え。です。     ★ ‘非思考’と言うbragelonneさんの表現は‘感情’と言い替えても間違いではないように思います。検討してみてください。  ☆ たしかに《非思考=信仰》は おおむね《感情》に現われるでしょうね。  たとえば男女の愛にしても 或る程度知りあったあとで なお不安があるというとき このひとを愛してもよいかと自問してみると――そのあと愛し続けるにしても別れるにしても―― その答えは自分がいちばんよく知っているはづです。しかもこの知っている答えというのは 感情であり愛そのものの中に見出されるのだと考えます。  その答えに逆らう場合が多いというのが実際であるようにも捉えますが いづれにしても 感性は大事ですし 理性においてよりも 非思考はこの感性においてその具体的なかたちを表わすというふうに わたしも思います。  ただし yy8yy8az さん ひとこと余計なことを申しますが  ○ そのように答えが得られたという場合 それを相手や第三者にも伝える必要があるなら それは 情感や表情・仕草と同時にやはり言葉による表現である。  ☆ と思います。こころであり理性ですね。  つまりなおこの期に及んでいぢわる話ですが  ○ 肉体は 自己運動であり自己組織化の過程ですね。  ○ こころないし精神は みづからの意志で欲する方向を目指します。  ☆ 肉体だけなら 動物のほうが かしこいですし 聖なる生物だとなります。どうでしょう?

yy8yy8az
質問者

お礼

 この身体にとって、なんでも偏りなく食べる、と言うことはとても健康によいと言うことになっています。  身体はとても喜んで益々元気でいられることでしょう。  でも、心の欲するままに過食したり、身体に悪いものを食べれば、処理しきれずに病気になったりします。  肉体も完璧ではありません。  でも心はもっと不完全なのでは。  心にも‘心の病’(恋ではなく)の原因が‘悪いものを食べている’からと気づくために、肉体が持っている‘処理能力’があればラクチンなのに、その役割を理性や感情がしなければなりません。  心の欲望も多種多様。その欲望は理性や感情に大きく影響を与えます。  そういった点を自覚(客観視)することで、心の糧を処理する能力をつけなければならないと思っているのですが。  回答ありがとうございました。  

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.11

> 平和と平等と愛の名のもとに、肉体的にではなく精神的に拷問を与えている母親を見ると、どんな親子関係なのだろうと思い、本当に心が痛むことがあります。  情緒、感情重視の人間関係の欺瞞を嫌い、真の強さと優しさと厳しさに代表されるような本当の父性に助けを求めて泣き叫ぶ子供を見ると、「ああ、これも愛とか調和とかその場での人間関係のみが大切だと他者にも言って強要してた結果か、あるいは自分の都合でメチャクチャやってきて、 強く言ったもの勝ち、勝てば官軍 などという世界観をもって人にも対してきた結果だろうから、しょうがないのかもな」と最近は思うようになり、放っておくことができるようになりましたが。

yy8yy8az
質問者

お礼

 ちょっと待ってください。  この回答は、諦めではないでしょうか。  ここに同士あり、と思えたのですが。  社会的な影響力が無くても、個人の心にこうした事柄に対して、危惧する気持ちは持ち続けてほしく思います。  諦めないでください。 

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.10

>回答No.5に集約されている  結論に至るまでのプロセスをえずに結論から入ってしまい、結果としてほとんどの人にとって理解不能になってしまうのは悪い癖でしょうか。 >父親に手を引かれた子供が、嫌がって母を求めて泣き叫んでいる  具体的にはまさにそのことが言いたかったわけです  しかし、現在は母親が攻撃的になっており、子供を虐待するのはむしろ父親よりも母親のケースのほうが多いように感じます。父親は母親へ、その鬱憤が母親から子へという段階を得ているのでしょうか、路上など公の場で泣き叫んでいる子供を「躾」ているのは母親が多いと思います。私が目撃する限りは。  平和と平等と愛の名のもとに、肉体的にではなく精神的に拷問を与えている母親を見ると、どんな親子関係なのだろうと思い、本当に心が痛むことがあります。

yy8yy8az
質問者

お礼

 全く同感です。  母親の子共への躾は、私もよく目撃しています。  つい最近も、路上に飛び出した幼子を、ヒステリックにしかりつけ、頭を叩き、泣かせている母親を目撃したことがあります。  まだ言い聞かせても分からない幼子だと思えるのに。  こんな人の世になったのも、かの戦争が大きく影響しているように思います。  解答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • もしも植物状態の人の心を読めたら?

    安楽死について、ある仮定に立ったうえでご質問します。 あなたに精神感応(人の心を読むことができる)の能力があるとして、植物状態の人の心を読んだとします。その人は意識の中で苦痛を訴え、死を望んでいることが分かったら、あなたは生命維持装置を切れますか?(あなたとその人との関係は、顔見知り程度です) 創作の参考にさせていただきたいと思って質問しました。意見や率直な感想をお聞かせ下さい。

  • 睡眠について

    眠る必要がなかったらいいのにな、なんて考えて思ったのですが、なぜ睡眠が必要か?以前の質問回答を参照したところ、大脳の維持のために代謝産物の排泄のための休息として必要、などが書いてありました。では呼吸、心拍出を司る脳幹部は(自律神経系として)絶えず機能していると思うのですがどうでしょう?エネルギー消費や代謝産物の排泄の効率がよく、絶え間ない活動が可能だからでしょうか?心筋や横隔膜筋も同様の理由から24時間フル稼働が可能なのでしょうか?だとしたら、大脳や全身の骨格筋であっても、(仮に)エネルギーの補充や代謝物の排泄の効率を高めれば休んだり、(メラトニンなどのホルモンの影響は除いたとして)眠ることなく生きていけるのでしょうか?それともなにか睡眠が長期的な生命維持に必要不可欠な決定的な理由が存在するのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 仏教の生死観は、肉体の消失をどう解釈するのか

    挨拶がめんどくさい。 仮面ライダーもプリキュアも抜きだ。 釈迦の言った、「私は涅槃に行く」これはすなわち精神の永遠の安住の地に私は行くと言ったという意味で、それを語った釈迦は生前からその精神の永遠の安住を実感していた。 そして、そうはいかない君達は心安らぐまで何度でも死を体験する。 これは闇の仏陀たる私自身の心境を釈迦の故事とかさねた私の見解だ。 さて、そこいらに転がる君たちブタの生死観に、人間として死ねば死後は仏陀に転生する。 すなわち死ねば仏だ。 これが日本の仏教の風土だよね。 これは、人間が死ねば神に昇華すると言う神道の風土と変わりない。 口伝で釈迦の言葉を伝承したインドの風土では、釈迦は涅槃という安息を見たが、継承した弟子たちはヒンズー教の原点を精神の拠り所としているため、人間が死ねば、やがて人間として転生すると考えていた。 すなわち、死ねば仏になると言う過程が無く、 死ねば死にっぱなしで、再び肉体を得ることで転生する。 東南アジアなどの伝承もこのパターンだよね。 闇の仏陀の私は、肉体の生滅に関わりなく永遠の命を自覚している。 涅槃だ。 君達は私のブタで、仏教の源流よりも死ねば仏として、死としての転生が有り新たな命となると考えている。 これ自体が、死は儀式で肉体は滅びても心は生き続けると言う日本の風土だ。 仏教文化花盛りだが、これはすでに仏教ではなく、神道における人間としての生の考察だ。 死ねば神を自覚すると言う信仰の源流は永遠の命の自覚にある。 すなわち君達の信仰心の源流は神道で、現在もてはやされる西洋哲学と同じ意味の文化を、昔々仏教として輸入したにすぎないのだ。 ところで私にとって、アマテラスさんと言えば「俺様にとって都合のいい女」ただそれだけに過ぎない。 さて今回の考察で、君たち猥褻物陳列の専門家にお聞きしたいのは、日本の仏教における生死観はヒンズー教と同根のアジアの生死観の中でも特異な日本の独自性を発揮しているのではないか? まあそんなところです。 ユニーク極まりない生死観の猥褻物サンプル調査になる回答も歓迎です。 死ねばどうなると言うより。 あなたはどんなふうに死にたいですか? 死後に神に昇華する。「死は肉体のみで生命は永遠」 死んだら仏になる。「死ねば死者として死者の国に住む」 肉体が消滅すれば、やがて新しい肉体を手に入れる。「死ねば終わり、実のところ転生も科学技術次第だ」 ご要望通りの死に様に合わせて、親切で官能的なアニキなツンデレをブチかましましょう。 V字開脚という敗北の証が、君達の死の儀式です。

  • 食べ放題の店は法律で禁止にすべきではないでしょうか

    バイキング形式のお店の利用客は元を取る為、或いは 利益を必要以上に得る為、限界ギリギリまで食べよう とします。 最初は料理が美味しいかもしれませんが、後の方は 味など関係なく無味無臭でしょう。 生命を維持する為のエネルギー摂取でもなく、 味を堪能する為の食事でもなく、 ただ食べ物を胃の中に詰め込むだけの作業。 挙句の果てには満腹で苦しみだしたり、吐く人もいます。 健康にも悪いでしょう。 子供の頃に学校で習った「食べ物に感謝」「命に感謝」という 日本人の精神は何処に行ったのでしょうか。 世界には食べたくとも食べられない人達が沢山います。 このような食事の形式が許されているのが理解出来ません。 法律で禁止にすべきではないでしょうか。

  • 生まれてもすぐに死んでしまう命は何故生まれてくるのでしょうか?

    生まれてもすぐに死んでしまう命は何故生まれる必要があるのでしょうか? 川や海では、魚が産卵した数え切れないほどの卵やアフリカの草原などでは鳥の卵がチーターなどの肉食動物に食べられてしまいます。それは食物連鎖の一部で無駄なことはありません。 でも人間の場合、流産や堕胎、また母胎で自然に消滅してしまう場合、また最近社会問題となっている親から子への虐待などで、「そうされるのならば生まれてこなくてよいはず」の命が、生を感じる間もなくいともあっけなくすぐに死んで(殺されて)しまう現象は、哲学や宗教的な見方では一体どういう意味があるのでしょう? 輪廻転生では、今世は前世のカルマを解消するためにあるということですが、その使命をやり遂げるために、一旦母胎に居場所を与えられ、産み落とされます。その後幾年かで死ぬことになる運命であっても与えられただけのカルマは解消された結果だと思います。 でもまだ他人の支援がなくては生き続けることもできない赤ん坊、この世に生まれいずることもない命は一体なぜ一応生命体となって現れるのでしょうか?? 魂がエネルギー体ならば、エネルギーを与えるためのエネルギー(個人的な考えですが、それは神様が使うエネルギー)とエネルギーを一度包括する受容物(母胎)が使うエネルギー、どれも無駄なことではないか?と思うからです。 また哲学的、宗教的な見解、また学問的なことではなくても、率直な感想でもよいです。皆さんのご意見をお伺いしたいです。

  • 水分補給をすると太りづらくなる?

    最近、ミネラルウォーターに凝っており、『ミネラルウォーターの処方箋』(日東書院)という本を購入しました。 内容に「水分をこまめに摂取している人は、体内の新陳代謝が活発になるので、水を飲まない人に比べたら脂肪も燃えやすく、逆に太りにくい体質になるのです。」とありますが、 水分補給の結果のみが書かれ、何故、新陳代謝が活発になるのか? また、何故、脂肪が燃えやすくなるのか? といったメカニズムについて触れられていません。 水分補給による新陳代謝の活発化については、 水分補給によって血行が促進され、酸素、栄養素の運搬がスムーズに行われることで、新たな細胞を作るエネルギーが十分に産出される(新しい物が作られる)、 同時に、利尿作用等で老廃物の排泄が促進される(古い物が捨てられる)、 以上の二つが一連の流れとして促進されるため、新陳代謝が活発化されるという理解でよいのでしょうか? また、脂肪が燃焼しやすくなるということについては、 新陳代謝ではなく、基礎代謝に関わることだと思うのですが、 新陳代謝が活発になることで、基礎代謝も上がるのでしょうか? それとも、新陳代謝が活発になることで、基礎代謝と関係なく、 脂肪は燃焼しやすくなるのでしょうか? できれば根拠が分かるような回答、意見、参考URLを 教えて頂ければ幸いです。

  • 肉体の中に心があり、心の中に肉体が有る

    心がひん曲がると肉体もひん曲がる。 肉体がひん曲がると心もひん曲がる。 肉体の中に心があり、心の中に肉体が有る 心と肉体は1つである。 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの教えだ。  

  • あの世についての問答

      問う人: あの世と何か? 人の道: あの世とはこの世のことである。 問う人: ではあの世へ往くとはどーゆーことか? 人の道: あの世へ往くとはこの世へ沈むことである。 つまり土に帰るのである。 土に帰って木や花に吸収されるのである。 草になって草と同化するのである。 また牛や馬に食われて、牛や馬の一部になるのである。 問う人: すると死んだ人の心はどこに往く? 人の道: 心は我々の体が土に帰る過程で宇宙空間に揮発する。 今まで我々の体内に閉じ込められていたものが広大な宇宙空間に放たれるのじゃ。 すると心は次第に希薄になり、最後には無になる。 問う人: それは皆同じなのか? 人の道: 皆同じである。 皆死ぬと土に帰る。 そしてその心は宇宙空間に放たれ、希薄になって最後には無になるのじゃ。 問う人: 無になったらそれで終わりなのか? 人の道: 一旦はそれで終わりである。 しかし我々の肉体は土に帰り、その土からは新たな生命が生まれるのである。 これが即ち再生、つまり輪廻である。 このよーにして命は地球上で循環するのである。 だからあの世とはこの世のことなんじゃよ。 分かったか? 問う人: はい、分かりました。 あの世とはこの世のことなんだね。 人の道: 皆にも訊いてみい。 問う人: 人は死ぬと土に帰り、その心は宇宙空間に放たれ、希薄になって最後には無になる。 我々の肉体は土に帰り、その土からは新たな生命が生まれる。 だからあの世とはこの世のことであるゆーこと、皆も分かったか。  

  • 魂と心と肉体

    瞑想を通して、「魂と心と肉体」とは別々のものという理解にいたりました。 ------------------------ 魂:自分の本質。死ぬと心と肉体は消滅し、魂だけの存在になる。魂の奥にいけばいくほど深い霊的な世界とつながっており、その中心部は神とリンクしている。 心:魂と肉体を結びつけるもの。魂を汚したりを磨いたりする働きをもつもの。精神と同義。 肉体:魂の宿る器。三次元的物質世界の感覚器官。 ------------------------ 「魂の表面<->心<->肉体の脳」という構図で、心は物質的世界からの情報と霊的世界からの情報の接点であり、心の感じ方により魂や肉体に影響をあたえるものである。と感じるのです。 これが正しいかどうかはおいておいて、仮にこうして見た場合、 例えば 「キリスト教の三位一体とはこのような解釈の側面のあったりするのであるのだろうか。」と、このようなテーマを宗教的や哲学的にはどう解釈するのかと疑問に感じた次第です。 私自身は宗教も哲学の知識も持ち合わせておりません。 また瞑想等によってこのようなテーマに造形をもつかたからもご意見を頂ければと思います。

  • 脂肪燃焼に関する疑問点(1)

    タイトルの件、いくつか疑問が生じています。 ◎前提 A.ウエイト・トレーニング → (10分程度のインターバル) → 有酸素運動 の流れで、ウエイトトレで血中遊離脂肪酸濃度を高め、効率の良い有酸素運動での消費を考えています。 B.筋肉を動かすときの運動エネルギー源は、アミノ酸、グルコース、そして、脂肪酸。このうち、アミノ酸が運動エネルギーとして使われる割合は常に15%程度。 残りの85%は脂肪酸とグルコース(糖)が競合して用いられ、  (1)トレーニング状態  (2)運動の強度や時間  (3)運動前・運動中に摂取する飲食物 等の影響を受けて、それぞれの割合が大きく変動する (疑問1)運動前・運動中に摂取する飲食物 運動の前後に糖質を摂ると脂肪燃焼が止まってしまう。ただし、例外として、果糖(フルクトース)は、脂肪燃焼を止める作用が著しく小さい。だから、ウエイトトレから有酸素へのインターバルでは果糖(フルクトース)を摂取しなければ、却って有酸素運動の脂肪燃焼効率が下がる結果になりかねない。果糖(フルクトース)はネットで1200円/kg程度で販売しているようだ。 ウエイト・トレーニング → (10分程度のインターバル) → 有酸素運動という流れの中で、筋肉を維持し、効率よく脂肪燃焼を行うためには、それぞれの運動中になすべき水分と栄養の補給は? また、やってはならない補給は? 例えば、ジョグ中のアミノバイタルなどを飲むことは脂肪燃焼を妨げるか? (疑問2) 安静時に消費されるエネルギーは、凡そ糖質:脂質=1:1か? 最大心拍数の60~75%程度の有酸素運動が最も効率よく脂肪燃焼をする。それを超えると糖質に依存する割合が増える。 ウエイトトレではほぼ100%糖質。 最も効率よく脂肪燃焼をした場合、エネルギーの何%くらいまで期待可能か?そういった研究データはありますか? 言い換えれば、ランとジョグの消費エネルギーが拮抗するのは、凡そ7.5km/hというデータがあるようですが、ここからファットバーンゾーンの最大心拍数×60~75%までの、脂質と糖質の消費割合を示すような数式またはグラフなどはありますか? 質問項目が多いので、とりあえず2つ。 仕事の合間で文章を推敲せず、ぶっきらぼうでごめんなさい。m(__)m