• ベストアンサー

《オタク》は 他者性を避けているか

 次の文章の説く実態について 解説やら批判やらをおしえてください。具体的な感覚や実態が分からないのです。  ▲ (大澤真幸:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~  オタクに関する相反するイメージに遭遇する。一方で われわれは オタクは 対人関係が苦手で 他者との接触を回避する傾向がある ということを知っている。だが  他方で オタクには 明らかに他者を求める欲求がある。オタクの多くがインターネットの熱心なユーザーである。彼らは しばしば同人誌を作り さらにはコミケのような同人誌の即売会を組織したり それに参加したりする。・・・  このような二重性を どのように統一的に解釈すればよいのか? だが この点に関しては 解釈は容易であるように思える。・・・  オタクが交際を求める他者は 一般に 同じ《趣味》を共有するオタク仲間である。つまり それは 類似性――それぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性――を 本質とする他者である。ところで 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。他者についての経験は 何であれ 差異をめぐる経験である。そうであるとすれば オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。  (III オタクという謎 pp.109-110)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一点 論点のようなものも示します。  ▲ 他者の他者たる所以は 差異性にこそある。  ☆ のは まったく真実だと考えますが そもそも ひとは 他者の内に 自分とのその差異を捉えることが出来るでしょうか? 捉えられるのは 自分の中にも かすかにでもある性格などに限られませんか?  差異としての他者を捉えることが出来れば このような《オタク》の交際における片寄りは 批判すべきだということになりますが 出来なければ オタクでなくても そのような交際における片寄りは ひとにとって 一般的だとも考えられます。  この点についても よかったら ご回答の筆を伸ばしてみてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.16

>現代の現実を秩序づけている反現実は 直接には見えていない《不可能性》である。 大澤氏を否定はしません。 でも、我々側の方が大澤氏よりも遙かに敏感なように思います。 なぜかというと大澤氏の示している反現実なるものを直接見ようとして 壁をぶち破ろうとしているPlayer側のつもりだからでしょう。 「現実への逃避と極端な虚構化」は「こと」への深い没入の副産物 にしか思えませんけどね。 既に、氾濫する言語情報や動画情報が「現実」ではなく、それらのギャップが反現実を構成していることは、百も承知なのであって、もはや「現実」を探しに現場に直行するか「こと」へ没入するしかないでしょう。 現場が進行形ならいいのですが・・・終わった花火大会はどうすることも出来ませんから新しい花火作りへ没入するしかないと思いますね。

bragelonne
質問者

補足

 bananasand さん 熟考一番 やってくれましたね。ご回答をありがとうございます。  たぶん――わたしも 『不可能性の時代』の全体を読んだのですが―― 大澤は それが悪い良いを言う前になのですが やはり評論家か学者であると思います。どういうことかと言えば どうも結論に 《愛》を持って来ている。現実の現実を 愛に見ようとしている。  その実践としては いわゆる共同体を復活させるところの民主主義であるようですが この《愛》を 同じ相手に対する《愛と憎しみ》との共存として理論づけたかのように 結んでいると思います。  これは 理論であり 研究者の立ち場に立った自己表現であると考えます。  民主主義のほうは 実践であり実際の議論ですが 愛のほうは 一筋縄では明確にならないと考えます。一方でその理論としては この愛が 究極の現実だと捉えていて 他方で実践としては 感性としても知恵や理性としても愛そして憎悪などは 果たして どこへ向かうのか決めかねるでしょうし 分からないままであるように思われるのです。  それよりは 《こと》に当たる 《こと》に没入して実践を進めるほうが たしかに 現実的であると考えます。  今回のご回答は ほかの皆さんには かなり不案内な内容であるかと思います。わたしの応答のほうも さして具体的な説明になったかどうか おぼつかないです。  もう少し考えて応答するなら。  ★ 「現実への逃避と極端な虚構化」は「こと」への深い没入の副産物 / にしか思えませんけどね。  ☆ これはですね。大澤の場合は たしかに 具体的な事件を取り上げて実際に即して思索を展開しているのですが このように  ★ 「現実への逃避と極端な虚構化」  ☆ といったような二つのベクトルを拾い上げて来て そこから今度は 純粋理論としてのように結論をみちびこうとしている。かに思われます。仮想空間に没入していく方向と そうではなく 身体に直接触れるような現実を求める方向と これらは たしかに両極だというので ゆくゆくは 《愛》について その要素として《愛情と憎悪》との共存を見るかたちに行きつく。  bananasand さんは 現実のプレイヤーであれば 《こと》に没入しつつ そこからすでに これら両方向のベクトルは 副産物として 出てくるというに過ぎない。と見ておられる。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・もはや「現実」を探しに現場に直行するか「こと」へ没入するしかないでしょう。  現場が進行形ならいいのですが・・・終わった花火大会はどうすることも出来ませんから新しい花火作りへ没入するしかないと思いますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《オタク》について たしかに これら二つのベクトルを大澤は捉えていました。ただ――初めに 個室での独りによるものであっても《こと》に没入するそのような実践を置くというよりも―― 一方で差異性(他者性)を避ける方向と 他方で類似性を持った仲間どうしで集まる方向というふうに分析した内容を前提にする片向きがある。  その前提に立ってしまえば もはや その仲間うちの――コミケのような集まりとしての――中途半端な《普遍性》しか見られなくなる。言いかえると 結論に出した《愛》が やはり部分的な特殊な領域に限られてくるのだと。  こう言って大澤は どこか オタクから出てくる創造性のベクトルを見逃している部分があるのではないか。  練られていないのを承知なのですが いまはこのように。

その他の回答 (16)

noname#101110
noname#101110
回答No.6

大澤真幸というひとも不可能性の時代という本も質問者様のこのスレで知っただけで、理解がずれているかもしれませんが、オタクについては興味がありましたので面白く読ませていただきました。質問者様のご質問は、要するに当該論文にあるあいまいさというか、徹底しきらない論点についていらだっておられる、すっきりしたいということなんでしょうね。 以前ちょっと話題になった斉藤環氏の「戦闘美女の云々」同様に 著者が適当に刺激的で与し易い対象であるオタクを持ち出した気分ははっきりしていると思いますが、ことはオタクにとどまらず、ひとはなぜ仲間を求めるのか、群れたがるのかといったような普遍的なことにつながっていくのではないかと思います。 >オタクが欲求している他者とは 他者性を抜き取った他者である。 人間にとって他者とは本来がわけのわからない異邦人、または敵対者になる可能性のある怖い存在なので、ましてオタクという社会的不適合者などにとってはとても歯が立たない存在であることは確かです。そういう意味で大澤氏の指摘はまことに鋭いと思います。 そこで質問者様のご質問なのですが、人間一般が他者に対するアプローチの第一段階として必ず行うことは、他者と自分との類似性ではないでしょうか。それが発見できなければ彼は接触をあきらめるか、または敵とみなして攻撃を始めるかもしれません。他者と自分との間に差異があるのは当然のことだと思いますし、それはさておいて自分との類似性の確認に懸命になる以上、それに対して敏感であるのは当然だと思います。ひとがリスクを冒してでも他者と接触を試みるのはその差異が自分にとっての利益になるだろうという進化論的な思い込みがあるからではないでしょうか(好奇心の満足、スキルの拡大など)。 普通人もオタクもそれらの基本においては同じだろうと思います。ただそのアプローチにおいてオタクが極力他者の中の類似性を最重点において探索をしていることは間違いないでしょうね。これは程度問題であって、彼らが男らしくないとか意気地が無いとか社会通念上の問題がなくもないことは否定できないにせよ、おおっぴらに非難するようなものではないとは思いますが、どうでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 amazo007 さん ご回答をありがとうございます。  中庸と言いますか 大かたの意見の落ち着くところを明らかにしていただいたと思います。  まづ 質問の前提について明らかにしておきます。  大澤も 決して 出過ぎたまねは していないのです。  ▲ (『不可能性の時代』 III オタクという謎)~~~~~~~~~~~  このように オタクという現象には さまざまな逆説と謎が詰まっている。本章は そうした謎を解いたわけではない。まずは 謎を謎として提起したのである。(p.118)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そして わたしも――そこからの新たな主題の探究に踏み込めたらいいなとは思いますが―― まづは その情況をしっかりと把握しなければならないという段階での設問なのです。   ★ 斉藤環氏の「戦闘美女の云々」  ☆ を知らないのですが 大澤に関しては 上のような事情です。  さて あらためて 落ち着くところを確認しておきます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  普通人もオタクもそれらの基本においては同じだろうと思います。ただそのアプローチにおいてオタクが極力他者の中の類似性を最重点において探索をしていることは間違いないでしょうね。  これは程度問題であって、彼らが男らしくないとか意気地が無いとか社会通念上の問題がなくもないことは否定できないにせよ、おおっぴらに非難するようなものではないとは思いますが、どうでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そして この情況において andrear さん(No.4)は 逆に わたしたちの誰もに 多かれ少なかれ この《オタク化》の波が 知らないうちに襲って来ているかも知れないと指摘されてもいます。  amazo007 さんのご指摘の中で こういう側面についてはどうだろうかと思ったことが ひとつあります。  ○ 他者との差異性 および 類似性  ☆ これらを前提にして  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ひとがリスクを冒してでも他者と接触を試みるのはその差異が自分にとっての利益になるだろうという進化論的な思い込みがあるからではないでしょうか(好奇心の満足、スキルの拡大など)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というごく普通のご指摘が まづあります。ということなのですが ここに 何かもう一つつけ加えて欲しいなぁと感じたのですが 考えるに それは 流行りの言葉かも知れませんが  ○ 共生  ☆ これも 当然の如く はたらいている。たぶん 当たり前すぎたのだろうと思いますが これを 先の差異性や類似性と同じく 前提に明示的につけ加えていただければと思った次第です。がどうでしょう?  こんなお応えになりました。  * そう言えば わたしは どういうわけか――伊東美咲が見たかったからか――テレビで《電車男》を見ました。そのことを いま思い出しました。だから 《コミケ》が分かったのだと思います。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

「オタクは他者性を避けていない。」という観点からの回答まで 「他者の他者たる所以は 差異性にこそある。他者についての経験は 何であれ 差異をめぐる経験である。」 この前提は正しいようにも思えますが、大澤真幸氏の指摘する差異・差異性とは見掛けの姿・行動なのかその心、考え方なのかにより、大澤真幸氏の論の評価も変わってきそうですね。 「他者の他者たる所以は 差異性にこそある。」ということですが日本人である私が日本人を客観的統計的に見る限りさほどの差異などないように思えますね。むしろ、みんな金太郎飴のようにしか見えませんね。金太郎飴の種類違い同士がなめあってみてもさほどの味の違いなどないのではとも思えますね。(外的差異性) 米国の金太郎飴、ロシアの金太郎飴、フランスの金太郎飴の味の違いは普通日常では味わえないものですが、ネットを利用すれば、言葉だけ理解できれば、仮想空間などで味わうことも出来るということは考えられますね。(内的差異性) 同じ趣味の世界という枠の中で差異性は互いに確認できると思いますね。私の息子が、仮想空間のゲームの中では世界中のマニアがいるが人柄や考え方は国柄によりおのずと差異があるといってました。 さて、私が何をいいたいかといえば、大澤真幸氏の言う差異性が単なる表面的(外的)な浅い差異性のことぐらいしか念頭においていないのではないのかといっているのです。(理解の程度の疑い) 人間の差異性というのは形でもなければ、見栄えでもなければ、お世辞の付き合い方でもないのですね。何を考えているのかが本当の差異性といえば、考えだけの内的空間のほうがより詳細に差異性を互いに判断できると思いますね。 このカテでも私とbragelonneさんは考え方(内的)は明らかに違ってますよね。でも趣味的には同じ穴の狢でしょう。 そのような差異性を前提とすれば、「おたく」というのはより進んだ人間の差異性の追及の姿ともとり得ますね。(可能性) だるま大師が10年壁に向かって過ごしたことと比較すると「おたく」のほうがもっとダイナミックですね。 「オタク」は、だるま大師のように他者性を避けてはいないですね。むしろ積極的に差異を楽しんでいるように思えますね。ただそれが、ネクタイをした金太郎飴やわけのわからない学者飴との日々の退屈な会話ではないことは確かですね。 このように、価値観を何処(外的、内的)に置くかにより、「おたく」の評価も180度違ってきますね。 ということで、わたしは、大澤真幸氏には組しない派ですね。 「おたく」は21世紀の新人類の姿かもしれないですしね。

bragelonne
質問者

お礼

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  ★ 「おたく」は21世紀の新人類の姿かもしれないですしね。  ☆ 勇ましいというべきご見解のようですね。そして  ★ 何を考えているのかが本当の差異性といえば、考えだけの内的空間のほうがより詳細に差異性を互いに判断できると思いますね。  ☆ このご認識は 基本的に 共同性を持ちますね。そして  ★ だるま大師が10年壁に向かって過ごしたことと比較すると「おたく」のほうがもっとダイナミックですね。  ☆ これも 案外というべきでしょうか おっしゃるように 発展の《可能性》においては そのようにうなづけるところがありますね。  ★ 「オタク」は、だるま大師のように他者性を避けてはいないですね。  ☆ と つなげられると 少し飛躍を感じました。  ★ むしろ積極的に差異を楽しんでいるように思えますね。  ☆ これは そういう部分もあると推し測られます。また 上で触れたように 潜在的な可能性として 考えられます。  ★ ただそれが、ネクタイをした金太郎飴やわけのわからない学者飴との日々の退屈な会話ではないことは確かですね。  ☆ たぶん 大澤の見方によれば ネクタイに反抗し学者から遠ざかるという傾向がもし共通にあるとした場合を考えるなら それは そのような仲間として 金太郎飴だと言っているとは思います。  ということで わたしの判定は まだ正直なところ こうもりのように あっちへ行ったりこっちへ来たりです。  ★ 私の息子が、仮想空間のゲームの中では世界中のマニアがいるが人柄や考え方は国柄によりおのずと差異があるといってました。  ☆ そういう部分は 現実であろうと確認しました。  澄みません。まだ煮え切りません。

  • andrear
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.4

こんにちは。 自分の考えになってしまいますが参加したいと思い失礼して書かせていただくことにしました。 私個人の定義によるオタクとは「趣味に執拗に没頭している人間」のことです。それに伴い人間関係や時には仕事さえおざなりにしてしまっているために社会的な生活にある種の支障をきたしてしまい、そのため多くの人から問題視されているもしくは毛嫌いされているのだと思います。(しかし生活がうまくいっていないなどということは他人からは分かりませんので結局身なりによって判断される場合が多いのではないでしょうか。他人の目を気にしなさすぎる外見などは以前よりかなり白い目で見られるようになったと思います。あくまで「他人」の咄嗟的な視線などに対するいい加減な自己解釈です。) 私は今回引用されている大澤さんという方の文章を初めて目にしましたが、私には「彼ら(オタク)は人間関係から遠ざかってまで趣味に熱中しているがそれでは無理が生じる。ネットなどで情報を得ることはできるし極力人に会わずに生活することも簡単にはなったがそれだけでは社会は立ち行かない。彼らは自己の意見や好みが他者と衝突するのを恐れるようになったが一方でこれは理解されたいという欲求の裏返しであると考えられる。これは人として当然の欲求であるが彼らはこれを同じ趣味趣向を持つ人間に対して求めている。しかし他者との違いを認識し受け入れた上で関係を築くことこそ重要なのである。なぜなら同じ価値観を持つ人間と考えを共有することはそうでない人とのそれに比べて非常に容易であるのだからそんなものはまともな経験とは呼べないのである。」といった具合で受け取りました。つまり問題の個所はオタクに対する単なる批判であり皮肉であると感じます。 最後のあなたの意見に対しては同感です。 しかしこの大澤さんが言いたいことは、「他者の中に自分との差異をむしろ見つけ出し受け入れ、比較しながら成長するのが人間である」ということなのではないかとも思いました。難しいことだけれどもそこから「逃げる人間=オタク」と「逃げない人間=一般的な人間」がいるのだという具合でオタクが批判されるべきだという彼なりの理由を提示しているのではと解釈しました。 さらに厳密に自分なりの考えで言うならば「オタク性への警鐘」ではないかと。先ほども申し上げたようにオタクと非オタクとの線引きは傍目に容易ではなく結局自分勝手(主観です)な「オタク性」からこそ脱却しなければならない、つまりこれは社会全体や個人全ての問題ということとして理解することもできるのではないでしょうか。 また「交際における片寄り」とおっしゃった部分ですが、これは確かに一般的になってきていると思います。これは私なりには「一般人のオタク化」、「非オタク(と自認する人間)の無意識化でのオタク化」だと思います。誰もが好きなことややりたいこと(例えば趣味など)に異常に没頭している社会、多くの人間が面倒で難しいことをできるだけ遠ざけ良い思いだけしたり割を食うのを極力避けている社会になってきたのではないでしょうか。 この種の「片寄り」が一般的なことに思える私たちはもしかすると大きな間違い、誤認をしているのかもしれないと感じました。 (私は他人の考えや行動をとりあえず肯定的に受け入れようとするところがありますがこれはまさにこの問題に通じている、「自分が他者に合わせるのではなく他者が自分に同調してくれたら都合がいいのに」という思惑が無意識に働いているため自分の思いたいように捉えているだけなのかもしれません。)

bragelonne
質問者

補足

 andrear さん こんにちは。あぁ やってくれましたね。きわめて簡潔にまとめてくださいましたね。ご回答をありがとうございます。  いちばんの目からうろこは   ★ 「一般人のオタク化」、「非オタク(と自認する人間)の無意識化でのオタク化」  ☆ というご指摘でした。  ★ 「オタク性への警鐘」  ☆ ですね。昔なら  ○ 一億総オタク化  ☆ と情報媒体なら 言いだすでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  誰もが好きなことややりたいこと(例えば趣味など)に異常に没頭している社会、多くの人間が面倒で難しいことをできるだけ遠ざけ良い思いだけしたり割を食うのを極力避けている社会になってきたのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ どうも みなが《同じ穴の狢》なのだといった兆しのある情況のようであり これをきちんと捉えなければならない。  そうして 処方箋も提出してもらっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかしこの大澤さんが言いたいことは、「他者の中に自分との差異をむしろ見つけ出し受け入れ、比較しながら成長するのが人間である」ということなのではないかとも思いました。  難しいことだけれどもそこから「逃げる人間=オタク」と「逃げない人間=一般的な人間」がいるのだという具合でオタクが批判されるべきだという彼なりの理由を提示しているのではと解釈しました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり  ★ 「逃げない人間=一般的な人間」  ☆ の存在ですね。さらに引用のみの再掲です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「彼ら(オタク)は人間関係から遠ざかってまで趣味に熱中しているがそれでは無理が生じる。ネットなどで情報を得ることはできるし極力人に会わずに生活することも簡単にはなったがそれだけでは社会は立ち行かない。  彼らは自己の意見や好みが他者と衝突するのを恐れるようになったが一方でこれは理解されたいという欲求の裏返しであると考えられる。  これは人として当然の欲求であるが彼らはこれを同じ趣味趣向を持つ人間に対して求めている。しかし他者との違いを認識し受け入れた上で関係を築くことこそ重要なのである。  なぜなら同じ価値観を持つ人間と考えを共有することはそうでない人とのそれに比べて非常に容易であるのだからそんなものはまともな経験とは呼べないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (わたしは 大澤は 犯罪につながった事例を前面に押し出して来て議論しているので ちょっと引いた気持ちと恰好で 紹介したようです)。  《逃げない人間》 これがむつかしいとなっているでしょうか? それほどでもない情況でしょうか?

noname#209756
noname#209756
回答No.3

自己実現ってすると変になります。おたくです。昔は他者は否定するものとしてとらえられた。でも今は差異としてとらえる。自分が他者もいるが、とにかく自分にくわしく精いっぱいで、何をそんなにてんばっているだろうって感じです。

bragelonne
質問者

お礼

 pkuobe99 さん ご回答をありがとうございます。  ○ どこでどうしてこうなったか分からないが これでも 精一杯やっているのだから いま少し時間を与えたまえ。  ○ 昔にも モラトリアム(執行猶予)人間という言い方で 決断のつかないくせを持った人たちがいたではないか。何を――ぎゃくに言えば―― 苛立っているのか。  ○ そのようなガリ勉志向が そもそも いけないのではないか。ゆとりと言ったって 掛け声だけに終わったりと もっと ほんとうに ゆとりを持って 生きたまえ。それには ゆったりとした時間を味わうわれわれを見習いなさい。  まぁ ご自分についても  ★ 何をそんなにてんばっているだろうって感じです。  ☆ と謙虚でいらっしゃる。ぢゃ どちらも 誰でも ゆっくりと時間をかけて 互いに話し合っていけばいいぢゃないか こうなりましょうか?  ★ 昔は他者は否定するものとしてとらえられた。でも今は差異としてとらえる。  ☆ この《差異 つまり 他者》のもんだいは 重要だと考えます。これしかないとさえ考えます。つまり その互いの差異をうけとめ受け容れるなら――つまり その上で どれだけ重箱の隅をつっついて批判し合っても―― それは きわめて自由な建設的な社会のあり方ではないか こう考えます。たぶんそのためには わたしは  ★ 自己実現  ☆ あるいは 自己表現は 大事だと考えています。これについては ちょっと困りますか?  また 何かありましたら ご投稿ください。

noname#97419
noname#97419
回答No.2

他者性を抜き取った他者を要求しているのではなく、コミュニケーションがヘタで得意な話題が無いとうまく接する事が出来ないということなのではないですか。 実際にオタクが対人関係が苦手か。そういうイメージで語られる事はありますが。分かりません。 アニメ マンガ コンピューター等の特定の主題で区画できる虚構の領域に没頭する人々がオタクで趣味人と区別するとすると。 (演劇やオペラやドラマも含むのかな) 意味の重さと情報の密度はあまり関係無い気がします。 もともと、意味の重みが無いから趣味なんじゃないでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 kanota さん ご回答をありがとうございます。  kanota さん まづ知っておいてください。わたしは ほとんど何もピンと来ていないのです。むろん 大澤がここで言っていることは 論理上の意味として分かりますが いったいそれが どう《オタク》と呼ばれる人びとに じっさいに当てはまっているのか 分からないのです。  たしかに おっしゃるように  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  他者性を抜き取った他者を要求しているのではなく、コミュニケーションがヘタで得意な話題が無いとうまく接する事が出来ないということなのではないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ となれば 《他者を 何が何でも嫌がるのではなく また 他者性を避けているのでもない》と考えられます。言いかえると 少しでもうまく普通に話せる相手をみつけて ひとと接するようにしているのですし それは ゆくゆくは 他者との交通(まじわり)をふつうにおこなっていこうということだと考えられます。  つまり 方向が違ってきます。逃げ腰なのではなく 徐々に推し進めていこうという前向きであるとなります。  ここで大澤を擁護してもわたしにその意味が定まらないのですが どういうことを言っているかを知ってもらおうかと思います。論理としては いちおう通っていると思われ それが 果たして 現実に合っているのか こちらがいまの問題です。  ▲ (大澤真幸:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~  オタクが 他者から撤退しつつ 他者を志向するという 表面上の矛盾は 容易に解消される。オタクは 自身と類似している限りでの他者との交流や連帯を求め 自身との差異を際立たせるような他者からは撤退しようとしているのだ。(p.111)  こうした事実から 推論しうる仮説は こうである。本来 異質な他者たちを含む普遍的な社会空間を見通し得る超越的な視点の座が希求されていたのである。そうした視点の座が 今日では 同質的な他者たちのみが参加する 排他性の強い――しばしばサイバースペース上で展開する――共同性へと投射されているのではないか。  つまり 社会性に関しても 普遍性が特殊性へと反転して現象するという逆説に オタクのもうひとつの不思議がある。(pp.113-114)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 意味の重さと情報の密度はあまり関係無い気がします。 / もともと、意味の重みが無いから趣味なんじゃないでしょうか。  ☆ このようにおっしゃるのも もっともな気がします。そして もし大澤の議論に即して捉えるなら それは この《意味の重みのない趣味》を同じくしている種類の他者たちをのみ求めて そこに集まった仲間たちの世界に すでに じんるいにとっての道だとかあるいは規範だとかを見ようとしているのだと。  たぶん いまの時点でわたしが判断するとなると 二つに一つです。  (α) オタクと呼ばれ自分たちもそう呼ぶと言われているようですが そのような人たちは まったく何の特別の意図もなく 自分たちの趣味に興じているだけだ。つまり 大澤は 考えすぎであるに過ぎない。  (β) 大澤の指摘する傾向が おおむね 当たっている。  尻切れトンボのままにて ご返事とします。

回答No.1

1つ思ったことは 色々なオタクを一緒くたにしてるような感じを受けました。 同人誌を作るオタと引きこもりオタは 全く別の種類だと思います。 また、これはアニメやゲームオタクの事を オタクと言っているのでしょうか? オタクには鉄道オタク等もいますし むしろ鉄道オタク何かは積極的なイメージを受けます。

bragelonne
質問者

補足

 tantan0330 さん ご回答をありがとうございます。  おしえてもらった情報は わたしには 新鮮な感じがあります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  オタクには鉄道オタク等もいますし  むしろ鉄道オタク何かは積極的なイメージを受けます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ そうなんですか。少しづつ分かっていくかも分かりません。  大澤真幸の定義をかかげておきます。  ▲ (大澤:不可能性の時代) ~~~~~~~~~~~~~~~~  それにしても オタクとは何か?   昔からいる趣味人とどう違うのか?  そもそも 専門家とどう違うのか?  オタクは 無論 アニメ マンガ コンピューター等の特定の主題で区画できる虚構の領域に没頭する人々である。だが これだけでは 趣味人や専門家との区別が分からなくなる。オタクを専門家や一般の趣味人から区別する特徴は 意味の重さと情報の密度の間の極端な不均衡である。一般には 意味の重さと情報の密度との間には 比例的な関係がある。要するに 有意味なことだから情報が集積されるのである。  だが オタクに関しては こうした法則が成り立たない。情報は 有意味への参照を欠いたまま つまり意味へとつながる臍の緒をもたないまま それ自体として追求され 集められていくのである。ある事柄の《意味》は 常に より包括的なコンテクスト 外側のコンテクストへの参照を前提にしている。それに対して 《情報》は そうした外側のコンテクストへの参照を欠いている。オタクは 自らが関心を向ける情報的な差異に関して それをより包括的なコンテクストに位置づけて その重要度を説明することができないのである。  (pp.87-88)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この定義だから  ★ 色々なオタクを一緒くたにしてるような感じを受けました。  ☆ なのでしょうか? あるいは 別の違った定義がありうるのか? まだまだ広がっていくのでしょうか? そうでもないのでしょうか?  ★ 積極的なイメージを受けます。  ☆ という場合は 一般に話し合いができるということですよね? つまり 特別に《他者ないし他者性を避ける》ということでもないと捉えてよいですか?   いづれにしても ありがとうございます。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう