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敬語は ほんとうに 尊敬を表わす語法でしょうか

noname#117439の回答

noname#117439
noname#117439
回答No.2

オコリザルです。 難しい話は付いていけないので世代間の変容の話です。 最近の若者は年配者の前でわざと乱暴な言葉を使うこともあります。 私もそれにならっていい年をして「バカ」又は「アホウ」を連発します。 この心情とは「私は若いゆえに至らない」と自覚した上での逆説的な謙譲です。 尊敬できる大人を見分けるための若者の処世術でもあります。 一見凶暴な暴言を吐く若者は、やりこめてくれる尊敬できる大人の見分け方を探しています。 ややこしいかもしれませんが、実践した経験から行くと、理解してもらえない場合でも自分だけは納得できます。更にウマの合わないお年寄りは、自動的に去っていきます。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  敬語について 起源をさぐるよりも いま どのように言葉一般を用いているか これを捉えるなら 敬語の扱い方もわかるのではないか。こういった探究の道であるように思いました。    ★ 尊敬できる大人を見分けるための若者の処世術  ☆ として  ★ 最近の若者は年配者の前でわざと乱暴な言葉を使うこともあります。  ★ この心情とは「私は若いゆえに至らない」と自覚した上での逆説的な謙譲です。  ☆ つまり 見栄を張らず 慣れない敬語などを飾りとして使ったりしない。そのことまでをも分かって欲しいからか かえって 乱暴な言葉を わざと使う。  ここからのわたしの理解は こうです。若い人びとで 敬語を使いこなせていない者の思っていることは 言葉使いに関しても ひとに対する尊敬の念を 表わしたい気持ちはある。ということ。  もしくは ぎゃくに 言葉使いにおいて それとして尊敬を表わす用法を使わなくても 実質的に 尊敬の気持ちを表わすことはできる。と思っているのではないか。    そうですね。わたしは 自分の見方に引き込もうとしてのように 《ていねい語》があればよいという方向を見てしまうのですが どうでしょう?

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