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すべてのひとを説得することができますか

 コミュニケーションについて問います。  【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?  ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。  【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。  (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。  (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。  ☆ そもそも コミュニケーション論です。  【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?  【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。  ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。  【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?  【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。  (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。  (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。  【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか?  ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。  ふるってご投稿ください。おしえてください。  なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。

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noname#96756
noname#96756
回答No.44

bragelonne様、こんにちは! ところで、「芸術・感性」「哲学・思想(宗教含む)」「(広義の)科学」を 《アマテラス圏‐スサノヲ圏》における「ヨリ」「イリ」「ヨセ」に呼応させることは可能なのでしょうか。 仮にそう出来ると考えますと。 原始の時代━ヨリ感性━芸術・感性中心の時代 ↓ スサノヲ覇権時代━イリ知性━哲学・思想(宗教含む)至上主義の時代 ↓ アマテラス覇権時代━ヨセ知性━(広義の)科学至上主義の時代 という歴史を経てきたように考えるわけですが。 で、bragelonne様はアマテラスからスサノヲへの主従の転換を求めていらっしゃいます。 「哲学・思想(宗教)>>>(広義の)科学」という主張になるのでしょうか。 いっそのこと、この2つの概念の主従転換ではなく、芸術・感性といった概念も加えて三つ巴のバランスのとれた状態が心地良く求められるのではないのかな、と考えるのですが。 科学を否定的に捉える意見が多いため、わたくしはちょっと「?」なのです。 この3つの概念は、領域が重なる余地はあるかもしれませんが、概念同士が衝突することを求めることは決して人間の未来にとって得策ではないとわたくしは思うのです。 もしbragelonne様がご賛同くださるなら、どのように考えることが出来ますでしょうか。 それとも…やはり3つの概念の中で「哲学・思想(宗教)」至上主義時代の到来を望んでいらっしゃるのです? ps: (1)「芸術・感性」って…どこぞのa様のことをふと思い出して、我ながらソファからずり落ちそうになりました♪ わたくしね、あの方がカム・バックするまで、超不得手とする哲学カテに居座っているのですが、考えるのが苦手だから、つ、つらい…。 (2)コマ回しにはね、ちょっとかなりの自信があります。ふふ。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  いろんな観点から いろんなふうにお考えになるのですね。ふと見ると 横にいたり あるいは むしろ前を走っていたりと 神出鬼没でいらっしゃる。  ★ a様のこと  ☆ 《一家言》のあり方もさることながら――つまり 部分的に どう取り扱ってよいか戸惑うところがあったと思うのですが それ以上に―― どうも イニシアチヴを取ろうとするといった問題ではないかと いま 思っています。任せてもいいのですが 全権委託というわけには行かなかったように思います。  ★ コマ回しにはね、ちょっとかなりの自信があります。ふふ。  ☆ 《ジャイロ効果》などについて 明るくないので 論を発展させていってくださって いいと思います。  さて 人類の歴史を展望するときになりました。!!!  わたしの見方からは 図式を 修正します。それは 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》という知性のあり方を基礎にしますと 最後の《科学思考》は 或る意味で 中立の道具ですので 《ヨリ》は別としても 《イリ》にも《ヨセ》にも 大いに用いられるという点を加味するとよいと思うのです。たとえば  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 原始の時代━ヨリ感性━芸術・感性中心の時代  ↓  ○ スサノヲ自立時代━イリ知性━哲学・思想(宗教含む)への目覚めとそのいとなみの時代   * すなわち すでに ここで 《コギト》が始まった。   * 稲の栽培=時間過程という要素;共生は動態である。     鉄の発明・利用=道具の進化     薬草の開発=物理化学の探究  ↓  ○ アマテラス覇権時代━ヨセ知性━(広義の)科学至上主義の時代   * 日子(=彦)・日女(=姫)というように また 《天照らす》   というように 直前の時代から 人間の精神に 理性という光を見る   ことが始まっている。   * 《日子の御言》としての光から 《すめらみこと》として後光の   差した光になることを みづから 追い求めた。すめらとは 須弥山=   最高峰のことだそうで いよいよ人間的となり ますます人格を磨き   全世界において統一第一日子であることを 夢見たし これを 実現し   たと思った。   * そのためにこそ 知性も芸術も宗教も そして あらゆる科学も   利用・活用するという思潮が 社会的に 優勢となった時代。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 第二と第三の段階のちがいは ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違いと見ると 分かりやすいかも知れません。  ★ いっそのこと、この2つの概念の主従転換ではなく、芸術・感性といった概念も加えて三つ巴のバランスのとれた状態が心地良く求められるのではないのかな、と考えるのですが。  ☆ あの火炎の舞うような意匠をもった縄文土器には その感性のあふれ出るような美しさを感じます。もちろん 全部を 活用したい。ただし ふつうの知性たるイリの視点で 活かしていきたいと思います。  どういう時代の到来を望むかと考えれば そうですね。ゴートの王で ローマ(西ローマ)を短いあいだ支配したテオドリック大王という人間がいます。その統治のもとでは 街道には 追い剥ぎが出ないどころか 落とし物をしても 持ち主に返ってきたと言います。そういう治安のよさのもとでの生活がよいように思いますが どうでしょう?

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  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.32

 こんにちは、ブラジュロンヌさん。    共感と同感ですか。でしょうね、あとはシステムに増幅装置が付いているかどうか。  ・http://www.asagaku.com/rika_time/2005/8/0817.html  どうやら、ステップ2が大事ってことですか。

bragelonne
質問者

お礼

 おはよう じーじゅんぐくん。  ★ どうやら、ステップ2が大事ってことですか。  ☆ あんじょう すすめてちょう。また エタージュということで。  ★ あとはシステムに増幅装置が付いているかどうか。  ☆ システム? 何のシステム? 増幅装置? 何を? 言説という信号を 増幅するのですか? どういうことになるのかいな? ようわからん。ごめん。  ★ ステップ1:糸電話 一対一    ステップ2:人数や材料をかえてみる  ☆ ステップ3:・・・    ステップn:・・・    ステップα=ω:以心伝心=無線通信。  ソリロクイア  ○ ノイズは きちんと 表に出すべきなのかなぁ。  ○ 輪廻転生説に対するダメ押し もしくは その手前の決定打が 必要なのかなぁ。

回答No.31

こんばんは、bragelonneさん。 ●それで なんですか。もうそろそろって おとしで?! ↑ (-。-)y-゜゜゜おとしどころ? TVドラマじゃ、カツ丼が出されるシーンを目にすることはありますが… ネコのてんこ盛りで、何が落ちる?  ……天井からネコが落ちてくりゃ、そりゃ、まんま、ネコマンマ (*^_^*) 笑ってる場合では、……ない (-_-;)uuu…  ●…もうそろそろって おとしで?!←言いたい放題かい!!!( ̄^ ̄)しらんぷり おとしといえば……  【だるまおとし】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A0%E3%82%8B%E3%81%BE http://www.ysc.go.jp/ysc/info/show-da.html ちなみに仔猫の名前は、テンとジョー。『 かんせいの法則 』 ちょこっと、準備運動をしたところで『今日の出来事』を少し いまは、引き継ぎ時間が残りわずかなこともあり、机にかじりつき。ここのところ自分のことで手いっぱい、時間的余裕もなかった。そんなとき、隣の席から声がかかった。わたしが職場で使っているパソコンでしか作業ができないらしく少しの間パソコンを使わせてほしいと。隣の席へ移った。移った席の机の上にも一台パソコンがある。画面をみるとやけにアイコンとかの表示が全体的にすごく小さい。ここの席でこのパソコンを普段使っている方は、使い辛くはないんだろうか?というのもここの席でこのパソコンを普段使っている方は、わたしの親の年以上の年配者。そういえば、なにかと画面に顔を近づけておられたようにも思う、ディスプレイ(画面)の解像度の設定が、あってないのかな? ――――― 自分の席へ戻る際、きいてみた。「敢えてこの設定にしてるんですか?」と。きけば、「見にくいなと思いいつつも、見にくいのは年のせいだからしかたがないと思ってたんだけどね」と。了解をとり、設定を変更し、席へ戻った。 【ハンディがあっても利用できるページづくり】 http://www.kanzaki.com/docs/html/accessible.html

bragelonne
質問者

お礼

   (^O^)/ういーすぅー。  (-。-)y-゜゜゜  (*^_^*)  (-_-;)uuu…   ( ̄^ ̄)しらんぷり  ★ ちなみに仔猫の名前は、テンとジョー。  ☆ Only this can go.(?)→これだけは いける。

bragelonne
質問者

補足

 littlekiss さん ご投稿をありがとうございます。と遅ればせながら。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.30

 こんにちは。ブラジュロンヌさん  あれですか、他の質問を見ても、どうも行き詰まっているように見えるのですが、気のせいでしょうか。ところで、どこにいったのかと思っていたんですが、見間違いでなければおそらく、僕は下の子猫ちゃんの名前を知っています。  えっ、何のことだ? きょとんとしている、その猫です。  おそらく、その子の名前はシャノンです。シャノンの定理の「シャノン」です。  えっ、情報が少ない? そうでしょうか。むしろ、量の問題ではないでしょうか。  良かれと思って発した言葉が、思わぬ解釈を伴って返ってきたとき、思わずびっくりしてしまう事ってありますよね。  ある用語が(その言葉どおりに)共感される確率(p)を予測したとする。発話に際しては、きっと誰もがこのpについて多かれ少なかれ考えていると思います。それで、その後に共感されたかどうか(q)を聞かされたとき、自分はどのくらいびっくりしたか。  つまりは、こういう事ではないでしょうか。  だとすれば、共感されたときq=0、共感されなかったときq=1に、この「びっくり」の程度が計量できれば「びっくり」が少ないほど共感されたと言うことができるでしょう。対話では幾つもの用語が使われるわけですから、その都度「びっくり」の程度を加算したい。  情報理論ではこの「びっくり」の程度を情報量と呼ぶようです。それに従えば、情報がq=1のとき、-log(p)だけびっくりする事になっています。  要するに「わかってもらえると思っていたのに、わかってもらえなかった」とびっくりするわけです。この場合は「共感されたときq=0、共感されなかったときq=1」ですから、底は2です。2の場合をシャノンと呼ぶんですが、それが子猫ちゃんのお名前でしょう?   そしてq=0の場合にも-log(1-p)だけびっくりする。これは「わかりっこないさとと思ってたのが、わかっちゃった」とびっくりする程度です。  「びっくり」は「どっきり」でも良いのですが、どうでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  情報が盛り沢山で しかも エラーもなく伝送されては来ているようなのですが――つまり 中には 仮りに文字の打ち間違いがあったとしても わかんない―― ところどころ 暗号化も ひょっとして 為されているのかなという具合いにて まだ 戸惑いの渦巻きの中にあります。  歴史は繰り返すではありませんが いちど 昼寝(遅い昼寝)をしたあと 応答をしたという記憶があるのですが きょうも そうです。そのあと 風呂に入ってしまったものですから 気分はさわやかですが 頭は 普段よりは回りがにぶいと覚悟しています。(つまり 言い訳です)。  さて   ★ えっ、情報が少ない? そうでしょうか。むしろ、量の問題ではないでしょうか。  ☆ おっしゃるとおりです。寸分の違いもなく そのとおりに存じます。量が質に変化しているかどうかも分からないかたちの 量の問題です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  良かれと思って発した言葉が、思わぬ解釈を伴って返ってきたとき、思わずびっくりしてしまう事ってありますよね。  ・・・(中略)・・・  つまりは、こういう事ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはですね。  ○ 共感と同感とで おどろきの質も量も ちがう。  ☆ と考えます。心で同意する後者のばあいには その同感の成否にかかわらず 次の作業にすすみます。成ったなら さっそく 次の段階に入るでしょうし 否定を受けたなら  再反論しつつ修正しつつ 次の仕事を目指します。  共感のばあいは けっきょく 《なんとなく賛成》ということですから もし その成否によって その成否じたいを問題にするとするなら それは おどろきという事態ではなくなるかも知れません。確執という事態であるでしょう。  ★ 要するに「わかってもらえると思っていたのに、わかってもらえなかった」とびっくりするわけです。  さて  ★ この場合は「共感されたときq=0、共感されなかったときq=1」ですから、底は2です。2の場合をシャノンと呼ぶんですが、それが子猫ちゃんのお名前でしょう?   ☆ これが わかんない。意図だとかのほうではなく 意味そのもののほうです。つまり おつむの問題です。こういう質問の仕方はありえますか?   ○ 底の2が シャノンという子猫で これを何乗すれば 何になるというかたちなんですか?  ☆ ここで 行き詰っています。  しかたありません。このまま ご返答といたします。

回答No.29

ぽこぺろぽです。こちらのご質問のほうが、実りあるお話ができると考えたので移住します。  結論から申し上げましょう。すべての人を説得するのは到底ムリです。なぜなら共通認識を確認することすら、忌避する者が多く存在するからです。私が以前「けんかを・・」のご質問で迂回生産と称してくどくどしく、「投打の重要性は常に等しい」との定立を説いたのも、この質疑において、大佐と皆さんとの間に共通認識が、殆ど見受けられなかったからです。  皆さんが大佐の措定に頷くまえに、持論を展開した、あるいはもっと酷い方になると、自らの主張を例示すらせずに大佐に反駁していたのを見て、身をもって共通認識に立つ難しさを呈しようというわけです。根気強くおつきあいいただきましたが、大佐のような頭脳明晰な方にも、私の拙い説明では、ご理解いただくのに骨が折れました。おそらく、あの定立を自らは何の根拠も示さずに、頑として受け入れない者がゴマンといるはずです。  対話よりもずっと浅い段階の問題があります。とくに日本において、稚拙な議論は必ずといっていいほど、共通認識の確認作業を行っていません。対話以後につきましては、お返事をいただいてから改めて思索します。

bragelonne
質問者

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。対話以前の問題ということですね。  ★ 共通認識の確立  ☆ lioneater さんのご回答に対してだったと思いますが わたしは こう応えました。用語の定義を前もってしていないのは どの主題についてでも 自由な回答を 寄せてもらうようにである。回答者の使う用語におうじて わたしが 応答していくかたちであると。  その方式は この共通認識の確立の問題にも 当てはまるとは思うのです。また そういうふうに いままで やって来ました。  そして 何度も触れますように ここ最近になって――それは 年が変わってからくらいでしょうか―― その方式では わたしが お手挙げになる場合が生じたのです。  繰り返しますと 共通認識の確立は ぶっつけ本番で 一人ひとりと おこなっていた。ある程度まで 効を奏していた。ところが これが 壁にぶつかった。という現状です。  ここでの言い分は ささやかなものです。  理論を それじたいとして 納得のいく普遍性のあるものにすれば 納得させる・つまり説得するのは 二の次であって よいというものです。言いかえると 説得することに成功はしないが 成功するか否かは もう あとは 相手の判断次第であるというところまで コミュニケーションを推し進めるということです。また そのためには どういう理論が 現代コミュニケーション論として 考えられているかです。  どうでしょう。

回答No.28

補足要求についてのご回答拝見しました。 《アマテラス‐スサノヲ》に随分深い意味をこめられたのですね。 言語体系が異なる者同士、この名詞が適切か否かはあえて考察せず、 >人間(現実)は 変わる というお考えには同意いたします。 してみると、bragelonneさまは「すべての人に受け入れられる教えはないか?」という問いを全回答者に対して突きつけておられるのですね? 既存のキリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教といった枠を超えた新しい精神的な支柱を夢想しておられるのでしょうか。 だとすれば、あるいはこの質疑応答に更に参加したみたいと思います。 そうではなく、まったく現実味の無い空理空論を弄ぶのみならば、言葉遊びの範疇を出ませんから、私は退散いたしますが。

bragelonne
質問者

お礼

 lioneater さん ご回答をありがとうございます。  鋭く指摘していただきました。  ここでは たしかに そういった普遍理論をたくらんでおります。  たとえば次のようなわたしの投稿は 億面もなく そういう意図と企図をあらわしているのですが この質問では たしかに コミュニケーションに絞ったところがあります。    【Q:現代日本に必要な哲学は?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html  次の三件が わたしの投稿です。  No.1:新しい社会へ向けて――《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関を切り口として 社会の基礎理論です。  No.8:さらに日本社会に即してです。古代社会の分析から迫ります。  No.9:《絶対》の説明 または 信仰類型論です。  よろしかったら これらを コミュニケーション論に 織り込んで 批判および展開を すすめていってみてください。  わたしは 言語表現については いくらか 考えたところがありますが コミュニケーションについては ほとんど それとして 素養がありません。進展を期したいと思います。  なお わたし自身は 水による洗礼を受けていないキリスト者です。  それでは お待ちします。

noname#149752
noname#149752
回答No.27

どういう謎が解けるか楽しみだったな。。。 「自分のやった労苦に満足すること。それこそ神が人間に許された唯一の事。神を畏れ敬え」 これでもういいのかな。 目的は無くなった? それと、人間の欲望でも弱さでも注目すればいいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 なあんだ。かついだのか。  それは それ。これは これ。  だが ちと 変わったね。

回答No.26

お礼と補足を拝見しました。 その…意味がよく分からないのですが《アマテラス‐スサノヲ》とは何を意味して(あるいは意図して)おられますか?それとも最近の哲学ではメジャーな用語なのでしょうか(だったら浅学をお詫びします) >《人間として・人間であるなら》 人間は自我を持ち、自我は自己の存続を最優先します。よって、利害関係の無い人間関係は皆無に等しいと思います。そこを無視すれば、bragelonneさまのお考えは成立するでしょう。ですが、この世では実現できますまい。(それを机上の空論と表現しました) マルクスも考えは素晴らしかったのですが、人間の欲が彼の思想を破綻させました。今も昔も人を見ていない議論は空理空論の域を脱しないのではないかと危惧する次第です。

bragelonne
質問者

補足

 lioneater さん 打てば響いていただいたご回答をありがとうございます。  ★ その…意味がよく分からないのですが《アマテラス‐スサノヲ》とは何を意味して(あるいは意図して)おられますか?  ☆ これは 失礼いたしました。最近では よく持ち出していたものですから うっかりしました。さしづめ 次のようにご理解ください。わたしの勝手な造語です。  ○ スサノヲ―――アマテラス  ○ わたくし・・・おほやけ  ○ 市民・・・・・公民  ◎ スサノヲ圏――アマテラス圏  ○ 市民社会・・・市民政府(元首は アマテラシテ amaterasite; Amatersitaet; amatersity )  ○ 一階・・・・・二階  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >《人間として・人間であるなら》  人間は自我を持ち、自我は自己の存続を最優先します。よって、利害関係の無い人間関係は皆無に等しいと思います。そこを無視すれば、bragelonneさまのお考えは成立するでしょう。ですが、この世では実現できますまい。(それを机上の空論と表現しました)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ごもっともです。そして わたしとしましては ここまで 大ほらを吹いているわけですから 少々 とりつくろいますと 次を 歴史的に予期し 前提としています。  ○ 人間(現実)は 変わる。  ☆ たとえば その結果として 《アマテラス圏主導‐スサノヲ圏従属》連関が どんでん返しをおこなうといった大風呂敷であります。スサノヲ圏のムラ(市町村)を主体として その連合・しかも国際的な連携を 予定しています。これを  ○ インタムライスム  ☆ と名づけています。たとえば N市と南京市とが 提携し 市議会議員を 相互選出するとか 経済的・文化的な交流を拡げるといった方向です。その錯綜するまでの網の目の連携です。  このような空理空論は けっこう おもしろいでしょう?  なお 最近のやり取りとしては 次をごらんになってくださると よいかと思います。ざっと目をとおされて ひっかかったところを 読んでいただけばよいかと存じます。少々 出しゃばっていますが。題名に反して 議論がすすんでいると思います。  【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4883224.html  横着なお応えの仕方になりますが。

noname#149752
noname#149752
回答No.25

>でも 非思考ですよ。無根拠なのです。 >耳をかたむけてください。その声に聴き従ってください。 >究極のコミュニケーションを ぜひ どうぞ。 声が聴こえるまで、待ってみます。 またしばらく休みます。

bragelonne
質問者

お礼

 わかりました。  まるっきりお休みというのも 何だと思いますが でも じっくり待つというのは とても いいことだと考えます。  というよりも 雪山さんは わたしは 以前のままで 問題ないと思うのですけれど いまここで それを言うのは ちぐはぐになりますかね。  ということは それでは になりますかね。

回答No.24

確かに、社会とはうんぬんはいまさらなんですけどね。社会は、2つの観かたがありますね。 社会科学から観る社会、つまり、科学的方法により観察、分析して、体系的に把握する社会であって、社会がそれ単独で存在している いわゆる社会ですね。 もう一方は、哲学の一部、認識論、生死論、自他論などから観る社会、つまり、社会はすべて、観察者の中に存在するという社会ですね。 前者は観察者が消失しても社会は厳然として残りますが、後者は、観察者の消失と共に社会も消失します。どちらも正しくその場その場で使い分けています。でも、このご質問だとそうもいかない・・・bragelonne さんが両刀使いでどの方向からも回答を受ける力量は解りますけど・・・・・ >→【Q‐α‐φ(ゼロ)】 コミュニケーションにとって 社会とは どういう事態か。 > 1. ひとは たぶん いや たしかに 祝福されて 生まれてくる。 中略 > 11. つまり 社会は この自然本性によるきづなや つながりを持った共同体であると言えるか。それが 基礎だと言えるか。 bragelonne さんのこの社会は、どちらかと言えば、前者の社会なのですが、 これは、丸ごとbragelonne さんに内在する社会なのですよね。 ------と言うような------以上の社会、コミュニケーションは 丸ごと私に内在しているということのようにも思うんですね。 そうすると、後者が前者を包含していると観ることができますね。 それでですね、この前者と後者とでは、コミュニケーションが本質から違うんですね。だから、このご質問は頭が爆発しそうになるんです。

bragelonne
質問者

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。  ごもっともです。  ○ 客観的であろうとする《社会科学》と 主観をこそ大事にし主体的であろうとする《社会思想》と  ☆ ですね。この質問では 《思いっきり 自己の立ち場から 発言する》 これを 基本としたいと思います。経験科学の客観性を志向する場合にも その成果を けっきょく 自己ないし主観に置き換えるという作業が 伴ないます。その意味でです。  参考になると思われる文章をかかげます。  ▲ (水田洋:社会思想小史)~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・一般的には 社会観=社会思想は 社会科学にたいする主観的な障碍ではなくて 逆に その成立のための主体的な(しかも社会的な)根拠なのであり この実践的契機なしには 理論としての社会科学じたいが成立しえないのではないかと わたくしはおもうのである。  ▲ 社会科学が社会を分析するには 対象としての社会が とにかくひとつの体制として 成立していなければならない。ところが ひとつの社会体制の成立は ひとつの階級の支配の確立をいみする。したがって その社会体制の客観的認識は 社会と個人との矛盾がなくなったとき あるいは そういう矛盾を感じない立場から 可能になる。  それはむしろ支配階級の立場であってそのとき 被支配階級は この社会体制を批判するけれども 全面的はあくの点では支配階級におよばない。  社会思想および社会科学の歴史のうえでは A.スミスとK.マルクスが きわだった例外として 理論と実践 認識と批判 客観分析と主体的意欲との すなわち社会科学と社会思想との たぐいまれな統一をしめしている。それは ふたりのすぐれた方法や態度にもよるが 同時に スミスの時代のブルジョワジー マルクスの時代のプロレタリアートの歴史的条件にもよるのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ところが このように  ▲ スミスの時代のブルジョワジー マルクスの時代のプロレタリアートの歴史的条件にもよる  ☆ ということは やはり その理論なり思想なりも どこかの社会的な立ち場に 自分をおいていると考えられます。わたしの場合は 自分自身であり 少し  広くとれば 《スサノヲ市民》ないしその《井戸端会議》です。これも漠然としていますが アマテラス公民ではないという点で はっきりしています。  ですから たしかに 使う言葉が違うかも知れません。  スサノヲ人間語――情感もゆたかに――と アマテラス人格語――たてまえ主義ですね けっきょく――との区分が うまく行くように思います。どうでしょう。

noname#149752
noname#149752
回答No.23

>なんで 自分で決めるんですか。神のことを なんで 人間が 自分で判断し 決めつけるんですか。冗談ぢゃない。 >何さまなんですか。ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。 >★ 富に仕える > ☆ ことがあったにしても すべて みちびかれます。なんで 人間のあなたが 心配するのですか?  >神にでもなったのですか? あの、自分で決めなくていいんですか? もちろん私は神ではありません。 私は勝手に自分で決めつけてる。。。 これがエゴイズム? だとしたら キリスト教をどう解釈すればいいんですか?

bragelonne
質問者

補足

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。  こういうことです。  コミュニケーションは 相手のあることです。相手とは わたしと同じ人間存在です。人間という存在には 自由意志があります。ほかの動物とちがって その自然本性には 意志による自由な選択という判断ならびにその実行があります。  だからこそ 説得といった要素をふくむ対話がおこなわれます。  これが 人間どうしの世界です。  《エゴー》つまり《わたしは これこれを判断する / あれそれを実行する》というのが この世界です。みな エゴイズムのもとに 生きています。  だいじょうぶです。すべて しかるべきところに落ち着きます。最終的には 万事あいはたらいて 益になります。だそうです。  これを 全体的に 秩序ただしく ことが運ぶようにと しきりたいというのが 神のように如何なるものの下にも立つまいと決め込んだ超歴史知性――スーパーアマテラス神話――です。  エゴイズムをも よく用いる共生の生活をいとなもうとするのが スサノヲ市民です。スサノヲ人間語とアマテラス人格語との 言語のちがいが 出てきます。しかも これらのあいだで コミュニケーションをはからねばなりません。たとえば そのためのキリスト信仰です。無根拠にもとづく非思考=信仰です。  でもこの非思考なる心の明け もしくは 伸びが 経験思想の形成に ちからあると考えられます。  ★ キリスト教――つまり その宗教 つまりその教義(《文字》ですね)――  ☆ これは へのかっぱです。非思考なる信仰を 外に出してしまって 自分たちで 勝手に 教義としているだけです。エレミヤ書31:31以下を読んだでしょう。《教義をおしえるなどということは いっさい なくなるし ない》のです。  教義などに関係なく   ○ ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。  ☆ つまり 誰かは 分かっているでしょうね。教義を知っているかどうかに関係ありません。また その教義があるからというので 後生大事に あたまに頂いて あたかも道徳規範に従うというかのように 実行するのだというのは 自由ですが 非思考=信仰の問題ではありません。経験思想や信念の問題です。  信念や経験思想によれば その努力にしたがって 報いを受ける場合もあれば そうはいかない場合もあります。信仰による場合にも 結果が どう出るかは 分かりませんが それでも  ○ ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。  ☆ だめな場合は なぜだめか そして あらたに どうすべきか やがて 分かるようになります。万事あいはたらいて 益になります。なんで そうなるか 人間が つまり あなたが 詮索しても どうにもならないのとちがいますか?  そのからくりが 知りたいのですか? でも 非思考ですよ。無根拠なのです。あやまつならば われあり なのです。  あやまったと気づいたとき 非思考の瞬間が 与えられます。われに還るというような瞬間ですね。そのあと――そのあと です そのあと―― このあやまち あるいは 還ったというわれについて わたしは 考えをおよぼします。われ考える ゆえに われありというのは その後半の部分を言っています。あやまっても あざむかれても うたがっても そのわれは 存在しているからです。  ★ キリスト教をどう解釈すればいいんですか?  ☆ も へちまも ありません。耳をかたむけてください。その声に聴き従ってください。非思考は わが主観の中にしか ありません。教義や組織やヒエラルキアには ありません。  究極のコミュニケーションを ぜひ どうぞ。

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     すべてのひとを説得することができますか  これは コミュニケーションについての問いです。  【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?  ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。  【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。  (2) けれども 意志行為が本人にのみ属していることであるからには 相手が納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。  (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。  ☆ そもそも コミュニケーション論です。  【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?  【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。  ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。  【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?  【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に機能させるために きっかけとなる。  (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。  (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。  【Q‐β】 コミュニケーションの主体〔であること〕について どういう事項が 心得なければならないことですか?  ・・・  ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。  ふるってご投稿ください。おしえてください。

  • この英文は「彼を説得しようとしてみても無駄だ」?

    It is no use trying to persuade him. です。 try to で「しようとする」、 persuade には「説得に成功した」という意味が含まれるようです。(日本語の「説得する」には含まれませんが) なので 「彼を説得したとしても(何の力にもならないので)無駄だ」かと思いました。 しかし、先生は 「彼を説得しようとしてみても(頑固なので決して納得せず徒労になるので時間の)無駄だ」 という風にとらえてました。 try to の対象が 「説得することの行為」か 「説得に成功すること」のどちらを無駄と言ってるか、が違いの原因かなーと思います。 解答をよろしくお願いします。

  • 刑法で、新客観的違法性論によれば、たとえ責任能力かけていても人間ならば違法行為の主体になれるとのことです。

    刑法で、新客観的違法性論によれば、たとえ責任能力かけていても人間ならば違法行為の主体になれるとのことです。 しかし動物はさすがに違法行為はできないと。 ノーマル・・○ アブノーマル・・○ アニマル・・× 一方、主観的違法性論は正常人のみがなしうるとのこと。 ノーマル・・○ アブノーマル・・× アニマル・・× このとき、新客観違法性論はアブノーマルでも違法行為をなしうるという理屈を どのように説明しているのでしょうか? 違法の「客観性」とは判断対象の「客観性」ではなく基準の「客観性」を意味すると前提づけると、なぜ違法行為の主体にアブノーマルが加わるのかが不明です。

  • (北方)四島返還論には説得力がない?

    大物芸能人が、北方領土を「買っちゃえば」と発言して物議を醸していますが… http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090407-00000529-san-ent 現在政府が主張している四島(択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島)返還論には全く説得力がないと思うのですが、皆さんはどう思われますか? 「うちの国の領土だ」と主張する根拠としては、大きく分けて2つあると思います。1つは、「ずっと昔から我が国が支配してきたので、固有の土地だ」という論(固有領土論)、もう1つは「法的に見て、我が国の領土だ」という論(法的正当性論)です。 日本が北海道を支配し始めたのは高々江戸時代からであり、しかも江戸時代には住民のほとんどが、日本民族とは違った文化に属するアイヌ民族でした。江戸幕府自体、完全に支配していたとはとても言えない状態で、北辺については十分な把握さえされていませんでした。したがって固有領土論を用いても説得性がありません。 では法的正当性論はどうかというと、現在政府が主張する「四島は日本領、それより北及び樺太はロシア領」と取り決められたことはただの一度もありません。日露和親条約の内容に近いようですが、この時は樺太が雑居地でした。 ところで日本はポツダム宣言で海外領土を放棄することに同意したのですが、その趣旨は侵略で得た土地を返還するというものだと思われます。樺太の南半分は、日露戦争という戦争の結果得た土地ですが、四島より北の千島列島は、千島樺太交換条約という平和的で対等な条約の結果得た土地です。したがって法的正当性論を用いるなら、千島列島全体の領有を主張する必要があると思います。 現在の政府が言う四島返還論は日本国民から見ても説得力がなく、せめて千島樺太交換条約の有効性を前提に、千島列島全体の領有を主張した方が説得的だと思うのですが、どうでしょうか?

  • プリントの解答が無いので、教えてください2

    【問3】外国人や子供に教えると言うことは言い換えれば共通の規則を持たない者に教えるということである。逆に共通の規則をもたない他社とのコミュニケーションは「教える-学ぶ」関係になるだろう。通例のコミュニケーション論では共通の規則が前提されている。だが、外国人と子供の対話においてはそのような規則はさしあたって成立していないか、または成立することが困難である。これは得意なケースだろうか。  我々が誰でも子供として生まれ、親から言語を習得してきたということは決して特異的ではなく、一般的な条件である。また我々が他社との対話においていつもどこかで通じ合わない領域をもつのは一般的に言えることだ。その場合、よりよく互いに理解しようとするならば相手に問いたださねばならず、あるいは相手に教えなければならない。言い換えればそれは「教える-学ぶ」関係に立つということである。共通の規則があるとしたら、それは「教える-学ぶ」関係のあとにしかない。 「教える-学ぶ」という非対称な関係がコミュニケーションの基礎的事実である。これは決してアブノーマルではない。ノーマルなケース、すなわち同一の規則をもつような対話の方が例外的なのである。だが、それが例外的に見えないのはそのような対話が自分と同一の他者との対話、すなわち自己対話(モノローグ)を規範として考えられているからである。  しかし私は自己対話あるいは自分と同じ規則を共有する方との対話を対話と呼ばない。対話は言語ゲームを共有しない者との間にのみある。そして他者とは自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。そのような他者との関係は非対称である。教え立場に立つということは言い換えると他者の他社性を前提することである。  哲学は内省から始まる。と言うことは自己対話からはじまるということである。それは他者が自分と同質であることを前提することだ。このことはプラトンの弁証法において典型的に見られる。そこではソクラテスは相手と「共同で真理を追究する」ように呼びかける。プラトンの弁証法は対話の体裁をとっているけども対話ではない。そこに他者がいない。 他者の他者性を捨象したところでは他者との対話は自己対話となり、自己対話(内省)が他者との対話と同一視される。哲学が内省から始まるということはそれが同一の言語ゲームの内部で始まるというのと同義である。私が独我論と呼ぶのは決して私一人しかないという考えではない。私に言えることは万人に言えるという考えこそが独我論である。独我論を批判するためには他者をあるいは異質な言語ゲームに属する他者とのコミュニケーションを導入するほかない。 (1)「教える-学ぶ」関係について述べられているのはア~ウのどれか。複数正しい場合はすべて答えよ。 ア 共通の規則を必要とするものである イ 互いによりよく理解する関係である ウ コミュニケーションのアブノーマルなケースである (2)文中の「非対称」な関係にあてはまるのはア~ウのどれか。複数正しい場合はすべて答えよ。 ア 他社性を捨象した他者と自分 イ 言語ゲームを共有しない者と自分 ウ 言語を獲得する過程にある子どもと親 (3)筆者が考えている「対話」にあてはまるのはア~ウのどれか。複数正しい場合はすべて答えよ。 ア モノローグ イ プラトンの弁証法における対話 ウ 非対称な関係にある他者との対話 (4)文中の「独我論」についてあてはまるのはア~ウのどれか。複数正しい場合はすべて答えよ。 ア 私ひとりしかないという考え イ 他者が自分と同質であることを前提とする考え ウ 「教える-学ぶ」関係から真理を追究するという考え (5) 文中で述べられているものと合致するものはア~ウのどれか。複数正しい場合はすべて答えよ。 ア 哲学は他者の他社性を前提としている。 イ 自分と同一の他者との対話はコミュニケーションの基礎的事態である ウ 独我論を批判するには他者とのコニュニケーションの導入が必要である。

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    ブロックされる人の特徴って何だと思いますか? ・私の場合は自分のQ&Aに関係なく、他人のQ&A上で酷い発言していたり その人が立てる質問自体が見てて不愉快になるものが多いからなんですが、 皆さんの場合はどうでしょうか? *その人は知恵袋上でも、同じような行為(回答者を煽ったりする行為)を繰り返しており あぁやっぱ脳内腐ってるんだなぁと確信してます。

  • 同居を納得しない妻を説得したい

    いわゆる「同居を回避するには?」という質問が多いのですが、その逆です。同居を嫌がる妻をどうしたら説得できるでしょうか? 僕は長男でこの7月に結婚したばかりです。今は新婚ということで実家から15分ほど離れたアパートで夫婦生活をしています。しかしゆくゆくは実家に入りたいと思っています。実家の両親は50代でまだ働いており元気です。また参考ですが妻は妊娠しており今7週間です。 僕は田舎の長男として育てられ、結婚したら家に入るのが当たり前、子供にとっても家族が多いほうがよいと思っています。でもそれが当たり前であり親孝行という感じの地域で育てられたので、そうでない妻の反論に合うと、それ以上は詰まって説得することができません。「当たり前」じゃ理屈がとおりません。 妻が同居をいやがる理由・背景・言いぐさなどは、「一般的な嫁姑問題に不安がある」ことも含め、概ね次のとおりです。 「自分のお母さんが同居で相当苦労してきたから同居にいい思いが持てない」 「戸籍上は嫁になったけど、紙上のもの。二人や子供との生活を大事にしたい」 「やっぱり他人だから上手くいかないと思う」 「私の味方だよね」 「猫アレルギーだから」※うちには猫がいて、アレルギーも本当の話ですが、死んだらハウスクリーニングするからと言っても「いやだ」の一点張りです。 私はとにかく同居を円満にやって、親孝行もしたいし、妻とも仲良くやっていきたいのですが、最初から妻がその努力もせずに断ろうとすることも嫌なのです。私だったら仮に婿入りの同居希望であれば、それなりに上手くやっていこうと努力をしてみます。 昔は同居が当たり前だったと思いますが、現在は女性も自己主張するようになってきて、そうもいかなくなっている時代です。 無理強いしたら奥さんがかわいそうという意見もありそうですが、もちろん妻ができるだけ快適にできるよう、母親の干渉をストップさせたり夫として努力したいと思っています。 何か戸籍の考え方、法律上の観点、感情論、条件付け、細木数子的視点、など上手くて理論的な説得方法はありませんでしょうか? 同居を納得した女性の皆様、どういわれたら納得しましたか? また説得を成功した男性の皆様、どう説得しましたか? アドバイスどうぞよろしくお願いします。

  • すべての値が0以上の問題

    四次関数を微分して答えが -1 ,1,a が出てきたとして すべての値に対してxが0以上の場合 f(-1)≧0 かつ f(1)≧0 かつ f(a)≧0 にする。 というのはグラフでは意味がわかるんですけど 3つとも≧0というのがなんとなく納得できないです。 言葉で説明するとこれはどういう意味ですか?

  • Noetherチャージと生成子

    場の理論でNoetherの定理から出てくる保存電荷Qが場の微小変換の生成子になっているというのがどういうことなのか分かりません。 φ(x)→φ(x)+εG(φ)(ε<<1) において古典論、量子論において [φ,Q]=G(ポアソン括弧) [iQ,φ]=G(交換子) がそれぞれ成り立つことがQが生成子になっているということらしいのですが、ここでの生成子の意味と、なぜQが生成子であることと上の関係式が成り立つことが同じ事なのか教えてください。

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