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教会の存在について

教会の存在について、お教え願いたく思います。 キリストは、教会を作れと言いましたか? それを薦めたり、許可したりしましたか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • kt1965
  • ベストアンサー率34% (116/339)
回答No.1

回答します。 旧約聖書では、「一応作らなければならない」となっています。新約聖書では、特に言及はありません。 日本の神道でも、はたまた佛教でも同じことですが、神社・仏閣・寺院を作れという決まりはありません。これは、イスラム教でも、施設を作らなければならないという決まりはありません。あえて言えば、「偶像崇拝をしてはならない」というだけでしょう。 しかしながら、何かをよりどころにして、人々が集まれる場所を作らなければ成らなかった。それが、教会や神社・仏閣・寺院が生まれた理由かと思います。 遥か昔、同じ信仰を持つ人々が集い、集まり、祈りを捧げる。それによって、同じ考え方や思想に共鳴し、それで帰属を確認する場としての施設であった。 大昔、キリスト教徒はローマの地下墳墓で祈りを捧げた。無論、弾圧を恐れてのことだったそうです。 まあ、現代的には社交場としての意味と、日曜学校や同じ信仰を持つ同士のコミュニティとしての場という意味が大きいのだと思います。 では。

naguruna
質問者

お礼

ありがとうございました。感謝いたします。 やはりそうでしたか。 社交場やコミュニティの場としての教会は、結構な施設であると思います。 ただ、どの宗教においても、世俗的な集金機関、洗脳集団、権力志向陰謀団としての教会と、ナイーヴなそれとが、雁行し、次第にに前者が後者を包含していく事態は、嘆かわしいと思います。

その他の回答 (3)

回答No.4

マタイによる福音書にはこんな言葉があります。 [するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデス(死者の留まる所)の門もそれには打ち勝てません。]16章16-18節 [また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。]18章15節ー20節 とあるとおりイエスは教会を作れと言うどころか、「建てる(作る)」とさえ言っており、また承認しています。16章では教会を死をも恐れない力として、18章では地上における神の代理権威として最終決定権をもつ存在としてて意義付けられています。 そもそも教会とはなんでしょうか? 三角屋根の上に十字架が付いた建物のことでしょうか? 教会という言葉は原語のギリシャ語聖書を見ますとエクレシアとなっていてエク(~から出る)という前置詞とカレオー(呼ぶ)という言葉の合成語で「召し出す、呼び出す」を意味し議会などに使われていた言葉です。 つまりキリストがこの世から選んで召し出された会衆ということになります。 聖書によるとその集合単位は都市、町ごとであり具体的にはローマにある教会、コリントにある教会、エルサレムにある教会などです。 現在は世界中にこのような町ごとの教会があり、キリストのからだなる教会(コロサイ1-24)の交流を楽しんでいます。 文化も国も民族も習慣も超越してキリストにある永遠のいのちを楽しんでいます。 ロサンゼルスにある教会、台北にある教会、モスクワにある教会、ロンドンにある教会、上海にある教会、大阪にある教会、名古屋にある教会、東京にある教会・・・ イエスを受け入れるということは、彼と共なる神ご自身を受け入れる者です。一人一人は神ご自身とともに違った賜物を受け、総合するとキリストのからだになり、調和の中で地上における神の代理、かしらなるキリストの表現となります。 しかし人間のやることですから失敗だらけです。 しかし神が支え続けていることもまた事実です。(神が支えておられなければ、キリスト教はとっくの昔にローマによって滅ぼされてしまっていたでしょう。クリスチャンは迫害されればされるほど増えました。死刑にされる人が喜びに満ちて死んでいったからです。) 私たちの信仰はキリストが再来して私たちの失敗を罰し、私たちのなかの神の働きを賞賛するということです。 教会はキリストが再来(神としての力と栄光を帯びて終末の世に来る)するまで、責任ある働きを任されていると言えるでしょう。 ところでルター教会とかカトリック教会とかたくさんある教派はいったい何なのでしょうか? 聖書ではそんな教会はありません。 それは教会ではなく分裂です。(Iコリント一章)

naguruna
質問者

お礼

詳説、誠にありがとうございました。岩の上に建物を建てるという部分は、昔読んだような気がします。 ご指摘の数箇所を早速読んでみます。 今まで頂いたご回答とはやや趣旨が異なる感じで、私は再び迷い始めました。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.3

ちょっと聖書を読み返していないので断言できませんが… 本人が作れとは言わなかったと思います。 しかし礼拝所などの施設を否定もしていません。 ただ、そのような施設(敷地内)を遊興や商売の場にしてはならないとは言っていたはずです。 昇天後の精霊降臨の際に弟子達に「あなた方が教会である」というようなメッセージを与えたと記憶しています。(訳し方にも因るでしょう) 同じ主旨のヒトが集まる、ソコに屋根をつける、建物が生まれる この過程は善しとされますが、だからと言って必要以上に神聖視するのは、やはり偶像崇拝に通じると私は考えています。

naguruna
質問者

お礼

施設が商売の場になっている場合もありますし、また、必要以上に神聖視されている例もあるようです。退廃はここにさえ侵入していますね。 ご高説、誠にありがとうございました。

noname#113957
noname#113957
回答No.2

教会は教団と建物の二つの意味があります。 建物は何の宗教でも個人の家での集会から始まったものですし、 教団あってのキリスト教教会となり、どちらにしてもキリストが言った事ではない。 そもそもイエス・キリストという個人が存在したという文書は、 キリスト教関係以外で見つかっていない。 ローマ時代に多くの歴史的文書があったにもかかわらず。 あれは一個人ではなく布教した人々の英雄伝じゃないかと思う。 大和朝廷成立における英雄達の所業が合わさって日本武尊になったように。 そう考えると新約聖書に現れてる矛盾が解明される。 一人だと限定するには新約聖書の記載にかなり無理がありますから。

naguruna
質問者

お礼

教団が、専門家集団として知識や儀式を独占し、神と信者の間に立ちふさがってしまっている場合があります。キリストはそんな事は望まなかったでしょうね。 きっかけになったひとりの人物はいたかもしれませんが、キリストは集合体だと見たほうが確かに自然であるようです。 誠にありがとうございました。

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