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 政治と芸術的素養

最近、政治家と芸術の相関関係について考えました。   たとえば文学に携わる政治家は多いように思います。  石原慎太郎や田中康夫、世界レベルで言えばトルストイやユゴーも  社会変革に向かっています。  それに比べて、音楽芸術に携わる政治家は少ないように思います。    そのことから類推すると、文学のような理性(言語)を駆使する  芸術と、感性を駆使する音楽という芸術との、まさに「感性」の  違いがあるように思うのですが、みなさんの考えは   いかがでしょうか。  答でなくて、漠然とした感想でも結構です。  お聞かせ願えれば幸いです。    

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noname#129514
noname#129514
回答No.5

No.2の者です。 前回は、多角的に例を参照して考えましたが もう一度、音楽に絞ってまとめてみます。 確かに、音楽芸術に携わる政治家は少ないように思います。 でも、音楽家も社会の変動に無縁でいることは難しく 波乱万丈な時代であればなおさら、英雄に共感を持ったり 政治的なプロパガンダに関わったり 行進曲などの軍楽として士気を盛り上げたり 動乱鎮圧の後には、その英雄を讃えたりするなどして 間接的に政治の動向を補佐してきたように思われます。 再び、具体例を挙げてみますと… ◇フランス革命後、ナポレオンを讃える曲として作曲されたといわれる ベートーヴェンの「交響曲 第3番 英雄」 ◇アメリカ人の愛国心の象徴とも言われ、国の公式行進曲に制定された 海兵隊音楽隊隊長、J.P.スーザの「星条旗よ永遠なれ」 ◇北イタリアの独立運動を鎮圧した、ラデツキー将軍を讃えて作曲された J.シュトラウスI世の「ラデツキー行進曲」 …などには、音楽家と政治の間接的な関わりが 見られるのではないでしょうか? 文学と音楽の、それぞれの政治との関わりを解りやすく喩えれば 意思表明(例、○○○をするぞ!)の手法に秀でた「文学」 それを盛り上げる(例、がんばって!)ことで補佐する「音楽」 こうした役割的な性格があるように感じられます。

arakan
質問者

お礼

  再度の回答ありがとうございました。  いや、色々と勉強になりました。  それにしても音楽家で イコール 政治そのものを  担当する 人間はやはり少ないようですね。  

その他の回答 (6)

noname#96756
noname#96756
回答No.7

かつて古代ギリシアにおいては、政治の概念をも超えた「あらゆる万物の秩序」を求めようと試みた集団がいました。 ピタゴラスとピタゴラス学派が数学の発展に貢献していくこと、すなわち、音楽的音階の秩序であり、宇宙の秩序であり、さらには倫理の秩序とは何かを果敢に究めた、とされています。 彼は、連続する整数によって弦を分けていくと、ある程度調和して心地よい「感性」の音程(協和音)が得られるのに気がつきました。 それは質問者様のおっしゃる理性(言語)と感性(音楽)とが同様に駆使された唯一の時代であったのかもしれません。 その後の音楽の「感性」は後の為政者の政治的・宗教的な思惑の下、神への賛美や社会的人道的な愛などの倫理・理念を表現するために生かされてきた面があります。 マキャヴェリの『君主論』のように政治的な哲学理念を論理的かつ直截的に表現するには音楽の「感性」では所詮無理があろうというもの。 言語や数式を用いた「理性」によってしか表現し得ないものがそれぞれにあるかと思われます。 >政治家と芸術の相関関係について考えました。  >文学のような理性(言語)を駆使する芸術と、感性を駆使する音楽という芸術との、まさに「感性」の違いがあるように思うのですが、 確かに、両者における違いは否めないと思われます。 では政治家とまでは言わなくとも、言語のつかさどる「理性」を超えて、音楽の「感性」が何ら主体的な政治的パワーを持ち得ないものなのでしょうか。 いえ、「政治的信条」のような類は表現し得なくとも、むしろ時々の為政者や社会的な不条理を広汎に問題提起し大衆レベルに共感させるという点においてこそ、言語の「理性」のそれを遥かに凌駕するものかもしれません。 かつての有名な天文学者ヨハネス・ケプラーが、自らの生きている時代に多くの苦しみや戦争の恐怖を目の当たりにし、地球はふたつの音、miseria(ラテン語で「苦難」の意)のmi、fames(ラテン語で「飢え」の意)のfaでできていると社会を憂いたように、 現代においては母国アイルランドの政治的な葛藤を憂うU2をはじめ、自らの音楽活動を通じて様々な政治的社会問題へ強いメッセージを問いかけるミュージシャンたちが多数活躍しています。 絵画・映画といった芸術の持つ「感性」の孕む潜在力は、もはや政治の枠組みを超えて、草の根の大衆レベルにおける時代のアンチ・テーゼ的な役割を果たしていると言っても過言ではないかと思われます。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.6

文学も音楽も美術も、もともとは人間が外界(現実世界)に関わり、それを人間生活に役立てるための手段なり、媒介なりとして発生したと考えられます。 「政治」だって、もともと祈祷師、呪術師なりが司る祭祀儀礼に遡るからこそ、倭語ではこれを「政(まつりごと)」と呼んでいたはずです。 こういう祝詞に類した言葉は音楽的な節回しを伴って唱えられていたはずですから、古代においては、良くも悪くも政治と芸術とは融合していたと言えなくもないでしょうね。 ところが、今日の政治システムの原型が成立するためには、律法なり、律令なりの存在が必要不可欠なのではないでしょうか。 より多くの人民、より広大な地域を支配するためには、祭祀や呪術次元での「まつりごと」や、有力な豪族ないしは族長の恣意的で不安定な意思や私法ではとても対応できなかったと考えられますから。 今日の国家の原型が成立するためには、支配者(国王)の意思を不安定な音声言語によってでなく、時間・空間に規制されずに伝達できる、最も安定的な情報メディアとしての《文字》の発明が大前提だったはずです。 このことは、世界各地の古代国家がいずれも《文字》を持っていたことからしても明らかでしょうね。 その意味で、たとえば日本の天皇の子孫は、右翼がどんなに頑なに民族主義的な主張を繰り返そうと、理論的には帰化人(漢字伝来者)の子孫であることは否定しようがないはずです。 そう、漢字が日本列島に伝来するまで、天皇が支配する政治国家など存在しえなかったからです。 >文学のような理性(言語)を駆使する >芸術と、感性を駆使する音楽という芸術との、まさに「感性」の >違いがあるように思うのですが、みなさんの考えは  >いかがでしょうか。 文学者(小説家、詩人、劇作家等)とは、文字言語の機能、マニュアルに通暁した職人であるとも言えますから、彼らが文字言語を媒介とした人心掌握・操縦術に長けているのは当然ではないでしょうか。 一方、音楽家や美術家の場合、その表現手段(メディア)はあまりにも具体的、感覚的、情緒的すぎますから、文字言語というメディアに較べると、表現者(支配者)の意思や観念をより正確に伝達するという点で劣るのは否定できないと思います。 ただし、人民の情緒に訴える機能という点では、文字言語よりも音楽や美術の方がはるかに優れている以上、古来、支配者が音楽や美術を政治的に活用しようとしてきたことについては言うまでもありません。

noname#101110
noname#101110
回答No.4

言語芸術(文学)は芸術の中で最も通俗に近いものです。具体的で誰にも理解しやすい。言葉のスキルを巧みに操って多数の人々を操ることが出来ます。政治という俗世界に利用できる道具の筆頭です。「文学者」がよく政治家になる理由でしょう。 感性そのものに違いはないと思いますが、強いて言えば音楽家の感性は文学家のそれよりも抽象的で純度が高くて政治の世界とは相容れないと言う事はいえるでしょう。それに音楽家のスキルは政治とは無関係なので、歴史的にもナチスなどに利用されることはあっても、彼ら自身が主体的に政治に身を投じることは余りなかったということでしょう。

arakan
質問者

お礼

うーーん。やっぱりそういうことが言えそうですよね?  意を強くしました。  回答ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

政治と芸術的素養 政治に芸術センスのない先進国筆頭が日本ですね。東京タワーやビルの高層階に昇って東京の街を見るたびに思いますね。街に芸術性が見られないんですね。つまりごちゃごちゃ汚いスラム街が大きくなった街という感じですね。統一性・方向性・未来性など何も感じない街ですね。東京だけではなくどの都市でも同じですね。街は絵画だから、絵画がかけない政治は後進性の現れでしょうね。政治家がそうであることは同時に民意がそうなんですけど、国民に芸術的素養が十分に備わってないんでしょうね。教育に余裕がないともいえるのかもしれません。豊かな日本ですので今後はよくなると思ってますけどね。未来は巨大な美しい町並みの日本であってほしいですね。

noname#129514
noname#129514
回答No.2

舞台芸術はどうでしょう? 明治時代の俳優、「川上音二郎」を思い出しました。 政治運動との関わりでは、自由党の壮士であり 明治29年、衆議院議員選挙に立候補しています。 ただし、落選したので議員にはなれませんでしたが。 もし当選していれば、現在で言う「タレント議員」でしょうか? 自由民権運動の頃には、反政府運動を行っています。 演説の才能は、演技の才能でもあったように思えます。 弁舌は、演技力でもありそうです。 たしか、映画「マイ・フェア・レディ」のなかでは ヒギンズ教授が、英語を「音楽的言語」と形容していませんでしたか? (確認のための時間が無く、手間を惜しんですみません) 言語にも音楽性があり 聴衆を惹きつける演説を、音楽に喩えるのなら レチタティーヴォが近いでしょうか? 職業的な音楽家出身の政治家は少なくとも 言語的な音楽性を持つ政治家は、意外といるのかも知れませんよ? 例えば、オバマさんの演説、大衆を惹き付けていましたよね。 良い演説には、リズム感があると思います。

arakan
質問者

お礼

なるほど。川上音二郎ですか。  もちろん、音楽的芸術に長けた才能が  政治的(世俗的)才能にまったく無関係であると  言っているのではありません。  相関関係が薄そうな気が気がするのですが  みなさんの意見はどうでしょうか?  という趣旨です。    このサイトではありませんが、知人にこの  ことに対する感想を求めたところ  ショパンには友人の革命家のために作った  「革命」という曲があり  「モルダウ」も祖国革命のために作った曲だと  いうご教示をいただきました。    コメントありがとうございました。   

noname#100496
noname#100496
回答No.1

文学のようにことば、文字は、脳で変換して意味を理解するので、脳を使いすぎてストレスになりやすい、音楽や絵画は、イメージだから直接理解できるから、心が癒される、だから天才はイメージで理解する、文学は論理的政治家、音楽、絵画は直感的政治家

arakan
質問者

お礼

 やっぱり音楽は直感型ということになりますかねえ。  回答ありがとうございました。  

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