• ベストアンサー

宗教と科学は

究極的には同じ英知を探求する同志なのでしょうか

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • shiara
  • ベストアンサー率33% (85/251)
回答No.11

根本は同じです。どちらも、人間の「知りたい」という欲求から生まれたものです。人間に「知りたい」という欲求があるのは、知ることが生きていく上で有利だからです。自分が生きている世界がどのようになっているのかを知れば、食料を手に入れるにも、敵から逃れるのにも有利です。この欲求は、自分が直接知ることができない世界に対しても向けられるようになりました。この世の果てはどうなっているのか、この世界はいつできてこれからどうなるのか、そういうことも人間は知りたいと思うようになりました。「科学的方法論」によって世界を知るようになる前は、人間は想像するほかなかったのですが、その想像が作り出した世界観が宗教の元となったものです。この原始的「宗教」は、人間のあらゆる「知りたい」に答えるものでしたから、今でいう「科学」が扱う事柄から、死後の世界のように宗教が扱うものまでさまざまな事柄を対象としたものでした。やがて「科学的方法論」が整備されてくると、「科学」が発達してきます。「科学」は客観的に知ることができ、定量的に扱える事柄だけを対象としていましたから、人間はいかに生きるべきか、とか、人間は死んだらどうなるか、ということは、「科学」とは別物として扱われてきました。これが「宗教」となったといえるでしょう。

その他の回答 (11)

noname#100496
noname#100496
回答No.12

科学と宗教は水と油です。この地球で、あなたの心の中で、対立しています。科学は、脳の思考活動で成立しています。宗教は、人の心を、大自然の心、神の心に、チャンネルをあわせる事を目的にしています。科学は脳の思考ですが、脳が活動してる時は、脳が人の心と、宗教の、神の心との交流を遮断します。科学の脳の、思考が休むと、人の心と、宗教の神の心が、交流するので、心が癒されます。だから人の心の中には、科学の脳の世界と、宗教の神の世界があり対立しています。だから地球も、科学の脳と、宗教の心の自然、情緒と対立しています。だから頭には、心はありません、胸に心はあります。だから科学と脳は、心が無いので、自然を征服しようとして自然を破壊しました。仏教では、地球を仮の世界といいます。科学の脳と、宗教の自然の心、神の心が交わったらどうなるかというシュミレーションの世界です。現在は脳が、分身の言葉と、脳のコピーのパソコンネットワークで、領土拡大をしていますが、2012年の次元上昇で、脳の科学の時代は終わり、宇宙の心、神の心の時代になります。

noname#80093
noname#80093
回答No.10

同志と言っていいと思います。 科学だけでなく、例えば芸術の分野でも政治の分野でも、究極的には神仏を探求して行くことにつながっている、と私には思えるからです。 私は、ある本によりこのことに気付かされました。 少しニュアンスは違う表現になるかもしれませんが、 エクセルの表をイメージして頂くと、        A  B  C  D      宗教 科学 芸術 政治   1 大如来 2 如来 3 菩薩 4↓省略 というように、それぞれ神仏に向かって境地に段階があるようでして、 これはあくまで例えですが、 2の境地として、A聖徳太子、Bエジソン、Cバッハ、Dリンカーン とした場合、分野は違っても神仏認識境地段階としては共通する、 ということがある、とのことでした。 神仏の境地をその方なりに感得すると共に、それをその方なりの分野において表現する、という言い方もできるかもしれません。 一つの参考までにして頂ければ…と思います。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.9

<著名な科学者のほとんどは有神論者だということはどの様にお考えかお聞かせくだされば幸いです> 「科学と言うものに限定すれば。正当な範囲と根拠がある反証を受け入れる姿勢を持って、他俳的な思考方法を科学の内にいれず、範囲と根拠を重要視し、捻じ曲げなければ何を信仰しようと関係ないのでは?」 と言うのが思うところです。 データはデータですからね。人間のすることですから若干決め付けも入ることも多いですが、その部分は、後に他にその気め付けを見破られ壊されていくでしょう。 ほとんどの宗教でなされる「信仰」は概念の固定・絶対視なのだと感じますが、そう簡単には出来るものではありません。理性の強い人ほどすぐに数多ある矛盾点に気付くでしょう。しかし「そんなはずは無い」と「もっと調べれば信仰が事実だとわかるんじゃないか」と理性を持って正当なデータ収集をなす科学者もいるでしょうね。 もしくは徹底的に科学的なデータ収集をすれば最終的には「事実である信仰する概念」の証明になるはずだと…。 そのような積み重ねで、宗教自体の概念が変わらざるを得なくなって、何とか解釈を変えて変えて生き残っているようなものもあるように感じます。 「信仰」と言っても反論できないデータの前では「無かったことにする」もしくは「事実を無視」して概念を守るか、「事実を受け入れ」て概念を柔軟に構築しなおすかの選択が迫られると思います。 まぁ、一人一人が自分の納得のできるところで折り合いをつけているのでしょう。 信仰する概念も、拠り所とする書物・教えが曖昧で言葉の意味の幅が広過ぎる教えであるなら説いた人の意図と関わり無く自己の自分勝手に作り変えられると言う問題点もありますね…。 話は戻りますが ともかく信仰者は「我こそ正しいほかは間違っている」という性質をどうしても持ってしまいますからね。 他の見解を壊すために何かそれらしいデータで壊さなければ、説得力のある論に宗教に民衆の支持者を取られて負けてしまいますから、相手より正しいと言う証明・データが必要になりますね。 かといって適当なデータだとすぐに潰されるから理性的で論理的なもにしなければいけない。 そのような過程が信仰を持つ理性が強い人に多くみられるのではないか、そうであるから科学に熱心な人が多々出ているのではという考え方も出来るかもしれません。 仏教(パーリ語の仏典)を奉じる人は、他者からも自然からも搾取して生きる法ではなく、あるままで最小限で満足し貧富二関係なく幸福になるための教えで。自分を支える自然や生命を大事にし最小限の迷惑しかかけないように支えあう教えですから。 科学に興味は無い人が比較的多いのだと思います。 否定はしませんが搾取や他の破壊は好みませんw 物質より心の汚れ観察し分析し原因を落とし苦を滅し、楽に支え合って生きること。心の汚れを落としきることが主題ですから。 「いかに生きるか」が研究課題ですしね。 そこに物質はたいして問題になりません。 証明すべきはこの生命の中にあるのですからw 参考になれば幸いです 幸福であれノシ

noname#80116
noname#80116
回答No.8

 ひとは つねに 自己にとどまり 自己に還帰し 自己を表現してあゆむ動態です。  その自己表現の過程において 信仰について述べることを禁欲するのが 科学です。  信仰について 得意になって 自己の知識をひけらかすかのように 述べるのは 宗教です。  ここで 信仰とは 生命存在への愛です。  ひとのおこなう自己表現は その内容としての《英知》に 特別の区別はないでしょう。  ただし 信仰についての英知をひけらかすという場合 しばしば 商売になっていることがあります。そのことを考えるなら   ★ 同志  ☆ というのを わたしは ちゅうちょします。

回答No.7

 宗教は科学の結果と知識を尊重できますし、そうします。  そしてそこに創造主の精妙なる配慮と智恵を思います。  宗教は科学にだけその知見を依拠しません。  科学の知見を尊重しても、それだけが世界の知見だとはしません。  科学に矛盾した知見に固執はしませんが、科学知識だけに固執はしません。  科学は宗教の感受とか、世界観には未だ、手が伸びないのではないかと存じております。  ここで科学と申し上げたのは、ご質問者のご使用の用語を踏襲しただけで、この回答者はそのご使用のタームにより、インテレクチュアルなる探求の全てを、つまり西洋の哲学までを含んでおります。

回答No.6

 宗教と科学は・・・同志か?  両者を天秤に掛けたり、並列に見る視点であれば別物でしょう。そもそも対比する段階で、そう見てしまうでしょう。土木と建築は同志ですか?と聞かれたら、別物ですと答える人と、建設業という枠では同じです、と言う二つの主張が出来ます。又、経済効果では似てますとか。  私個人は、同志と見るべきと考えます。例えば、人間を科学的に探求すると、たんぱく質・カルシウム・鉄分・水分などに詳細に分類出来るでしょう。それで、死んだなら科学的に分解して再利用しますか?であれば、ノーベル賞の学者も身体障害者も同列にならないでしょうか?やはり、人間として葬儀をする心は同じであって欲しいと思います。出なければ、まるでナチスの収容所です。ですから、理念や利用を誤った宗教や科学には、NOと言うべきです。其処に人間的な共通の価値観の必要を見るのです。  では、人間的とは何かになると、質問枠を超えるので、ここまでとします。      以 上

noname#101110
noname#101110
回答No.5

水と油、お互いに相容れない、全くの別物ですね。 宗教は心をある架空の絶対者に任せてしまうというところから始まります。全知全能の神という非人間的なものが存在するということをまず信じなければ始まらないのです。もちろん、自然の猛威に打ちひしがれて日々を生きねばならなかった我々の先祖がそういった超強力な力を想定しなければ安心できなかったことは、理解できないこともありませんが、宗教的な英知とはそれ自身矛盾であり、まやかしと考えていいと思います。 科学は心を真っ白にして、何の前提も置かない地点から始まります。人間が、自分自身の五感と論理で客観的に証明できることの積み重ねが科学を現在の高みに導いてきました。現人類は宗教を信じなくてもそれなりに自然に対して心身を自立できるだけの強さを身につけたといっていいと思います。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.4

現代の思考方法について思うところを書いてみたいと思います。 現代における多くの宗教は「信仰」に尽きると思います。 範囲と根拠を捨てて、これこそ事実、他は間違っていると言う態度で、その「信仰する概念は事実」という尺度で世界を観るもの感じます。 現代においての多くの科学は「信仰」に満ちているように感じます。 範囲と根拠を勢力の強いところ意外は捨てて、得られたデータを自己の「得たい情報」という尺度に捻じ曲げて使われている場合が多いように感じます。 これら「尺度」を重要視するいわば探求する対象を「決め付ける」と言う働き「すでに知っている」という態度を持つものは、英知の探求という範囲にたたないように個人的には感じますので。。。 宗教と科学の少数がなしている範囲と根拠を大事にし、決め付けず、理性的に論理的に柔軟に確信を持てる見解を保つ努力をしているものに関して回答を試みたいと思います。 そのような少数の宗教と科学に関して言うなら 科学は「主に」物質に関して 宗教は「主に」心・生命に関して 科学的な手法を持って理性的な視点を持って反証を受け入れる形で語られているように感じます。 科学は素粒子や物質の最小の構成要素までいっているようですね 性質上限界を理解している人もいると思います 宗教で上記した性質を持っているもので私の知っているのは「ゴータマ・シッダールタ。お釈迦様」のパーリ語でのこされた仏法のほか知りません。 ゴータマも物質については「必要以上」に語りませんでしたが、物質の最小の構成要素である性質を四つ挙げていて現代の科学と比べても外れていないように感じます。 宇宙などについてところどころでたとえなどに使って語ってますが現代の科学で発見されたものが証明しているように感じます。 ブッダは六根が対象を認識する際に生まれる執着・渇愛によってさまざまな人間の苦しみが生まれると発見しその解決法を実践し体験として見つけた方法を思い説いているように感じます。 苦集滅道・すなわち「苦しみとは何か」「その原因は」「苦の滅とは」「その方法」を、自ら科学的な手法を持って確認できる方法を。 生命・認識・感覚・物質・意思などをとことん分析し性質をみて分別してますね。 信仰にならないように理性的に見解を構築する際に気をつける方法なども詳細に語られてます。 以上のことを鑑みると、科学は外の物質法則を、宗教は内の生命法則を探求することと思います。 究極的には理論構築方法論は若干交われど同志とはいえないように感じます 内なる生命の法則である道徳(現代の押し付けの物でなく法則としての)を持たない科学は相当の危険をはらむものであると感じますので。 生命の中においては、科学にとって宗教は(共に範囲と根拠を重要視するもの)無くてはならないストッパーだと思います。 科学は物質法則をうまく使う 宗教は苦しみを減らし幸福に至る そのような道に感じます。 物質をうまく使っても 理性的に苦しみを無くさなければ幸福にはなれませんからw それ自体は別の道になると思います。 参考になれば幸いです。 幸福であれノシ

momonga78
質問者

お礼

大変興味深く拝見しました 著名な科学者のほとんどは有神論者だということは どの様にお考えかお聞かせくだされば幸いです

noname#194289
noname#194289
回答No.3

科学は通常自分だけは研究対象から外します。生物学も対象としているのは脳にしても神経にしても自分ではありません。心理学にしても自分だけは対象にしていません。しかし「自分」を研究対象にすると科学も宗教と異ならなくなります。おそらく自分のことだけはわからないというのは原理的なことなのではないでしょうか。宗教によっても自分のことはわからないだろうと想像します。

noname#160321
noname#160321
回答No.2

互いに「別のもの」ですので、手法も目的も異なります。 宗教は「信ずるもの」であり、 科学は「疑うもの」です。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう