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なぜ、動物は好奇心を持っているのでしょうか?

 なぜ、動物は好奇心を持っているのでしょうか。  ここでいう好奇心というのは、「わけの分からないものに関する強いワクワク感」です。  当たり前の話ですが、人間は好奇心を持っています。学術的な分野から俗っぽい領域まで、その種類はさまざまで多種多様ですが、よく分からないもの、もしかしたら危険なものに対して、ワクワクと気分が高揚することは、割と一般的ですし、その存在に特に疑問の余地もないように思えます。  また、他の高等生物に関しても、(もちろん諸説あるとは思いますが)好奇心を持っているように見えます。  さて、それを踏まえて質問なのですが、好奇心の正体とは、いったい何なのでしょうか?  ここは特に人間の場合で考えたいのですが、好奇心というのは、恐怖から理解を強制されるのとはまた違った、もっとポジティブな感情だと思うんです。  例えば、TV番組の『トリビアの泉』を見たときの、好奇心をツンツンと突かれる感覚と言えば良いのでしょうか。  進化の過程では、特に危険を冒さない安全指向の遺伝子型が生き残ると、どこかで聞きました。詳しくは知らないのですが、逃走か闘争かという二択で、前者を選んだモノ達が生き残ったと。  たしかに、その意見は常識に合致しているように思え、説得力があるように見えます。  しかし、こうした進化の基本方針――安全指向――から考えて、好奇心というのはまったく矛盾した感情ではないでしょうか?ここが、私の質問の核です。いったい、何のために、好奇心なんてものがあるのでしょうか?  一般に、生命の特徴のすべては合目的的であると言われます。とすると、好奇心にも何か存在理由というか、生き抜く上での必須機能があると考えるのが普通だと思います。  しかし、いったい好奇心の何が、生きるのに必須なのでしょうか?  ここで一つ解答として考えられるのは、「好奇心はたまたま発現したイレギュラー的感情だが、それによってヒトが発展してきた(知的好奇心によって学問を作り機械を造り云々)ために、好奇心があるのだ」という説明です。  しかし、この説明だと、他の動物、特にサルやシャチなど、高い知能を持っていると言われる生物に、好奇心(らしきもの・・・というべきでしょうか?)がある理由が分かりません。  彼らにとっては、好奇心なんて、逆にない方が安全なのではないでしょうか?『好奇心が猫を殺す』なんて諺(?)もありますが、危険からひたすら逃げていれば、その方が遺伝子には都合が良いのではないでしょうか?  もっと突っこんで言ってしまえば、好奇心なんて感情は、単細胞生物からヒトに至るまでの生命の進化の過程で、駆逐されているべき要素ではないのでしょうか?  少し、質問が長くなってしまったので単純化しますと、「好奇心の正体とはいったい何なのでしょうか?」ということです。  もし参考文献や参考サイト(英語なら分かるので英語の文献でも構いません)で有用なものがありましたら、是非ご教授ください。  もちろん、ここで直接ご回答を頂いてもまったく構いません。むしろ大歓迎です。  妙な質問で申し訳ないのですが、長年来の疑問なのでご教授頂ければ幸いです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.5

こんにちは。 好奇心とは「新奇刺激に対する動因」と定義されます。そして、これによって選択される接近行動は「問題解決のための能動的回避行動」というのに分類されます。 質問者さんがお知りになりたいのは「好奇心の生物学的意義」に当たります。これを成立させようとするならば、その構造を明らかにし、生物学的価値と対比させるという手続きが必要となります。 では、好奇心が危険を招き入れるものだとしますならば、それは明らかに生物学的価値とは矛盾しますので意義は成立しません。ということになりますと、ならばここでは好奇心の構造というものがきちんと把握されていない、ということになります。果たして、好奇心といいますのは別に危険に対して接近行動を選択するための機能ではないです。 危険であることが判明している場合、そこで接近行動が選択されるということはありません。そして、「新奇刺激」といいますのは未知の対象でありますから、これに利益・不利益の判定を下すことはどうやってもできないわけです。 我々動物は、 「報酬刺激:接近行動」 「嫌悪刺激:回避行動」 この判定に従って何れかの行動を選択します。 「無報酬刺激」は嫌悪刺激と判定され、回避行動が選択されます。 情報の不足によって何れかの判定が下せない場合、我々の脳内には「不安状態」が発生し、結果的には「行動抑制」が掛かります。つまり、どちらの判定も下せないため、具体的な行動が選択できなくなってしまうわけです。では、ここで我々が何らかの行動を選択するためには、その原因が判明するか、あるいは何か別の動因が発生しなければなりません。 この「不安状態」、あるいは「不理解(不思議)」「不均衡(不満足)」といいますのは我々の身体では「ストレス」として働きます。ならば、それがストレスである以上、当然これに対しては「回避行動」が選択されなければなりません。ですが、ここには二通りの選択肢があります。 「回避行動:ストレスの原因から遠ざかる」 「接近行動:ストレスの原因を排除する」 このため、好奇心に従う接近行動といいますのは「問題解決のための能動的回避行動」というのに分類されます。 このように、我々の脳が行動抑制を解除することができるのは、それはストレスという「二次的動因」が発生するからです。このため、ストレスには「問題解決のための警鐘」という生物学的意義が宛がわれます。 では、ここで回避行動といいますのは新奇刺激の対象に対して選択されるのではなく、ストレスという二次的動因に従うものということになります。ですから、このためにはそれがストレスの原因であることが判明し、逃げることが利益と判定されなければなりません。ですが、この判定が下されない場合は果たして逃避行動を選択することは断じてできませんし、判定が下せない以上、何処へ逃げてもストレスから開放されることはありません。従いまして、ここで選択されなければならないのが「問題解決のための能動的回避行動」ということになります。これが好奇心の正体です。 ネズミのような小動物でも何か未知のものを置いてやりますとたいへんはっきりとした「探索行動」が観察されます。サルくらいになりますとより複雑なものに興味を示し、人間ではその深度がもっと深くなります。 これをモデルにしてみますと、「既知の対象」に対しては何らかの判定を下すことができます。 「A:未知(判定不可)」 「B:既知(不利益)」 「C:既知(無報酬)」 ここに「D:既知(利益)」が加わりますと選択肢は分かれますが、Dがない場合、ネズミはまずB、Cに対しては「回避行動」を選択しなければなりません。 では、「C:無報酬」しか存在せず、仮にこれに対して何れの判定も下せないとしますならばネズミには行動抑制が掛かり、やがてそこで死んでしまいます。このため、無報酬に対しては回避行動が選択されるようになっているわけですが、通常そのままでも空腹や疲労といった二次的動因が発生しますので、そのまま朽ち果てるということはちょっとないと思います。 この無報酬状態に対しても常に選択の可能なのが「探索行動」です。そして、ここに「A:未知」が存在するならば、ネズミは必ずやこれに接近行動を選択することになります。 我々動物の脳内には「環境地図」というものがあり、好奇心や探索行動はこれを穴埋めするためのものだというのを何処かで読んだ記憶があります。これは恐らく心理学の仮説であり、生理学的に説明するのは困難なことですが、ここで、先に用いました「ストレス」という表現に就きまして若干の補足を付け加えておきます。 ストレスといいますと、我々にとってそれは専ら仕事や人間関係などの「社会性ストレス」ですが、厳密にはこれは「ストレス対処反応」のことであり、環境からの刺激に対して分泌される「NA(ノルアドレナリン)」や「副腎髄質ホルモン」などによって脳や自律神経が与えられた状況に対処するための生理状態に亢進されるということです。 これは必ずしも上司や人間関係などといった「嫌悪刺激入力」に限っているというわけではなく、注意力や思考力が高まるときも同じようになります。従いまして、先に「ストレスという二次的動因」と申し上げましたのは、それはこのような「身体の生理的変化が起因」となって行動抑制が解除されると捉えて頂ければありがたいです。 ただ、それが怒りであれ喜びであれ、脳にとっては「エネルギー負荷」であることに変わりはありませんので、我々の脳といいますのは常に安静状態に戻ろうとする性質があります。この性質が環境地図の不均衡を穴埋めするのではないかと考えられますが、この脳の性質自体がきちんと解明されていませんので、生理学的にはまだ何とも言えないですね。 >ここでいう好奇心というのは、「わけの分からないものに関する強いワクワク感」です。 この「ワクワク感」といいますのは大脳辺縁系を中心とする「報酬系回路」に発生する「報酬反応」であり、これには必ずや「学習機能による予測能力」が必要となります。何故ならば、その情動は「期待感」であるからです。そして、この学習結果の伴うより高度な新奇行動の動因を「知的好奇心」と言います。 これまでご説明致しましたように、我々動物の脳は環境の変化に対して利益・不利益の判定を下せない場合でも二次的動因によって探索行動を選択することが可能です。ですが、「報酬反応」といいますのは実際に報酬が与えられるか、あるいはそれが報酬であることを学習していなければ絶対に発生することはありません。 従いまして、報酬系回路に「期待感」が発生するということは、それは好奇心の満たされることは利益であるという判定結果が既に学習されているということです。従いまして、そのワクワク感といいますのは未知の対象に対して発生しているのではなく、報酬系回路の学習結果に基づいて発生している情動反応です。我々はこれに従って情動行動を選択します。 このように、我々の脳は知ること、理解することが報酬であることを既に学習しています。そして、このような学習予測機能の伴う新奇刺激行動が果たして「知的好奇心」ということになります。 報酬系回路といいますのは自己刺激を選択させることができます。「自己刺激」といいますのは報酬系回路に快感・幸福感を発生させるため自発的に行われる行動のことです。 我々は本を買うとき、そこにどんなことが書かれているかまでは予測できません。ですが、我々の脳内には知的好奇心に基づく動因が学習されています。このため、我々は本を選んだり購入することによって脳に対して自己刺激を行うことができます。この快感が好奇心を成立させます。 では、我々動物は生得的な無条件反応だけでも探索行動を選択することが可能です。そして、この探索行動が行われるならば巷の問題は片っ端から解き明かされることになりますので、脳内に報酬反応を発生させる必要が見当たりません。ということになりますと、今度はここで逆に「知的好奇心の生物学的意義」というのが危うくなってきます。 「怖いもの知らず」というのは結果論ですが、片っ端から探索行動では、これでは質問者さんの仰る通り「君子危うきに近寄らず」の論理に反します。 報酬系回路といいますのは学習機能を持っています。そして、我々動物にとって学習とは、これは生後の複雑な環境変化に適応するために行われるものです。 報酬系回路に報酬結果が学習されていませんと、我々は未来の利益に対して接近行動を選択することができません。同様に、生後環境において苦痛というものが体験学習さていませんと危険を予測することはできません。 では、双方に学習機能があることを前提としますならば、我々の脳は未来の利益と不利益を嗅ぎ分けることができるということです。これが、学習結果に基づく生後環境への適応であり、幾ら好奇心が旺盛であるといいましても、学習能力がある以上、動物が危険を顧みずに無闇な行動を執るということはないわけです。そして、学習による環境適応に関する解釈はこれが最も一般的であり、逃走の選択によって種が進化存続したなどというのは、これは明らかな作り話だと思います。 では、ここで動物の好奇心がどのように生後環境に適応するのかというのをフローチャートに整理し、これを「好奇心の生物学的意義」としたいと思います。 「探索行動」 「報酬結果の判定」 「報酬の学習」 「報酬反応(知的好奇心)」 「接近行動」 「未来報酬の獲得」

nvntnfsltd
質問者

お礼

ご回答をありがとうございました。非常に詳細なご説明に、感動すら覚えました! つまり、ruehasさんが仰っていることをまとめると、好奇心が発生する際の脳内の状態というのは、以下のように変化するということでしょうか。 報酬刺激なのか無報酬刺激なのか判定できない未知の問題Aがある ↓ 問題Aに対し判定が下せないので、通常の「回避行動」も「接近行動」も取ることができない。 ↓ 行動抑制が発生する。 ↓ しかし、問題Aから受ける刺激により、同時にストレスが発生。行動抑制が解除される。(これが、好奇心の正体ですよね?) ↓ ストレスという亢進刺激により、代替の行動である「探索行動」が選択される。(心的動因A’により導かれた行動A’’) ということでよろしいでしょうか? さらに、知的好奇心というのは、好奇心と同じく心理的な動因ではあるが、学習による未来予測に基づいた反応であるという点において、好奇心とは異なる・・・ということですね? とすると、あまり関係ない話かもしれませんが、知的好奇心というのは好奇心の一歩進んだ段階と言えそうですね。つまり、好奇心によって学習した内容に基づいて(そこに報酬刺激を発生させる知的な何かがあると理解して)、知的好奇心が発生すると。 とっても面白いお話しでした! 一見、何気ない日常行為の連続である我々の行動の中に、生物学的に計算され尽くした合理的な機能がある!これこそ、生物学を学ぶ際の(といっても私は単に興味がある程度のものですが・・・)、最大の醍醐味ですよね!! この感動は、ちょっと他の分野では味わえない興奮なのではないかと思います。 もしよろしければですが、おすすめの参考文献をいくつか教えて頂けないでしょうか。平易なものだといっそうありがたいです。せっかくここまでの長文でご解説して頂いた上にさらにお願いというのも厚かましい話ですが、ご回答のついでということで、どうぞよろしくお願いします。

その他の回答 (5)

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.6

こんにちは。 #5です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。 私の申し上げたかったことを隅から隅までご理解頂き、感激のしだいであります。 >さらに、知的好奇心というのは、好奇心と同じく心理的な動因ではあるが、学習による未来予測に基づいた反応であるという点において、好奇心とは異なる・・・ということですね? はい、これをご承諾頂ければ正に申し分はございません。 生得的な探索行動とは違い、知的好奇心には「学習結果に基づく未来予測」が伴います。ですから、ここでは学習能力を持つのであるならば他の動物にも知的好奇心がある、ということになるわけですが、ですが、こんなことを真顔で言ったら普通は笑われますよね。一般的には、「知的好奇心」といいますのは主に我々人間の学術的興味といった高度に複雑なものを指します。そして、これはもちろん一般常識です。 では、 「非知的好奇心:探索行動(本能行動)」 「知的好奇心:情動行動(学習行動)」 本能行動と学習行動は生理学的にはっきりと区別することができます。ですが、何処まで複雑ならばそれを知的と呼ぶかに就きましては科学的に線引きをすることができません。従いまして、「新奇接近行動」には、本能行動と学習行動の二種類しかありません、というのが本回答の趣旨であります。 因みに、「どのくらい知的であるか」といったことは、これはその動物の本能行動に対する「学習行動の比率」によって評価されます。 私は個人的に脳科学の勉強をしています。回答に用いる資料は私が三年がかりで集めたものです。 いかにも最もらしい講釈を書きますので、書籍を紹介して欲しいというご要望は良くあります。ところが、脳科学といいますのはまだ新しい分野ですので、総論や概論を纏めた教科書というものがほとんど手に入りません。 今回のご質問でありますならば、好奇心や報酬反応に就いて書かれているものがあれば良いのですが、このような解説が一冊に纏められたものといいますのは、恐らく探しても見付からないと思います。 脳科学はブームですから、本は選びきれないほどたくさんあります。ですが、飽くまで先生方はご自分の研究に基づいて本を書きますので、その内容は全部バラバラなんです。ですから現状では、我々それぞれの解説を自分で繋ぎ合わせるしかないんです。私の経験上、これは極めて悩ましい事実であります。 ちょっと言いわけがましいですが、ご紹介できるような書籍が手元にないんです、ゴメンなさい。

nvntnfsltd
質問者

お礼

こちらこそ、重ねての詳細なご回答ありがとうございました。 自分の言葉に噛み砕かないと、本当に理解したことならないような気がしまして、いつもこうして確認を取らせて頂いてます。 個人的に今回のお話でもっとも興味深かったのは、未知の物体Aに対して、それが報酬刺激であるのか無報酬刺激であるのか判断できないとき、行動がスタックしてしまうということでした。 以前どこかで、「ロボットに洞窟の中の爆弾を処理させられるか」という哲学的命題について、「ロボットはあまりにも膨大な情報を計算しようとして、そこから一歩も動くことが出来ず、結果爆弾は解体できない」というのがあったような気がします。 これは今回の話とはちょっと異なりますが、人間の認知においても、あらゆる状況に取捨選択的に対応するため、好奇心のような高度に洗練された能力があるんだなあと思いました。凄い! >学習能力を持つのであるならば他の動物にも知的好奇心がある、ということになるわけですが、ですが、こんなことを真顔で言ったら普通は笑われますよね。 仰るとおりです。ただ・・・個人的な願望としては(学者なら「願望」はもってはいけませんが、アマチュアならいいですよね?)、彼ら人間以外の動物にも、何かしら知的好奇心の欠片があると信じたいというのはありますね。 他にも「制限行動」や「ストレス」などについて色々と質問をしたいのですが、キリがないのでここで止めておきます。 長年の謎に、やっと光明が射しました。 長文での詳細な解説をありがとうございました。

  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3635/18948)
回答No.4

危険は無いか? 食えるものか? これが根底にあると思います 鶏小屋で作業をすると大勢が集まってきてお互いに何か話しながら作業を見ています 面白いですよ

noname#194289
noname#194289
回答No.3

いろいろな考え方があると思いますが好奇心というのは神経系の余剰部分が担当することだ思います。神経系に余裕がない動物種や余裕がなくなっている個体では好奇心は消失しています。貴方の推測に沿えば、神経系の余裕というのは行動(思考も含まれるでしょう)自由度が高いということになりますから、特に人間の場合には好奇心が乏しい仲間よりいろいろな点で有利だったということになると思います。人間以外の動物が示す好奇心は多くの場合警戒に関係した行動を擬人化することによって得られた誤解釈ではないかと思います。人間ですら、警戒心が強い人はたくさんいますが好奇心がある人は意外に少ないのではないでしょうか。また個人の日常でもほとんどは警戒に関係したこと(買い物をしてお釣りがあっているかとか電車に乗り遅れないようにしようというような)に使われていて純粋の好奇心が持てるのは10分もないのではないでしょうか。

  • mazeran
  • ベストアンサー率42% (221/518)
回答No.2

大変御丁寧なお礼をいただきありがとうございます。 >私たちの好奇心というのは、恐怖というよりも、もっとポジティブな、ワクワクした感情・・・ これについては「好奇心」とは違うものだと思いますよ。 人間には「理性」があります。それ故「本能」をコントロールして「社会的」に生きようとしています。 しかし「人間(ヒト)」と言えども「動物」であり、もともとライオンやトラなどと同様、「狩猟」をすることで種の保存を営んできました。 「狩猟民族」である以上、食うか食われるかの「生・死」に対しての「恐怖」と言う本能を持っています。 ところが社会的な生命活動を営む間に、直接生命を脅かすような恐怖を経験する機会が少なくなり、本能としては欲求不満状態になっており、自分の身が絶対に安全と言う前提の元で、「安全な恐怖」を味わうことで我々の「脳」が快感を感じているのだと思います。つまり「癒し」です。 私が前回勝手に「好奇心」について定義のようなものを決めてしまったので、ジェットコースターを含め、質問者様の言われる肝試しやホラー映画などを見たい、経験したいと言う感情は、好奇心と言うよりも、人間と言う一種の生物が、弱肉強食の世界にあって、その本能を使わなくなってきたことに対しての「欲求」を満たすためのものであると思います。 ただ本当に危険であれば、生物の本能として回避するのですが、ジェットコースターや肝試し、ホラー映画などは一般的には「安全」なわけで、その安全に支えられての「恐怖」を味わうことで「脳」が快感を覚えるのだと思います。 「恐怖」と言う本能の欲求を満たすためのものだと思います。 まぁこれも「好奇心」の一種だと言ってしまっても大きく違う感じはしませんが、「好奇心」は生命が身を守るために必要な感情であるに対して、肝試しやホラー映画などワクワクする感情は、本能を慰めているようなものだと思います。 安全に生きる知恵を持っているのに、わざわざ恐怖を体験するなんて、人間ってなんとも贅沢と言うか「平和ボケ」と言うか、ヘンな生き物だと思います。 もし本能むき出しの「野生」の人間がいたら、「安全な恐怖」と言うのを理解できないから、絶対にジェットコースターには2回以上は乗らないと思います。1回目は「好奇心」で乗り、それ以降は「本能」で危険を感じて拒絶すると思いますよ。

  • mazeran
  • ベストアンサー率42% (221/518)
回答No.1

一般人の意見で申し訳ないですが・・・。 >危険からひたすら逃げていれば、その方が遺伝子には・・・ 「危険」を「知る」ために「好奇心」はあるのではないでしょうか。 ある「生命」にとって、周りの環境には危険なものや危険でないものがたくさんあります。 その「生命」が生命活動をするにあたり、決してその環境から逃れることはできないので、「危険なもの」、「危険でないもの」を予め知っておくことが、今後効率良く安全に活動できますよね。 そのために「生命」が危険かどうか、危険であればどうやって回避したらよいかの「経験」を得るために、「能動的」、「積極的」な対処の方法として「好奇心」が備わっているのだと思います。 人間は「大地」で生活していますが、好奇心がなければひたすら逃げようにも、大地からは逃げられません。 好奇心で大地を観察し危険が無いことを知るわけです。 見たことのない「ヘビ」がいます。好奇心でチョッカイを出してみます。すると噛まれてしまいました。噛まれた人が死にました。 別のヘビに噛まれた人は死にませんでした。 なるほど!。このヘビに噛まれると危険で、こっちのヘビだと危険はないのか。今後はこのヘビには近寄らないようにしよう。 と言う具合に。 「好奇心」が生きるための環境を確保し、「仲間」を作り、共同で効率良く生命活動できるようにしているのだと思います。

nvntnfsltd
質問者

お礼

 なるほど!その発想はありませんでした!  つまり、より効率よく新たな環境に適応するために、集団生活を前提として、好奇心は成立しているというご意見ですね。  今まで私は、個体の生命維持における好奇心の存在理由という点にばかり頭が行っていて、集団や群れの中で特定の機能が新しい価値を獲得するということをまったく見逃していました。ありがとうございます。  ひとつ疑問が残るのですが(しかも抽象的で根拠の薄いものなのですが)、mazeranさんの説によれば、好奇心というのは恐怖と密接に関連していますよね。  しかし・・・私たちの好奇心というのは、恐怖というよりも、もっとポジティブな、ワクワクした感情ではないでしょうか?(すみません、こじつけのような客観性の薄い意見で・・・)  新しい物事に対するとき、あるいは、怖い物見たさでホラー映画や肝試しをするときなどそうだと思うのですが、気分が高揚して、恐怖それ自体とはまた別の感情を持ちませんか?  どうも、ここが疑問の中心なんです。  つまり、あの「ドキドキワクワクした感情」と、「死の危険の探索の為の好奇心」とが、どうも結びつかないんです。結びつかなくないですか?矛盾しているような気がするんです。(もっとも、ただ私の頭が混乱しているだけかもしれませんし、その可能性の方が高いですが)  ここの部分はどのようにお考えですか?質問に質問を重ねてしまうようで申し訳ないのですが、もう少しお知恵を貸して頂ければ幸いです。

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