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人の心の中には、鬼が棲でいますか?

不思議に感じることがあるんです。なにかを守ろうとする気持ちが強く働くのかどうかはよくわかりませんが、この場合、『母性』というのでしょうか?母親は、子供を守ろうとすると、日頃の温和な態度が微塵も感じないほどある意味『鬼』になる。ときとして、冷酷な人(鬼)と化す。これとは別に、人が人を深く愛しあったにもかかわらず、ひとたびその感情がうせると同一人物か?とも、傍目からみていてもその代わり身のはやさに目をこすって見間違いでは?という理解しがたい冷たい光景をみてしまったり・・・そんなときおもうんです。いまは、他人事と客観的にみれるけれどもいざ、実際に自分の身におこったときわたしのなかにも鬼が棲んでいるのだろうかと・・・私に限らず、誰の心の中にも鬼はいるのでしょうか?もし、いるとしたらその鬼の正体はなんなんでしょうか?

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回答No.18

>人間の中に潜む本能は、なんかドロドロしてそうですね。 >それに比べ、動物の中に潜む本能は、とても純粋なもの >におもえます。 >人間の本能は、周りの環境によってその姿(性質)を変 >化させられているのでしょうか?  そのとおりです。littlekissさん、それが前回の書き込みで言いたかったことです。ただ、「隠し玉」意識がそうさせたのか、それともただ単に眠かったからなのか、今から見るとその肝心なところで言葉が足りませんでした。  それでは動物の本能と対比して説明してみます。  エサキモンキツノカメムシという昆虫がいます。「母性愛(?)」を感じさせる昆虫の代表格です。この虫は七~八十個の卵を産みますが、その卵のまとまりを抱きかかえるようにして守る行動が知られています。アリが卵を狙おうものなら羽根をふるわせて追い払い、それでも手に負えないときは悪臭物質を噴射して撃退します。卵が直射日光にさらされると羽根を広げて覆い、過熱しそうなときは羽根で扇いで冷やします。幼虫が孵化してからも、その独り立ちまでしっかり面倒をみます。まさに、抱擁する母の愛。  ただ、これにロマンを感じるのは人間の自由ですが、反面、それは人間の勝手とも言えます。動物行動学のイロハのイは「動物の行動解釈に人間的感情を持ち込まないこと」です。このカメムシの行動も、自覚的な「愛」の発露と見るべきではありません。生まれつき与えられた「本能」という行動命令に従っているものと考えなければなりません。  そしてまさに、このような本能は「純粋」です。子どもに老後の面倒を見てもらおうとか、そういうシタゴコロがありません(あたりめーだっつーの)。それに、「愛された記憶がそうさせる」みたいな、経験から学んだ行動でもありません(つまり後天的ではなくて先天的。また「純粋」という語は哲学用語的には「経験を含まない」という意味で用いられることがあります)。  これに比べると、人間の本能の発動には著しい違いがあります。  前回の書き込みで、ロラン・バルトと笑福亭鶴瓶師匠の話を出しました。共通するのは「衣服が性欲を強調する」という点です。衣服で覆い隠された部分がある、それが逆にその部分への欲望を高めるのです。  ここで、やや紋切り型になってしまいますが、「衣服=文化」そして「文化=禁止」と捉えてください。文化の根源は「禁忌(タブー)」にあります。まず第一に「死」に対する、そして第二に「性」に対する。  人間は「死」を自覚的に認識しています。だからそれを日常から切り離します。死者は決められた場所に葬ります。空間的な切り離しです。しかるべき儀式を行います。意識における切り離しです。一定期間、喪に服します。時間的な切り離しです。そして日常の中では「死」について語ることは忌むべきこととされます。「暴力」もこれに準じます。  「性」も同様。素朴で荒々しい動物性に直接根ざした欲求ですから、人はこれから目を逸らそうとします。だから、心理学や哲学の場でならともかく、日常的な公の場ではうっかり話題にできることではありません。性交渉は基本的に人の見ていないところで行われます。裸で外を歩く人間はいません(たまにいるけど…捕まります)。  だから「衣服」が禁止として生まれます(最初の人間は、知恵の木の実を食べると同時に衣服・いちじくの葉を身にまとっていますね)。この禁止が複雑化し拡大したものが文化です。すなわち、「文化=禁止」です。  しかし、いくら禁止されても、それらはなくなりません。必要でもあります。少なくとも「性欲」に関しては。(「死」に関しては割愛しますが、「必要である」という議論は可能です。)ですから、それは「許された・禁止を解かれた時間と空間」の中に場を与えられます。例えば「婚姻」です。自由度・柔軟性にさまざまな違いがありますが、性交渉を社会的に認証する儀礼・制度を持たない文化は、これまたありません。  さて、しかしながら、日常性のより広い領域では「禁止」されていることは間違いありません。その禁止によって高められた欲望が「激発」することはありえます。  この「激発」は、フロイト心理学の「抑圧→暴発」というモデルでも説明可能でしょう。しかし、この説明だと、その力の大きさは説明できても、その現れの多様な形態については説明できないように思います。人間の性欲動が、種の保存に要する範囲・程度をはるかに超えて大きいことを説明できますが、その欲動のとりうる「かたち」を説明できない、ということです。同性愛、幼児愛、フェティシズム、サディズム、マゾヒズム等々。  …と、書いてしまうと、心理学ご専門の方からお叱りを受けてしまうかもしれません。というのも、もちろん心理学からもそれらについての説明は試みられ、なされているからです。しかし、それらが時として「オッカムの剃刀」で切り捨てられそうな部分が多すぎるように感じられる場合がある。もっとシンプルな説明がありそうに思われるのです。  それは、「本能に根を持ちつつ、禁止に対する反動として過剰となった欲動は、文化と溶け合って無限の多様性を持つ」という説明です。  人間の持つ言語には、有限の語彙数しかありません。しかしそれでも、語と語の組み合わせにより、無限の表現・描写に対応します。言葉は、言葉を生み出しうるからです。文字通り新しい言葉が生み出されることもあります。言葉は言葉を生みます。同様に、文化は文化を、生みます。無限の多様性を持ちえます。  「過剰な欲動」は、この文化の無限能産性と連動して無限に多様な「かたち」をとりうると考えられます。ですから、従来知られている多様な性行動以外にも、今後新たな形の性行動が生まれてくることでしょう。心理学からこれにアプローチしようとすると、その無限の多様をいちいち持ち主の幼児期からの経験や生まれつきの心理特性に還元する作業を延々と続けざるをえず、いつまでたっても全体像を得られないままに終わってしまうように感じます。  さて、ここまでが「本能に根を持つものの、過剰な強度を与えられ、ドロドロと形を変えうる人間の欲動」の説明です。ずいぶん遠回りしましたが、「鬼」の話に戻りましょう。  上では主に「性行動の過剰と多様」についてお話しましたが、同様の「過剰と多様」は「暴力」に関しても言えます。「死に結びつく暴力」です。  人間の知性は、人を愛し、人のために役立ち、何かを建設し、何かを生産する方向にも発揮されてきました。が、深い悲哀を感じつつも目を背けてはならないのは、それに勝るとも劣らないだけの知性が、殺戮と拷問と破壊とに費やされていることです。その一つ一つはまさにunspeakable(口にするのもおぞましい)ことですので、ここに書き込むことはしません。が、「許された時間と空間」の中では、禁止によって高められた情念に突き動かされつつも、極めて冷静に、極めて理性的に、そして極めて楽しげに、人は人を切り刻み、苦しめ、殺すのです。  人は鬼に、なるのです。  人の心には鬼が棲んでいます。それは人が「文化」というものを持ってしまったが故の宿業です。ですから、誰の心の中にも、鬼は棲んでいます。

littlekiss
質問者

お礼

たくさん言葉を使ってわかりやすくお話していただいたおかげで本能という、なにやらドロドロしたものの正体めいたものがおぼろげながらですが私にも理解できつつあるように思います。仰られるように、欲動のでどころを心理学の面から今回アプロ―チを試みてかんじたことは、「本能」という曖昧な言葉で結局のところ落ち着いてしまう。本能が一様でない多様なものであるにもかかわらず、私の中では社会倫理というのか、その観念が意識の中に刷り込まれていたせいか枠からはみだしたタブ-的な背景をどこかしら見ずに、いや、範疇におかずに語ろうとする観があったようにおもえました。そのことで、「本能」の本質が美しいものであるように考えていたのかもしれません。いろんな意見をうががっていくうちにその本質を探るには、口にするのもおぞましい事実があることにも目を瞑らずに正面から見据えて考えていかなければ、いつまでたっても「本能」には近づけないと思いました。人の心の中に人間は素晴らしいものという意識があるせいでしょうか?その人間が非道とも思える行動をとることを悪と考えてしまう、人間が素晴らしいものと考える上で矛盾が生じる、それゆえ、そういった部分に蓋をかぶせるが如くタブ-とする。心理学の面からでは、確かに真の本能とはなにかということを探そうとすることは無理なのかもしれません。いろんなお話を多くの方々から聞かせていただいて、だれでも鬼になりうるということは、わかりました。そのことをもっと理解するためには、見たくない、信じたくない、と思える部分も目をあけて見ていかなければ理解できないこともよくわかりました。ありがとうございました。

その他の回答 (18)

回答No.19

 あの…serpent-owlです。  下の書き込みで、長めの文章で…非常にペシミスティックな人間観を披露してしまいまして…他の回答者の方が「引いて」しまっているのでは…いや、そうにちがいないと思いまして…あの…ごめんなさい。  自分が開いた質問室が片付いて、で、ちょっとハイになってお酒も入ってこうなりました。ちょっと調子に乗りすぎました。でも…内容は持論なのですが…。  ああ…だから「隠し玉」にしときたかったのに…。  だから皆さん、続けて下さい。

littlekiss
質問者

お礼

serpent-owlさんのお礼の場所をお借りして・・・ 回答を書き込んでいただいた皆様、ほんとうにありがとうございました。 たくさん、興味深いお話をきかせていただけたことありがたくおもいます。 今回のわたしの疑問にも何かしら答えが見つかりましたので、そろそろ締めさせていただきます。もしよければ、明日の朝にはここを閉じますので、ここをご覧になられていた皆様の感想なりご意見がありましたら、少し書き込んでいただけると嬉しく思う次第です。 『ありがとうございました。』

  • UKIKUSA
  • ベストアンサー率0% (0/11)
回答No.17

littlekissさんへ 前回の私のコメントは言葉足らずで失礼しました。 「それ」とは、「鬼」のことをさしています。「あなた」はlittlekissさんです。tes3さんの言葉を引用した貴方のお礼の文章から、「道徳心」の存在について貴方もtes3さんに同感していると思いましたので、コメントを述べた次第です。 鬼についてもう少し言えば、「誰の心にもわき上がる、いろんな気持ちのうちの一つ」とも言えると思います。私は、鬼の気持ちの沸く人は人間味がある人だと思っております。しかし、発散させるだけの気持ちを理性や道徳心等のブレーキで押さえたり、別の方向に転換したりすることは大切です(例えば、画家が、性欲などの欲望を、創造のエネルギーに昇華させること。)。補足になりましたでしょうか。

littlekiss
質問者

お礼

UKIKUSAさん~♪お返事ありがとうございます。 一概に『鬼』になることは、いけないことともいえないんですね。人のこころのなかにそういった人間味といった感情があること自体、人が人であり、他の動物と違った生き物である。それが、また、人なんだと思えてきました。本能というわけのわからない装置が、起動するとき「逸脱」「過剰」といったものが動力源となって人を『鬼』へと変貌させるかと思えば・・・・『理性?(これもよくわからないもの)』『道徳心』が、その間にあらわれ自制、抑制しようと働きかける。目に見えないところでこころの葛藤がはじまるのでしょうか?その両者の勝ち負けの結果、『鬼』が現れたり、なりをひそめたりするみたいですね。 こころを別の方向に転換とありますが、転換さすのはだれですか?転換するときのこころの動きはどのようにしてそう流れていくのでしょうか?なんでもないことのようですが、気になります。たとえば、気持ちを違う方向に持っていったほうが楽だと本人もわかっていてもそうできない人(立ちすくんだまま)前にも後ろへも進めない人、いまの社会の中でたくさんお見受けします。(リストラの波をくらった中高年の男性などなど・・・)

  • t-chihiro
  • ベストアンサー率36% (4/11)
回答No.16

子供を守ろうとする時の姿は、鬼にも見える程ですか。 うーん、私も母親となってますが、この質問、考えさせられました。 確かに、世間で騒がれる恐ろしい事件を見るにつけ、もし自分の子にそういう不幸が襲いかかったら・・と想像すると、たやすく鬼になれるであろう自分に驚く事があります。  母親になるまでは無かった事ですが、小さな子供が事件に巻き込まれた報道を見ると、他人様の子でも、胃がキリキリするほど心苦しくなるようになりましたし。 これが母性というものなのでしょうか。  そのおかげで、親の自分に対する愛情が今は身にしみて判るようになりました。 親から子供への愛情は、子供の親に対する愛情の何倍ほどの愛でしょうか(笑)  かなりの差がありますね・・・。 子供に対するもてあます程の愛情って、動物的衝動に近いと思います。 それが、傍目には鬼のように見えるのかもしれません。 愛情が、鬼の正体じゃないかしら。 嗚呼、全然回答じゃない、、、ごめんなさい!

littlekiss
質問者

お礼

ご意見を寄せていただきありがとうございます。 先に、gomuahiruさんが、母親にみられる子をかばう(おもう)思いから、起こるこころの変化なりを具体例をあげておきかせいただきました。そこでも、『愛』がなせるわざのように受け取りました。t-chihiroさんも『愛情』と、おっしゃられていますね。わたしもそのようなものであると思っていたのですが・・・・・下でのお話で、必ずしも『母は子供を守る』=母性=鬼になることが当然とは、思えなくなってきました。

回答No.15

 本能ですか…愛…んー、けっこう考え込んでしまいました。どう書いたらよいものかと。  実は、「母性愛は近代の産物だ」なんて説があります。これもフェミニズム、ジェンダー論から出た議論です。母性愛もジェンダー・バイアスにすぎない…という。  少し言葉の問題を片付けてから進みましょう。「ジェンダー・バイアス」です。  「ジェンダー」は、生物学・医学的な性別というのとは区別された「社会的な性」のことです。で、「ジェンダー・バイアス」は、「社会的な性役割・性分担からくる偏った見方が定着していること」くらいの意味になりましょうか。  例えば「男は外で仕事、女は家で家事というのが自然」という見方。この、「自然」ってところがクセモノです。歴史的に見ても、そんなに昔からのことではないのに、誰もが当たり前と感じてしまう。人類の歴史始まって以来、ずっとそうだったかのように思ってしまう。これです。これ、「ジェンダー・バイアス」。  それでは、「母性愛もジェンダー・バイアスだ」論。一応、実証的なデータもあるようです。近代に入ってからも、けっこう最近まで、必ずしも母親は育児に縛られていなかった。三世代同居とか、むこう三軒両隣的な地域社会がしっかりしていたりとか、そういう形で、母親以外の人間も含めてチームプレイで子育てをしていたわけです。ところが、労働の場と家庭とが切り離され、核家族化が進み、そうなると母親はほとんど単独で育児に専念しなければならなくなってきた。これを背景にして、母親に求められる美徳としての「母性愛」が価値あるもの、称えられるべきものとして浮上してきた…という話です。こうなると「母性愛」は本能ではない。女を家庭に縛り付けるためのイデオロギー的企みってことになります。  同様に、「男は女を愛する」「女は男を愛する」という意味での「愛」も、問い直される余地があるのかもしれません(というか、問い直す試みはすでになされているようです)。  しかし、その、何と申しましょうか、そういうふうに母性愛を解体してしまって跡形もなしにしてしまうのもいかがなものかと、こう思うのも事実でありまして…。『父性の復権』の林道義さんも、そーゆーあたりを問題にして反フェミニズムの立場をとっておられます。あ、でも、私ってば林さん大キライだったりします。それはなぜかというと、彼がユ…(やめとけ!>おれ)  ごほっ、ごほっ、げほげほっ…。あれ? 何の話でしたっけ? ああ、そうそう、「母性愛は、やっぱり本能じゃないか」に持っていこうとしてたんだ。あー危なかった。なんか、怪しげな電波が飛び交ってるようで…。  えー、たしかに、上記のような話も一定の説得力を持ちます。例えば、ここではあまり話題に上らなかった、イヤ~な形の鬼、幼児虐待とか育児放棄とかいった形で「母親が鬼になる」のケースは、上ので説明を加えられるかもしれません。「押し付けられた《母性愛》の文化的・精神的重圧、そのために出口を失った“子どものための自分だけではなく、自分のための自分でありたい”等々の情念が…」という形で。事実、少し昔型のチームプレイ育児が行われれば、幼児虐待などは避けられるのではないかという指摘は、よくされます。  さぁてしかし、上記のごとく、われわれが「本能」と思っているもののある部分が、実は仮構であるという可能性を認めたとしても、「母性愛なんて本能はない、もお、ぜんっぜんない、ちーっとも、これっぽっちも、まぁ~ったくない、絶対ないねっ!」とまで言ってしまうのは極言に過ぎようかと思います。  おっしゃるように、やっぱ、ありますよ、本能。それも、ちょっとどころではなくて…。  考えておりますのは、ただ単に本能だけではない、ある種の「逸脱」「過剰」なのであります。  「禁止は違犯を高める」「違犯は禁止を高める」という、禁止と違犯の弁証法みたいな話があります(ああ、「隠し玉」なのに…)。  ロラン・バルトというフランスの随筆家がおりますが、この人、『零度のエクリチュール』という本の中で、剥き出しの素肌よりも、衣服の裂け目からちら、ちらと覗く肌の方がずっとエロいという話をしております。また、これも太古の昔の話ですが、NTV系の深夜番組「パペポTV」におきまして、笑福亭鶴瓶師匠は「別にミニスカートのおなごはんの太もも見たってなぁんも思わんけど、和服の女性のふくらはぎチラ見えたら、鬼の首でも取った気分になるで。これ、ふっしぎやなぁ~」との至言を述べておられました。(すみません。Littlekissさんは女性とお見受けしておりますが、おわかりいただけますかどうか…? また、女性の読者各位にも。)  もぉっと日常感覚に近い形でいうと、「言うなと言われると言いたくなる」「見るなと言われると見たくなる」という…「鶴の恩返し」の世界なのであります。  ぼちぼち言いたいことがおわかりいただけてきているかと思います。そうです。人が鬼になるのは、「本能」がそのまま噴出したというだけではありません。「禁止」されることによって、増幅回路を何度も通すかのようにして何千倍にも拡大され、一気に噴出する。一方に文化があり、一方に本能があって、その両者が互いに他方を増幅しあって臨界点に達し、ドカンといく。それが、「人が鬼になる」ということなのではないかと思うのです。  そういうことですから、動物の世界にも見られる「子どもかばい行動」とは必ずしも同列には置けない、過剰な苛烈さ、恐ろしさ、危うさが人間の場合にはあるのだと思います。  余談ですが、gomuahiruさん。あなたの場合は、上に書いたような「ホンモノの鬼」になる以前の段階で、きっちりガス抜きする手段をとっておられたと思います。優しい方です。あなたは。

littlekiss
質問者

お礼

母性愛やいろんな形の愛は、全部とはいわないまでもある部分、意識の刷り込み「本能」がそうさせているというふうに思い込まされているところもあるんですね。そっか-、そういわれてみればなんら疑問視しなかった・・・「男が女を愛し、女は男を愛す」ごくごく当たり前におもっていたけれど、あらためてこういうふうにお話をきかせてもらうと、なぜ?この点に疑問を抱かずに通り過ぎてきたんだろう?「そういうもの」と思ってきていました。固定観念とでもいうのでしょうかね。これ自体が、意識の刷り込みがなされているんですね。 ちょっと、お聞きしたいのですが、もし、本能というわけのわからない装置があるとしますね、その装置を起動さすには「逸脱」or「過剰」といったものがこの場合(『鬼になる』)動力源になっているとのことですが、 >動物の世界にも見受けられる「子供かばい行動」とは必ずしも同列には置けな い、過剰な苛烈さ、恐ろしさ、危うさが人間の場合にあるのだと思います。 うぅ~~ん?人間の中に潜む本能は、なんかドロドロしてそうですね。 それに比べ、動物の中に潜む本能は、とても純粋なものにおもえます。 人間の本能は、周りの環境によってその姿(性質)を変化させられているのでしょうか?

  • UKIKUSA
  • ベストアンサー率0% (0/11)
回答No.14

それは「一生懸命になっている自分」ではないでしょうか。 あなたのおっしゃるとおり、道徳心にもとづく「鬼」の状況であれば、別にいいのではないでしょうか。

littlekiss
質問者

お礼

お礼が後先になりましたが、ありがとうございます。 いや、ちょっとお聞きしたいのですが、このアドバイスはtez3さんに向けて書かれたものなのでしょうか? それはの『それ』とは・・・『逃避行動』を指しておられるのか『鬼』を指しておられるのかがわかりかねています。それと、あなたのおっしゃるとおりの『あなた』とはlittlekissなのか?tez3さんなのか?もわかりかねているます、なんと言葉を返したらよいのかと・・・・もしよければ、お答えいただけませんでしょうか?

  • tez3
  • ベストアンサー率20% (53/262)
回答No.13

再びです。はじめに一言で終わらせてしまったのですが、みなさんの回答が面白く、ついついまた入ってきてしまいました。 >動物ということは、動物の持つ『本能』と考えてよいのでしょうか? >人間ってなんなんだろう?と、ふと、思う今日この頃です。 >誰の心の中にも鬼はいるのでしょうか? 人間は動物ですよね。 私は人間が人間であるのは「理性」という殻に包まれて「道徳社会に生きて」いる故と考えています。 本能を表に出さずにいられる事が美徳と思われる世界です。 『鬼』は『隠(おぬ)』からの変化だという説があります。 山に鬼がすむのは、姥捨ての風習だったり、か●わ故に人目の届かないところに隠れ住んだり、罪をおかして山に逃げ込んだりした事から、そういう状況に追い込んだ人々の後ろめたさや後悔等の念が恐怖に変わり、鬼の性格にうつった物だとしていたように記憶しています。 また、自分の罪を『鬼』に被せる事によって精神的に解放するような事も聞いた事があります。(可哀想なのは鬼ですね…いい迷惑です) 『鬼』とは人間が生み出した『人間の意識』なのではないでしょうか。 生きている上で罪悪感がかけらも無い人間には鬼は潜んでいないかも知れません。 ただ、そういう人間を果たして『人間』と呼べるか否か(動物なのか、悪魔なのか、神なのか…)は『人間社会』が判断する事なのでしょうけど… 動物は自己防衛本能ゆえにキレることがあります。 キレるというのは『怒る、刃向かう』などの攻撃のみではなく『黙る、泣く(ひいては自殺)』などの逃避行動もあります。草食動物などは後者を選択する場合が多いですよね。 『攻撃行動』=『鬼』とするならば『逃避行動』は一体何になるんでしょうね? なんか思いつくままに、だらだらと、まとまりのない解答になってしまいました。 ごめんなさい。

littlekiss
質問者

お礼

>わたしは人間が人間であるのは「理性」という殻に包まれて「道徳社会に生きて」いる故と考えています。本能を表に出さずにいられることが美徳と思われる世界です。 この美徳がときに人を生きずらくさせていますね。美徳だと思う背景にはなにがあるとおもいますか? 『逃避行動』インプットされたデ-タ-(記憶)によって突き動かされる心の動き。=『猿』ではだめですか? あぁぁぁ・・・トンチンカンモ-ド全開!おゆるしあれ~☆お時間がありましたら、またお話しきかせてください。 ありがとうございました。

  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.12

>そうすると、『火事場のクソ力的現象』は、この時点で意識が働いている(脳が損得勘定している。)ともとれるのですが? いやあくまでも深層心理下の働きかけのことですから。 無意識下のどろどろした思惑をどう認識しようとも、 結局のところ貴方が知ってることを私は知ってることを貴方は気付いているかもしれないが、そのことにも私が気付いていることを貴方は知らないというようなもんで どうやっても無意識の勝ちです(笑 と言うか、そういう存在として無意識は定義づけられているのでは。 ま勿論人間は理性でそーいった様々な本能的なものをある程度コントロール出来ますが、やはりコンピュータみたいに1と0だけの完全な理屈だけに則った思考は出来ないと思います。

littlekiss
質問者

お礼

おつきあいいただいてありがとうございます。 『結局・・・・・云々、無意識の勝ちです(笑)』のくだり、読んでいると頭こんがりました(私の頭の中がトンチンカンモ-ドスィッチON!)申し訳ありませんが、無意識の定義をわかる範囲で教えていただけませんか?(お時間があいたときで構いませんから・・・お願いします。) こころの動きの中でいつも何処かにいるような『理性』合理的にものを判断している。自制しているといったほうがいいかもしれませんね。この判断基準は、何処から芽生えたのでしょうか?生まれながらに備わっているものなのでしょうか?(ほんとに、お手がすいたときにでもお答えしていただければ幸いです。私もいろいろ時間の制約がありますので、即座にお返事かけないこともあり、ご不快にさせていたら申し訳ありません。)

  • gomuahiru
  • ベストアンサー率37% (593/1595)
回答No.11

こんにちは。二人のムスメの母やってます。 もう、ふたりとも大きくなってしまったので、最近はあんまり「鬼」になることは少ないですが・・・(笑)むずかしい分析論は下の皆様方が書いておられるので(母性は鬼子母神的なものになり得るというご意見と人間は所詮”遺伝子の乗り物”という意見に同じです)自分の経験から行きたいと思います。 <私が鬼ーさんになった時> うちの子が幼稚園の砂場でよその子にはげしく砂をかけられた時→思わずその場に生き埋めにしてやりたくなりました。 幼稚園で一人だけ「めがね」を弱視の治療のためかけていたのですが、それを毎日しつこくからかう男の子と訴えても何の対策もとってくれない先生→呪い殺したくなりました。(実際、その子はなんと喘息で長期欠席になってしまった!でもほんとなんにもやってません!) 幼稚園の発表会で「せりふの長いいい役」をもらった我が子をねたんであれこれ影で言う人に→上手に逆襲して相手の悪いうわさを流し返してやりました。(これは実際にやってしまった!) ホント、こう書いてみると怖いですね~(笑) これ以上書くと人間性を疑われそうなのでやめておきます。(遅いかも~) マザーテレサなどのようにある意味での「母性」を沢山の人に惜しみなくシャワーのように降り注げる人もいると思いますが、一般的には少ないのではと思います。 たいがいは上のワタシのように自分の子が可愛ければ「鬼」になるという人がほとんどでは?思います。 しかし、「○田佳○」のような「母」にはなりたくないな~

littlekiss
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 具体例をあげていただきありがとうございます。 不思議ですね。大切だと思うものを守ろうとするときの人のこころの動きって・・・・。自分にとって大切なものがあるなら他の人にだって大切なものがあるにちがいないのに、いともたやすく傷つけてしまう。これも一種の自己防衛なんでしょうか?置かれる状況によって、変化する。こころ=感情、『堪忍袋』が破けちゃうと中からものが溢れ出すようにとめどなくでてきちゃうのかな?パンドラの箱のように・・・邪悪なものがいっぱい、いっぱい。このとき、優しい気持ちはどこにいっているんだろう?

  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.10

所謂母性本能の正体ですか。 その要素が色々あることは、既に皆さんかかれているのでそれ以外のものを敢えて書きます。 利己的遺伝子 これはよく言われますが、遺伝子が自分の分身を残そうとする本能(?)に従ってるということ。子供は自分の遺伝子の半分を残した大事な入れ物、壊れたら大変っつーことです。 ただの利己心 自分の老後の面倒をみてもらう大事な働き手です。これも壊れたら大変。 認知不協和 十ヶ月もお腹の中に入れ、強烈な痛みで産み落とし、さらにはあれこれ色々と面倒を見たのは一体なんであったのかということを考えると、やはりこれは大切なものだからであったからだとの理由の後付け。 こういったモンが理性の働きを鈍くさせ、いざと言う時に当事者がキレてしまうということで。 別にこれは誰しもがもつもんだと思います。その対象が子供ということに限らず、一言で言ってしまえば火事場のクソ力的現象ですよね。大切な何かを守ろうとする時、人間の力は際限なく発揮されるものでしょう。なりふりかまわずに。 えー敢えてと最初の書いた通り、別に私がこういう考えであるということはないです。 あくまでも要素の一つとして上のようなもんもあるかもしれませんが、それが大部分ではないと思います。

littlekiss
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 >『利己的遺伝子・認知不協和』こういったもんが、理性の働きを鈍くさせ・・・云々 ↑と、おっしゃられていますね。そうすると、>『火事場のクソ力的現象』 は、この時点で意識が働いている(脳が損得勘定している。)ともとれるのですが?過去の経験、見聞きした過去の出来事が記憶となって脳にインプットされていて無意識的にとる行動のようにおもえるのですが・・・利己的遺伝子と認知不協和によって火事場のクソ力のような現象を作り出すとはちょこっと疑問です。

回答No.9

 文学の方から眺めてみますと、鬼になるのは女性だけなのです。  性差別発言と取られるかもしれません。でも、私が言いたいのはまったく正反対のことです。「女性が鬼になるのは、社会における男女非対称の元で女性が受けていた文化的・精神的重力のため、女性の中に鬱屈していたものが激発したからだ」という構図も見えてくるからです。  馬場あき子さんという、たいへん筆力の優れた小説家・随筆家がおられます。この人の『おんなの鬼』という文章の中で、日本古典文学・芸能に登場する鬼女伝説がいくつか紹介されています。一番衝撃的なものをここに挙げておきます。黒塚の鬼女伝説です。「安達が原の鬼女」とも呼ばれ、能の演目にもなっています。  この女性は、元は都の公家に仕えていましたが、その主人の子どもが、病気で言葉が話せなかったのです。この病を治す薬には、妊婦の腹にいる胎児の生き肝しかないと聞かされ、この女性は安達が原で不運な妊婦が来るのを待っていました。そしてある日、若い夫婦が現れた。妻は妊娠しています。女性は喜び、この妊娠した妻を殺害して胎児の生き肝を得ました。ところが…その若い妻は、実は女性の実の娘であることがわかります。これを知ったとき、女性は鬼へと変貌します。そして次々に旅人を襲っては殺す、鬼になったのだ、と。  また、能で用いられる面に「般若」があります。鬼の面です。これも女性です。愛した男に裏切られた情念の昂ぶりが、一人の女を鬼に変える。そういう時に用いられる面です。同じように、情念の昂ぶりで鬼に変わることは男にもありますが、この場合に用いられる面は「生成(なまなり)」と呼ばれます。写真で見ればイッパツなのですが、「般若」に比べて「生成」はかなり人間らしさを残しています。角らしきものは生えていますが、般若のように鋭く尖っておらず、ただのコブのようです。 「男はね、女ほど情念に深さがないから、鬼になるのも中途半端なんだよ」と、そちら方面を研究している先輩は教えてくれました。  そしてこれは、何も日本だけではないように思います。「鬼」というのではありませんが、『ニーベルンゲンの歌』では、前半でこそ臈長けてたおやかな姫君として登場するクリエムヒルトですが、夫・ジークフリートを姦計により殺害された彼女は、一変して「戦い、殺す女」に変貌します。最後には、姦計の首謀者である自分の実兄を、自らの手で首を刎ねて殺しています。私はこの物語を「女性が主人公の物語だ」と読んでいます。ジークフリートが主役なのではなくて。それは、クリエムヒルトの変貌がドラマ全体の大きなうねりを作っているからというだけではなく、彼女の行動が「政治の論理・男の論理」に対抗して貫かれた、情念の激発であると読んでいるからです。  文学からのアプローチ、それもフェミニズム的観点ですので、「心理学」という枠からは少々ズレるわけですが、以下のようなことが言えないでしょうか。すなわち、下に置かれ、棄てられ、愛するものを奪われ、そんな自分たちの体験を言い表す言葉すらも奪われ、ぴっちりと周りに敷き詰められた「理屈」に囲まれて、他にどうしようもなくなったときに、通常の平穏な人格を突き破り、言葉を超えて激発する情念、それが「鬼の顔」なのだ、と。  だとすれば、それは必ずしも「本能」ではないでしょう。むしろその人が置かれた「状況」から引き起こされてくる。危険にさらされた子どもを助けようとするときに母が変身する「鬼」も同じではないかと思います。他に手段があれば鬼にはならないでしょう。他にどうしようもなかったり、非常に緊急だったりする場合に、母は何物をも顧慮しない鬼に変われるのだと思います。ある意味、「女性だけが持つ最後の武器」と言えるかもしれません。 anet.

littlekiss
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 鬼にもいろいろあるようですね。(こころの動きの違い)男と女はそもそも別ものというか、違う生き物のようですね。同じ人間であっても性の違いがこころの動きに影響を与えているあたりおもしろいですというより不思議ですね。鬼になるのは女性だけという点が、歴史的、社会的背景の制約によるものからきている。ある部分うなずけます。もし、この社会がまったく逆だった場合、女性優位の歴史が続いてるとすれば、鬼になるのは男性ということになるのかな?根底には、環境がこころの動きに影響(形成している一要因)を与えているということになるのでしょうか? 鬼←『通常の平穏な人格を突き破り激発する「情念」』←愛 愛から発動される情念。この情念って代物は、感情から起こる思念。愛という一つの感情から生れ出たとしたら本能とはまったく関係がないとは言い切れないような気がします。またここで一つ疑問『人にとって愛ってなんなのかな?』

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