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日本人に対する宗教観と死生観

日本人は本当に無宗教なのでしょうか? またなぜ日本人は死者の顔を伏せるのでしょうか?

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  • kigurumi
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回答No.3

英語で宗教は、リリジョン。再びつなぎ合わせるという意味。 これはかつて神の農場に住んでいたアダムとイブが、神のいいつけに従わなかったために、神から離れることになったので、再度「神の元に戻ろうとする集団(戻るとされるやり方を実践して戻ろうとする会)というニュアンスがあるのではないかと。 漢字の宗教。私なりの解釈では、「これを宗とせよという教え(学問)」みたいなんじゃないかと。 日本の神。英語ではkami。 西洋のgods とはニュアンスが違うので、そのままkamiと英文では表記するのではないか と。 日本の和楽を聴くと、不謹慎かもしれませんが、「うるさい」と思ってしまいます。 まるで、雨がぽつぽつと降ってきて、はっぱを打つ音から始まり、ゴロゴロと雷のような音になり、どんしゃんどんしゃんと雷と大雨が演奏しているような音楽。 狂言は、もののけの動きを模倣した踊り。 これが日本のkamiの世界だと日本人は捉えていたわけです。 把握できない存在で、恐れる対象だが、植物を育ててくれて、たくさんの実りもくれるkami。 農場従事者の方が、台風で作物が全滅した場合、悲嘆にくれず、「もうお手上げだぁ わははは」と狂喜乱舞するのだそうです。 降参ってわけです。 「おてんとうさま」 これが日本のkamiであり、木が日本のkamiであり、水が日本のkamiであり、自然そのものがkamiと日本人は心の底では思っていると感じます。 だから、直視できる夕焼けを見て、手を合わせたくなるんじゃないかと。 荘厳な何かを、太陽に見ているのかも。 一日のうち ひとときしかkamiを直視できない。 kamiが生まれるときと、死ぬ時だけ。 死者の顔を伏せる。 どうしてかは知りません。 が、死者を綺麗に洗って、白装束をし、化粧をほどこしますよね。 死者を尊ぶわけですが、白装束にするってのも、清い状態になるという意味があるのかもしれません。 白は超人間界と捉えているのか、神事を実行する人は、白い服装を身にまとい、行いますよね。 結婚式の白無垢。 顔も手も全部白く塗りますよね。 どうしてかというと、死者になるという意味らしいです。 その女性の人生は、その時で終わったという意味。 終わった後、通過儀式として、一度死ぬ。だから白い衣装を着て、全身白く塗る。 通過儀式で、死者に扮するわけです。 角隠しも、人間界を離れたという意味があるのかもしれない。 角といえばミケランジェロのモーセの像には角がある。 ヘブライ語で、角という文字は、もう一つ意味を持つ。 光。 ミケランジェロは、角という訳の聖書を読んだんでしょうね。 日本で白無垢を着るってことは、人間界を離れて太陽のような角が生えるって意味なのでしょうか。 太陽の角、絵で書くと○描いてその周りを、ぎざぎざってしますよね。 太陽がらんらんと照っている状態。 これ、聖書にも書いてある。 イエスが茨の冠を。。。太陽が光線を出している状態を表している。 ということで、日本では、女性は結婚式の時に、人間界を解脱するらしいです。 ベール。これも意味があったと思います。 黒いマリアなど、把握できない存在。 そのベールをあげられるものはただ一人。 というわけで、西洋の結婚式では、花婿がベールを上げるわけです。 女神と結婚する聖王を真似ている。 インドあたりの古代の宗教における風習だったのではないかと。 それが西洋に入って、神の前で結婚をするとき、ベールをかぶり、花婿にはがしてもらい、チューをしてもらうってことになったと思える。 もともとは女神の地上の体現者が、男の集団の中から、選んだ男に祝福を与えるという高貴な人々限定の儀式だったと思えます。 いずれにせよ、死者のベールをかぶせるのは、別世界の住人になったという意味なのではないか と。

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回答No.8

「日本人は本当に無宗教なのでしょうか?」 については 日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書) 阿満 利麿 (著) ISBN-10: 4480056858 ISBN-13: 978-4480056856 発売日: 1996/10 「なぜ日本人は死者の顔を伏せるのでしょうか?」 については カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫) (文庫) 養老 孟司 (著) ISBN-10: 4480086749 ISBN-13: 978-4480086747 発売日: 2002/01 が、参考になると思います。

noname#78143
noname#78143
回答No.7

宗教の考えの行き違いだけで殺し合いするぐらいガッツのある 信心を持っていないからといって無宗教ですか?といわれてもねえ・・・ 死者の顔を伏せるのは死に顔を見たら親族が悲しむからですね。 日本のお葬式は他のアジアの国のように泣き叫んだり感情を あらわにするのを嫌うというかそういうのを美徳としてない節があるので そうならないように顔を伏せるのではないでしょうか?

  • nishikasai
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回答No.6

日本人は無宗教です。 カトリック教国に17年住みましていま犯罪関係の通訳をやっているんですが、信心に縁がない国民だなとしばしば感じます。仏教や神道は文化的には根付いてはいますが、では信心しているのかというと全くしていない。先日警察署で通訳をしました。被疑者のお母さんが逮捕されて留置場にいる息子に次のことをお伝えくださいと電話で言ってきました。 「今日はクリスマスですね。どんな逆境にあってもイエス様を信じ抜いていれば必ず救われますと息子にお伝えください」と泣き崩れました。わたしはカトリックではありませんが、胸にじーんと来ました。伝言を隣にいた二人の刑事に伝えたところ二人ともよくわからなかったようでノーコメントでした。嗚呼。

noname#80116
noname#80116
回答No.5

 日本人は どのような信仰のあり方をしていたか。  信仰は 非思考ですが その中核から 経験的な思考も 出て来るわけですから 日常生活の全般についての ものの見方・考え方が ご質問の趣旨だと思います。  ちなみに 《宗教》は この村むらの人びとが やがて 国を作って そしたまた 海のかなたから ブッダとかいう人のおしえを輸入して そのときに 全体として かつ 上にある人びとが こしらえた教えのことです。  基本的に言って モノはコトである。と捉えていたようです。  §1 まづ ひとのあり方をどのように捉えたか。  心のあり方として こうです。狩猟・採集・漁労というように自然界にあるモノを そのまま取る作業に従事して生活するときには モノに取り憑いた心でした。原始心性と言います。  やがて その心の中に 時間が流れ出します。稲であれば 野生の稲を採集するのではなく みづからが季節とともに栽培するようになった。育てるという作業とともに 時間の経過を伴なうことにより 歴史知性を獲得します。おそらく子どもを育てるという時間過程をともなう仕事が役立っているのでしょう。  その後 この歴史知性であれば 何でも出来るという超知性も現われましたが それは措いておきます。  これら三つは 順番に ヨリ原始心性(自然への寄り・依り・憑り)→イリ歴史知性(自然と歴史への入り)→ヨセ超歴史知性(イリ知性を嵩にきて 神のごとく如何なるものの下には立つまいとする寄せの知性)というあり方です。  §2 イリ歴史知性は 世界をどう捉えたか。  モノおよびコトとして認識したようです。結論として こうです。  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)   ↓        ↓            ↓  自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ  この範式において 次の図式も得られます。  モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木  日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源)  モノは どちらかと言うと 質料・身体であり コトは エネルギ・精神にかかわります。  記紀には おほたたねこ(大田田根子)や みまきいりひこ(御真木入彦)が登場します。両者は 同時代の人物であり 後者は――つまり 《イリなる歴史知性》であるのですが―― 市長を務め 前者は 一市民で オホモノヌシのカミの子であったと言います。《イリヒコ歴史知性》の霊性のしからしめる認識でした。  また ヒトコトヌシの神は ワカタケなるおほきみの前に 姿を現わし 《善事(よごと)も一言 悪事(まがごと)も一言 言離(ことさか=言い放つ)の神 カヅラキの一言主の神ぞ》と名乗ったそうです。  §3 ネコ・ヒコらの生活とその後  つまり オホタタ(大田田)ネコが 田を耕し(田返し) イリヒコが その知性をもって 世界に《入り》するということは 精神を耕すというものでした。植林あるいは薬草による医学にも 精を出しました。  つまりは 一人のひとが 《根子(身体)‐日子(精神)》の連関から成る存在でした。あるいは《根子(市民)‐日子(公民)》の連関構造なる社会的存在のことです。  やがて そこへ ヨセ超歴史知性が出現し――たとえば オキナガタラシヒメ(息長足姫=神功皇后)は 《神を帰(よ)せたまひき》とあります―― 日子は 《もっぱらの公民》として立ち そのスーパー歴史知性によって やしろ(社会)を 二階建てとしたという歴史につながっていくわけです。  木から木の実を採る単純な仕事が 稲から米を育てる歴史時間をともなう仕事に移るにつれ 今度は 木の実や稲の実のほうから ものごとを捉え考えるに到ります。あたまの中で 利潤が先行するわけです。  実りを 《まつり(これは かみとの共食のことです)》において 人びとが 横のつながりにおいて 共に いただく生活から すでに二階建てになったその第二階にあって 《まつりごと(これは 天の神との添い寝だと言われています)》のもとに まつりごと(政治)をとりおこなう。ネコ市民はこれに従うという社会生活になった。やがて この剰余価値としての実のりは 巨大古墳として《結実》しました。――土木も発達したわけですが 何に活用するかですよね。  村における《まつり》のときのふつうの和の生活を 《まつりごと》は やまと(大和)の国として 上から 号令することになりました。まぁ ゆたかになったわけですけれど。  うんぬん。うんぬん。  このように ネコ市民が ヒコ(いや スーパー日子と呼ぶべき《優秀な》)公民に 道を一歩ゆづるというのも 日本人の信仰のしからしむるところであるかも知れません。もっとも ネコ市民の中には もっぱらのヒコ公民に寄っていき ゆする・たかるという習性を会得し 共犯になっているものも見かけるようです。  こうして いまは 《無宗教》と呼ばれるこころのあり方を持って来ているのが われわれであることになります。  ★ またなぜ日本人は死者の顔を伏せるのでしょうか?  ☆ については よく 分かりません。まつりとしての信仰を まつりごととしての宗教に取って代えたから その後ろめたさが 死に際して 現われるのでしょうか。  はてさて 日本人の信仰の行方は いづこへ向かうのでしょうか? ネコ市民は おだやかで きわめて おとなしいですからねぇ。  * ちなみに 《オホモノヌシ》の神は そうは言っても もとは 《ながもの(長者)》つまり へびのことです。三輪山の神ですが 実際 へびだという証拠もあります。ですが 現代から 編集して捉えるなら あたかも 神の子のオホタタネコを生んだ聖霊であるとも 考えられるわけです。そういう説明体系になっています。ヒトコトヌシが 父なる神のことです。粗いかたちの《三位一体》です。

回答No.4

 kigurumi先生のお話は相変わらず、すごく示唆に富んでいるので、私も気づいたことを。  角、茨の冠が光、というのは、そうだと存じました。  そして十字架の話が、このOKWave何度もでました。  私は、十字架なんですが、光の点をみていると十字架になっていくのを発見しております。  不思議だなと思っていたのですが、そういう図や絵を描いているのもみまして、やはりそうなのかなと思いました。  【女神の地上の体現者が、男の集団の中から、選んだ男に祝福を与える】はそのとおりですね。そのときに白無垢やベールを使用しているかは、詳細は知りませんが、そういう話はあります。  和の芸能は私たちには落ち着きを齎すのですが、そうでもないということがあるのですね。  蛙や虫のこえが静寂を引き立たせてくれる感情とそうでない感情があるのですね。多様な創造界ですね。

回答No.2

 【日本人は本当に無宗教なのでしょうか?】  欧米人の方が宗教ということでは、少し以上に欠落していて、度し難い、話にならないという、のが私達日本人の心性かと存じますが。  キリスト教も非常に弄繰り回され、曲解されていると存じます。  中国やその他のアジア諸国ではインドを除き、日本人くらい宗教性の高い文化と民族は存在していないと、このごろ痛感しておりますが。  【またなぜ日本人は死者の顔を伏せるのでしょうか?】  宗教というよりも、むしろ民俗風習のひとつでもあると存じますが。  さらしたくないという感情ではないですか。  安らかに、といういたわりと願いもあると存じます。  ここは静かに旅立ち、もう世俗のこまごまに介在したり、煩わされないでいいですよ、という思いやりでもあると存じますが。  それと、死の世界とのしきり、という思想もあると存じます。

  • gadovoa
  • ベストアンサー率28% (835/2910)
回答No.1

あなたの言う宗教観とは唯一絶対の神を信じるというものでしょうか?それを仮に西洋の宗教観と言うとすれば日本人には持っていませんよね。でも仏教、神道があるように何らかの宗教観を持っています。それは日本の土壌が産んだ宗教観です。もしキリスト教的道徳のことを言ってるならば、日本は武士道的道徳観を持っています。新渡戸稲造「武士道」を読んでみてください。新たな発見があると思います。一見武士道は野蛮のように聞こえますが、キリスト教の黄金律(自分にしてもらいたいことを相手にせよ)と近いものがあります。それは人類普遍の感情だからだと思います。死生観については解らないので省きます。こういう問題を考えることはいいことだと思います。もっと深く探求してみてください。

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