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論文で『オィディプス王』について!

国語でオィディプス王』を読み、なぜ、オィディプスが悲劇に陥ったのか論じなくてはならないのですが、なぜ、悲劇に陥ったのかまったくわかりません。 ただ、神託がそう主張していただけであって、べつにこれといった理由はないのではないでしょうか?

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  • kadowaki
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回答No.1

「悲劇」とニュースなどで報道される「悲惨な出来事」とでは、どこがどう違うのかと考えたことがありますか? 古来、「オィディプス王」に限らず、すぐれた「悲劇」というのは、多くの人々が脳裏で想い描く理想的な生き方の最大公約数を凝縮化、象徴化してきたのだと思います。 われわれは、人間である以上、自分の意思で生死を決められません。 それなら自分が納得できる形で生き、かつ死にうる人生とは、つまり人間の理想的な生き方とはどういうものか?について、古代ギリシャ時代以来、現代に至るまでずっと問い続けてきたのだと思います。 すぐれた「悲劇」とは、人間である限り抱き続けざるを得ない、こういう根源的な疑問に対して、宗教や哲学とは違った形で劇詩人だけが示し得た、より具体的、かつ典型的な回答であると言えるのではないでしょうか。 なお、「神託」というのは、言い換えると《神慮》ですから、一種の《おみくじ》のようなものだ言えます。 ただ、それを納得づくで受容、甘受できるかどうかは、その人が自分の能力を限界まで窮めて生きたかどうかで決まるのでしょうね。 オィディプス王が自らの意思で「神託」を甘受できたのは、自分の人生を振り返ってみて、誰よりも努力し、誠実に、立派に生きてきたことを確信していたつもりだったのに、この英雄としての人生が、実は父を殺害し、母と結婚するという忌まわしい愚行から構成されていることを、つまり神慮のプログラムをなぞって生きてきたにすぎないことを突き付けられたからです。 その意味では、人間の智力と思慮の限りを尽くして生きたところで、とても神慮を超えることができないという事実を、つまり神ならぬ人間の《運命》の真相を典型的な形で開示してくれたところに「オィディプス王」のすぐれた古典悲劇たる価値があるのだと思います。

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