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「野火」で、何故、主人公は最後、人肉を食してしまったのでしょうか?

「野火(大岡昇平/新潮社)」で 主人公の田村は、最初は人肉を食べることを拒否していましたが、最後には永松に「猿の肉」だと言われて、食してしまいました。 田村には「猿の肉」の正体が分かっていた筈なのに、何故、食してしまったのでしょうか? 生存本能が道徳心に勝った、と言うことかとも考えましたが、それにしても、何故、最後には勝ってしまったのかが分かりません。 「野火」と言う作品の複雑さ故に、簡単に言うことは困難だと思いますが、お教え願えないでしょうか? よろしくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • zephyrus
  • ベストアンサー率41% (181/433)
回答No.1

ひきつづき『野火』、核心にはいってきましたね^^ 前回は書いてあることをそのままたどればよかったのですが、今回はそうもいきません。 まず、「三十三 肉」の章の該当個所で主人公に起こったことを確認しておくと、 その食物が何であるかを直感しながら、拒むことをせず、喰べてしまった。 そのとき「いいようのない悲しみが、私の心を貫いた」 「何かが私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった」 けれども「私の左右の半身は、飽満して合わさった」 ここにあるのは、倫理観が、生きようとする本能に負けた瞬間です。 質問者さんのおっしゃるとおり、これ以外に読みようがないように思います。 悲痛な満足感を、いやおうなく覚え、味わってしまった。 なぜなのか。 たぶん、それは、人間だから。 なんだ、当たり前じゃないか。 ええ、そうなんです。 そしてそれが人間の「罪」なんです。 この小説には、あちこち聖書(旧約聖書)からの引用があることにお気づきと思います。 前回のご質問にからむ De profundis もそうでしたし、そもそも小説のトビラに掲げられた、 「たとひわれ死のかげの谷を歩むとも/ ダビデ」も有名な詩編の一節です。(詩編23) 作者から読者への、つよい示唆が喚起されています。 聖書の標準的解釈によれば、(以下《 》内は日本聖書協会発行の新共同訳から引用) 人間は全知全能につくられたのではなく、自由意志を持つものとして創られた。 エデンの《園の中央に生えている》《善悪の知識の木の果実》を、 神の言いつけどおり食べないでいるか、食べてしまうかは、アダムの自由意志です。 そうして人間は神のように完全ではないので、必ずどこかでまちがえる。つまり原罪を負う。 《女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた》そして楽園を追放される。 『野火』の主人公も、まさにそうなったのです。 急いでつけ加えなければならないのは、この主人公はキリスト教徒ではないということです。 当時言うインテリで、旧約聖書にも少年のころから親しんでいた、という設定になっていますけれども、 知識はともあれ、まずは日本人一般の信仰心、もしくは無宗教性から遠く離れていないと思われます。 なぜなら信徒であるなら、十字架のかかる会堂のなかで、怒りにまかせて人を殺したりはしないでしょう。 (教会に閉じこめられた信徒が、生理現象による排泄物で堂内を汚すことができないという、 ただそれだけの理由で外に出ようとしてもがき暴れ、銃殺された悲劇は現実に多くあったことです。) しかもいくら戦時下の突発の事態とはいえ、相手は女性、無辜の非戦闘員。 主人公はここでも大罪を犯しています。 そうしてもうひとつの殺人、永松を撃つときには、「私はもう人間ではない。天使である」 神の怒りの代行者だとまでうそぶくのです。(第三十六章) この驚くべき自己正当化。都合の悪い記憶はすべてぬぐい去りながら。 「この時私が彼を撃ったかどうか、記憶が欠けている。しかし肉はたしかに喰べなかった。喰べたなら、憶えているはずである」 もちろん、小説が、それも世にすぐれていると認められた小説が、ただひとつのキーワードによってすべて開いてしまうわけがありません。 「愛は愛よりはるかに豊か」とシャルドンヌは言いました。 もしフロイトの精神分析学ですべての謎が解けてしまう小説があったとしたら、 その瞬間には驚いて膝を打つかもしれませんが、次の瞬間にはあほらしい詰まらなさに襲われるでしょう。 人間の神秘は、精神分析の一学説よりは、もう少し広く深いであろうと文学を読む者は信じているからです。 長くなったので他の事には触れませんが、この点から見て、この『野火』という小説は、 神なき国への痛烈な批判となっていると思います。 狂人となった主人公が「男がみな人喰い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよい」(第三十八章)と言い放ちながら、一方で、 「しかしもし私が天使なら、何故私はこう悲しいのであろう」(第三十九章)と、いぶかっています。 小説が発表された当時の読者は、それは昭和20年代の後半のことですが、まだなまなましかった戦時中の記憶を省み、今ある戦後の状況を眺めわたして、心安らかではなかったでしょう。 「今=ここ」という時間および空間概念しか持たない日本人の特性(加藤周一『日本文化における時間と空間』での指摘。結論。)は、21世紀に入った現在でも、あまり変化しているように思いません。 つまり、この小説『野火』は、すぐれて今日的な課題を失っていないのです。 最後に、私はいささかもキリスト教徒ではないし、それ以上に、一神教が良いとも思っていません。 あれはあれで大変困難な課題を山積しているのはご存知のとおりです。 ただ、異文化に触れることは、自分たちの足元を照らし出してみることでもあり、この点において有益です。 作者、大岡昇平氏も、日本人、ひいては「人間」を追究するためにキリスト教を用いたのだと思います。 以上、あくまで文学の素人の私見、感想文の一つです。含んで参考としてくださいますように。 長々と失礼しました。

west-syota
質問者

お礼

今回の質問にも答えて頂き、ありがとうございます。 遅ればせながら、感謝いたします。 「自分で考えを追求して行く」と言うものの性質上、 zephyrusさんの考えを基礎として行くことは出来ません(僕が思っているだけなのですが)が、追求していく上でとても参考になりそうです。 また、zephyrusさんは御自分の意見を「素人の私見、感想文の一つ」とおっしゃられていますが、考えの基礎にも出来る程、良い論だと思います。 実際、そうしようかとも… 本当にご回答ありがとうございました。 参考にさせて頂きます。

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