• ベストアンサー
  • 暇なときにでも

【着信拒否など】対話を放棄するのは正しいの?

  • 質問No.4447261
  • 閲覧数310
  • ありがとう数45
  • 気になる数1
  • 回答数10
  • コメント数0
ケンカした、着信拒否だなんて例を見かけます。
対話を拒否するのは正しいんでしょうか?何故拒否するんでしょうか。
不毛な気がするんですが。
相手に悪意があったり、某反日国家のように相手が話を聞かないような状況なら対話なんて無理でしょうね。
そうでないなら、対話せずにどうやって解決するんだろうと思うのですが。

質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.5
  • ベストアンサー

ベストアンサー率 25% (32/125)

無意識的潜在意識的に、「この人間とは話す価値がない、付き合う価値がない、引き合わない」と判断したからです。
つまり、理性を超えたところで、その存在を亡きにしたほうがよいという総合的判断を下したからでしょう。

で、その是非ですが

人生300年ならば、拒絶するのは要領の小さな人間のすることでしょうが、人間の運命からして無駄な時間をすごす余裕はないですね。残念ながら。

かく言う私も、いくら無駄な会話対話を続けてしまったことか!

つまりは、その相手の存在が、ソクラテスやら大哲学者人格者である場合は別であるが、そうでない場合が大部分だというこの世のくだらなさに対処する方法としては致し方ない。
お礼コメント
noname#73004
やはり価値が無いって事ですか。
この人と対話なんて事は無駄だ・面倒だ・付き合ってもどうせ私には面白くない、ケンカしたならもういいやって。。
確かに、付き合える人数、割ける時間には限界がありますよね。
友情が成り立たないのも、失恋と考えると良いかもしれません。

ありがとうございます。
投稿日時:2008/11/04 21:56

その他の回答 (全9件)

  • 回答No.10

ベストアンサー率 0% (0/16)

 対話を放棄するのが正しいかと言われれば正しくないでしょうね。着信拒否にしても自分自身をガラスの壁でかこう行為となりますし。ですから、拒否する理由は自分自身の防御だと思いますわよ。自分自身が傷つけられないようにするために自分自身を壁で覆う。でもその壁はもろ刃となって自分自身を発展させる道すらも閉ざしてしまいますわ。
 でも、必要と言えば必要でしょう。自分自身の生活や限られた時間というのがあるうえではそんなひとりひとりとじっくり接することなんてできませんもの。拒否されればそこまでの関係という対話以上の重たい拒絶。子供じみてはいますけれど、相手がそれ以上を求めない限りもうその関係は終わりだと思いますわ。
 上で示した拒絶以外の拒否もまたあって、こちらは「どのみちお話しても同じことしか言わないだろうし展開がわかりきっているからもうちょっと冷静に考えられるようになるまで待っておきましょう」というようなものですわね。熱くなったときは冷めないと冷静な考えができませんもの。熱くなっているときに下手に対話すれば余計に破たんしてしまいますわ。それに着信拒否にすれば自分の非を認めて冷静になって考えるでしょうというひとつの考えでもありますし。
 乱文失礼致しました。
補足コメント
noname#73004
皆様、ご協力ありがとうございます。そろそろ締め切ります。
集まった回答を見て、色々と想うところ、感じるところがありました。
当然なのか私自身、過去にも喧嘩して好きな友達に嫌われた体験はありますので。恋愛では無かったのですが。
相手が友好的でなくなると途方に暮れますね。

12月16日
投稿日時:2008/12/16 16:17
お礼コメント
noname#73004
そうですね。あまり社交的には思いません。とは言え、前にも出ているように時間がという問題も。
対話を捨てた方が相手をどう思おうと、もう片方は相手を悪く言うことはあまりなさそうですけどね。
何時までも平行線であることもあるし、でも話せば意外とすんなり解決する問題もある気がします。両方経験はあります。
防御だけでなく、「不満や文句は言わない。私が何を思ったのかこの着信拒否で察しろ」ってメッセージでもあるのですか。

ありがとうございます。
投稿日時:2008/12/09 19:20
  • 回答No.9

ベストアンサー率 37% (135/364)

「着信拒否」というキーワードを主軸においてこのことを考えていくとなかなか見えないのですが、そうではなく、「ケンカした」というところにイカリをおろして考えると見えてくるものがあるように思えます。

「対話」ができる関係は、そもそも「信頼」という土台の上に成り立つもので、「共に生きる(共生)関係」です。
共に生きる理由は、「一緒にいたほうが生きやすい・喜びが享受しあえる」からです。
ケンカをするということは、その「信頼」という土台が、一時的にせよ、恒久的にせよ「破綻」しているわけです。
「信頼」という土台は、双方で取り決めている「暗黙の契約」です。
すなわち、「不戦・喜びの共創、享受(平和的共生)」の暗黙の約束事です。
「ケンカを【した】」ということは、その「平和的共生」がすでに一時にせよ、瓦解しており、その状況を一方もしくは双方において、その「暗黙の契約」が破られたと認識しているわけです。
そしてたいがいの場合、それが相手の「行動」に「原因」があると感じ「暗黙の契約」違反を相手によるものだと考えるわけです。
壊れたコップに水は入れられないのと同じようにそうした「信頼」の土台の崩壊の上には、本来、「対話」はのることができないのです。
「着信拒否」する相手の態度に問題があるか、ないかの是非を考えるとき、この「コップが壊れているという例え」で見えてくるものが有ります。
実は、「着信拒否」しようが、しまいが、それは表面的なことで、「心において」すでに対話の土台が「壊れている」のです。
「不戦・喜びの共創、享受(平和的共生)」のその関係が崩壊したとき、あるひとは、「戦いを挑みます」
またあるひとは、「避難」、「拒絶」、「防御」、そして「関係修復の試み」をする人もいるでしょう。
この問題は『「関係修復」を「望まないこと」はわるいことか』という問題に最終的には到達します。
平和的共生の暗黙の契約を「だれと」結ぶか否かは、個人の自由だということです。
誤解があったにせよ、この状態が一時的であるにせよ、「平和的共生の暗黙の契約」は相互の「意思」で成り立つものです。
「着信拒否」は一方が、「再契約」を望み、一方はそれを拒否しているという状況に過ぎません。
どちらが正しいか正しくないかという問題ではないということです。

要はそれ(「再契約」)を望む者が、『主体的に能動的に動く』必要があるということです。

参考にしてください。
補足コメント
noname#73004
すいません。
やはりどうも、
対話の土台が壊れていて再契約を望まないのも自由と、再契約を望む者が動く必要があるは両立しない気がするのですが。
投稿日時:2008/11/10 12:09
お礼コメント
noname#73004
平和的共生や、平和的共生への和解を望むかは自由で、対話しないからどうこうという事ではないということですね。
主体的に能動的に動くとはどのような行動が考えられるでしょうか?
再契約を望むものが悪かったところや常識の違いや妥協点を見つけ出した、でも相手は話を聞こうとはしない。
しかし、再契約を拒む事は自由。この場合は。


ありがとうございます。
投稿日時:2008/11/07 09:07
  • 回答No.8

ベストアンサー率 36% (97/264)

長たらしい投稿を差し上げてしまいましたが、御丁寧な御返事をいただき恐縮です。

対話というものは大原則として双方向性のものであるはずですし、にもかかわらず、そこに、お互いの持つ個性差や温度差というものもありますので、ほんとうにデリケートなものですね。
文字だけの遣り取りには文字だけゆえの、対面の遣り取りには対面ならではの微妙なものがあり、これまでに、ふたりのあいだに流れた時の層というものもございます。
感情が激して拒否状態に至ってしまったというのも、お互い、そもそもは相手に期するものがあったはずだからこそでしょうし、それは決して、成ろうが成るまいが、どちらでも、というようなヒンヤリしたものではなかったはずなのでしょう。
このことを念頭に置かれまして、いま現在お相手が感情の大波に身をまかせていらっしゃったとしても、いずれこのままには捨て置けないという御気持が双方に宿っているかぎり、御質問者さまの、お相手に対する真心が通じないはずはないと思います。もしも通じなければ、それは、またそれで良いという天の声なのでしょう。
あまのじゃくな気質のかたなどでしたら、今はプリプリしているようでも、適当な頃合いをはかってのち呼びかけてくれることを心の底では待っていらっしゃるのかもしれません。その場合には、放って置いたままにしていたことが、かえって再度の悶着ともなりかねませんので、そのへんは、どうか柔軟にお願いします(笑)
御質問者さまの、その温かい誠実な呼びかけの御気持を用意なさっていらっしゃることで、すでに対話は始められているのだと思います。

いろんな動物たちなどを見ておりますと、ただ無言にして着実に伝え合っているようですのに複雑な言語や媒介ツールを用いる人間のほうが、なんとも苦労が多いことです。なんとしたことでしょうか(笑)

こうした場所での遣り取りも、ありとあらゆる方向から様々に投げかけられてくることをあらかじめ心したうえで、自分自身の誇りを裏切ることのないよう臨みたいものですね。

No.7さまは、ちょっとシンドそうですか?そばにいらっしゃるのであればソ~ッと、おでこに手を当ててから肩と背中をさすって差し上げるところですのに(笑)お互いリラックスしてまいりましょうね。
                      
補足コメント
noname#73004
皆様、お付き合い頂きありがとうございます。
12月、これからクリスマスの季節です。世の友人間や恋人間が、お別れなんてことにならずうまくいくといいのですが。
投稿日時:2008/12/04 19:17
お礼コメント
noname#73004
このままでは嫌だという気持ちが向こうにあれば。
そうでないなら、努力ではどうにも・・ですよね。天の声なら。
おっしゃるとおり、個性差や温度差があり、人間の対話って難しいですね。
私が話すだけ話してみてはと思うのも、完璧なんてありえないからというのもあります。
ありがとうございます。
投稿日時:2008/11/06 22:27
  • 回答No.7

ベストアンサー率 25% (32/125)

しかし、私とて、この問題に関する忸怩たる思いがあるからこそ、こういう質問をしているのです。
お礼コメント
noname#73004
再びありがとうございます。
嫌味や非難などを浴びせてくる人への対応はどうすべきか。
無駄な会話対話を続けてしまったと言っていましたが、こういう事のようですね。
こういうタイプは対話を捨てたか、一時的に熱くなってしまっただけか。
どちらにせよ悪い意味で熱くなってしまうのは、頭の痛い話ですよね。
投稿日時:2008/11/04 22:29
  • 回答No.6
 たまにいるよね、悪意もなにも無いのに拒否する人
なにかその人ね悪予測を推測してその洗脳に浸っていると
いったところだと思うよ
 つまり人間不信とでもいうのかそのような心理のときに
そういったことになるよね。
逆に言うと拒否した相手に支配欲が強くて自分の都合のよい人にならないから「むかつく」という無意識が沸いてきていると
思うよ
 簡単に図にすると
・自分の都合のよい人になってくれない→不満(半無意識~無意識)→「むかつく」(意識的)→自分の都合のよい人になってくれない相手をざく斬りにする→着信拒否をする・
ということになるね、まあこれはね無視したほうが良いときもあれば中には対話して解決した方が良いときもあるので僕は否定しない。
お礼コメント
noname#73004
なるほど。短気なんでしょうかね。
話せば分かるかもしれないし、意図は違うのかもしれないのに。

ありがとうございます。
投稿日時:2008/11/04 22:23
  • 回答No.4

ベストアンサー率 36% (97/264)

日常的レベルでよく見られることではありますし、ありふれた話題に過ぎないようでいて実際、他人との付き合い上、最も手を焼く問題ではありますよね。
「対話」といっても、単なる茶飲み話もありますし、ここのような一問一答を基本とする場もありますし、いわゆる哲学専門サイトのように、一つのテーマをめぐってメンバー全員でトコトンやりあうような場もあります。
なかには単に顔だけ向け合って、話す内容は直接目の前の相手と無関係のことを、離れたところにいる人に向けて聞こえよがしに、いわば「遠吠え」をしているだけの「対話もどき」をする人もいます。これ、オフィスの古参女性社員どうしの陰口なんかで、よくやる手口ですね(笑)自慰としての独り言を大勢の人の耳に吹き込みたいだけの寂しそうな人もいるし(こういうのは、相手してあげる余裕のある人がすればいいことです)「対話」と称して実はアジテーションだったり演説だったり勧誘だったり。まあ、内実は、いろいろです。
むかし電車のなかで見かけた光景なんですが
私の隣に坐っていた作業服姿の肉体労働者と思しき年配男性が、私の反対側に坐っている、その男性の隣の青年に、しきりに話しかけていました。聞くともなく聞こえたのは
「…人間というものはな。。。」でした。なんか熱心に小言を言ってるのか、お説教してるのかなと思っていたら、駅に着いたとたん青年はパッと立ち上がり無言のままサッサと降りて行きました。私は「あれ?隣のオジサンの連れではなかったのか」とフシギに思っていたらオジサンは何を思ってか今度は私のほうに向き直り
「あのな。人間というものはな、、、」と始めたものですから、こちらは思わずポカンとしたものでした(笑)寂しかったのかしらね??

敢えて哲学ということで御考えになるならば「対話」とは、はたしてどういうことか、いかなるものであるべきかという詰めが必要なのでしょうが、それを思想的に或いは理論的に、まあ要するにコトバのうえで確立させてはみたものの、それを実行していけるかどうかも、現実の種々の制約が絡みますから難しいものがあります。長い投稿になりそうですが御容赦くださいませ。

No.1さま仰るような「必要が無い人、などと無理に話す必要」ですが、必要があると思う限りは、なんとかしようとし続けるでしょう、それが多分に徒労に終わるであろうと予想されるときなどは、どうでしょうか。それどころか自分にも相手にも何らかの破壊的影響が懸念される――まさに、ぺんぺん草も生えない「不毛」このような場合に、これを避けるというのは、やむを得ないこと、生活上、自然なことです。
「不毛」ということが「対話」において、あってはならないこととするならば、明らかにされるべき問題は、実は、どこに「不毛」の原因があるかということに他ならないのですが
これにつきましては、なかなか越え難い深い問題が付きまとってきます。ことに心理的な問題です。
まず個々人の思索能力の深度、傾向性、解釈能力の問題ということもありますし特に心理的なものが根強く潜んでいる場合には対応に困難を極めることもあります。この場合、認知の歪みといったかたちが顕著に出てきます。それも、外的対象以前に、本人の自己に対する認知の問題です。

一見、対話をするようなポーズをとっていながら心底では自らそれを拒絶していることに自分で気づいていない、さらには気づいていないふりをするという事態があるということを珍しくもなく目の当たりにすることがあります。
こうした態度がとられる場合の当人の心理というものを考察してみますと、当人自身が、すでに怖れの感情や不都合を伴っていると感づいている何らかの対象についてマトモに向き合わされるような情況になりかねないと危惧したとき、(意図の有無は別として)そこに向かせようとするに至った相手を、自分に対して悪意ある攻撃を仕掛けていると解釈してしまう傾向の強い人がいることです。ですから、こうした人は不必要に攻撃的対応をします。迎撃してるつもりなのでしょうね(笑)
あと、攻撃の変形とも言える支配欲。その裏は弱さです。

このような場合、時間と労力を費やしてでも無理に向き合わせ直視させることが、辛うじて立っている本人の知られざる脆さを暴露し、刺激し、かえって不測の事態を招きかねない、しかし、その結果に対して責任を負うことが不可能であるとき、かえって無関心が無難というようなことも、ままあります。
「無関心は愛の逆」という考えかたもありますが「強過ぎる関心が相手を殺す」こともあります。憎しみだって関心の一種です。そこにいることを許さないものは、抹殺しようと働きかけるでしょう。
敢えて「無関心」とは「そこにいてもいいよ」ということでもあります。
その無関心が「拒否」であると感じてしまう人は、自分を拒否されたくなければ、まずは自分自身の側に本質的無関心、拒否感が潜んでいないか、そもそも自分のなかに相手の拒否行動を招いている原因がないであろうか検討することも必要になってきます。
もしも自分自身の弱みを暴かれたくない、見逃してもらいたいなら、相手のことも、なるべく見逃してやることです。相手を徹底的に追及したいならば自分自身も大量の血を流す覚悟を持つべきです。前提として、それが許される場や関係であるかどうかも否応なく関わってきますが。

自分は言い逃れをして良いほうにまわり、あくまで高みからモノを言うようなことしかできないならば、そのような人に哲学は無用です。場違いな発言です。しかし哀しいことに、その「場違いさ」を理解することすら覚束ない。むしろ、こういう人ほど信念らしきものを堅持しておられるようなのですが、それが何ゆえかはさて置き、どうも恐怖心由来のものであるらしいと私は見受けております。

間主観と言いますけれど、これを持ち出しながらこれをどう解釈するかも、その個人の、あらゆる限界が顔を覗かせます。
そして、その限界をいかに指摘しようとも、受け入れることができるかどうかは本人しだいです。
いつでしたか私は、ある人への参考にと、一つの科学的分野におけるシステムのメカニズムを紹介してみたのですが、もう全く的のはずれた解釈をなさっておられ、再説明もむなしく、無視の構えでおられました。これが単に思考力、理解力の問題から来ていることなのであれば、これ以上の説明を繰り返しても無駄であろうかと思いましたし意図的なことだったのであれば、人柄の面で、相手をするのも無駄であろうかと思いました。しかも罵られましたのでね(笑)

「個性は拘束なくしてありえない。」これは、かの松下幸之助氏が仰ったそうですが、「個性」を「自由」に置き換えても同様なことかと思います。
自らくびきを望むことが自由である、いや、そうではなく実態としては、自ら設定した内なるくびきをもって守らねばならない不自由さを、自由であるとするタテマエに寄りすがって立っている人の、その後生大事なカンバンを、ただの他人が奪ってしまってよいものだろうか、そのカンバンが本当に取り払われるのは、本人が身をもって煮え湯を呑んだときではないのか?それを待つべきだろうか。そして、それを未然に防ごうとすることの意義。むなしさ。
「天は自ら助くる者を助く」と言うそうですが
私自身が「未然に防ごう」とするようなときの動機は至って単純で、自分にとっても不快が伴うであろうからに過ぎません。しかし自分にとって、さしたる不快が伴わないとき、どういう選択をするか。無理な選択をしたことが、どのような報いになって跳ね返ってくるか。

対話や助言といったもの或いは読書でもそうなのかもしれませんが、それらが目指す本懐、目的、それらにかなう効力の限界ということ。結局、本人自身が、ある日あるとき煮え湯を呑んだ、その体験なくして本当には届かないのではないだろうか。かつて私が身近の人間関係のなかで、はては、このサイト或いは別のサイトのなかで経験したことを思うと、最近つくづく、このように感じます。
「バカにつける薬はない」ということですか(笑)せめて、自分はバカかもしれないという最低限の自戒を持ちたいですね。悪性のナルシストは有害です。
リスクを冒しても、という働きかけを持続したい場合でも、やはりある程度の冷静な選択は必要です。あくまで共倒れを避けるためです。ですが基本的に感情優位で論理能力が乏しい人には、どうしても難しいみたいですね。冷静な判断とはどれか?が、そもそも理解できないみたいですし、それは選択しないほうがいい、と言われると、人格否定されたかのように感じてしまうみたいです。オール オア ナッシングというか。判断力乏しいうえ極端なわけですから実に始末悪いです。オマケに威張りたがる(笑)
ボランティアについて言われることですが、本来はステイタスの証なのであり、自分の足もと不如意な者がすることではない。それを承知で強行するのも一つの見識かとは思いますが、結局「不毛」であった場合には救いようがありません。

これも一種のコミュニケーションではありましょうがケンカのようなことに伴う感情的なものは、その波が静まるまで、ふつうは大なり小なり時間を要します。(エライ坊さまや聖人は知りません笑)その波を静めるどころか、よりいっそう荒立てるようなことをしてしまう強迫的な人は「着信拒否」されても仕方ないことです。そのことを責める前に、何がそうさせたのかを考えましょう。
以前にも、どなたかへの投稿で述べたことですが「自分を棚上げにした哲学」「自分を不問に付す哲学」「他者を下げ降ろして自分を良いほうに置くための哲学」などはありません。それはナルシストの言い訳文学です。或いはロゴスを気取った一種の自慰活動です。こういうことをやり続けたあげく外部の人たちから「キ×××部落」なる評価を下され「マ×掻き猿」なる仇名を戴くに至った「文学男」もおりました。笑止千万のカテゴリー違いというものでしょう。

哲学、心理学、文学、はては数学に至るまで、その愛好やまないはずの学問を自らの手で汚していることに気づかない輩が多いことです。信仰でも宗教でも同様の事態なんじゃないかと思っています。これらのことについては私自身も今まで相当溜め込んでしまっているものがあります。そのせいで長い投稿文に(笑)

ソクラテスは飽くまでも、頑なな者に「気づかせた」側だったはずですが、その対話術なるものは問えば問うほど他者の何かを奪い或いは、より過ちを促進させ(究極が毒をあおがせるという刑罰による殺人)そのことに自分で気づくこともできなかった愚者だったのでしょうか。だから毒をあおるにふさわしかったというのでしょうか。
自分についての認識も甚だ覚束ない頑ななナルシストが、敢えて毒をあおるどころか他者に毒をあおがせ、そして己は生き残ろうとする、このような者を「ソクラテスの再来」と呼べというなら泉下のソクラテスの思いは如何に、と呆れます。
コルベ神父は、その身と引き換えに一人の男の命を救ったそうですが、命を救われた側の人の思いもまた、いかがなものであったかと思います。これを思い出すとき、いつも共に思い出すのは、杉原千畝氏のことです。

>相手に悪意があったり、某反日国家のように相手が話を聞かないような状況なら対話なんて無理でしょうね。

仰るとおりです。まず自分の足元を顧みることです。それができないうちは本当の対話は不可能です。
しかし恐らく自分自身を省みるということは、ある種の人たちにとっては自殺行為に等しいのでしょうか。

単に適当な妥協点を探り合って「じゃ、とりあえず、そういうことで」というところに落ち着きたいのであれば、それでもいいと思いますが、それって哲学なんでしょうか?血を流すようなことでもないと思います。まして、その妥協点なるものが飽くまで一方の側に傾けるために、一方の側が無理をして譲歩することを、「対話」などと呼ぶ必要もないと思います。
そもそも何のための「妥協点」か、本当のところ、それを必要としているのは誰なのか?そこを問うべきでしょう。
個人の「マイルール」の押し付けなんてマッピラですね。

>対話せずにどうやって解決するんだろうと

解決すべき問題が、誰の問題なのかということ。その問題を解決しないと困るのは、はたして誰なのかということ。投影や同一視をやりがちな傾向が強い人は、ここを混同し易いです。
シンプルに考えれば、居直った態度のままで「対話」を要求(強要)したって、よくよく、ご奇特な人でもなければフラレるのが当然でしょう、相手は全く困っていないのだから。
困る、と思うほうが頭を下げればよいのです。それができないから要らぬ問題が膠着します。

また、重大な差し迫ったことでもないのでしたら距離を置くほうがよいこともあります。
もしも質問者さまが本当に解決しないと相手のためにも大変なことになると危ぶまれるのであれば、誠意をもって説得に努めてください。幼い子どもとか判断能力に問題が大きい人などは、保護者の責任が重いですから、相手が拒否しようが、有無を言わせず正さなければならないこともあるでしょう。
それが誰よりも自分自身のために必要なことであるのなら、自分が良いほうにまわって恩着せがましいことを言わないことです。恨まれるだけです。

その「対話」が誰にとって、何のため必要なことなのかを自覚すれば、自ずととるべき態度は知れるでしょう。
誰にとって何のため、このへんを明らかにすることが、かえって相手を追い詰めることになるのなら、私は敢えてしません。
問題の重要性、切迫度等を勘案したうえで本当の意味での「御自分のための」判断をなさってください。
                   
「解釈が目指すのは一致ではなく理解である」D.デイヴィッドソン

あなた寄りの一致を焦るとき暴力が生じる。
解釈不可能となり理解は永遠にあり得ない。
無関心を恐れる人は、また無理解を恐れている。
このような人が自分寄りの一致を焦るあまり暴力へと走る。
解釈不可能となり理解は永遠にあり得ない。
                   
お礼コメント
noname#73004
話が出来るかだけでなく、どのように話すかも重要になってきますよね。上手な話し方とは何か。
個々人の思索能力の深度、傾向性、解釈能力の問題があるため、分かり合えない人というものがあるんですか。
またはデリカシーもかな。

相手の対話の態度を攻撃的だと解釈されるとどうしようもないですね。悲しいですが。
私は無関心が「拒否」であると感じてしまう人間ですが、やはり原因は追究します。
ここで相手に話を聞く気が無ければ、追求してもそれで終わってしまうのではないでしょうか。
あの言い方が不快だったんだな、じゃあ謝ろう、でも着信は拒否されてる、目を合わせてもそっぽを向かれる…という状況であれば。

相手とケンカになったのなら、何かしらの原因があります。それがお互いさまでなければ、どちらかが何か譲歩しなければならない気がします。
「この前のあの言い方は不快だった」「ごめん、今度から気をつける」という風に。
そこが理不尽であれば合わせる事はないでしょうね。

対話は誰の為かは、私はお互いのためだと思うのですが、相手がそれを望んでいないのなら自分のためだと言えると思います。

ありがとうございます。
投稿日時:2008/11/04 21:39
  • 回答No.3

ベストアンサー率 35% (988/2761)

>何故拒否するんでしょうか。

理解を相手に期待するのを放棄した時。
解決を望んでいないから。
利益を求めていないから。


例えば、上下関係や利益がからむ場合、むちゃくちゃなことも「そうですか」と聞き続けないと、「もうお前んとこと 取引してやらないぞ」となる。


そんな利害関係が無い相手とは、最初から絆など無いので、簡単に切れるし、相手は関係を絶たれるだけのことを自覚無しにしでかしたお馬鹿さんで、私はそんなお馬鹿さんを手元においていきたいと思わない。

また騒動起こして振り回され苦痛を感じるのがイヤだから。


馬鹿の壁を書いた人には、人と人との間には肥えられない高い壁が立ちはだかっており、それを馬鹿の壁と言う と言っている。

相手が馬鹿だってことじゃなくて、お互いが理解できないでいる状況を壁って言うわけです。


どうして相手はそう思うのか、話を聞くうちに、たくさんの矛盾が見えてくる。
たくさん矛盾がありBに答えはなるが、相手は簡単な質問だと決まってAと答える。

で、ソクラテスは「答えはAなんじゃないか」って思っても、直接結果を先に言わず、相手に答えさせる。
相手は「その質問の答えはBだ」って答える。
一般常識のBだと答えるわけです。

で、例えを変えて多数変えて相手に質問すると、相手は最終的にAって答えた。

「最初あなたはBだって答えましたが、今の例えだとAって言いましたよね。つまりあなたは最初の答えもAだって思っている。」って相手の一般常識を疑いもなく盲信して、誤っていたことを指摘した。

じっくり考えるとAだって答えが導かれ、一般常識は間違い ってなるわけで、ソクラテスは最初からAだって思っており、一般の人の内にもAという答えが内在しており、これを真理じゃないかと思ったわけです。


でもシャットアウトされちゃった。

対話は、知識人たちが間違えていることを露呈させる結果になったので、自尊心を傷つけられたのか、名誉を汚されたと思ったのか、知識人たちはソクラテスを処刑することで、地位の安定を図った。


というわけで、討論したり有意義な対話をするためには、打たれ強い相手とか、名誉に執着していない相手とか、真理を探求することに労苦を惜しまない人とか、そういう人と対話した方がいい。

たいがいは「俺は胸の大きな女がいい」「俺は胸の小さな女がいい」って内容程度じゃないかと。
趣味嗜好の問題なので、これに真理など無い。
いつまでも平行線をたどる。


趣味趣向のひとつが主義とか宗教。
で、たまに宗教を布教する人にとっつかまる。
「私は神の愛を知りいやされました」とかのろけをさんざん聞かされると疲れる。

「私の彼ってすごくいい人。この前こんなプレゼントをしてくれて。私って愛されているのよね。」

のろけだ・・・。
「そりゃ よござんしたね」で終わらない。
お前も彼の愛を知れと迫ってくる。

「待った! あんたは彼の肉体におぼれるかもしれないが、私はいいよ」

『そんなこと言わず 一度寝てみなさいよ 天国にいけちゃうんだから』

「いいえ 結構」

『食わず嫌いはよくないわ。 ビデオを見に来て、説教を聴きにきて そうしないと あなたは地獄に落ちちゃうから』

「私が地獄に落ちようと あなたには関係ないでしょ」

『いいえ 私の使命はなるべく多くの人を彼のベッドに連れて行くことなの』

「あんたの使命だかなんかのために なんで私が犠牲にならにゃならん。 あんたが彼と寝て勝手に悶絶してればいいでしょ。彼の種をこの世にばら撒いて彼の帝国にしたい? カルトだぁぁ 助けて~」

という対話は信者とはできません。
一方的に話されて、間が無いから。

で、とっつかまると、足が痛いこっちの身もいたわる様子もなく、恍惚の表情でのろけを聞かされるので、最初が肝心。

『神の愛を伝えに・・・』

「私 宗教 嫌いなんです!!」

これ着信拒否と同じ効果。
なんで着信拒否にするか?
だって対話にならないから。
対話させてくれないから。
一方的にのろけ話を聞かされ、最後にのろけ話が書かれた小冊子渡され、相手は話したぞという幸福感に満たされ去っていくから。


こういう場合、最初から着信拒否にしちゃ いけないですか?

ここでも宗教について質問があれば返信しますが、少なくともこっちも言えるじゃないですか。
相手の認識のズレを。

で、つっこみいれて間違いであることを指摘すると、途端に着信拒否、 つまり 質問が締め切られることもある。 笑

まあ 自己防衛なわけで、撤退はかまいませんが。
お礼コメント
noname#73004
解決を望んでいない、絆なんて無いのは悲しいですね。
一方がなんとも思ってなくても、一方は大事な縁だと思っているかもしれない。
一方が大事な縁だと思っていても、一方はなんとも思っていないかもしれない。
対話にならないなら仕方ないんでしょうね。まともに話をする気の無い人は、私の経験上もいました。
誰々が話を聞いてくれなくなったとか、メールも電話も通じない、何故だ、どうしよう…と言っている人は、
少なくとも話を聞く気はあるのに、一方的にコミュニケーションを放棄された人のような気がします。
ありがとうございます。

この質問はいきなり撤退することは無いと思います。
投稿日時:2008/11/03 18:23
  • 回答No.2

ベストアンサー率 35% (28/80)

ケンカしたときなど一時的な感情の高ぶりのために、対話をして解決などできない状態の時もあると思います。

よく時間が解決するといいますが、時間が解決させてくれることなどはないです。
お互いの気持ちが落ち着いたら、また対話するほうが良いです。

時間が解決するというのはお互いにいつかは死ぬわけですから、その時に問題がなくなることを言っているにすぎません。
時間が解決するとは問題の存在を否定することであり、お互いの存在を認めないことであります。

ですのでどちらかが問題に思っているのでしたら何の解決もないものです。
対話を拒否し無視する相手をさらに恨み、問題をさらに悪化させて犯罪が起こる場合もあるかもしれません。

解決させたいのなら無視する相手の存在を否定するしかありませんよ。 
お礼コメント
noname#73004
そうですね。
頭を冷やすために3、4日くらい拒否していた、という体験談を、調べていた時に見ました。
相手がいる以上は対話しないと解決しないというのは同感です。
ただ「問題がある状態」を生活する上での支障と定義するなら、心が通じたも、起きてることを否定したも同じに考えられるかもしれません。
対話しない人はそんなタイプだろうか。
ありがとうございます。
投稿日時:2008/11/03 18:07
  • 回答No.1
話せば分かる。

というのは【大間違い】です。

別に付き合う気が無い人、仲直りする必要が無い人、などと無理に話す必要はありません。

たとえ聞く気があっても同じです。
お礼コメント
noname#73004
「話せば分かる」は日本的な考えだがそれは通じない、というようなことを井沢元彦さんという作家が書いていました。
話をしても通じないことはありますよね。友情が壊れたなんて話も聞くし。。
話せばお互いに妥協点も見つかるんじゃないか、、と思ってしまうんですよ。ケンカしたくしてしてるわけじゃない人もいるし。
でも、通じない人がいれば、通じる人はそれ以上にいますね。
人生に不要と言ってしまえばそうなのかもしれません。

ありがとうございます。
投稿日時:2008/11/02 01:18
結果を報告する
このQ&Aにはまだコメントがありません。
あなたの思ったこと、知っていることをここにコメントしてみましょう。
AIエージェント「あい」

こんにちは。AIエージェントの「あい」です。
あなたの悩みに、OKWAVE 3,600万件のQ&Aを分析して最適な回答をご提案します。

関連するQ&A

その他の関連するQ&Aをキーワードで探す

ピックアップ

ページ先頭へ