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美は社会に強力な作用を起こしえるでしょうか?
美といってもさまざまな定義があると思います。 すでにあなたが美に対して持っている概念でお答えください。 強力な作用ではなくても社会に何かしら与えるであろうと思うことがあればぜひお答えください。
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>ん~、難しいですね、鈍くてすみません。 確かに反作用はないですが、どうもしっくりこない…。 もしかしたらあなたの価値観なので僕には少し解し難いようです> 反作用というのは結果相対的というより相対比に近くてただの相対とは訳が違うわけです、ただの相対は認識だったりするわけですがなにかの優劣を比べるということによって美を形成する場合反作用ですよね? そうでない場合ということだと思ってください。 テストの例で言うと100点取った人が2人居たとしましょう その100点を取ることに対して独りは周りとの相対比で価値を見出す人ともう独りは自分の得意教科で100点が取れたことに幸福を感じるのとの違いだと思ってください。 >少し僕が絶対的な美を買い被り過ぎているかもしれませんが。 ぜひどのようなものがありますでしょうか?> これは個人と外界との連動によって発生しますので僕が述べたところで「そんなこと無い」と言われればそれまでなのでなんともいえません。
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- lissanova
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はじめまして、こんにちは。 私も美について考えています。 私は、美は愛のようなものなのではないかなと考えています。 自然でも、芸術でも、人でも、それを尊び慈しむ愛情があるからこそ、 それらが美と成り得るのだと思います。 愛を体現化したものが美という感じでしょうか。 愛情以外にも、情熱、執念も美を創り出す力があると思います。 丁寧に丹精込めて作られたものや、 自分自身を愛して日々磨いている人を美しいと感じるように。 そういった愛情が込められて出来上がったたものは、 人の琴線に触れて感動を与えることができると思いますし、 その感動は社会に影響を与えることができると思います。 キング牧師などのスピーチを聞いた時、 私は心を震わされますし、彼自身と彼の伝えたい!という姿勢に、 美と感動、そして情熱を感じます。 上で書かせて頂いたことは、その美を愛でる側にも当てはまると思います。 いかに自分が“美”だと感じてるものに愛を注ぎこめるかによって、 その美のさらなる価値や作用が異なってくると思います。 そして、美であったものが美で無くなる時は、 それに愛情が注がれなくなった時だと思います。 例えば、美しい自然が守られなくなったら自然破壊が進んで、 とても美しい自然とは呼べなくなってしまいますよね。 そういう時は美が崩れさる時だと思います。 人はみんな愛が無いと心から幸せに生きていけないと思います。 愛を込められたものが体現化されたものが美だとすると、 美を追い求めることは、愛を求めることと同じような気がします。 愛を感じて生きたいから、美を追い求め、 美に心奪われてしまうものかなぁーなんて考えたりしてます。
お礼
回答ありがとうございます。 美は愛を具現化したものですか、なるほどわかりました。
- arayata333
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ANO19への そちらのコメントの中にゴッホの美を 絶対美という概念で仮定してのお話がありましたが、 仮定でそれだけゴッホの美や、絶対美の概念を論じれるのは、やはり現代人の「新人類」の中の何がしかの感性の芽生えを意味するものと思いました。 実は私自身が ゴッホの美の世界に気がついた「いきさつ」が、その論理とかかわるような形でしたので、 すこし描写しておきます。 たしか34歳の頃だったのですが、私は一枚のゴッホの絵 “手前のほうは畑の垣根があり奥の方は、丘のような山の稜線の連なりのある絵”(名前は知りません。)の前に釘付けになっていました。 え、 これがゴッホの絵の世界だったのか!と始めて知った瞬間でした。 今までは ただ単にミレーの絵の良さを油絵にも写しとろうとした後があるとか、ジャガイモのある風景は あの跳ね橋の色合いの明るさに通じる心の明るさを暗い室内の中にも精神として写し取ってるとか、 日本の浮世絵の感性を外国人なりに油絵にも写し取ろうとしているな、とか、たしかにそのタッチには情熱がある、とかとか いろいろ聞いていたことを、自分なりに解ったつもりになっていただけでしたが、 そのすばらしい!と感じた感覚は それまでの過去の自分の中での評価を1点とするならば、1000点以上というか、測ることなんてなるほど出来ないところの巨大としか言いようのない差のものだったのです。 まさに、そちらの言われているとおりの感覚ですね。 * それと、醜悪美との関わりや、 その説明のあたり、 またそれもまた実際にはまだ見たことが無い。 というあたりは、 よく解りませんでしたが、 もし、それでもそれを期待しているとしたら、 それは何かの占い師のような感性なのかもしれませんね(^^)。 * 私の方では 学ぶところがありました。 ふと気がついたことがあるのです。 其の「絶対美」さへ、確信を持てるならば、 その対極にあたるような中にすら たとえば線のタッチ自体は失わずの表現できるだろうし、 確信があるほどに、表現の幅はありとあらゆる可能性の広がりがあるはずだ。というあたりの気づきです。 これは回答者である私の方が 学ばせていただきました。 ありがとうございます(^^)。 参考になりました。 * しかし、いずれにせよ、私の考える“価値的な方向で強力な作用力を持った美”の世界には、 其の「絶対美」の世界とかかわる何かが(絵ならタッチや線の深さ、 歌なら音声、演劇なら眼差し、 舞踊ならば手の表情とかの世界に現れる何か)が、 深くシンクロしている必要があるのですが、 それを 解りやすく表現しようとすると、考えてみたらとても長くなってしまいます。 そこで、この場では、その絶対美の要素としては、2つの方向のそれにいたる道があり、それはバランスよく相互交流しながら発展するという考えを簡単に書いておくにとどめたいと思います。 * イ、一つは感じる側の 感性の世界自体の基準を高める方向です。 おもしろいのは、美人とブスの一般感覚ですが、これはかなり多くの人の間に(其の時代時代で多少の差はあっても)共通項の多い感覚でありつつ、 これはその美の感性の浅さをも意味してしまっています。 わたしも、これは59歳ぐらいまではほんとうには解らなかったのですが、 東洋医学の原点となった仁の思想がそれによってはぐくまれたところの気脈の世界から女性美とかが見えるようになってみれば、 最大限の一般的ブスも、最大限の一般感覚での美女の美よりはるかに感動的に美しくも見える世界があることを知ったからです。 それまでも、いろいろそのへんは考えましたが おぼろげにしか解らなかったことです。 同じように、この感じる側のほうの感性が、大自然の美に対しても明らかに1000と1の違いを生み出します。 では何か制作された美についてはどうなのかと言うと、 これが複雑な世界となっています。 しかし、もちろん、総合的にはこの感性の問題は大きいはずです。 感性教育、または感性の発達の道筋の問題です。 ロ、 もう一つは、たとえば都会に暮らしてる人と、高原や森に暮らしてる人達との感性の差、自然の美に触れる機会の差の問題と、感受性豊かな子供のうちにそれらの自然な環境に触れることができる環境の問題です。 これには、単なる感性教育の問題を超えた教育改革が必要だと思っています。 基礎教育の段階を より早くクリアーするシステムや方法を考え出し、そのユトリとともに、学校を学校というより遊校にしてしまう教育改革です。 そこには、主にこれからの写真藝術の世界が役に立ちます。 また学校だけでなくホテルとかその他の宿泊所全体がホームステイ斡旋も含めた“子供たちが出きる限り世界中を旅できるように、また世界中を写真に写してもこれるようにし、それを大人たちが応援するというシステム”を創っていくということです。 何億光年のはるかかなたからやってきた星の光を、私たちは「へーすごいな」ぐらいにしか思えなかったりするところ、私の知ってる人でグライダーと物理が得意な人(^^)がいて、 その人は 普段も星までの空間の距離のすごさを計算だけでなく実際の空間として感じられるようになったのだと言います。( 残念ながら故人ですが。) 感性を磨くのは、もちろん、遊びも重要です。 そしてその遊びが これからは音楽藝術が神の創った音との出会いから生まれたように、 写真をとおして、子供たちが光と大地との出会いからその藝術を深め高めていく時代だと思うのです。 詳しくは 書けませんが こうした大改革とともにある美の革命には、人の心を優しくし、思いやりの深い人たちを増やすと言う意味での社会的な強力な影響があると私は思っているのです。 私にはなのかもしれませんが、 それ抜きに資本主義が変わるとはあまり思えないのです。 すみません、かなり大雑把になってしまいましたが以上です。
お礼
遊びというのは確かに重要だと思いますね。 しかし、絶対美の問題はやはりまだまだ難しい所です。 もっと深く理解しなくてはならないようです。
- arayata333
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ある意味 奇跡の星に私たちは生まれています。 奇跡の大地に生きています。 地球は、宇宙にまれな水という物質が定着した大地を持っています。 それが太陽の光に、 空のチリを青に海にも映しつつ、その青い水という不思議な物質は、それが蒸気ともなり雲ともなり、 青空に白くたなびき、夕にはその全体が赤くそまり、 その間から星の光が 一つ また一つと見えてきたりします。 青い水にもそれは映ります。 青と対比的は白い雲は やがて大地に雨をふらし、 起伏のある大地に川たちを作ります。 小川がうまれ大河が生まれ、そして川たちのせせらぎの音もうまれ、 大海の潮鳴りの響きは、そうした川たちの営みがつくりだした豊かな森の木々の風の音と重なります。 そこに小鳥達の声が混ざるとリズムの根源が奏でられ始まるかのようです。 が、こうした大自然の美は、人間以前には そこにあっても、なんの意味も「美」も無いものだったわけです。 前回(ANO16で)、私たち人間が森に住んでいた頃の話を書きましたが、 それ以前に猿から人間に進化した時点で、 人間は「美」を感じた、宇宙の歴史の中で始めて 動物の脳が「自他を見つめ反省し進歩する能力」を宿した時点で、「美」を感じる感性も 言葉以前から生まれていたという推理が私の中にはかなり鮮明にあります。 このことの論証となるような理論の展開をここではするつもりはありませんが、人間はこの「美を感じる心」として生まれ「美を感じる心」のふるさとに再び帰り行くために 生きているとさへ言える存在だと私は思っているのです。 五感すべてにおいてです。 言葉によって その「美」が曇らされたと言っても その言葉によって私たちは今度こそ消えることのないゆるぎのない「美を感じる心」に到達してゆけるのですから 文明とは、そのための試練の場という図式もここになりたちます。 大きく大きく言えば こうなります。 そして、この大きな観点を抜かして「美」について語るのはめちゃくちゃな論議の世界となってしまうとも思っています。 * でも、私たち文明人がそれを取り戻すのはなかなか大変です。 現代生活の中で、では、どうしたらその「美を感じる心」を取り戻せるのかというと、 たしかにこれは まさにさまざまなショッキングなほどの方法を試す必要があったりすると私も思っています。 あらゆる方法があるとも言えるのですが、 その中でそちらの言われる「醜悪美」というのは、おもしろいですが、まさに難解ですね(^^)。 歌なら ダミ声とか 都はるみのうなり節というのは、醜悪の中に美をというよりも、 生活観を含んだ声の美という世界です。 ですので醜悪美より簡単です(^^)。 でも、だだの「きれいな声」より、味わいが深かったり 苦労してる人の心により深く癒しを運んでくれたりもするでしょう。 勇気や励ましも受取るでしょう。 本能と結びついた世界に セックスの世界とか裸体美の世界とかもありこの美醜も結構複雑です。 でもここにはその醜悪美というもののほんものも追求できそうです。 ロックの最初にエネルギーとかには、一部明らかにそのシャウトのようなものがあったりします。 絵では シュールレアリスム(超現実主義)の幻想的な「夢」の中のようなひん曲がったような絵の中に、 本物も見たことがあります。 でも、これも一握りのもので、全面的な開花とは成っていません。 ただ、シュールレアリスムで本物であろうとするのは難しいですが、 セックスの世界とか男女の心の通い合いの世界の中ですと、 これは別にわざと醜悪を求めるわけではなくても 美との融合の世界はかなり考えられます。 簡単ではないですけどね。 また、 舞踏という日本の特殊な踊りの中で醜悪美に相当するような世界を追及した跡はありますが、 これは醜悪の表現のみとなってしまってむしろ魅力を失ってしまっていたりします。 創始者の舞踏がまさに醜悪でありつつ詩的な美を持っていたのに残念です。 非常に魅力的な力の可能性を秘めていました。 このへんを歌でうまく 魅力的に出来たらどうかなとも思いますが、 これこそ難しそうですね。 北野武の歌は、かすれていたりもしますが、彼の性格のようにしっかりとその声の質を見つめて ちゃんとしっかりした歌に仕上げています。 それこそ魅力的ですが、 これも醜悪でありつつ美でもあるというような仕上げかたではなく、むしろ新たな歌の美の魅力というべきところです。 ヒントは 彼の声にありそうですけどね。 もしよろしければ、 そちらの「醜悪美」についての 難解な定義(^^)をもう少し書いてみてください。 * ダイナミックな地点からも さまざまな方法が現代ではあると思っていますが でも、それはとても いっぺんには書けません。 *、 うまく、求めておられる希求するところにたどり着くといいのですが、あくまで それを求めつつ、対話形式で回答を進めていきたいと思っています。 まだ、広義の、“言葉にも思想にも人間の生き方とかにも通じる「美」”の定義のあたりは、私のほうからは書いていませんが、 機会が与えられましたら次にはそのへんを 書いてみたいとも思っています。 今回の回答は以上となります。
お礼
それ自体で美しいのだろうから基準を要しない、何かを見たり聞いたりするとき普通は基準というものがあるはず、そして基準と比べてみてきれい、醜い、かわいい、ブサイク、カッコイイなどと感じると思います。 例えば、ゴッホの絵を絶対的な美と仮定しましょう。 ゴッホの絵自体は物体としては変わるが、それ自体は誰かが何か絵の具で付け足したわけではなくいつになっても変わらず、ゴッホの絵であり絶対的な美なわけです。 ですが時代とともに価値観は変わり、基準も変わる。 ということは絶対的なわけですから美自体は何も変わらず、色あせずで、しかしそれを見る側の偏見によってきれいな絵だったり下手な絵、不愉快な絵になりうるということだと思います。 ゴッホの絵は今でこそ素晴らしい、人から評価されている絵のようですがそれはゴッホが死んでからの社会(人)の評価です。 生きていた頃、売れた絵はたったの1枚だったそうです。それが今じゃいうまでもありませんね。 つまり、あくまで仮定ですが絶対的な美であるゴッホの絵を見る側が一切他人の評価を捨てて見なければ現れてこないものが絶対的な美なのではないかなと思います。 ですから、受け手側にも問題がある。それ自体で何も変わらない美しさなわけですから見る側にも問題がある。 写真や表面ばかりできれい、素晴らしいなどと思っていては本当にそれがどんなものかは見抜けないということになるのではないでしょうか。 おそらく、花=きれい(かわいい、美しいなど)というような記号と同じようなものでしょう。 一見、醜悪だ(多分時代の価値基準や自分の価値基準と照らし合わせて見て)、しかし美しい(ここが多分絶対的)ということではないのだろうかと思います。 なので実例を挙げるのは中々厳しいんですね。 実際、上の話は過程の段階で僕も実物を見たことありませんし。 多分、色々な実例があると思うんですが、それが一体どの程度の影響力で、いつ現れて、どんなものかはとても考えるのが困難ですね。 ここが一番追求したい点なのですが、中々ですね。
補足
>実際、上の話は過程の段階で僕も実物を見たことありませんし。 過程のところは仮定とよんでください。変換ミスです。
>自然を破壊するような方法で進化をやめるとしたら絶対的な美といえると思います。> というのは自然を(できるだけ)破壊しない方法という意味です。 例えば車の排気ガスを減らすとかエネルギーを資源以外方法を使うとか 進化の方法が自然を破壊する方法でしか得れないのであれば自然である人間は自らを死に招くわけであってまた自然の立場に立って物事を考えることができないという意味では(僕の価値観では)ある種美ではないと感じるわけです。 ですからそういう意味で更正ということです。 >正直no15ではわからなかったというか疑問に思ったんですが、自己安定自体は絶対的としてそれは美といえるのか?> これは僕の価値観です。 >それと自己安定に使われる美はやはり相対的なものではないだろうか?> たしかに過程は相対的ですね しかし自己安定そのものとしては相対とは言いがたいのではないかと思うわけです。 また変動は相対的ではないのか?という感じもするので述べますが 確かに心理構造と美の連携による心的変動ですのでそういう意味では相対的といってもいいかもしれませんがあくまで心的変動が酷の反作用による形成であるかどうかという意味です。
お礼
ん~、難しいですね、鈍くてすみません。 確かに反作用はないですが、どうもしっくりこない…。 もしかしたらあなたの価値観なので僕には少し解し難いようです。 しかし、おっしゃっていることは筋が通っていますのでその辺りは全然問題なくわかりました。 それよりも気になっているのは自己変動の美の方です。 >心を動かされる絶対的な美に実はわれわれはよく浸っているわけです。 実はわれわれはよく浸かっている?ここがとても気になってしまって。 「それ自体で心を動かす」というなら、けっこう強烈なもののような気がしますが、感動といっても色々ありますからね。 人生すら変える感動もアレば、悲しい物語を見たり聞いたりして涙ながして終わりなんて空虚なものもありますのでね。 そもそも感動という言葉はたやすい表現ではないのかもしれない。 これは少し僕が絶対的な美を買い被り過ぎているかもしれませんが。 ぜひどのようなものがありますでしょうか?ここホント気になります。 実例引っ張ってくるのはコレホント難しいと思います。 かなりの難題かもしれませんが、お時間ありましたらお願いします。
たびたび申し訳ありません。 相対的な美があるんだから絶対的な美はあります。 間違いなくあります。 ただどう表現していいかわからなかったもので書けなかったんですが ようやく書けそうです。 つまりno15でも書きましたが自己変動自己安定の美ということです。 心を動かされる絶対的な美に実はわれわれはよく浸っているわけです。 しかしそれを劣(醜)を貶したり劣(醜)の反動で美を表現したりだとかそのような場合相対的ということです。 つまり【反作用】というはなしです。 つまり⇔これです。 この場合は相対的な美です。 この場合結果的に【醜がなければ美がなりたたない】とことですから、醜がなくなれば同時に美が消滅します。 しかし絶対的な美というのは心を動かされる美ということです、つまり絶対的であり【反作用で成り立つのではない】ということです。 この場合絶対と言えると思います、また自己安定の場合も同じく絶対の美ということになります、また安定と変動はつねに混合してるということになると思います。
お礼
なるほど、つまり「かわいい」「きれい」「カッコイイ」など標準と比べた美ではなく、それだけで美が成り立っているということですね。 それは大変素晴らしいですね、絶対的な美。 しかし、正直no15ではわからなかったというか疑問に思ったんですが、自己安定自体は絶対的としてそれは美といえるのか?それと自己安定に使われる美はやはり相対的なものではないだろうか? 宗教の例はとてもわかりやすかったんですが、更正という意味合いで自然破壊の例がちょっとわかりづらくて…。 >自然破壊に対して自然を破壊することをやめようと試みてその代わり自然を回復して ここまでは普通にわかります。 (自然を破壊するような方法で進化をやめるとしたら絶対的な美といえる) ↑上の文章からのつながりがちょっとわかりづらかったです、進化をやめる?と思いました。 この問題はとても難しいのでわかったとしても伝えるのもとても難しいと思います。 お時間ありましたらもう一度お答えください。
- arayata333
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ANO14のarayata333です。 ごめんなさい。 「哲学は“解りやすい表現を”という点ももっとしっかり哲学すべき時なのでは」という考えを持っているはずの私自身が、ふと、最近かなり解りにくい文章をふと書いてしまっています。 気おつけます。(ーー); コメントをいただき、ご質問の裏の誠実なお心が伝わってきました。 ありがとうございました。 そこでさらにもう一つつっこんで質問させていただきたいのですが、その前に * でも その前に すこしだけ 例の解りにくい文となってしまったあたりを説明します。 「二つの融合の世界をとりもどした大人に 」の、その「二つ」とは何かという説明がきちっと書かれていませんでしたね。 豊かで新鮮な感受性を昔の素朴な人たちの多くの人は持っていたところ、(ジャズ音楽の発展によって、アフリカの音楽が見直されてきましたが、 その前までは昔の森の中の人たちは土人というような呼ばれ方で 人間としての豊かな感受性が私たち文明人よりはるかに劣っているともかなり大勢の人に思われてもきました。 ところが ジャズの専門家が彼らの音楽を聴くと、その単調な部分は馬鹿な証拠ではなく、むしろ「心の統一された姿」として、複雑で即興的な部分はただの野蛮なでたらめではなく、むしろ「それだ豊かな生活感や感性が スイングしあって調和している姿」として理解できるようになってきたのです。 音楽美と関わる解りやすい例なので付け加えておきました。) それが、逆に、人間がとうとう言葉を獲得し、それによってさらに豊かに成長してゆける道具を手に入れたにもかかわらず、 それこそ機械文明は進歩したのに、またさまざまな哲学や科学を発展させたのに、 また豊かな生活まで多くの人が手に入れたのにもかかわらず、 かえって頭が複雑になり、きちっと整理できなくなり、心の世界の新鮮な感受性の世界は、かえって失われていってしまった。 文明の歴史(とくに言葉による文化の発展)には、 功罪二つの側面があるという図式、 ここまで解りましたでしょうか? けれども、もしここに言葉というものが、しっかりした明晰性のある確固とした哲学に昇華されるのならば、またその土台の上での表現の進化が起こるならば、 私たちの理性や言葉の世界は 私たちの感受性の世界を邪魔するものとはならないはず。 二つのことの一つは、この哲学の総合的な整理の世界のことです。 あるいは言い直すならば、 「中途半端ではなく総合的に人生を考え切る」ということです。 一見現代では不可能にも思えてしまうことですが、方法はあります。 文明人が言葉をすて科学的思考能力をすて、その面を退化させることで感受性をとりもどす、という原始回帰はもはや不可能なのですが、 前進することにはその「希望」があるということです。 しかも、私たちは「美」を通して 再び森の時代の感性を取り戻すことも可能、子供の頃に大自然に触れた体験のある人なら、あの新鮮な感動をとりもどしたいと思うでしょうが、音楽をとおし、絵をとおし、歌をとおし、ダンスの進化をとおし、 またはいよいよ始まる新しい写真文化をとおし、あるいは情報化時代の映像の美の可能性の世界を通じ、 それは充分とりもどせますよ。 そのはずですよ。 とう前提が その「二つの融合の世界」ということの裏にはあったわけです。 私自身の頭の中には はるか昔に考え終わってたことなので ふとこうした説明抜きの言葉で文章が出てきてしまったのでしょうが、 ここの哲学カテに参加する以前には あまりなかった失敗だと思うのですが( あ 人のせいにしちゃいけないですよね^^) 気おつけます。 つまり、1、子供のように無邪気でくったくのない新鮮な感動の世界と、2、もう矛盾の無いゆるぎない哲学の世界の その1、2の融合された世界を 取り戻すというよりも、 今こそ作り上げてゆくべく「希望」を持って前進しよう。 という哲学を 私は持っているということなんです。 おおよそは、解っていただけたかと思います。 * では、どうすればいいのか という肝心な点に深入りしたい気持ちはありますが、 それはまた機会がありましたらということにして、 ここで補足要求質問の第2弾となります(^^)。 * いただいたコメントに対して、大きくは3つの質問が浮かびますが、 まずは、一つにしぼります。 ★ >美は直接人や社会を動かす力となりえて< というふうに言い切っておられますが、 それはそんなに簡単なことでしょうか? たとえば、 西洋のクラッシック音楽は、時には体の震えるような感動の涙を流させる力があります。 でもなんでそんな音楽を生み出した西洋が同時にナチズムにも陥ってしまったのでしょう。 戦争を止めることが出来なかったのでしょう。 (権力や暴力の方の力の方が大きかったのであれば、「美」の力はその程度のものだったということにも、なります。) そのまえに、たとえばゴッホの絵のほんとうのすばらしさを大勢の人が知っているでしょうか? 解説で「そんなものなのかなあ」と思う程度なら、それが行動にむすびつくとはあまり考えられないのですが? “「美」の無意識的な影響”の世界の事も考えておられるようですが、 ともかくその無意識の力の世界のことにしても、 とても簡単な世界ではないと思うのですが、、 簡単に言い切ってしまう気持ちの裏側のあたり、この社会をなんとかしたいというあがきのような何かがあるような気がしますが、そのへんを知りたくなったのです。 * 今回は以上です。 もしよろしければ 補足質問等へのコメント等、よろしくお願いいたします。
お礼
「二つの融合の世界」というのは大体わかりました。 >美は直接人や社会を動かす力となりえて< ここなのですがまだ仮定の段階です。それともちろんこの問題、いうまでもなく非常に難しい問題です。 >西洋のクラッシック…(略)…争を止めることが出来なかったのでしょう。 歴史を見ると文化というのは戦争に限らず何かと何かのぶつかりあいで大きく飛躍しています。 既存の制度に反逆することで価値の転換を図ってきた(新しい価値を見出してきた)わけです。 ぶつかりあいが起こるのは必然だと思います。 もっとも最近の戦争はかなりたちが悪く、効率的な破壊を繰り返してばかりいるので何にもなくなっちゃいそうなくらいの凄まじさですけど。 僕は絵や音楽だけでなく言葉、思想、人間自体やその生き方なども美になりうると思います。 それと特に社会を何とかしたいわけではなく、日々が味気ないのでこの煮え切らない感じを何とかユニークに料理できないものかといった具合でしょうか。
>何か絶対的な美はあってそれが強烈な力になりうるんじゃないだろうかと個人的に思っていた私にとって上のほうの意見はちょっとへこみました↓> 絶対的な美ですか その場合自己安定の美というのは絶対的ですね。 例えば自分は心理的にAを美としてBを劣(醜)としていて しかしこのままだと自己安定を図れないが故にBに美しさを求めるというのであれば絶対的と言えると思います。 つまり美と醜という感じに区分化をしたくないが故に醜を美にするというのは絶対的だろうと思います。 例えば自然破壊に対して自然を破壊することをやめようと試みてその代わり自然を回復して自然を破壊するような方法で進化をやめるとしたら絶対的な美といえると思います。 つまり更正という意味合いならば絶対的な美としてよいのではないでしょうか? つまり醜の反動で美化するのをやめ安定を目指すという意味合いで美を一時的に必要だと感じる場合それは絶対と言えると思います。 例えば宗教なんかはもともとその効果があったと思います、自分が罪であるという場合安定性を図る目的で神〔美〕を求めるとなるとそれは絶対的な美となると思います、ただそれが行き過ぎて区分化してしまう場合(A美⇔B酷 これを緩和したいB美を求める 行き過ぎた A酷⇔B美)実際もっと複合的である場合が多いと思いますが差別ということになりえるだろうと思います、なので絶対的というのは安定性ということになると思います、もちろんこれは日常よく人が使うもので、自分にない美しさに引かれるというのも一時的には安定性を求めるという意味で絶対なのでしょう、ただ行き過ぎればやはり差別であります。 もちろんそういう意味では絶対的は良いのだと思います、ただ絶対的も人によっては美と酷の差別となる場合がありますので絶対的な美というのはあくまで主観的なものだということです、なので差別目的で絶対的美を求めた場合それはやはり差別であるということです。
お礼
再びの回答、ありがとうございます。 自己安定の美ですか、それがいきすぎると差別がでてくる。 なるほど、わかりました。
- arayata333
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肉体労働者として生きてきてしまった人間ですので、美学とか哲学とかの本は読んでません。 でも、 子供の頃 心身死のふちを何度もさまよったことからも、人間の生涯についていろいろ考え抜いてもきた人間です。 藝術に関しては 結論としてそれ抜きの社会改革は無いという考えにいたっていますので、現在このサイトでの藝術と関わる私にも解りそうな範囲での質問に対しては専門家として回答しています。 最後までその質問意図に対して責任を持つという意味合いの専門家の自覚とういう意味のものです。 結果を何であれ生めばいいというのではなくて、たとえ「出来なくても」よい結果を求めるつよい意志を持つということです。 そのような石にかじりつくような回答をしてゆきますので、しつこいと思ったらいつでも言ってください。 *、 現代社会に強力な作用を起こしえる「美」とは、 昔私たちが森の中に生活していたころ心に見つけたさまざまな新鮮な感受性と森のめぐみ、 太陽の光だったり、木々のゆれだったり、その間から見える夕日そのものだったり、その木々の風の音色だったり、 雨が降ってきた音だったり、 川のせせらぎだったり、海の潮風だったり、 そうした「存在」の贈り物としての存在と、 私たち人間という生物に与えられた感受性という贈り物の存在の融合の世界を、 言葉を獲得することで複雑になってにごってもしまったその融合の世界から、 さらに前に進むことで取り戻す作業が、その「美」の作業の世界というふうに考えています。 キリストの言う「子供のような心の人が天国にはいる」という言葉は、永遠をつらぬく神の言葉なのでしょうが、 それを今現在の文明に当てはめるならば、 ただの子供であってはだめです。 もう一度、こんどこそゆるぎなく新鮮な二つの融合の世界をとりもどした大人になる必要があるということです。 私たちにとってはそれが先決だと思うのです。 さまざまな それと関わる表現ジャンルについて考えてきましたが、もっとも直接的にあてはまるジャンルは、絵と歌と踊りの三つです。 歌と踊りと演劇が あわさればミュージカルだったりしますが、 私が若い頃 フランスの本でミュージカルによる演劇革命についてかかれた分厚い本をチラッと見て、 私が当時疑問だった近代演劇の限界についての答えがそこに書かれていると思い、 私の出る幕じゃないなと思い込んでしまったのが、 その後踊り心の世界のみの求道の世界を歩むこととなってしまった理由です。 せめて その本は読破しておけばよかったですね。 どうやら 真の総合芸術革命は、まだやってきてはいなかったようです。 たしかに美と一言で言えば 範囲は広すぎますが、 この感性の部分の研究が遅れていることの裏に、 セックスと感性の世界の思索の遅れも原因として考えられます。 私の観点からは今、アカデミックな哲学や美学へのたくさんの疑問があります。 たぶんたった61歳の身にて、 ひとり死に物狂いで醜いアヒルのこの状態のまま進んできた私のほうがもしかしたら先に白鳥となっていたのかもしれないような もしかしたら革命となるかもしれないような地点に自分の考えがあるようです。 なにかしら社会に影響を与える というよりも、社会を根底からよい社会にしてゆく基点となるのが そのような意味での「美」の世界だと思っています。 そちらの質問意図を、ここにもう少しあきらかにしていただけないでしょうか? もし何か ここに書きましたこととかみ合うような迷いとかがあることからの質問であるならば、 それにあわせてさらに回答をしていってみたいのですが。
お礼
回答ありがとうございます。 ずばり私の質問意図は美は直接人や社会を動かす力となりえて、それはもしそうなら色々な人に聞いて探ってみよう、です。 ただ単に受け手側が「わぁ、きれい!」だとか「かっこいい!」「かわいいなぁ。」など一時的な感覚にとどまらず、なぜかわからないがとても惹かれるものがあり、それが行動につながるかというような感じです。 なんかわかりづらいですが、権力や暴力とかとは別の力? >もう一度、こんどこそゆるぎなく新鮮な二つの融合の…(略)…うことです。 ここは抽象的ですがおそらく非合理的な部分、本能や夢などともうひとつ合理的な思考の部分のことだと解釈します。 本来人間というのはこの二つが備わっているものだと思われます。 しかし、今の社会はというと生活は効率性や安全性を重視した合理的なルールや義務に縛られてとても機械的で単調になっています。 それが習慣になっていますのでほとんどの人はそのシステムに乗せられて無意識にその単調さに絶望しています。 それからテレビ、ネット、アニメ、ゲームといったメディアにどっぷり浸かり、空想から戻ってこれない人もけっこういるのではないでしょうか、非合理的な部分への逃走です。 もちろん今あげたメディアを空いた時間に「娯楽」としてたしなむ人は大勢います。 しかし、それは所詮圧倒的な社会の合理性を割り切っている日常からの気晴らしにすぎないと思うのです。 最近はもう頑張っても報われないわ、変な事件がおこるわで滅茶苦茶な社会です。 それで、もし今の社会に強烈に作用し、大きく動かすとしたらどちらか一方ではだめ、さらに風景などに感じる自然的な美では弱い、人が直接その二つの人間性を意図して受け手側に提出する強烈な美ということではないでしょうか。 つまり醜悪美は力になりうるかも? かなり自分でも難解な難しいことをかいてしまいましたが、こんなところです。
>なるほどそれに無差別ということはやっぱり何か影響は社会や人に与えていますね。 しかし、ここで次に問題となってくるのはそれが強力なものか?それがどんな作用を引き起こすか?です。 これはかなり難しそうですがお時間ありましたらでいいのでお答えください。> まあ無差別な美はもはや美や醜という価値観はないですね。 だから社会になにか影響を起こすということはありません。 受けて側も発信側も美によって人を差別することがないのですから醜であろうが美でなかろうが社会は受けれいれます。 もっともそうなるともはや美とはいえないだろうと思いますがあえて美と醜いというふうに色分けした場合どうなるかという話ですね。 もう少し 今度は発信側と受けて側ですが、受けて側は自分の受ける感じがいいと思っているんですから、その手の受けて側は自分の心理的に感じが良くなる存在は美であるという評価しているということになると思います。 つまり自分の心的に自己幸福を感じる存在を良しとしているようなものです、つまりこうです 区分化する受けて側:A→感覚→心理的に自己幸福を感ずる→Aは美しい存在だと倒錯する もちろんこれは美人とかでなくても良いわけで :仕事ができる人は【がんばりや】だ:とか(【】の部分は区分化する受けて側によって違う) :ユーモアのある人は【面白い人】だ:などなど つまり人を偏見で見ていてその偏見が発信者側の性質であると勘違いする受けて側ということになると思います。 それでこれが度が行き過ぎると不正優遇や差別社会へ移行する可能性がなくはない。 今度は発信者側ですが発信者側は人から良く見られる方がお得と勘違いしだすようになるのだろうと思います、なので発信者側はそれが中心になりだして自分は特別なのだと勘違いしだすようになるのだと思います。やはりこれはこれで発信者側も偏見であり、区分化して人を偏見の目で見る発信者側の場合は自己高慢な態度へ移行することもあるのかな?と思います。 区分化した偏見の目で見る発信者の場合:区分化した偏見の目で見る受けて側の評価→感覚→お得と感じる→自分もそうなりたいと感じる→それに近い感じの雰囲気を発する。 ということだと思います。
お礼
再びの回答ありがとうございます。 下の方のプロセスの説明がとてもわかりやすかったです。 しかし、何か絶対的な美はあってそれが強烈な力になりうるんじゃないだろうかと個人的に思っていた私にとって上のほうの意見はちょっとへこみました↓
- magga
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<<絶対的というのは誰に対してもということです。少し難しいかもしれませんがお時間がありましたらお答えください。>> とのことですので答えてみますね。 絶対的に誰に対してもですか。。。 「充実感」ですかね。 多くの「充実感」を長時間感じるためには現象の因果関係に逆らって生まれる悪心所(煩悩)でいては、ほとんど逆の苦しい感情、「後悔」や「怒り」「傲慢」「貪り」…に焼かれて悩み苦しむ時間や量のほうが充実感よりも膨大に勝るでしょうから。 因果法則に近い行為によって生まれる善心所(慈悲喜捨・気付きなど…)の心の状態を保つようにすれば、多く長く充実感を感じることが出来ますね。 何を見てもなにを感じても欲や怒りに縛られず、生まれる現象に興味を持つことで「充実感」を持ち、自分の他者の生きとし生けるものの役に立つか気をつけながら身口意の三業の行為をすることによって、役に立っていると言う「充実感」を得る。 煩悩に支配された「充実感」とは比べ物にならないだけの「充実感」を 量質共に得ることが出来、この道を歩めば歩むほど自他の支援も増し、その「充実感」もましていく。 最終的には因果法則に対する無知が破れ心から納得し「なすべきことはなし終えた」と言う最高の「充実感」にいたる。と。 このような考えから「充実感こそ美である」と言っても良いと思いました。 この道を独りが歩めば、周りの生命に多大な影響を与えます。 周りに怒ったり欲張ったり何かに溺れている人がいれば自分が影響を受けるように。その逆の影響が。 しかも役に立つように理性を高めながら行為するのですからその面でも多く影響が有るでしょう。その周りの人もこのような道を歩めばさらに多く影響が広がっていきますね。 人はより多く「充実感」を得られると「思った」行為をすると思います。実際にその行為で多く得られるとは限りませんがね。 そこは理性によるところが大きいですね。 なのでもう一つ「理性こそ美である」ともいえるかもしれません。 その「理性を育む道があったならその道も美である」ともw まとめて書くと 『充実感』『理性』『理性育む道』は美である。 『より多くの充実感を得られる理性を育む道は美である。』 『その道を歩むことは美である』 『歩むもの歩み終えたものは美である』 とごちゃごちゃ書きましたが、誰に対してもどの生命に対しても『充実感』は美だと思いますしその元である『理性』もその『理性育む道』も美だと思います。 もしそうならば『その道を歩むことは美である』し、『歩むもの歩み終えたものは美である』でしょう。 繰り返しになりましたねw 慈悲喜捨自体も美と言えると思います。 「幸福」「悩み苦しみが無くなる・減る・無い状態」「成功を喜ぶこと」「冷静な判断能力」これらも生命にとって「美」と言って良いと思います。 何か参考になれば幸いです。
お礼
再びの回答、ありがとうございます。 なるほど理性とその周辺の様々な要素が美ですか、わかりました。
お礼
今回の説明で納得しました。 確かに自分の得意科目で100点とってうれしいのって絶対的といえますね、相対的ではないですね。