- ベストアンサー
『神は細部にやどる』の意味
『神は細部に宿る』 という、言葉があります。 どうやら、奥深い言葉のようなのですが、意味がわかりません。 どなたか、教えていただけないでしょうか?
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
その他の回答 (3)
- okwindance
- ベストアンサー率20% (239/1165)
- 8942
- ベストアンサー率13% (188/1414)
- nyon-tan
- ベストアンサー率15% (58/382)
関連するQ&A
- 神は細部に宿る?
「神は細部に宿る」という言葉は検索してみると「素晴らしいものを作り上げるにはディティールにまでこだわり抜く必要がある(妥協しちゃいけない)」という意味で、つまり(全体的なところが大事なのは言うまでもないが)ここで大事だと言っているのは細かいところだ(細かいところまで全力でやれ)、という事です。 そうじゃなくて「実際に仕事(実務)に取り組んでみて、進んでいった先で初めてその存在に気づく(ぶち当たる)課題こそが実は一番のキーであった」という事は往々にしてあります。その潜んでいたポイントは実は細かいことどころか、それが仕事全体の可否を決定づけるキーポイントだという事が往々にしてあります。 つまり「実際に取り組んでみるという事は尊い事である(実は進んでいった先に大物が潜んでいる)」と言いたいです。 これは「神は細部に宿る(Gods exist in detail)」とは少し違いますが、うまく言い表す言葉はありませんか?
- 締切済み
- 日本語・現代文・国語
- 遠つ神・・・の意味は?
私の家の方では、神道の形式で葬儀や霊祭等(50日祭・1年祭等)を行うとき、唱え言葉として「遠つ神・・・」を唱えます。 「遠つ神恵み給え(とおつかみえみたまえ) 巌の御霊を幸へ給え(いづのみたまをさきはえたまえ) と 恐み恐みも曰す(と かしこみかしこみもまおす)」 と言うような言葉です。これってどういう意味でしょう? 神道に詳しい方、教えてください。
- 締切済み
- その他(生活・暮らし)
- 神を信じるってどう言う意味?
よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。 何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 そんな人、何人も見てきました。 そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 神は細部に宿る
標記の言葉は誰がいったんでしょうか? 検索したところ建築家のミース・ファンデルローエの言葉と書いているサイトが多数でしたが、どうやら中世の神学論争までさかのぼるようです。 しかしながら、ファンデルローエより古いテキストでこの言葉が記述されているテキストが指摘されていることはなくて、なんだか決定打にかけます。 ファンデルローエよりも古いこんなテキストに出てくるという話や辞書や信頼できるドキュメントにはこう書いてあるという話があれば教えてください。
- ベストアンサー
- 日本語・現代文・国語
- アインシュタイン 「神は老獪だが悪意はない」とはどういう意味ですか
アインシュタインが言ったとされる、 「神は老獪だが悪意はない」 という言葉は、どういう意味ですか。 具体的に、どういうものについて語った言葉なのですか。 できるだけ詳しく教えて下さい。
- ベストアンサー
- 物理学
- 「神を見てしまった。」ということにどんな意味があるのか?
「私は神を見た。」という時、それは「私は、この存在のすばらしさの面をあまりにも奥深く垣間見た。 垣間見たにすぎないことも解る。私の感覚にとって神がいないということはあまりにも不自然で納得のできないことといつしかなってしまっていた。」といった神の存在の確かさを感じているという意味合いで使われることがよくあると思う。 私の場合、上記の感性と理性と良心との融合のようなものからの神の存在の発見のようなものが脳の中に いつしか定着してはいますが、 そのこととは別に、実際に神の臨在をあまりにも深く感じたことが、十数回ほどあります。 その時の迫力はすごいもので、思考停止状態となってしまうのですが、何しろ数秒のことですし、 2、3年置きに忘れた頃に、そういう状態がやってきていた(50歳まで)ので、 いったいこれは「何なんだ?!!」という疑問を考える時間はたっぷりありました。 60歳となった今、それは「あまりにもリアルな錯覚」であり、そういう錯覚も人間の脳には存在しうるという結論となり、むしろ病的症状(完全な意味で病気だとか精神の病という意味ではないですが)に近いとう考えとはなっています。 それでもなお、 もし再びその感覚がやってきたら そのような理性で必死に構えていたとしても、 すくなくともその数秒間の間はとてもでないですけど神の存在を実際に感じているというその状態を否定することなんか出来ないような感覚です。 形は無いです。 でもそれは こんな感覚です。 視覚の根拠は 現代の科学ではたぶん網膜に映るレンズの光と神経の作用ということしか解っていないのではないかと思うのですが、 神経があるとどうして「見える」のかは解っていないはずだと思うのです。 脳があり神経があってはじめて見えるのですが、 それはなぜだか解ってないわけです。 その脳と神経に、神を感じる何かが一瞬ですが開発されたのでは??? という感じです。 そうとしか考えようの無い感覚です。 神が私を選んで訪れたとかいった感覚や思考は、それが始まった20歳の未熟な時にも私にはまったくありませんでしたが(それは、たぶん私が子供の頃何度も重い肺炎で死の床をはいずったことがあるため、さすがに未熟な青二才ながらも神を物語的には考えることは卒業していたのだと思います。)、人間の脳には神をこんなふうにキャッチする能力が隠されていてやがては、それが誰の脳の中にも開花するのではないか? という考えはありました。 最初のうちは、けっこう無邪気に その驚愕状態を楽しめました。 ほんの数秒でも 印象はあまりにも強いですから忘れることなんかできないようなインプレッションの刻まれるそれを 「何なんだろう?」と思いつつもけっこう楽しんでもいたのです。 ともかく楽しい思い出ではあるなというふうにです。 でも そのうちに、その瞬間にある疑問を聞いてみようという考えが起こってきてからは、その時が完全に思考停止状態となることが気になりだしました。 あることとは「なぜこの世にこれほどまでの苦しみがあるのですか?」ということです。 そして、一番最後の50歳の時に、その感覚がやってきたときには、わたしは最大限の恐怖で ギャーーーっ叫んでいました。 苦の存在の因果を深く深く考えたら そうなります。 でも、やがて、神は「いっさい人間を助けたりはしない」ということがようりはっきり私の理性の中に訪れた時、 神が絶対だとかいう論理も消えた時、おそらく神から自立したとき、 恐怖は消えていました。 みなさんは、この体験に どんな意味(意義でもいいです。)があると思いますか? 私の考えも、書いてしまえば、 それは自立すれば、無神論も受け入れることが出来るような信仰が生まれますよ。ということだけです。 「けんかは、もう止めよう。」とうことだけ。 それ以外にたいした意味も意義も 私にとってはですが、残念ながら何もありませんでした。 私のは たぶん錯覚(病気状態)でしょう。 しかし、もし実際に錯覚で無く「神を見た」という能力が人間に開かれたとして、 あなたならどんな意味があると思いますか? へんな質問でごめんなさい。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
お礼
すごい・・・。 ものすごく、よく分かりました。 ************************************ やはりそういう意味で「神は細部にやどる」は建築、インテリア特有の 価値観と捉えたほうがわかりやすいのではないでしょうか。 決して人生相談に出てくるような意味はないと思います。************************************ ありがとうございました!