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ネオプラグマティズム

一次文献を読まれた方にお伺いしたいのですがフレッチャーの状況倫理とはどのようなものなのでしょうか?

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回答No.1

わたしは一次文献を読んでない者ですが、お伺いしてもよろしいでしょうか? その一次文献は 日本では見付かっていないということですか? それはまだそちらも読まれてはいない地点からの質問でしょうか? 読んでみたけれども、 いまいち理解しがたかったために質問しているという形なのでしょうか? そのへんの事情自体に興味があるのではなくて、  私自身がネオプラグマテゥズム(新実用主主義)を さらなる実際の役立つ結果を求める主義と推理し、 フレッチャーの状況理論を、キリスト教の愛(アガペとして語られている純粋な利他の精神)の深く広い解釈からの意思決定論にまで昇華された理論であるのだろうと推理し、 まだ未知ながら、 そこにはきっと実際に困ってる人達を実際に助けることのできる知恵がいっぱいつまっているのだろうなという期待を持っているからです。 そこからの補足質問なのです。 新約聖書では、「善い事をする時には 右の手でしていることを左の手にすら知らせないように」と 行為自体よりも無心の真心がまず大事だという一方で 善を人前で輝かすようにも教え 道徳と真心の両方を説いていたりします。   その辺を状況に合わせて 実際の経済等の効率的な行動意思決定論にて即判断するための力強い理論構築がなされてるのではないかという期待があるのです。 あるいは その構築の模索がさまざまに語られているのではないかというふうな期待がです。 paradigml様は、どのような興味から フレッチャーの状況理論への興味をお持ちなのですか? それとも、やはり一時文献は読まれての、それが故の解らない点とかのご質問なのでしょうか? 私は 実は肉体労働者として生きてきた人間で本とかあまり読めないできました。 学者のような方がたの 興味の惹かれ方の世界を知らない者です。  ですので、かなりトンチンカンな補足要求質問となっているかと思います。    でも、ずっといろいろ人生を思索もし、悩んで生きてきて 自分の有り方を考え直す時、 最近アカデミックな哲学には 期待とともにいろいろそれ自体への懐疑も生まれ、  その懐疑から 本物はどこにあるのかを心のそこから知りたくなってるのです。   実用主義という言葉には真剣に惹かれますし、もちろん新約聖書のキリストの語られた愛については総合的に考えて そこにこそ歴史をつらぬくような意思決定論の土台がすでに語られている(われわれはそれを現代の哲学に昇華しなければならない)という考えにいたっているのです。      もしも、そのような意味合いでの「状況理論」に興味があるのでしたら、私自身のそのへんの考えにも興味があるかもしれないともおもい、 その事も含めて そちらの質問の意図のあたりをお伺いしたくなってしまったところなのです。 私には 短い質問文の裏の“人の人生”の一部すら解るような能力はありませんし、この場合は特に、学者と肉体労働者の差のあたりの違いは読めないところの人間です。  ですから どうか 何も気になさらず、何かの差し支えとかございましたら この補足質問は 無視してください。 私は  なんだか 最近夢中なだけなんです。 一種の哲学病か、希望病か そんな風に思っていただけるなら それだけでけっこうなんですからね(^-^)。    だんだん熱に浮かされて 意味不明となってきたようですので、このへんで。

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