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哀悼の意味をこめた「早い一生」は誤用ですか?

友人や親族が若くして亡くなった時に、現実には間々使われています。 例 ・・歳で早い一生を終えた   なんと早い一生だったのだろうか   あまりにも早い一生を終えられたんですね 等々 違和感も不自然さも感じていなかったところ、誤用=間違いの指摘を受けました。理由は「一生は期間(線)であり、早いは亡くなったその時を形容するもの。線である一生を形容するものではない(形容できない)使われていても間違いは間違い!」とのことです。 短いは正しいが早いは間違い・・ 国語(学)としての、評価、解説をお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Parismadam
  • ベストアンサー率65% (2756/4211)
回答No.3

はじめまして。 ご質問1: <短いは正しいが> その通りです。 1.その方の言われる通り一生は「期間」であり、時間幅を表します。 2.時間幅は「時間の長さ」になりますから、長短で表します。 例: 5時間=5時間の長さ 3.英語でも期間を尋ねる場合は、How longとlong「長い」を使って、長さを尋ねます。 4.一生=人生という人が生きる時間は「時間の長さ」になるので、長短を使って表すのが一般的です。 例: 「長い人生」 「短い一生」 ご質問2: <早いは間違い> その通りです。 1「早い」はある決まった時間を基準にして使われる形容詞です。 2.つまり、「ある決まった時間=時を点と考える」ことが基本にあります。 3.例えば、ご質問のケースなら、「死ぬ時」を特定の時=点と考え、それを基準にして、「死ぬ時が早い」=「死ぬのが早い」「死が早く到来した」などという文脈で使えます。 4.上記の例は形容詞「早い」の叙述用法ですが、他にも限定用法として「早い死」などのように名詞を修飾する用法としても使えます。 この時、「死」は「死の時」という特定の時間を一点としてみています。 5.以上から、ご質問文を「早い」を使って表すには、「死」のような一点の時を示す単語と併用する必要があるのです。 例: 「・・歳で早い一生を終えた」(X) →「・・歳で早い死(最期)を迎えた」(O) 「あまりにも早い一生を終えられたんですね」(X) →「あまりにも早い死(最期)を迎えられたんですね」(X) ご質問3: <なんと早い一生だったのだろうか> この表現は慣用的には可能です。 1.「早い」は期間を表す「一生」には使わない、という回答を上記でしましたが、期間を終点から見つめる場合に使えることがあります。 2.その場合は、その期間が「早く過ぎ去った」「あっという間に過ぎた」という、経過のスピード間に言及する意味で、内包する意味を補充して、慣用的・比喩的に使われています。 例: 「早い一週間だった」→「早く過ぎた一週間だった」→「一週間があっという間に終わった」 3、比喩表現でも「駆け足人生」「猛スピードで駆け抜けた人生」などという表現があります。「早い人生」は、このような比喩的な感覚で使われている慣用表現で、許容範囲にあります。 以上ご参考までに。

wanioppa
質問者

お礼

当方の質問に対し、詳細、丁寧、個別具体的に教えていただき、恐縮しております。 大変な手数をおかけしましたが、一々納得いたしました。 特に質問3へのご回答(慣用的には可能)の部分は、こちらでのやり取りでも触れられていなかったので、特に勉強になりました。 本当に有難うございました。心からお礼申し上げます。

その他の回答 (2)

  • ezorisu
  • ベストアンサー率35% (61/171)
回答No.2

正しくは「短い生涯(一生)を終えた」ですね。 一生とは生まれてから死ぬまでの期間なので長短で表します。 (例)あまりに短い一生だった。20歳という短い一生を終えた。 「短命」や「長寿」という言葉がありますね。 死別の年齢を他の形容詞で表すなら「若い」です。 (例)あまりに若くで亡くなった。20歳という若さで亡くなった。 なお、「早世」という言葉がありますが、 これも「人が早く世を去る」=「若くで亡くなる」という意味です。 このあたりから「早い」という表現が派生したのでしょうね。 また、若年の死には「夭折」という表現があります。 美しい日本語を使いたいですね。

wanioppa
質問者

お礼

詳細なご回答有難うございました。 これまで無頓着でしたが、改めて言葉を大事にしたいと思います。 お世話になりました。

回答No.1

そうかもしれません。 その方鋭いですね。

wanioppa
質問者

お礼

即刻のご回答有難うございます。端的な表現で、結論も見えた気がします。今後言葉の使い方にも気をつけたいと思います。 有難うございました。

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