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人が人を超えるとき(人の負う宿命か)
≪白川静先生のおことばについて≫(QNo.4360534)の回答ANo.3で、≪人が人を超えるとき(SFチック)≫(QNo.491585)を紹介されました。 人は個人としても、全体(人という全体は存在するとは存じますが、そのことを、ご疑問なら、集団でもに置き換えても結構です)でも、不完全と思い、されてきており、生きている間は何かをするように仕向けられています。 それが方向を持つものかどうか別にして、その一つが、「人を超える」ということであるならば、紹介されたご質問でもその態様が描写されていますが、 1. 要するに「人を超える」は、「現状の、欠点だらけ、不完全だらけの人間が、自分で考えたその欠点や不完全を超える」ということなのでしょうか? 2. 仮にそうだとするならば、いつまでも、その超えなければならないとされる、欠点や不完全と思うものは、永遠に続かないでしょうか? 3. そうなら人であるかりは、人は「人を超える」ことは夢想はできても、永遠に不可能だとはならないのでしょうか? ◎更に:この≪人が人を超えるとき(SFチック)≫(QNo.491585)におけるご回答において、「自己を中心としない人がもしいるとするのなら、それはもう人ではなく自動制御のロボットではないかと。」という、センテンスに出会いました。 ☆人の完成=非[自己中心]への向上ということであるとするならば、その結果が、「それはもう人ではなく自動制御のロボット」となることがやはり、等記号でつながるものでしょうか。 (私が考えるのですが、諸悪の根源の自己中心⇒) ☆その自己中心の超克ということがあって、それはロボットになることではなく、自己中心がゆえに翻弄されていることを脱する方向だとは、考えられないでしょうか?
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>そうなら人であるかりは、人は「人を超える」ことは夢想はできても、永遠に不可能だとはならないのでしょうか? :このようにおっしゃるのは、「完全なる人間」とでもいったようなものを想定されてのことなのでしょうね。 ただ、最初のほうで述べておられる「>生きている間は何かをするように仕向けられて」いるとは、「人を超えようとし続ける」ことと同義と感じます。 「完全なる人間」としての最終形を希求することが無駄とは思いませんが、しかし、「完全」や「最終」には、あらゆるものが生まれそして死(無)を目指すという生命の本質にそぐわない要素が含まれるのではないか、という気がします。 目指すこと自体には意味があるかもしれないが、手の内にすることは求めない。 もし「完全なる人間(もの)」があるとすれば、完全なる領域に停滞しない、という要素が必須として含まれるのではないか、という感想も持ちます。 (krya1998 さんの意図されている要素として「完全」や「最終」という言葉を勝手に使っていますが、違っているようでしたらご指摘ください) ------------------------------------------------------- >(私が考えるのですが、諸悪の根源の自己中心⇒) ☆その自己中心の超克ということがあって、それはロボットになることではなく、自己中心がゆえに翻弄されていることを脱する方向だとは、考えられないでしょうか? :まず、「諸悪の根源の自己中心」という点に関して。 私としては、むしろ、自己中心になれないことが諸悪の根源だと考えています。 ただし、言葉遊びをするつもりはないのですが、「自己」を知った上で、という条件つきです。 折衷させていただくと、自己を知らないまま自己中心になることが諸悪の根源でしょう。 この状態で自己中心をやめても、どうしても無理がかかる(=深層にある欲望・願望が抑圧されることになるので)と思います。 大いに自己中心になるべきだ。 その自己中心によって得られるものを最大限に生かそうとするならば、自己をよく知りたいと思う。 快感(本能)を求めても、得(自我)を主張してもいいが、他者も同様なのだから、その他者に対する配慮(超自我)も必要になる。 なぜならば、そのようにすることで初めて、自然の満足(=納得)が得られるように人は生まれついているから。 このような(思考的)経過を経てこそ自己中心という本来の意味が浮上してくるだろうし、なによりそれを感得できる力を人は持っているのではないか。 ・・・などと思うわけです。 「なるべく心地良いことを、なるべく自分の得になるように、なるべく他人の迷惑にならないように」 が自然な生き方かな、という感覚があります。 (得と言っても色々ありますし、一切の迷惑をかけずに生きることは難しいでしょう。そういったことの定義づけなどが関連問題として浮上してくるでしょうが) 「人を超える」ことの意義がもしあるとしても、それはこれらの上に築かれるものなのかもしれません。 この視点を無視した「>自己中心の超克」は、「>生きている間は何かをするように仕向けられて」いる、その生命力本来のバランスを崩してしまうような気がします。
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- ota58
- ベストアンサー率27% (219/796)
ナメクジウオがナメクジウオを超えた→人 自動制御のロボットとはなんぞや。
お礼
ota58様 ありがとう御座います。
補足
ota58様 ありがとう御座います。 「自動制御のロボット」ってね、littlekissさん、ここで最初にご回答され手居る方がご紹介されている、≪人が人を超えるとき(SFチック)≫(QNo.491585)で回答された投稿の中でお使いのことばでしてね。 自己を超克した自己は、「自動制御のロボット」ではない、というのが私の経験と確信なのです。 ナメクジウオに知り合いが居ませんのですが、ナメクジウオの場合、ナメクジウオを超えられるかどうかは存じません。 人間は人間を超えることは出来るし、不可避的自己宿命であらざるを得ないというのが私の経験と確信です。 そうしない人間の死の迎えは中途半端です。全うができていない。 そういう認識を持っております。
- hosiboshi
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人が人を超えるという概念は向上心を元に、更なる向上を願い考える人は多いと思います。 実際完全であることは欠点でもあるので、人間らしく、脆く弱く正しい心を有しながらも、なにかを成せる人間なら、人を超えることはなくとも、それで良いのではないのかと思います。
お礼
hosiboshiさん ありがとう御座います。 仰せの通りと存じます。 完全は、非常に希薄ですから、金物や土器などのように、山川のようには、がちんとしたものではないですよね。 そうでなければ、普遍にも遍在にも、万能にも為りえないですよね。
先のご質問のお礼および追加のおことば拝読しました。 今回ご質問には投稿する気がなかったんですがANo.2さんご回答読んで思うところがあったので。 >経験知に基づく個人の思い込みです。 (自らへの戒めでもあります。) 「経験知」って「思い込み」になって、「思い込み」って「戒め」になるのかなwま、それはともかく、質問者さんがおっしゃるところの「人が「人を超える」こと」ってのが具体的にどういうことなのか、よくは分からないですが まず、ご質問文中の1、2、3ですが、平たく言やぁ欠点・短所の克服努力ですね。 >自分で考えたその欠点や不完全 >欠点や不完全と思うものは、永遠に続かないでしょうか? 「永遠に続」けられるもんなら続くでしょうよ。 克服努力の前には、何を欠点・短所と見做すかの判断があるわけだ。それなくして克服努力の動機はないわけですから。 克服努力の対象と見做すのが自分と他人とで食い違うこともありますね。この場合は現実の生活のなかで見過ごせない事態を招いてしまった時に、自他のどちらの考えや言い分が妥当だったかが、いずれ明らかになる。他人にとって重大な問題があれば苦情を言われるのは当然だし、自分自身が大いに生き辛くなるようなことも、そのままで放っとけるとは限らない。ひとえに自分が生きのびるスペースを確保するためです。だから、それが確保できている限り、それが脅かされる危険に曝されない限りにおいては、克服努力の切実さなどはない。 それと、克服できることもあれば、できないこともありますね。 現実的に克服する必要がないこともあるだろうし、必要があるのに必要なしとして片づけることもある。 実のところ、はなっから自信がなくて、わざと無視することもあるだろう。もっと開き直って、その欠点なり短所なりを温存して、それを全面的に打ち出すようなことをする人もいる。それは、まるごとの自分を受け入れてもらいたいという厚顔な、同時に切なる願いでもあるのだろうが、問題は、その者が、他者に対して、自分自身、同様に受け入れられるかどうか。他者は許さないが自分だけ許せ、となると、所謂「自己中心」の非難を免れない。そういうことですね。そして、これ自体が、その本人にとっては、りっぱな「完全」世界の希求なんです。 >この方は人が好きなんだろうなぁと思います。 不完全さに対する愛のようなものを感じます。 >この方には不完全さへの嫌悪感のようなものを感じます。 人間が嫌いみたいですね。 >如何に正しくあろうとしても ネガティブな感情からスタートしたプランは 作為的で、不自然で、不純なモノにしかならないと思います。 何故「不完全さ」というものを嫌悪するか。人間が嫌いだからか。嫌いなら嫌悪のままでいいはずじゃないか。 厚顔にして切なる願いの下には、実は、その自分の欠点・短所を非常に重大視する心理があるんじゃないだろうか。一番受け入れて許すことができないでいるのは、実は本人自身なんじゃないか。そのことが翻って他人に対する許容度の低さ狭さに顕れているのではないかと思います。 だから、最初の出発点に戻って、そもそも何が欠点であり短所なのか、よく検討しなくちゃならないんです。そこで大きく価値観と、その妥当性も問われることになる。それを問い詰め問い続ける能に恵まれない人は、放っとくと、ずぶずぶ泥沼に沈んでいくことになるんです。 >人の完成=非[自己中心]への向上ということであるとするならば、その結果が「それはもう人ではなく自動制御のロボット」となることがやはり、等記号でつながるものでしょうか。 >諸悪の根源の自己中心⇒ ☆その自己中心の超克ということがあって、それはロボットになることではなく、自己中心がゆえに翻弄されていることを脱する方向だと そもそも「自己中心」って何なのか。 それこそ「自己中心」と「諸悪の根源」って「等記号でつな」げなきゃならないことなのか。 プログラミングされた目的全肯定と遂行に盲目的に従うロボットってのは、目的を遂行させるべくプログラミングされたもので、そこにロボット自身の判断というものはない。 肉布団を着ている我々が、その肉布団ゆえの欲求に翻弄され盲目的に従うなら、それも一種のロボットだろう。 「人の完成=非[自己中心]への向上」 人の完成がイコール非[自己中心]かどうかはともかくとして、質問者さんが、いかなるかたちを以ってかは知らないが「人の完成」なるものを目指さねばならないとするならば、そこに自身の判断というものが、どう働いているのか。 そして、判断のあと設定したことを、まっしぐらに遂行していくなら、それもまた一種のロボットかもしれません。 ロボットは何を肯定し遂行していくのか。 さて、ロボットか否か、結局のところ、どこに違いがあるだろうか。
お礼
noema_1970様: 度々ありがとう御座います。 (1) ☆noema_1970様:そもそも「自己中心」って何なのか。それこそ「自己中心」と「諸悪の根源」って「等記号でつな」げなきゃならないことなのか。 ◎krya1998:「自己中心」とは先のご質問への回答の中で、littlekissさんが使っていたことばなのですが、私の場合の「自己中心」の観念は日常生活で、現象的な自分のことしか目に入れずに、目や歯を剥き出して、がんばる姿です。私は人間の悲惨や社会やこの世界での諸悪の根源はこういう原則、生き方ではないかとも存じております。 ☆noema_1970様:そこにロボット自身の判断というものはない。肉布団を着ている我々が、その肉布団ゆえの欲求に翻弄され盲目的に従うなら、それも一種のロボットだろう。 ◎krya1998:私は自己中心の超克はあると存じておりますし、それが人間、自分たちの宿命的任務だと思います。 自分で背負ってきている生きる目的だと存じます。 それは決してどなたかが仰せの無意志のロボットではもちろんなく、それとはもっとも逆の、非常に意識の澄明で、広がった境地です。 そして意志も当然全てにいきわたっています。そういう自分の世界と自分です。
補足
noema_1970様: 度々ありがとう御座います。 (1) ☆noema_1970様:「人が「人を超える」こと」 ◎krya1998:このことばは、ここでご回答の一番様がご紹介の質問で、使われていることばで、私も使い慣れてはおりません。≪人が人を超えるとき(SFチック)≫(QNo.491585 ) ⇒http://kikitai.teacup.com/qa491585.html 私の場合は、生まれてくるのも、死んでいくのも、例外はあっても自分の意志では出来ない人間が、宿命的に負わされている(追っている自己に対する)任務であると存じます。自己の根源を知り、経験し、その意志とに合致するということであります。 ☆noema_1970様:「永遠に続」けられるもんなら続くでしょうよ。~~中略~~そこで大きく価値観と、その妥当性も問われることになる。それを問い詰め問い続ける能に恵まれない人は、放っとくと、ずぶずぶ泥沼に沈んでいくことになるんです ◎krya1998:よくわかりました。そのとおりすね。私もそのように存じます。そして人間界、創造界って、宇宙も原子もその構造って、相似的、同じ原理があると存じます。それは単純で一様なのに非常にヴァラエティに富んだ様相を呈しております。 一足飛びになりますが、だからこの宇宙は所詮は取り留めない、繰り返し、fractalを呈して現象しているというのが私の見方です。 単純で同じなのに、複雑でみなが違うようである。そういう場面でいかにやっても、この繰り返ししかできないよ。というのです。 「「人」が「人」を超える」という表現は私にはなじめませんが、それはどういう状態をいうかというと、私の場合は、自分を創造している根源基盤と同じになる、それに帰る、ということです。 何もわからずにいろいろ人間努力をしてもそれは、Droste効果の画像でしかない。そういうものを捨てることだと私は、「「人」が「人」を超える」という内容として観念しております。
QNo.4360534もQNo.491585も読んでいません。 無責任な回答です。 > 自己を中心としない人がもしいるとするのなら > それはもう人ではなく自動制御のロボットではないかと。 この方は人が好きなんだろうなぁと思います。 不完全さに対する愛のようなものを感じます。 > 人の完成=非[自己中心]への向上 この方には不完全さへの嫌悪感のようなものを感じます。 人間が嫌いみたいですね。 如何に正しくあろうとしても ネガティブな感情からスタートしたプランは 作為的で、不自然で、不純なモノにしかならないと思います。 経験知に基づく個人の思い込みです。 (自らへの戒めでもあります。) 失礼しました。
お礼
ありがとう御座います。 そういう見方が成立すつかどうかは、私にはわかりません。 でも人間はネガティブでは生きていくことは出来ないのではないでしょうか? ここのところのご回答が確かに直接的ではありませんし、私の思いの経路や経絡とは少し、相違は致すような感じはありますが、人間同士はそういうものだからと、自分に納得して、お受け入れもうしあげております。私自身は。 ご教示を賜り、深く感謝申し上げます。
補足
CUE009様 ありがとう。 ご指摘の通りと判断できました。でもかのお方をどうと、ジャッジするつもりはもちろんありません。 いつでも、これからも、真正面からご回答賜り、私も真っ正直にそれを勉強していきたいと存じております。 ちょいとした風波で自分や皆様に関する見方を誤らないようにしたいからです。 一番のご回答者様もそれはご存じなのです。 CUE009様 本当にありがとう。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんにちは、krya1998さん。 お返事を書くのに間があきます。ごめんね。連勤です、仕事。 ひとまず、よみものひとつ 【おもかげの国 うつろいの国 ~「日本の編集文化」考える】 http://kic.web.infoseek.co.jp/needs_seeds/NHK/Japan.pdf 休憩室にて
お礼
littlekiss、 お教えを感謝します。 ご多忙のせいか、その他のご理由か、よくわかりませんが、老齢であり、対象を明確化させている私には多少長大な読み物でもあるようなので、私も少し時間を頂きたくお願い申しあげます。 今はともかく開封いたしました、というお礼にとどめることをどうかご宥恕ください。 私もそれほど短絡な判断しないようにしておりますので、できれば直接なるご回答やお教えを賜るととてもありがたいところではあります。 ありがとう御座いました、精進や所用を済ませて、時間をとり拝読し、ご報告があれば、ご報告申し上げます。
お礼
hakobulu様 ありがとう御座います。 (2) ☆hakobulu様:「諸悪の根源の自己中心」という点に関して。 私としては、むしろ、自己中心になれないことが諸悪の根源だと考えています。 ただし、言葉遊びをするつもりはないのですが、「自己」を知った上で、という条件つきです。 折衷させていただくと、自己を知らないまま自己中心になることが諸悪の根源でしょう。 この状態で自己中心をやめても、どうしても無理がかかる(=深層にある欲望・願望が抑圧されることになるので)と思います。 ◎krya1998:正に仰せのとおりです。しるべき自己は、日常目と歯を剥き出して、自己だけを考えてがんばっている状況ではない、自己だと存じます。欲望などに振り回されない自己だと存じます。そういう自己とそれを含む自己の対面している世界が自己だと存じます。 ☆hakobulu様:大いに自己中心になるべきだ。~~中略(失礼)~~この視点を無視した「>自己中心の超克」は、「>生きている間は何かをするように仕向けられて」いる、その生命力本来のバランスを崩してしまうような気がします。 ◎krya1998:大略允に同感に存じます
補足
hakobulu様 ありがとう御座います。 (1) ☆hakobulu様:このようにおっしゃるのは、「完全なる人間」とでもいったようなものを想定されてのことなのでしょうね。 ◎krya1998:「完全なる人間」は無理です。人間という存在を出た存在が人間の中核だと存じており、人間を出ることが出来ないのが人間だとおもっています。 ☆hakobulu様:ただ、最初のほうで述べておられる「>生きている間は何かをするように仕向けられて」いるとは、「人を超えようとし続ける」ことと同義と感じます。 ◎krya1998:その通りです。いつまでもそういう志向・試行をし続ける宿命的存在ですね。 ☆hakobulu様:「完全なる人間」としての最終形を希求することが無駄とは思いませんが、しかし、「完全」や「最終」には、あらゆるものが生まれそして死(無)を目指すという生命の本質にそぐわない要素が含まれるのではないか、という気がします。(krya1998 (さん)の意図されている要素として「完全」や「最終」という言葉を勝手に使っていますが、違っているようでしたらご指摘ください) krya1998:はい。だからこそ、生身の人間はそれに惹かれながら、逃げていますね。でもこの頃は、この逃げている対象が実は生命自体、意識自体。存在自体であると感じております。