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おくのほそ道 平泉

松尾芭蕉の『おくのほそ道』の”平泉”に、 国破れて山河あり、城春にして草青みたり という一節があります。 しかし、この一節の原文である杜甫の『春望』では、 国破れて山河あり、城春にして草木深し となっています。 これは、松尾芭蕉が間違えて書いたのか、あえて原文を変化させたのか、どちらなのですか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • ecoshopQ
  • ベストアンサー率10% (18/172)
回答No.3

誤用です。 そらが指摘しています。

Nurburg_20
質問者

お礼

皆様、ご回答ありがとうございます。 失礼ながら、良回答の方へのお礼で、回答してくださった方全員へのお礼とさせていただきます。 河合曾良が指摘したよう、結論としては芭蕉が間違えたそうなのですが、 ほかの方が仰るよう、これを間違いとしてでなく、芭蕉の芸術性などの味として観るのも楽しいと思います。 闇雲に、間違いとかそうでないとかを知りたがった自分が恥ずかしい限りです・・・ ありがとうございました。

その他の回答 (3)

回答No.4

 同行した河合曾良が言っているなら、誤用でしょうね。  勝手な虚構でなく、事実の認識と解釈での鑑賞が大事ですね。  そしてそれはそれとしての、自分なりの鑑賞と把握もあるかもしれませんね。

Nurburg_20
質問者

お礼

鑑賞方法などのご伝授、ありがとうございました。

回答No.2

 誤用ではなく、活用か利用なのでしょう。  連想として或いは同時に、あるいはその漢詩をよく知っているが故の、夏草の生い茂る様をまえにして、思いが生じてきているのでしょう。私たちもこの漢詩と芭蕉の思いを重ねて、共感が一入となっています。漢詩のほうにもそして、芭蕉の思いにも。

Nurburg_20
質問者

お礼

ご説明ありがとうございました。

  • hitoyana
  • ベストアンサー率27% (18/66)
回答No.1

 杜甫の詩は「春望」ですが、平泉での芭蕉の句は 「夏草や……」であります。訴えるところに近いものがあり、芭蕉の引用にも必然性を感じるところですが、  唯一、季節が違っています。自分の句の芸術性に賭けるところのある芭蕉としては春の景色のままでの引用はできなかったのでしょう。 「草木が芽を出し、伸びてきている」頃よりも 「草木が青々としている」必要があったものと思われます。 芭蕉の芸術性による改変というところではないでしょうか

Nurburg_20
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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