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聖職叙任権闘争がフランス王国ではどうだったの?
神聖ローマ帝国、イギリス、では聖職叙任権闘争に教会側が勝利していますが、フランス王国ではどうだったのでしょうか?
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叙任権闘争の本質は、有力諸侯の勢力を抑えたい皇帝と下級貴族対皇帝の権力をそぎたい有力諸侯と教皇といった対立でした。 有力諸侯の権力を抑えるため、司教や有力諸侯の設置した修道院の代表者を皇帝が自分に有利な者を選出しようとしたのに対し、有力諸侯は、教皇を担ぎ出し、皇帝の権限を押さえ込みたい教皇に自分たちの都合の良い者を選出させようとした対立が、叙任権闘争の本質でした。 当時のフランスでは、圧倒的に有力諸侯が王権を上回っており、国王が諸侯の権限を抑えるどころの状態ではなかったため、大きな問題にはなりませんでした。 (フランス国王の領地は、全フランスの1/20程度なのにたいし、アキーテーヌ公などは、1/3にもなっていますし、ノルマンディ公、シャンパーニュ伯、ブロワ伯、アンジュー伯、トゥールズ伯なども国王と同等かそれ以上の所領を有していました) 一応フランスでは、国王と教皇の両方が認めた者が聖職諸侯となるという事で落ち着いています。
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- Mumin-mama
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「叙任権闘争」のWiki.の中に http://de.wikipedia.org/wiki/Investiturstreit Frankreich (1107) kam es zu einer Einigung in Fragen der Investitur.(フランス王国は1107年、司教や修道院長の任命権《叙任権》に合意した。)と書かれてあります。 その前の文 In England (1105/07 im Konkordat von Westminster)und 〈英国においては1105年7月ウェストミンスターのコンコルダートにて、そして…) その後、教皇はキリスト教の頂点に立つ者の意味を表すために、Tiara(教皇冠)をかぶるようになって行きます。