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神様のことが知りたい

皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

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noname#80116
noname#80116
回答No.8

 No.7&8です。  あまり出しゃばっても いけません。が おっしゃっていることと同じような感慨を おおよそ誰もが 持っているのではないでしょうか。  ですから 同じ問題として 別の問い求めの仕方が あるのではないでしょうか。  たとえば 自分の質問で恐縮ですが 《QNo.3965802 :輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3965802.html 》ですとか――つまり これは (4)と同じ内容です。そして 必ずしも答えは 分かるものでもなく やはりむつかしいというものです―― あるいは 《QNo.4097397: 人が 人のあやまちを赦すことができますか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4097397.html 》ですとか――これは (4)にも関係し (1)にも 間接的にはじゅうぶんかかわるものと思います―― が考えられます。いかがでしょうか。  これにて退散します。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー いえいえ、いろいろありがとうございます。 これですね~この哲学の問答と申しますか、 私は半分以上、討議している内容がわからないのです。 話が高度過ぎるというか、私が今まで聞いたことも 考えたこともない話になっていますので、まだまだ、 私などには理解ができるはずもないのですが。。。 先ほど政治のカテにも質問していましたので、締め切って きたところなのですが、政治は普段新聞やテレビで 知識はでき、今話題の領土問題などは近代史の範疇なので サンフランシスコ条約くらいまで勉強していたら わりと簡単にわかるのですが。。 またゆっくり拝見させていただきます。 今度またいろいろ教えてください。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (7)

noname#80116
noname#80116
回答No.7

 No.7です。  ご返事をいただきました。ありがとうございます。  より多く歳を取っているという特権を行使しますと――  やはり 奇跡を体験していない人の立ち場から 考えていかれるとよいのではないでしょうか。つまり ご自分が ご家族の方の体験を経ていないと仮りに想定してみて では どう思うか このように捉えてみるのも よいかと思います。  ご質問への答えは 誰も 持ってはいません。分かった範囲で答えることも もちろん自由で それとして 必要だと思いますが。  そうして 信仰とは 信じさせることだとも言います。正解のないところへ あるいは たしかな正解の見えないところへ 経験思考をも超えて 信じられる生活の動態を築いていくことだと考えます。  また 誰もが 素人だと思いますよ。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー 2度目のご回答ありがとうございます。 神様の存在を私なりに考えますと、素人考えゆえ、 まったく的外れなのかもしれませんが。神様の存在の 証拠というのは、ほとんど状況証拠だと思うのです。 目撃(物的証拠)ではなく、私の体験のように消去法で 考えて、神様がいるとしか思えない。と、いうことです。 もちろん神様を目撃した人が絶対いないとは申しませんが、 どちらにしても、神様の存在を意識した経験を、私はさせて いただましたので、昔のように神様を真っ向から否定する ことはなくなりました。 良い体験をしたと思っています。 ご回答ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.6

 エワという女の人は 知恵に長けていました。  光がモノに当たって 遮られても その後ろ側の陰となった地帯にも あたかも曲がって進むかのように 入っていくと知り ここから 自分の魂の 方向の偏りを想い描きました。  このふとした体験を 夫のアダムにも話しました。かれのほうは そのような心のズレについては 気が向きませんでした。  ここから 心のズレ 魂のユレとマガリ そして 人と自分とのチガイを知ることになったというおとぎ話(あるいは むしろ この現実世界)が始まりました。  ここから そうは言っても しかしながら 言語表現のいわば無限の可能性を見ることになったとも思われます。  言葉による世界の知解に対する飽くなき追求が あたかも生存の欲求を満たすことであるかのように始まります。その言葉の表現における人びとのあいだでの互いの理解のちがい これも 分かってきます。  知恵の木から 人間はみづからが その木の実を採って食べた。エワに勧められて食べたアダムにしても 同じく言語表現の世界に入り その海に漂うことになったというわけです。  知恵の木の実を食べてからは ことばの表現によっておこなう意思疎通において 互いの思いにちがいのあることを知ることになり 善とそうではない悪とが 始まった。自分の思いが善だと思えば それと違っている相手の思いは 善ではないと思いたくなる。それは 悪だと言いたくなります。  ここからは 言語にふたつの類型が起こりました。《善だ悪だとわたしの思いを語る》スサノヲ語と 《相手に善と思わせる表現を用いて相手を説得し 自分の善を実現していこうとする》アマテラス語とです。  《人間語》ともよべる《スサノヲ語》は 互いの善を 互いに悪だと思っても これらを互いに認め合って 少しは相手も活かすように生きる素朴な共生の知恵になりました。そのように練られていきます。(ムライスムあるいは インタスサノヲイスムと呼ぶことが出来ます)。  《アマテラス語》は あくまで 光のあまねく世界を照らすように 概念の普遍性を求める表現形態です。あるいはまた 途中でその真理追求を打っ棄(ちゃ)って 相手の無知につけ込み 相手に見せかけの善を ほんとうの善であると示すかたちで 丸め込むという場合も 実際には 見られます。ただ この場合をも含めて 一般にこの類型は 《アマテラス語弁論術》と呼ぶとよいようです。  (科学も つねに 普遍性の明確化については 進歩しつつあるとしか言えない側面があります。その場の暫定的な判断に従わせようとして 一面の真実を明らかにするために利用されることもあります。  (あるいは 既成の秩序や既存の現実が重くのしかかって その不合理だが事実としての有力に従わざるを得ないという政治的判断がくだされると 悲しいかな 科学は 涙を飲みます。  (そのようなとき しばしば アマテラス語弁論術は 言語表現の美の追究としても 科学的真実の追究としても 空しいのでしょうか)。   *  *  *    おそらく 単純にですが このようにして 現代の世界に立ちます。  要は アマテラス普遍語に裏打ちされたスサノヲ人間語をしゃべることが 望まれるでしょう。  これが わたしたちが 現象として目指す共生の世界ではないでしょうか。つまり 禁断の木の実を食べたという人類の・そうとすれば罪から 一人ひとりが自由になるという世界のことです。  逆に言うと いまも いわば《発展途上の過程》にあるわけですが そしてまた 木の実を食べたことの後遺症が わづかに あるかも知れませんが もはや 世界は 新しい局面に入っているのではないでしょうか?  このとき あなたの思う《神様》は いるのか・いないのか / いるとすれば どこにどのようにしているか。自分の心が相手に通じなくて 悔し涙を浮かべている人たちに対して どういう思いでいると あなたは お思いですか?  聖書やそれを読んで思索をおこなった人びとの成果を あなたが読んで いまの答えがあるかも知れないし 見つからないかも知れません。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー そうですね、私の思っている神様とは「奇跡」ですね。 No.1さんのところでも書き込みましたが、こんなことが。。 と思うようなことを実体験すれば、神様の存在を信じて しまいます。 ご回答ありがとうございました。

  • yukigle
  • ベストアンサー率14% (9/63)
回答No.5

1、神様という共通な価値観を持つことにより、人間同士が団結する役割があります。 寛容なうちは幸せを導きますが、時として、相容れずに争いとなり不幸を招きます。 2、神様は偶像という形で実物はありますが、象徴であって実体は人間による想像です。 3、信仰者の、その神様が存在する、という根拠は、個々の狭義の主観からくるものです。 4、神様は信仰者を救ってくださるかどうかは、信仰者の信仰心の心意気によります。 しかし、仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、他人が関与した境遇によるもので、残念ながら、いくら信仰心があろうと例外的に無関係となります。 他にも、輪廻転生を信じ、自虐的になり、自殺や自殺幇助を受け自滅するは、生まれてもまた自死するがオチなので、当然、神様のご加護の範疇ではありません。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー なるほど、1、は宗教戦争のことの ようなものなのですね。 参考になりました。 ご回答ありがとうございました。

noname#111369
noname#111369
回答No.4

キリスト教などの事は解らない。 しかし、宇宙を作った神(宇宙の開闢を成し遂げた神?)や、 そして、人間が神業とも思える様な事を成し遂げて人々から神として称えられた人はいるハズだけどね。 そう、2種類の神の存在があるのでしょうね。 しかし、宇宙を作った程の能力を秘めた神は、人間には1つも干渉しない様ですね。 何か人間が願った事で神に叶えられた様な願いは在るかな?。 宇宙における法則をすべて構築した後は高みの見物もしていないのでしょうね神はね。 そう、科学実験の試験管とかの中で出来上がった宇宙が我々の宇宙なのかも知れない。 なので、神にも永遠に逢えないのでしょうね。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー なるほど。。 かなり神様の存在は難しいようですね。 いろいろありがとうございます。 ご回答ありがとうございました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

ユダヤ教は布教しないので、わかりづらいかもしれませんが、、、 私も理解しているとは言えないのですが、、、、 まず、私はチチンプイプイプーーイと奇跡を起こす神などの存在は 全く信じていません。 1. >人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? だと古代の人は信じて今もそれを遵守しようとしている。 世界最古の法律は、現在もその概念が生かされている。 ハンムラビ法典。 「目には目を、歯には歯を」です。 恐らくハンムラビは、以前からあったその倫理を、「これを法とする」とした最初の人だったんじゃないか と。 でも、ハンムラビ法典には、身分によって処罰が違った。 ユダヤ教にも「目には目を 歯には歯を」があります。 しかし、ハンムラビ法典と違うところは、身分により処罰が違うとしていないところ。 自由人だけではなく、奴隷に対しても愛の範囲は拡大されており、主人が奴隷の目を謝って潰してしまったら、年季があける前に、その奴隷を自由人にしなければならない という法律なわけです。 債務返済を完了していなくても、チャラにしなさい ってわけです。 さらに、同胞の中でも利害関係により対立する相手も愛するようにと説いている。 例えば、服を担保にお金を貸した相手が、嫌いな相手でも、夕刻までに返済できなければ、利子を取らず服を返してやりなさい なわけです。 さらには、社会の底辺にいる人にも、自業自得だとせず、救いなさいとしている。 さらに ここが一番超越した思想ですが、日頃敵対している異邦人のロバが荷物につぶされていたら、その異邦人とともに、ロバを助けなさい と説いている。 同胞のみに愛を与えず、敵対する相手にも愛を与える。 同胞する利害関係の一致する相手に対する愛は、、、フェリアだったと思います。 利害関係にある相手にまで及ぶ愛が、アガペー。 この敵対する相手にすら愛を与える行為が、争いを減らし、利害関係が不一致な者同士が、共存可能だと古代の人は考えたのではないか と。 例えば、イランとイラク 長年戦争していましたよね。 ところがイラクとアメリカが戦争をしたとき、イランはイラクを助けた。 ちなみに、イスラム教もユダヤ教が基礎です。 2. 要するに倫理のことだと思います。 3. キリスト教が起こって、ユダヤ人は神殺しの民族と2千年も苛められてきましたよね。 とうとう、ヒトラーの時代には、聖絶させられそうになった。 モーセの時も、海の際に追い込まれましたが、20世紀のユダヤ人も、どこにも生きる場所などお前たちには無い と際に追い込まれましたよね。 その時、日本人のある人は 海を裂きました。 ビザを発給して追い込まれたがけっぷちのユダヤ人に海を渡ら外国に逃がした。 これが、古代の人が形は見えないが存在していると信じているものなんじゃないかと。 宇宙とか、死んだ後行く天国にあるものじゃなく、我々の内部に存在している。 アリストテレスもそういう概念を持っていたと思えるんですね。 4. 理不尽といえばヨブですよね。 ヨブ以外にも、人を助けるために死んでしまった人もいる。 酒かっくらってやりたい放題やった人は、助かっている。 神も仏も無い 結局 強いものが生き残る不条理な世の中だ と絶望しても、答えは見えてこない。 神の前に立つ とは、もう何も失うものがなく、頼るものは神しかいない なんとかして助けてくださいよ あなたしかいないんですよ と全身全霊で神に向き合う態度が、神の前に立つってことじゃないか と。 これを貧しい人 といいます。 貧しい人ってのは貧乏って意味じゃあない。 ヨブのように 全身全霊で神に向かうしかなくなってしまって、神に真剣に向き合った状態を、心が貧しい といいます。 今までそんなことなく暮らしていヨブでしたが。 ヨブは悲惨な目にあって心が貧しくなる行為をした。 「神よ 私が一体どんな大それたことをやったから こんなむごい目に遭わせるのですか。私はその理由がわかりません。 馬鹿な私を哀れんで、どうかその理由を教えてください」と真剣に神に向かった。 で、やっと神と向き合ったことで、ヨブは十分納得する発見を得たわけです。 心が貧しくならなければ、発見できなかったこと。 でも、奇跡を期待して信仰している人だと、ひどい目にあったとき、信仰を捨てることになる。→神の前に立たない。 十戒ってのは、神とイスラエル人の契約とか言われますが、契約と日本語に訳されていますが、現代使われている契約の意味と、ちょっと違う。 十戒を読み上げるだけでは、契約していることにならない。 戒律を口先だけに留めず、実行することが、契約しているってこと。 と、私は理解するんですね。 契約とは神を信頼すること、律法を守らないことは、神を信じていないってこと。 律法は契約で、律法を実行するってことは、神との契約を実践しているってこと。 表現 難しいですが、、、 5-10は人の間の法律ですが、結局 律法を守ってその通りにするってことは、第一の 契約を守っていることに繋がるわけです。 だから1-4までやっていればいいってもんじゃない。 5-10をやることは、神との契約を守っているってことで、実践することで、争いが起こっても、和解できるってこと。 逆に律法を1つでも否定するってことは、神を不信しているってこと。 信頼するに値しないと、心の隅で思っているってこと。 で、キリスト教の場合は律法の多くを否定したので、神を信頼していないってこと。 不信に思った結果 どういうことを引き起こしたか。 アベル(ユダヤ人)を殺したカインになってしまったってこと。 で、神を裏切り続け、不信を続けているってわけです。 神を信じるってことは、神と契約をしそれ(律法)を実践をすることですが、律法を否定した段階で、神を信じていない と宣言したってことです。 だから、アベルを絶滅させようとしてしまう行為を引き起こしてしまった。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー ユダヤ教のご説明ありがとうございます。 ユダヤ人を逃がした日本人は、杉原千畝さんの ことですね。 参考になります。 ご回答ありがとうございました。

  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.2

>>1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 人間に「幸せ」あるいは「幸福」を味わってもらうための舞台作り、裏方って感じでしょうかね?もちろん指導すれば、人間がやるよりもずーと良い結果になるでしょうけど、そういうふうに神さまから指示される世界を人間が「幸せ」と思うかは疑問がありますからね。やはり人間が自分で決めて、自分で責任を引き受けるってほうが、良いのでは? >>2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 実態はあっても、次元が違うから、ほとんどの人間には、直接認識するのは無理みたいです。 >>3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 一部の霊感あるかたは、「現に声をきいたし、目でも見た。神さまがいるのは、机の上にノートがあるように普通なこと」みたいですが、そうでない多数派の普通人は、「信じる」しかないでしょうね。 >>4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? 神の価値観は、人間の価値観とはちょっと違うようです。奴隷解放のために頑張ったリンカーンも、暗殺されましたからね。新しい日本への道筋を描いた坂本龍馬も刺客によって、酒盛りの最中に暗殺された。一仕事成し遂げた人間の最後(死に様)に関して、神さまはあまり気にしないみたいです。(ダイアナもそうかな?) でも、信仰によって救われる人が沢山いるのも事実ですね。過去のイエスの病気直しは事実みたいですからね。彼は若いとき、エジプトやインドに留学して、ヘルメス思想や仏教等を学部と同時に、空中から魚・パンを出す秘技もマスターしたようです。 >>また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 一人一人の運命をどう見るかは、なかなか難しいようですよ。世の中に警鐘を鳴らすために、あえて自分から生まれる前に、殺される運命を選んだ人もいるでしょうし、過去のカルマの清算ってのもあるかもしれません。ヘレンケラーのように、自分から望んで障害者として生まれて、多くの方に勇気を与える人生を選ぶ方もいますし、逆に過去世の殺人行為の清算っていう意味で不治の病にかかるってのもあるかもしれません。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー 長文でのご説明まことに恐れ入ります。 私のような素人にも、よくわかるご説明 助かります。 また、よろしくお願いいたします。 ご回答ありがとうございました。

  • kickknock
  • ベストアンサー率31% (207/661)
回答No.1

すべて、答えれるわけではありませんが。 1.幸せにすると言うよりも、不幸な立場を普通の日常に戻してくれる存在であると考えています。 呼吸が出来て、歩けて、食事が出来て、仕事が出来て、余暇が楽しめて、家族がいる。 こんな普通のことを感謝する為に。 2.実物はありますが、人間が見えるものではないです。 たまに、霊媒のなかに入ってきて、ご指導してくださるときもあります。 3.存在する根拠は、科学的に説明できないことを現実に引き起こしているからです。 私の場合は、黄色水晶が、うす黄色に変化しました。 息を吹きかけただけです。 同じ色の水晶を、息を掛けるだけで変色。 これも一回じゃないです。最低三回は経験しています。 その他、掌から熱を持ち、ヒーリングを行うことが出来たり。 見えたことが、現実に起こったりと。 4.信仰者を救いますよ。 というより、神ではなく守護霊の力が強くなって行くのです。 信仰により、何故強くなるのか、地球上の学問では解明されていませんが。 通り魔でお亡くなりになられた方は、寿命であったと考えています。 もしくは、犯人の悪霊が強すぎたため、優しい人ほど、悲運に見舞われたかと。 優しい人は、守護霊も優しいです。 怒りっぽい人は、守護霊も怒ってばかりです。  まるで、全部見てきたかのような書き方で申し訳ないですが、こればっかりは、経験しないと、疑念だけしか残りません。 私も全員に信じて欲しいとは思っていないですし。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー いろいろありがとうございます。 以前私の母が、目の手術をした際にパニック障害に なってしまい、それが数ヶ月も続いてしまったため 母は友人から神様の信仰を勧められました。 そしたら、うそのようにパニック障害が治り、 私は以前お付き合いしていた彼女が、パニック障害 で、心療内科によく連れて行っていましたので よくわかるのですが、程度の差はあれ、そんなに 急に簡単に治るものではないのです。 これは、神様が救ってくださったとしか説明の しようがない、不思議な体験をしました。 ご回答ありがとうございました。

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     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 神様は存在しますか?

    まず、私の考えをいいますと・・・ 神様は存在しないだろうと思っています。 これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。 神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。 だから厳密にはどちらとも言うことはできない。 でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。 存在しなそうという根拠は 1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。 2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。 神様説に対する反論として・・・ 神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。 1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。 2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。 「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。 ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。 念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。 論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。 以下、余談になります。 神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。 私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。 私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。

  • 神は完全ではありえないのでは?

     キリスト教等の一部の宗教では、神は完全なる存在と見做されている場合があるようですが、果たして神は完全な存在と言えるのでしょうか?  もしも、完全な存在というものが存在するとしますと、それはその存在のみで自己完結した存在でなければならないと思います。  己のために、何か己以外のものを必要とする様な存在は、完全な存在とは言えないと思います。  ですから、完全な存在は、己以外のものを必要とする事は無い筈です。  又、完全な存在である以上、他の存在に影響されるなどという事も無い筈です。  又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して敢えて働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を敢えて受けたりする必要はない筈です。  又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。  ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。  つまり、完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。  しかし、キリスト教を始め、多くの宗教においては、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。  又、上記のものとは異なる性格を持つ神を信仰している宗教においても、神は人間との間に、何らかの関わりを持っている場合が殆どです。  もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事になるのではないかと思います。  この「神は不完全ではないのか?」という命題に、「キリスト教等の『神は完全なる存在』としている宗教」や「その様な宗教から1歩離れた視点から考察している哲学者」は、それぞれ、どの様な考えから、どの様な結論を得ているのでしょうか?  もし、御分かりになるのでしたら、その考えと結論は、どういった立場の何という人物の考えなのかという事も、併せて御教え頂けたら幸いです。

  • 神に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか

    宗教は特に研究していないのですが素人ながらに以下のように例えます。 1、神様私は罪深いです。どうかわたしを罰してください。 2、神様私は罪深いです。どうかわたしをお救いください。 信仰に盲目的であるならば、私の場合は1でした。 私に言わせれば、2の「お救いください」を面倒見るのは人間同士の互助のみであり、救いの言葉を探すとしたらお釈迦様なりイエスさんなり、元人間の神様の象徴のみから探る事になるでしょう。 無神論のお釈迦様は人生を謳歌しましたが、イエスさんの方はいけにえになりました。 そもそも人間同士でお互いに和解して助け合えば、神の救いは不要ではないでしょうか。 お互いに愛し合いなさいと言うではないですか。 神に助けを求める「お救いください」は、経験世界のみの事柄を指していて神様の関知しない自由意思の範囲内の事柄ではないでしょうか。 このように考えて神なり仏なりに救いを求めるのは無い物ねだりであり恐れ多い事ではないか。 さらに自然に人間同士の互助により解決すべき問題となるので、宗教や派閥が勃興して互助と和解が成立するまで争い続ける故に、個人の信仰の範疇では収まらない争いの火種ではないか。 はっきり言いましょう。 「お救いください」は、悪意が存在します。 以上のように考えました。 御意見をお待ちいたします。 なお、年末なので毎日ネットに接続するとは限りませんので、お礼の返事は遅れたりぶっきらぼうだったりします。

  • 神が何をしてくれたのか?

    神を信じていない人たちの理由としては、 神が一体我々に何をしてくれたのか? と、いうことがあると思う。 神は人間のどんな危機にも干渉しない。 誰がどんな目にあおうとも、正義が悪に負けようとも、 神を信じているものが、どんなに祈りを捧げても、 神はあらわれない。奇跡はおこらない。 神が人間をつくったのか、どうかはしらない。 偉大な力を持っているのならそれでもいいだろう。 が、しかし何もしてくれない神を崇拝するのはなぜか? 罪もない人が理不尽に事故や災害で死んでいく現実を 考えると、仮に神は存在したとしても、神は慈悲の心は 持ち合わせていないのではないか、と僕は時々おもう。 クリスチャンのかたに神が我々に何をしてくれたのか 教えていただきたい。 何卒よろしくお願い致します。