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本質が変化する刺激を加えない限り理解しない子供と青年

 今回は今までの概念を覆す質問します。  叱る、説教をする、教える、このような大人の外的な躾(しつけ)は実は子供には効かないのではないかと考え出すようになりました。  とある場面で子供がしかられている場面を見ました、そのあとこっそりと子供の輪の中を覗いてみると、発揮し言って怒られた事はないことになってました。どういうことか言いますと、怒られたことは全く無関係でただの対処であり、もはやその時のみの話であって、それ以降はないというものでした。まあ予想通りでした、その子供の雰囲気を感じて、これは無理だぞと感じる子供でしたのでその予想通り、その場しのぎで大人が勝手に自己満足をしているだけでした。  発揮し言ってこれが現状であり僕の予測でいけば9割近くは本質的に反省しているとか躾が上手くいっているという事はないと思います。はたから見て上手くいってるように見える子供はいますが、その子供も僕からしてみたら、節制仮面を被った大人の目の前だけ子供もしくは青年です。  つまり本質型のタイプは幾ら表面で説得しようがほぼ見に付いていないだろうと思われます。  この本質型タイプは大きく分けて2パターンだと推測できます。一つ目は、本能型、もう一つは本能の中の雰囲気型です。本能型は分かりやすいと思いますが物事の中心軸が本能ですので本能の変化が無い限り行動と直結しないという子供です、つまり本能と行動が伴っているタイプということになると思います。二つ目の雰囲気タイプですが、このタイプは躾が効かないというより躾が効いていても、その場の雰囲気に流されやすいので、躾が本質の心理によってかき消されるタイプだと思ってください。  この両者が共通していることは両方とも本能を中心にしているということです。  この手のタイプに対してはいくら躾しようが文句言おうがその場しのぎで終わるだろうと思われます。つまり大人の自己満足と子供のその場しのぎだけが達成され子供の躾に関しては何一つ達成されていないのではないかと思います。  最近、無視躾みたいな感じのセミナーのHPを覗いているのですが、そこに書いてあることは人間の動物理論に乗っ取った感じでした。つまり本質を刺激して躾を成功させるセミナーという事です。 これを観た時、「あー、やっぱりか・・・」という脱力的感覚を覚えました。  なにが「やっぱり」なのかと言いますと、本当は今まで大人は子供を理解出来ていなかったという事です。躾が上手くいっていた時代は、躾が良かったのでなく、雰囲気が良かっただけであり、その雰囲気に釣られてスーパーエゴ(詳しく知りたい人は※へ)が形成されていったが故に、あたかもその時代の躾の仕方が良かったかのように見えただけであり、本当はTV情報やら人間の雰囲気やら、時代背景などの他の要素があったからであり、その複合体として、その当時の躾が肩を利かせていたのであって、それは本質を刺激する複合体であったが故に上手くいったんだという事です。  つまり、本能や本質を今まで複合的刺激が変化させていったが故になんとか上手く行っているわけであり、決して躾そのものが良いわけではないわけです。躾そのものが良いという考えはもはや大人の錯覚であり、躾が良いからスーパーエゴが見に付いたのではではく、本質が変化しない限り、躾は大人の自己満足と子供のその場の危機を回避したという子供の本能満足にしかいたらないという結論がでました。  もし僕のこの予想が正しいとすると、本質を刺激する躾となる場合、環境を変える、子供を騙し偽りの流行と偽りの常識と偽りの現代雰囲気の中で暮らさせなおかつ、大人に暗示を掛けその偽りを偽りと子供と青年に悟られないようにし、ある種日本を2分化し半分は子供と青年、半分は偽りのないまともな現代社会を作り、大学入学と共に現代社会と違和感無く融合させるとというとてつもないことをしない限り、とんでもないことになるのではないかと思っているのですが、どう思われるでしょうか?みなさんの意見が聞きたいです。参考意見という形で回答頂ければ幸いです。(討論はここは禁止されているので討論形式の回答は控えていただけるようお願いします。) ※http://www21.ocn.ne.jp/~sfreud/sem/tyukyu/tyukyu5.htm ちなみにこれをとてつもなく噛み砕いて説明するとエロスを浄化させた後、その反動で死の欲望が促進される、その死の欲望は自我と直結しスーパーエゴが発生するということである。

みんなの回答

  • umemomi
  • ベストアンサー率23% (190/805)
回答No.4

「発揮し」言って、的外れな考えだね。 偽善・理想を追求するのが人間なんだよ。 君には難しいかな?

noname#82286
質問者

お礼

はい難しいです。なにか次元が違う回答なような気がします。 ありがとうございました。

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.3

いやね、小難しい心理学の言葉を並び立てる前に、もう少し当たり前のことを考えましょうよ。 人間関係の原則は、信頼関係にあると私は思います。 同じ小言でも、普段接点のない近所のオッサンからされるのと、信頼関係のある親や祖父母からされるのでは、受け取る側の子供も少しは態度が違ってきます。 あと、大人の側から子供の方に歩み寄る努力も必要。 よく言われることだけど、相手の目線に合わせること。 これは物理的に姿勢を下げるということの他にも、相手の知力に応じた話し方が大事です。 子供は大人より知力が劣っていることが多いから、大人の方から一方的な話をしても、子供は聞くふりだけしてやり過ごすことなど、よくある話です。 お釈迦様は、法を人に説く時、相手のレベルに合わせて話の内容を変えました。 これを待機説法といいますが、子供に説教する際にこの原則を知らない大人がほとんどなので、子供が大人の話を聞かない・聞くふりだけするのも、これまた当たり前なのです。 心理学の勉強もいいけど、早く結婚して自分の子供をもってみたらいいですよ。 100の小難しい議論よりも、肌と肌をつきあわせる子育ての中から、学べることもたくさんあるのですから。

noname#82286
質問者

お礼

お礼遅れました。 待機説法が出来ていない。これはあるだろうと思います。 回答ありがとうございました。

noname#82286
質問者

補足

>人間関係の原則は、信頼関係にあると私は思います。 同じ小言でも、普段接点のない近所のオッサンからされるのと、信頼関係のある親や祖父母からされるのでは、受け取る側の子供も少しは態度が違ってきます。> ここですよ、これなんで違うんだと思いますか? 育った場所や人が違うからですよね? なぜこのように違うものに対して躾が効いたり効かなかったりするのかということを考えるとそれは本質的な刺激が違うと考えるのが妥当だと思うんですよ、育った場所の主から躾されれば衣食住の本能の根源との直結が絡んでいる存在に対しての恐怖が発生すると思うんですよ、そうなれば躾が上手くいくという話はありえると思います。つまりこれは躾そのものではなく本質に刺激を加えたということになるんですよ。そう考えると躾そのものではないと考える事が出来るんですよ。 やはりそうなると躾そのものがよかったのではなく本質を刺激する躾であったということになると思いますね。 またなにかありましたらどうぞ。

  • v7nV1dZjx
  • ベストアンサー率10% (7/64)
回答No.2

まず無理でしょう。他者が他者の本質にせまれはずはありません。

noname#82286
質問者

お礼

お礼遅れました。 まず無理でしょうというのは何を指しているのか分からず素通りしてしまいましたが、本質に迫れるか迫れないかという点でしょうか? その場合本質に迫れる人もいればそうでない人もいるということだと思います。ただ意図的に迫れる人というのがいるかという疑問もありますね。 回答ありがとうございました。

回答No.1

結局、他人のエゴだと思いますよ。 結局、大人のエゴで、子供をそのように導く。 また、大人たちも、エゴとエゴでぶつかってますし。 だから、そのエゴに関りたくないから、逃げるのです。

noname#82286
質問者

お礼

お礼遅れました。 まあそいう一点もある人にはあるんだろうと思いました。 回答ありがとうございました。

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