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聖書 ヨハネII9~11の解釈

日本聖書刊行会の新改訳聖書 ヨハネII9~11の解釈について教えて下さい。できれば純粋なプロテスタントを信仰している方にアドバイス頂きたいです。 この御言葉は、一度背信した者を決して受け入れてはいけないという意味なのでしょうか?それは家族であってもそうなのでしょうか?この世でいう家族よりも神の家族が優先するのでしょうか?

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  • 回答No.1

聖書には異端を警戒するようにあちこちに書かれてありますが、既に異端が入っている教会に宛てられた手紙があります。ガラデヤ書とヨハネ2書です。                                                                                           7節で「イエスキリストが肉体で来られた事を是認しない者達は惑わす者であり、敵キリスト」だと言われています。                                                                                                           9節「罪を犯してキリストの教理の中に留まらない者はみな神様が居ないけれども、キリストの教理の中に留まる人は御父と御子がいる者です」。7節の人は罪を犯してキリストの教理の中に留まらない者であり、彼らには神様が居ないのです。                                                                                                 神様になるキリストが肉体で来られた事を是認しない代表的な異端はエホバの証人だと言えるでしょう。                                                                                                             10節、11節はこのような人を家に迎え入れず、御機嫌を伺ってもならないと言われます。                                                                                         新約であるキリストの教理は「神様になるイエスキリストが肉体でこの世に来られ、私達の罪の身代わりになって処刑され、三日目に復活された事」を心から信じる事です。                                                                                                                    旧約は律法を守れば救われるという約束です。                                                                                                        新約はキリストの教理を信じると救われるという約束です。                                                                                                    ガラデヤ教会はこのキリストの教理をよく信じていました。そこに、ある人々が入って来て「イエスキリストが貴方達の罪の身代わりになって死なれ、三日目に復活された事を信じる事は立派です。今からは律法を守る事によってその信心を硬く守りなさい」と教えました。                                                                                                    結局、律法を守れば救われるという旧約の教理になってしまったのです。                                                                                                これが、高度な悪魔の計略なのです。                                                                                                                  ガラデヤ3:1「おお、愚かなガラデヤ人達よ、イエスキリストが十字架に処刑されたまま貴方達の目の前にはっきり提示されたのに、貴方達が真理に従順出来ないように誰が貴方達を惑わしたのですか?」                                                                                                   新しい約束はただ信心によって救われます。この信心に律法を加えるとそれはキリストの教理では無く、悪魔の教理なのです。                                                                                                      キリスト人だと言う多くの人々が実は神様とは何の関係も無い悪魔の僕なのです。                                                                                         「神様の御前で律法によって義があるようになる人は誰も居ない事が明らかです。それは{義人は信心によって生きる}としたからです。ガラデヤ3:11」

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    キリスト教(カトリックかプロテスタント)のキャラクターや、神への信仰や聖書の引用などがセリフに出てくる洋画はどのようなものがありますか? 悪魔信仰とか、特殊な宗教団体の作った映画ではなく、カトリックかプロテスタントのどちらかのうちで、たとえば「最高の人生の見つけ方」や、「チェンジリング」「グラントリノ」のような、くどすぎない程度の、信仰が物語の進行中に見え隠れする(セリフに「神」の名や、聖書からの引用などが出てくるとか)映画を希望しています。 (全体の8割りがたがそういったセリフが出てくるものでも、1割未満でも、とにかく出ているものならなんでもいいです。) 人生の苦悩をテーマにした物語の中に、そういったセリフが入るものだとなおうれしいです。 ご存知の方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします!