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人間以外の生物は即自存在?対自存在?

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  • 質問No.39077
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サルトルは、石が石であるような在り方をすることを即自存在と言い、それに対して、人間のように自分を決定的に根拠づけることができないような不安な在り方をすることを対自存在と言ったそうです。
そこで質問なのですが、人間以外の生物(動物や植物など)の場合は、即自存在と対自存在のどちらになるのでしょうか?
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  • 回答No.1

 難しいですね。が、おそらく、サルトル本人だったら「動物・植物は対自存在ではない」と答えるのではないでしょうか。というのは、それ自体として存在している即自存在が、「世界」という虚無の中に投げ出されて、そこで「それ自体ではないもの」という対自存在へと分裂するわけですが、これはその存在が「自己意識をもつ」ために起こることだからです。「即自かつ対自」という果たされることのない再統合を目指しつつ、「まだそれではないものになる」という脱自を生きていく…というこの過程、これも「自己意識」があって初めて意志的な過程になるものでしょう。とりあえずサルトルの視野に入っているのは「人間だけ」ということになろうと思います。
 しかし、植物はいいとして、動物が「自己意識を持たない」と断ずることには、僕個人はためらいを感じます。人間に比べて、はるかに単純で素朴かもしれませんが、非常に原初的な形では、動物たちにも「自己意識」があっておかしくないのではないか、と。だとすれば、対自存在に動物を入れることも、まったく不可能ではないでしょう。
 これに関連して、このコーナーの少し後ろの方にある「人間って、なんですか?」という質問に対するozapanの回答も、もしよろしかったら参照してください。
お礼コメント
noname#191804

ご回答どうもありがとうございました。ご紹介いただいた「人間ってなんですか?」というQ&Aも大変参考になりました。
なるほど。人間の場合は、ホモ・サピエンスとしての在り方を即自存在、意識のレベルでの在り方を対自存在と考えるべきなのですね。
私もあなたがおっしゃるように、猿やイルカやカラスなど高い知能を持った動物たちは人間に近い在り方をしているのではないかと思います。また、ホモ・サピエンスであっても、生まれたばかりの赤ん坊や重度の知的障害者、文明以前の原人やアマラとカマラという狼に育てられた少女たち(*1)について考えてみると、やはり簡単に線引きできる問題ではないような気がします。

ところで、この質問をした経緯について少し述べたいと思います。私は普段は哲学書などほとんど読まないので、サルトルがどういう人かも実はよく知りません。しかしつい先日、柄谷行人氏の「倫理21」という本(*2)を知り、その本の次のような箇所を読んで『石と人間じゃ極端だなぁ。』と感じたことが、この質問をしようと思ったきっかけです。

“カントが自由を義務として見たのに対して、サルトルは、「人間は自由という刑に処せられている」といったのです。
 サルトルは、石が石であるような在り方をすることを即自存在と呼びます。それに対して、人間は対自存在、つまり、在るところのものではなく、在らぬところのものであるような存在の仕方をする。それはたえず不安な在り方であり、自分を決定的に根拠づけることができないような在り方である、と。だから、ひとはここから逃れようとする。たとえば、石が石であるように、自分は白人であり、男であり、フランス人であると考える。しかし、それは自己欺瞞であって、人間は根本的に自由であるという条件をまぬかれないのだ、とサルトルはいうのです。”

ちなみに、私がこの本を読んで思ったのは、自分の考えていることなどまだまだ未熟で甘いのだなということでした。
私はこれまで倫理というものを幸福主義的/功利主義的なものと考えていたし、人間が持っている攻撃性に関しての認識も甘いものでした。たぶん、私はこれから何度もこの本を読み返すだろうと思います。また、多くの人に広く読まれて然るべき本であると思いますのでお勧めしたいと思います。

参考URL
*1 http://www.sinri.co.jp/sinri/library/l7.htm
*2 http://www.nam21.org/book/rinri21.html
投稿日時 - 2001-02-12 06:35:13
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  • 回答No.2
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「即自」と「対自」はどちらも「存在」の様態です。日常の私たちは「有る」になんの疑問も感ぜずに暮しています。対自存在とは、ひとたび「有る」とはどういうことかと反省的に思考したときに、「ものとしてある」という存立様態以外に立ち現れる「それ以上のありかたとしてある」存立様態です。ですから基本的には世界を世界として根拠付ける、ハイデガーのいう「現存在」のあり方に対しての概念です。  「意識」という言葉を使うと、 ...続きを読む
「即自」と「対自」はどちらも「存在」の様態です。日常の私たちは「有る」になんの疑問も感ぜずに暮しています。対自存在とは、ひとたび「有る」とはどういうことかと反省的に思考したときに、「ものとしてある」という存立様態以外に立ち現れる「それ以上のありかたとしてある」存立様態です。ですから基本的には世界を世界として根拠付ける、ハイデガーのいう「現存在」のあり方に対しての概念です。
 「意識」という言葉を使うと、自然界のありとあらゆるものを無機物から原始的生命、菌類、植物から動物、人間、はたまた人によっては霊的高位者までに階層を設けて「程度」を分類したりします。ともすると恣意的になりがちなそのような場所からではなく、「哲学的態度」で人間を考えるときに「対自存在」という概念が有効であるとサルトルは考えたのです。
 また、サルトルの考え方とは若干ずれますが、人間は「即他的」と「対他的」とも言われる意識状態を経験することがあります。母親が、子供が事故にあう瞬間に経験するような、まさに子供自身の「身」に即しての意識が「即他」、格闘技などで自分を「無」にして相手の「心」の動きのみに意識を集中しているときなどが「対他」の例です。意識は「心ここにあらず」の状態を日常的に経験しますが、「対自存在」が人間の基本的な存在の様態だとサルトルは言っているのです。
 ではなぜそうなのでしょうか。私の考えでは世界が基本的には「苦」であるからだとサルトルが考えているからです。人間の歴史は「苦」の連続でした。なかんずく第二次世界大戦はジェノサイト、強制収容所など、人間に対しての絶望を思わせるに充分な体験でした。そのような状況にあってなおかつ絶望ではない道が人間には残されているのか、の答えが「対自存在」という人間のあり方です。
 坂道を転げ落ちる石、猫、人間。現象的には同じではあっても、その坂道をいつかはどうにかしようと考え続ける人間に「希望」という光がさします。確かに「対自存在」は「神」によって支えられていない「不安」を抱えていますが、逆に「今この場所に本当の自分はいない」という未来への「絶えざる問いかけ」を糧に持続できます。
 ご質問の趣旨からは逸脱していますが、サルトルがなぜ「対自存在」という概念に重きをおいたかの参考までに。

 しかし、弱い私はいっそ石になりたいと思うのでした。
お礼コメント
noname#191804

ご回答どうもありがとうございました。
私は、「意識」の必要条件となるものは「脳」であると思います。ですから無機物の意識と言われてもちょっとよくわかりませんでした。また、「則他」「対他」という概念は存在の様態ではなく、単に思考ではないでしょうか?

しかし、あなたがおっしゃるように、生命種を意識の「程度」で分類することにはあまり意味はないのだと思います。私の興味は「分類すること」にあるのではなく、人間とそれ以外の動物を「対自存在」という観点で見た時に明確な違いがない部分もあるのではないか、という点にあるのです。そして明確な違いがないからこそ、教育や倫理が必要なのだと思うのです。

また、私はあなたがおっしゃったような自然界のありとあらゆるものと人間とは、即自存在という在り方によって繋がっているのだと考えています。即自存在という在り方によって一体であるからこそ、環境問題は私たち自身の問題であると捉えるべきなのだと思います。
投稿日時 - 2001-02-14 06:35:15


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