• 締切済み

記憶は浄土にもっていけるの?

ひとは死んだあと、生前の記憶を極楽浄土に持っていけるんですか?    科学的に、記憶って脳のなかにありますよね。    どっかの仏教の本に、「私が死んだら、生前の思い出ばなしを、先に死んだ親などに自慢したい」とかいてました。    でも、死んでしまったら脳の機能も止まるじゃないですかぁ。 そこんとこ、仏教ではどうなっているんでしょうねぇ。 どなたか詳しいかた、お願いします。

みんなの回答

  • p88689
  • ベストアンサー率20% (31/149)
回答No.5

NO.1さんの回答でいいように思いますが。 仏教では、 体が死んで、脳も死んでも、 生前の記憶を極楽浄土へ持っていけると説いています。 記憶は脳の中だけにあるわけではないので。 ちなみに。 極楽じゃなくて、地獄へ落ちても 生前の記憶を持っていけます。

  • Us-Timoo
  • ベストアンサー率25% (914/3620)
回答No.4

あれ?おかしいなぁ・・・ >記憶は浄土にもっていけるの? というタイトルで >そこんとこ、仏教ではどうなっているんでしょうねぇ。 というご質問だったので、ご質問者様のお尋ねになりたいことが ”「仏教での教え」に対する問い”なのだろうなと思い、 わたしの知っている範囲で仏教での考え方を書いたつもりだったのですが… >宗教では、その科学や哲学でわかったことを何に使うかを指導するものだとアインシュタインはいっています。 >科学や哲学で導き出された結論を、戦争に使うか、私たちの生活を便利にさせるかは宗教しだいです。 >「記憶」は脳にあるという科学から導き出された結論。 >しかし魂に刻まれた記憶は別。 >それがどうだこうだという問題です。 科学の観点からのお話だったのでしょうか? 科学や生物学的なご質問であれば、No.2のかたのご回答が相当すると思いますが・・・ わたしも、いろいろな宗派の住職さんやお坊さん、ご熱心な門徒さんと 関わりがあってお話をお伺いすることがありますが、ご質問者様のような 考えをもって、人の心や道を説かれる方は一人もいらっしゃいませんでしたが… まぁ、ご質問者様の意図を文面から正確に汲めなかったわたしが悪いのでしょう。 どうも、すみませんでした。

  • code1134
  • ベストアンサー率20% (703/3370)
回答No.3

ある週刊誌の広告に"保険は試してから買う事が出来ぬ"旨のキャッチがあったのですが、質問者さんが"仏教に興味があるか否か?"に拘らず、質問者さんの心肺機能が完全停止後でなければ >極楽浄土へ持っていける、か? は誰にも皆目判らぬ、のが偽らざる現実ではないでしょうか? 尚、英語では「(人間の~の意の)"mortal"は死すべき~と同義ですから、早まる必要は一切ありませんが、(NO2さんの指摘通り)質問者さんの視点で納得し得る人生を歩まれたら・・・とは感じますね http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=mortal&kind=all

  • shinmailg
  • ベストアンサー率51% (60/117)
回答No.2

面白い質問ですねw 私見ですが、記憶は脳のニューロンネットワーク自体なので、死んで脳細胞が失われれば消えます。仏教でも、記憶については聞いたことがありません。 人間の脳の容量は、100TB(100000GB)と言われていますから、そんな大容量のデータをどうやって浄土に転送するのか……。最新のHDD100台分ですよ。私は魂なんて無いと思いますし、死んだらそれまでだと思います。だからこそ人生、楽しみたいものです。 おかしな宗教にはまると、「お金も時間も失います」よ。

  • Us-Timoo
  • ベストアンサー率25% (914/3620)
回答No.1

科学的・生物学的な話と、宗教という非科学の世界を同列で並べて ごっちゃに考えること自体ナンセンス。はっきり言って、話が成り立ちません。 仏教では「記憶」という概念では語られませんし、それだけを別で考えるということもしません。 「人間の根本になるもの」を「魂」という名前で呼びはしますが、それが 生命の根本というものでもなく、それとは別に記憶があるということもありません。 その人が死ぬとその人の肉体ではない部分の、意識・人格・心などがひとつの魂となって 浄土へいく・天に召されると考えられているので、その中に刻まれたものが 記憶に相当するものだと考えるべきではないでしょうか?

buddhism08
質問者

補足

科学とは、ものごとを分別して考える学問です。 哲学とは、物事と全体的に考える学問です。 両者もものごとの考える過程が、分別か全体かのちがいであって、思考の対象となる事実は同じなのです。 宗教では、その科学や哲学でわかったことを何に使うかを指導するものだとアインシュタインはいっています。 科学や哲学で導き出された結論を、戦争に使うか、私たちの生活を便利にさせるかは宗教しだいです。 「記憶」は脳にあるという科学から導き出された結論。 しかし魂に刻まれた記憶は別。 それがどうだこうだという問題です。

関連するQ&A

  • 極楽浄土の思想について

    極楽浄土って、いつごろからどのようにして発生した思想なんでしょうか? 仏教におけるポスト天国となる極楽浄土ですが、他の3大宗教に比べるとその位置づけが微妙な気がします。 仏教全体で見ると、あまりにも「極楽」へいく事が目標とされてない機がします(あくまで個人的な視点ですが)。 もっともエンドユーザである氏子からみたら全部同じかもしれませんが。 極楽へ行く事を前提としてる宗派は浄土宗とその派生ぐらい。 他の宗派ではあまり主張されてません。 死生観に関わる事だし、こうも主張が少ないと、浄土宗オリジナルの考え方で本来の仏教思想とは違うんじゃないかな、と邪推してみちゃったりします。 が、経典にも極楽浄土の話はあるそうだから、少なくとも原始仏教の段階で似たような概念はあったのかな? またその思想があまり仏教っぽくないと思うのも、疑問に思う一因です。 そもそも悟りを得て解脱する、という所から始まったのに、極楽浄土に着陸するというのがいまいち繋がらない。 解脱の果てに極楽に到着するという事でしょうか。 質問が曖昧ですみません。 つまる所、極楽浄土って思想が仏教っぽくないんだけど その思想が出来た過程があったら知りたいな、という事です。 よろしくお願いします。 (ちなみにこちらは新書数冊で学んだ程度の知識しかありません)

  • 極楽浄土と地獄の逸話・・・???

    極楽浄土と地獄の違いにまつわる中国の仏教逸話だったように思うのですが、 「極楽と地獄でどちらもふんだんに食事が用意されていて それを食す方法は1つ1メートルの箸(スプーンだったかな?)。 地獄の亡者たちは何とか食べようとするけどうまくいかず、 いつも飢餓感に苦しんでいる。 ところが極楽の住人は「どうぞ召し上がれ」と互いに食べさせあうから いつもお腹いっぱい、心も平安にみたされている」 というような話は何か本に載っているのでしょうか?

  • 浄土教が仏教である証拠

    浄土教は仏教と言えるのか?ということは誰もが一度は頭に浮かぶ疑問だと思うのですけど、ここで知識をお借りしたいと思います。 やはり釈尊が説いた元祖仏教とは異質な物であることは否めないと思うのですが、私自身が釈尊が好き、法然・親鸞が好きですので、どうしても浄土教は仏教であって欲しいと思っています。 加えて、少し前に読んだ本に「浄土教はキリスト教と似ている」という文言があったのでショックを受けてしまいました(仏教は非科学的な聖書に頼らず合理的であるという点でキリスト教に優越していると思い、誇りに思っていたので)。 そこで、釈尊の元祖仏教と浄土教との間にこういう思想的・行動的共通点があるよというような例がありましたら教えていただきたいと思います。 文献的・学問的な面からの具体的共通点が欲しいと思っていますので、「救われるならいいじゃないか」くらいの回答は申し訳ありませんが御遠慮ください。 よろしくお願い致します。

  • 危険な浄土真宗

    浄土真宗の知人が言ってたんですけど、仏教を聞かない者は地獄に堕ちるそうです。なぜなら、我々は呼吸で微生物を殺し、何かを食べては植物や動物を殺しているからだそうです。だから、悪ばかり作ってるから、地獄行きみたいです。でも、仏教を聞いて阿弥陀仏の救いを得られれば、死後に極楽浄土へ行けると約束されるらしいです。それに加え、生きている間も安心大満足だそうです。しかも、ヒットラーやフセインみたいに、極悪非道な大量殺人をしても、阿弥陀仏の救いがありさえすれば問題ないみたいです。つまり、この知人の話では、阿弥陀仏が救ってくれるから、何しようが構わないみたいなのです。正直、こんな危険な思想の持ち主は何をしでかすか分からないので、もう関わりたくないです。 そのうち、とんでもない悪事をしないことを祈るばかりです。 これが浄土真宗であるなら、とても危険な思想です。 本当の浄土真宗はこんなんじゃないという人がいましたら、是非ご意見をお聞きしたいです。

  • この世で悲しむことで生命を磨くために生まれるの?

    人は人界と極楽浄土を行ったりきたりしています。(「輪廻のはなし」より) 極楽浄土が快適ならなぜ人界に来る? それは、死をとうして悲しみ、人に優しくなるため、と「輪廻のはなし」には書いてありました。 しかし、この世で悲しんで生命を磨いても、次に生まれたときには、記憶が消されているのだから意味がないと思います。 そのへんがよくわかりません。 この世にはどんどん新しい人が生まれています。 しかし、生まれる前の記憶があるという人はほとんどいません。 だから不思議なんです。 輪廻、解脱について、そこんとこを教えてください。

  • 我が家は仏教なんでしょうが、仏教が解りません。天台宗となっています。

    我が家は仏教なんでしょうが、仏教が解りません。天台宗となっています。 人間は死んだら、死後の世界は極楽浄土なのか、輪廻転生なのか、無なのか? いろんな法要がされますが、僧侶はなにを信じ、お経を唱えるのでしょうか? それと、経典には死者を弔うものはないと読んだ記憶があります。

  • 葬式仏壇の意味とは?

    宗派はあやふやですが、浄土真宗だった気がします。最近葬式に出る機会がありまして、お坊さんの話を聞いてると疑問が出てきて、調べてみたのですが、頭が悪いせいかよくわかりませんでした。そこで質問させていただきます。 質問1 浄土真宗でのお葬式の意味とは、できるだけ来世は地獄や、地球でなく、極楽浄土へ行かせるように努力しますよ。ということでしょうか?場合によっては、地獄や地球に生まれることもある? そしてもし極楽浄土へ行ったら仏になるんですよね? 仏になるということは解脱したということだと思ってたので、つまり極楽浄土へ行くことと解脱することは同じ意味なのか。と思って調べると、いや違う。と書かれていました。 質問2 つまり浄土真宗では、仏(ブッタ)になるということは、解脱せずともなれるということでしょうか? 質問3 あと、仏壇の意味は、極楽浄土へ行った故人である仏様が見守ってくれるよ!という意味であって、故人が楽になれるように、幸せになれるように。という意味は入ってないのでしょうか?(もし仏壇にいるのなら、仏なので極楽浄土にいるため幸せ) 質問4 仏教では幽霊のことをどう捉えていますか?輪廻転生も解脱もできずさまよっている故人という感じでしょうか? 付刃かつ浅学で、申し訳ないです。構っていただけるととても嬉しいです。よろしくおねがいします。

  • 幼少期の記憶がほとんどない事、近況の出来事の記憶が

    幼少期の記憶がほとんどない事、近況の出来事の記憶が薄い、感覚がうすらいでいることについて 最近気になることがあります。 ・幼い頃の記憶が全くない (親に殴られた記憶だけ明確にあります。その他に楽しかった思い出もあるはずなのに、全く思い出せません。幼馴染と昔を振り返って話をしても私は何も覚えてないです。) ・近況の出来事の記憶が薄い (記憶がサッパリ無くなってしまうわけではないが、脳の奥底に記憶が眠ってしまっているような状態です。脳の奥底から取り出せない、そんな感じです。) ・感覚が薄らいでいる、脳がぼんやりしている (毎日顔を合わせる人の名前がパッと出てこなかったりします。脳がうまく機能していない感じでぼーっとしています。数分前の出来事が一時的に思い出せなくなることもあります。) 私はとても精神的ストレスを溜め込んでいるのですが、それが要因でしょうか? また、幼少期の記憶がほとんどない事に関してですが、今は忘れているが、もっと過度なトラウマのような経験をしている可能性はありますか?安定した家庭で生活していたわけではなかったので、自分的にその可能性もある気がします。 自分的に、今まで少し気になっていたことが1つだけあるのですが、それは私の性の目覚めがとても早熟だったこと、またテレビや雑誌、周りの人から性知識を教わったはずもない小学生前半から今考えると性行為を男女がしているような絵を描いたり、頭の中にそのようなシーンが浮かんでいたこと。それだけです。幼少期に、間接的なものも含め、性的なことで何かショッキングな出来事を経験した、または年齢にそぐわない性的な画像などを見てしまった、または周りの大人に見せられてしまった、などの可能性はあるでしょうか?今まで性に早熟だった自分に対してとても嫌悪感を覚えていましたし、性依存にもなっていて、とても苦しかったのです。ずっとこのことについてモヤモヤを抱えて生きてきたのですが、関連性はあるのでしょうかね…?昔のことなので、掘り返しても仕方ないですけどね。しかし、少し気になってしまいました。 どうしてこのようになってしまったのでしょうか。 記憶が無かったり、脳がうまく機能していないような感じで、日常生活に支障をきたしてしまっています。 同じような状況の方、また少しでもこの文章を見て思ったこと、このようなことに知識がある方など、回答してくださるととても嬉しく思います。 よろしくお願いいたします。

  • 親に愛された記憶がない・1

    親に愛された記憶がありません。たとえば、1つでいいから何か親との楽しかった思い出は?と聞かれたとして、私は思い出せないのです。それよりキツい言葉や態度で恐かったというか、萎縮していた自分ばかりが思い出されます。ほめられた記憶さえありません。しかし弟は見た限りでは愛されています。私が卑屈になっているだけかとも悩みましたが、先頃、弟から、ふとした話の流れで「そういえば、親父は、俺とお姉ちゃんに対する接し方、昔から違うよな、それは感じてたよ」と弟も認めました。母にしてもそうです。過去にはこれも思春期などにありがちな被害妄想的なものか、とも思った時期もありましたが、やはり違うと思えます。私自身は勉強も運動もできるほうでなく、これと言って自慢できる子供ではなかったのもたしかです。ただ一つ絵は得意でした。成績も美術だけはよかった。でも小学低学年のある時、私が遊びで描いてあった絵が母の目にとまりました。「これ誰がかいたの?上手ね」と聞かれ、私は母に興味をもってもらえたことと上手ねという言葉が嬉しくて即座に「私がかいたの」と言いました。すると母から帰ってきた答えは「そう、x子ちゃん(3歳下の従妹)がかいたと思ったわ。なんだ、下手ね」でした。私は子供心に、なぜx子ちゃんなら上手で、私なら下手っていうの?と思いながら傷つき、私はやっぱりダメねと思いました。子供の頃のこういう悲しい思い出は多々あります。しかしごく最近の出来事は本当に悲しかった。(2に続く)

  • 人生について

    みなさんは一生一度きりの人生、何をして過ごしたいですか?得をするような生き方、考え方ってありますか?誰しも楽しく、幸せに、やりたいように、思うように生きたいですよね。誰にでも欲望がありますから。 死ぬことは死んだ人にしかわからない、死んだときにはもう意識がなくわからない状態です。この世に存在するものを見たり感じたりできなくなります。死ぬってどういうことですか? 一回、一度しか人生を最高に旅できません、味わえません。誰にでも必ず死が待っています。死んだら、生前に自分を見ていてくれた人に記憶として残るはずです。この世に存在していた、生前はこういう人でこうだったよねと話が出ます。それだけですね。あなたは祖父、祖母に見守られているといいますが、魂?が極楽浄土に行き、そこで見守るのですか? 他に与える影響力のない凡人は平凡なまま歳をとり老後を迎えるのだと思います。