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写真を撮る際

(1)よくプロのカメラマンが渋谷なら、渋谷の若者を間近で撮影していたり・戦場で被災している人を間近で撮影したのを見掛けますが。  被写体となる彼らに許可を貰って撮影しているのでしょうか?  個人的には、街・廃墟・自然ばかりを撮影しています、近頃そうした人も撮影してみたいと思っているのですが、汗。 (2)もうひとつ質問です、撮影をする際に、被写体を弄〔いじ〕る(演出する)事は異端だと思うのですが、どうでしょうか?(自分もやってますけど)  ファッション雑誌の撮影等では風を送ったり・編集で白黒にしたり、明度を落としたり・被写体の物を都合の良い様に動かしたり。  写真は本来の姿を写す為であるのならば、演出する事は異端ではないか? (3)写真を芸術と思っている方への質問ですが。  写真は「芸術」と呼ばれますが、何処が「芸術」なのかが分からないです。  既成されたものを撮影する(撮る)という行為の、何処に「芸術」があるのか?  回答、御願いします。

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  • pixis
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回答No.1

1 断ったり断わらなかったりです。 被写体が個人やグループでその被写体となる人たちが撮られることを 意識するような場合には一言声をかけます。あるいは許可をもらいます。 例えば、渋谷の街中で奇抜な格好をした女の子を写したいときに気が付かなければ後から撮ったり、望遠で遠くから撮ったりしますが アップで顔まで欲しい時やポースを取ってもらいたい時には 当然許可をもらいます。(私はこういう写真はとりませんが友人に聞くと そういいます) 道路で踊っているところを撮るような時には声をかけることはしません。つまり単に踊っている風景ですから彼らもことさら意識するわけではありません、外人が観光で珍しいから撮るくらいの調子です。 まぁ、その時の雰囲気というか、声かけなきゃまずいな、許可得るべきだなと思えば声かけますし、そうでなきゃかけません。 外国の戦場での被災者には声をかけることはまずしません。 プレスだという事も相手にはわかりますし、撮ってから ありがとうと声をかけるくらいです。 2 おっしゃるとおりですが、写真にも用途があります。 写真の意味は「真実を写す」だとは思いますが そういう日本語の語源や意味はさておいて (英語ではphotoですがこれには真を写すなんていう意味は全くありません) 写真には見せる側の目的というのがあります。 またそれはそれぞれ異なります。 見る側も取得する情報の種類が違います。広告として見るのか 被災地の悲惨さを見るのかで全く違った見方をします。 従って、その目的に応じた写真もあり、ことさら強調したいモノを いじっても写真は写真です。決して異端ではないとおもいます。 本来の目的をゆがめるような演出は邪道だとはおもいますが、 取り立てて被写体をいじったから異端だとは思いません。 特にファッション誌で風を送ったり彩度明度を変えても 目的に合っているわけですから演出したっていいのではないでしょうか。 乾いた風にも強いリンス!というのを広告するのにだらーんとたれた髪の毛のモデルより、風を送って髪がそよいでいるモデルの 写真の方が広告効果はあるのですからそれでいいと思います。 それを言いだしたら、そもそも女性の化粧は演出と言うことになってしまいます、その前にモデルさんを使うということそのモノが演出でしょう。 街中にあんなスタイルが良くてすらっとしてる人なんかまずお目にかかることはありませんよ。まして、有名ブランドの広告に出てくるような外人の女性なんてどこをどうあるったって見たことはありません。 風を当てる以前の問題です。 本来お目にかかったことないのですから、不自然なのですが、そういうモデルさんがグッチのバッグ片手に写っていても何となく自然ですよね。 一番平均的日本人(つまり自然に日常見る人)がもしモデルだったらいいとこ友近あたりですよ。 ウチの方では・・そうですねー・・森三中あたりですかねW アレがグッチのバッグ持ってスーパーで買い物、というのがグッチを除けば写真とすれば一番自然ですよね、つまり見慣れた演出のない写真かも知れません。 つまり「目的によっては演出すべき」ともいえます。 3, 見る側の感じ方です。 わからなければわからないで良いのではないでしょうか? わからないとおっしゃっている以上、説明されてもわからないと思いますし、たとえ頭で理解できたとしても芸術と感じないのですから 説明など不要かと思います。 どこが芸術かわからなければそもそもこのご質問はナンセンスです。 写真を見て感動したり、あー芸術だ!と思った時他の人がなんと言おうが あなたにとってその写真は芸術なのです。 また逆にそうでなければ他の人が芸術だ!といっても単なる写真でしかありません。 ことさら無理やり芸術にすることもありません。 人によっては全ての写真が芸術に見えることもあるでしょうし、 全ての写真が単なる瞬間を切り取っただけの絵にしか写りません。 芸術と感じる人はその写真からその写真の意味や奥深さ、絢(あや)を 感じ取ります。 例えば、私が芸術だと感じた最初の写真は 東京オリンピック。陸上100mのゴールの瞬間を横から撮っているモノなのですが、世界新を出した選手の胸がゴールに架かった瞬間のものです。 遅れてその他の選手がゴールを迎える体制で写っています。 そのゴールの向こうに階段状に5人程の計測員がいましてその人達が ストップウォッチを押しています、押したばかりの人もいますし、 これから押そうとしてる人微妙なズレですがそれがわかります。 世界新という、1/100秒を争う競技の世界新の瞬間を カメラという瞬間だけを切り取る道具で、その瞬間を写真にし、 それにはその瞬間を計測してる人たちが写りこんでいる まさに、「瞬間」というものがテーマになったモノです。 そればかりではなく、その瞬間を迎えるまでの「長い時間のかかった」道のり(そこまでの練習とスタートからゴールまでの両方)がわかるような 選手の表情と筋肉、そして着差がそこに写っています。 1/100の瞬間と経過する時間というモノが実にうまく絡み 時間のアヤが見事に力強く表現されていました。 この写真もなにも感じない人には単なるゴールの瞬間というだけです。 感じないことが悪いのではありません。その人の感性ですから 感じればそれはそれでヨシ、感じなければそれもヨシ、で良いんじゃないでしょうか。感じたからって別に良いことがあるわけでもありませんから。 私の父は戦時中パイロットで特攻隊員でした。しかし出撃命令前に終戦となり一命を取り留め15年程ままで生きていました。他界した時親父の書斎を整理しているとアルバムが出てきました。その時から勘定すると47.8年前のアルバムです(子供のころ見た覚えありますが以来忘れていました) 特攻隊員と決まった直後に、飛行機をバックに腕組みをしパイロット服に身を固め上半身の写真が当時のアルバムに貼ってあります。それを大きく引き延ばしたモノもボール紙に挟まれアルバムの下にありました(半紙大) 裏には昭和20年7月と記載され同期の桜と言われる人たちの寄せ書きが毛筆で寄せられていました。 これが19,20とは思えぬ達筆な字でした。 これを他界した時に見た時は、あー、この小さい写真がかっこよかったので引き延ばしたんだ、と単に考えていました。 あれから15年、ついこの間のことです。 私もさらに大人になり、よくよく考えて見ると あの大きな写真は葬儀用の写真だったんだ!と気が付きました。 50にもなって初めて、親父のその時の覚悟がわかりました。 やっぱりテレビなんかで特攻隊などの番組を見てるだけでは感じなかった そのころの若者の真に迫った姿が感じられました。 そのアルバムには同僚も1人1人飛行服で何人も写っており いずれも凛々しく見えます。 テレビを通してではなく「親父」の生の写真を見るとその迫力は テレビ映像の比ではありません。 また、当時としては撮りえなかった基地や何十機もの飛行機 また格納庫や営舎を撮ったものもありました。 これらの航空写真もあり軍事機密であるはずのモノなので 当時民間には絶対流れない写真がアルバムに貼ってあると なにか貴重な歴史の1ページがここにあるという感じを受けました。 これは他人には感じない写真からのメッセージだと思います。 (ちょっと技術とはちがいますが・・) ですので、写真は見る人が感じるモノで、教えてもらうモノではない。 ということをお伝えしたいと思います。

noname#49326
質問者

お礼

>演出  宣伝の為の演出ならば、それはそれで必然的に、演出しなくてはなりませんね。  個人的な話しですが、廃墟を撮る行為から写真に入ったので、「被写体は動かしてはならない。」という固定観念がありました。  そういう事もあり、「例え広告であろうと、演出してはいけないだろ。」という発想がありました(生まれました)。  冷静に考えてみれば、広告の為の演出は必然的なものですよね、汗。  広告の為の写真と、誰かに伝える為の写真等では、当然やるべき・守るべき過程(手段・規約)が違ってきますよね、汗。 >芸術  人によって様々ですから、こういう質問はナンセンスですけどね。 一応、他の方々の意見はどうなのかなぁと思い、質問させて頂きました。  個人的には写真は芸術じゃない、と考えています。 写真は芸術の一部だ!と考えている方がいれば、それを否定し様よとは思っていません(否定でも、肯定でもそれは意味のないことだと考えているからですが)。  写真は不思議なもので、思い出の写真・自分が綺麗!と思って撮影した写真等、撮影するには様々な動機(心情)があるとは思いますが。  思い出の写真を自分だけの楽しみとして味わう方もいれば、思い出の写真を誰かに伝えようとする方もいれば、自分が綺麗と思った写真を自分だけで味わう方もいれば、自分が綺麗と思った写真を誰かに伝えたいという方もいますよね。  個人的な意見としては、自己満足で撮影してます(自分の撮影した写真は広くても友人と楽しみを共有するだけで留めています)。  友人と一緒に撮影しにいくと、撮るタイミングというか、場所が違うんですね(人の価値観は違うので、当然な事ですが)。  ということで、思った事は「自分の価値観を投影する。」(?) 写真に対しての、自分の気持ちが一番分からない部分です(答えです)。  要するに、何故自分は写真を撮るのか?ですが。 考えても意味はない事でしょうが、何故この写真は自分は撮ったのか。 綺麗だから? 魅力的だから? 不思議だから?  と様々な思いが沸き上ります、笑。  pixisさんの最後の方を読んでいて、思った事を書いてみました。 親切な回答を頂き、ありがとうございます。

noname#49326
質問者

補足

 補足内容ではなく、お礼回答の時数制限を越えた為、こちらに1・2のお礼回答を記載します、汗 >断ったり断わらなかったりです。  被写体が個人やグループでその被写体となる人たちが撮られることを 意識するような場合には一言声をかけます。  あるいは許可をもらいます。  例えば、渋谷の街中で奇抜な格好をした女の子を写したいときに気が付かなければ後から撮ったり、望遠で遠くから撮ったりしますがアップで顔まで欲しい時やポースを取ってもらいたい時には当然許可をもらいます。  (私はこういう写真はとりませんが友人に聞くとそういいます)  やはり人との距離感が問題となり、同時に何を被写体とするのかをよく考えなくてはならないですね。 >外国の戦場での被災者には声をかけることはまずしません。  プレスだという事も相手にはわかりますし、撮ってからありがとうと声をかけるくらいです。  第二次世界大戦の頃(?)アメリカの国旗を掲げる兵士達の有名な写真がありますが、撮りなおしてたみたいですね(広告ですから、別に良いのでしょうが)。  戦場では、余裕がなさそうなので、その一言さえも言えずかもしれませんが、汗。 (お礼回答に続く)

その他の回答 (1)

  • Us-Timoo
  • ベストアンサー率25% (914/3620)
回答No.2

(1) >渋谷の若者を間近で撮影していたり こちらは、間近で撮影なら声をかけるでしょうね。 後々、その画像を使うには本人に了承の意思を確認しておかなければいけませんから。 >戦場で被災している人を間近で撮影 声をかける場合もあるでしょうが、そうでない場合もあります。 > 個人的には、街・廃墟・自然ばかりを撮影しています、 私個人から見れば、廃墟の敷地内への立ち入り・撮影などは所有者・管理者の許可を得ているのか と常々疑問に思っていますけれどね。 (2) >もうひとつ質問です、撮影をする際に、被写体を弄る(演出する)事は異端だと思うのですが >ファッション雑誌の撮影等では風を送ったり >編集で白黒にしたり、明度を落としたり・被写体の物を都合の良い様に動かしたり。 この二つを同列に「演出」と考えるのもおかしいですよ。 前者は本当の意味での演出ですが、後者は完全な「編集・加工」です。 もちろん、明度・濃度・色調を補正・調整するくらいのことは、デジタルの編集に限らず フィルムのプリントでは日常茶飯事に行われていることです。 しかし、「演出」は撮影時にやらなければ出来ないことです。 もちろん、作品撮影でなく商業撮影などであれば、「クライアントの要求する」画を 作り出すために、写真の加工をすることはありえますよ。 しかし、コンテストに出すような、もしくは写真家の作品として発表するようなものに 「明度・濃度・色調を補正・調整」を超えて「編集・加工」を行うことは、 完全なルール違反。やってはいけないことです。 >写真は本来の姿を写す為であるのならば、演出する事は異端ではないか? 貴方は「写真」というものを少し勘違いされていますよ。 おっしゃっているのは「写真」本来の動作のお話であって、中身のこと 被写体の内容までを指していっていることではありません。 写真は「瞬間の芸術」であり「時間の流れを写し止める」ものです。 だから、時に写真は如実に真実も語ります、しかし、時には真実でないものも写しとめますし、 撮影手法によっては人間の目では見ることの出来ない世界を見せてくれます。 写真とはそういうものなのですよ。 しかし、そればかりでは自分の見せたいものや撮りたいものを撮れない場合がありますし、 特に商業撮影では屋内での撮影で風になびく服を撮影することなど 絶対に不可能ですから、そういう場合には演出が必要なのです。 (3) >写真は「芸術」と呼ばれますが、何処が「芸術」なのかが分からないです。 貴方も「カメラマン」という「表現者」の中の一人ならそのくらい自分で考えてくださいな。 人に答えを求めるようなことではないでしょう。 わからないとおっしゃるのであれば、あえて書かせていただきますが、 「写真を通じて自分の感じるもの・伝えたいものを表現する」 ということだと私個人は思いますよ。ご質問者様は >街・廃墟・自然ばかりを撮影しています とかかれていますが。これによって、自分は何を表現したいのですが? 街の写真なら、街行く人々の喧騒? それとも、大きな街のわびしさ? 廃墟の写真なら、廃墟の寂しさ? それとも、かつて盛栄を誇った成れの果ての虚しさ? 自然の写真なら、そこに見える自然の美しさ?それとも雄大さ? 人にあえて言わなくても、その写真から見せたいものを自分の中で感じているものがあるのではありませんか? だから、写真に撮る、という行為にいたると思うのですが。 貴方は、それを自分の撮った写真からそれを表現できていますか? その写真をみた他の人が、何かを感じる・思ってくれる、そういう写真をを撮っていますか? >既成されたものを撮影する(撮る)という行為の、何処に「芸術」があるのか? では、貴方は既成されているものを写しても、既成されているものの存在や その魅力を写真で、他人に充分に伝えられる表現ができますか?

noname#49326
質問者

お礼

>ファッション雑誌  やはり演出になりますね(勿論、編集という要素も含めてですが)。 >コンテスト  此処が凄く矛盾している様な感じもしますけどね。 編集一切厳禁とするならば、ズームもするなよ、と言いたくなりますけど。 >貴方は「写真」というものを少し勘違いされていますよ。  これは、自分が意味不明な事を書いていたので、反省。 >「写真を通じて自分の感じるもの・伝えたいものを表現する  自分は写真家でも、何でもない。 ただの趣味として(自己満足として)、資料撮影の為に写真を撮るだけです。  「写真が表現するもの」対する意見は、個人様々違うでしょう。  どういう心情で写真を撮影しているのかなぁと、何故写真を撮るのかなぁという根本的な事を聞きたかった分けです。 >では、貴方は既成されているものを写しても、既成されているものの存在やその魅力を写真で、他人に充分に伝えられる表現ができますか?  これは時と場合によって、可能でもありますし、不可能でもありますね。  撮影者と鑑賞する側の心情がその作品を媒体として(繋がりとして)互いの心情が一体するという事は可能な時もあり、不可能な時もある。  別に一体する必要はないとは個人的には思いますが(それが人それぞれの価値観であるから)。  まず自分は友人までにしか写真を見せない(というか殆ど自己満足の為の写真撮影です)。  個人的な写真の解釈ですが、写真目的によっては表現をしていますし、表現をしない場合もあると思います。  その話しをしたいのですが、自分の中でも言葉として出来ていないので(「写真とは?」)、中途半端な終わりにさせて頂きます。

noname#49326
質問者

補足

 長文になりましたので、補足内容のペースを使います。  他のお礼内容と被るかもしれませんが、汗。 >こちらは、間近で撮影なら声をかけるでしょうね。  後々、その画像を使うには本人に了承の意思を確認しておかなければいけませんから。  そうですね、撮影する際は、そうします。 >声をかける場合もあるでしょうが、そうでない場合もあります。  色々と調べても分からなかったので、ありがとうございます。 >私個人から見れば、廃墟の敷地内への立ち入り・撮影などは所有者・管理者の許可を得ているのか、と常々疑問に思っていますけれどね。  個人的には、不法侵入する勇気はないので、外見からです。 (色々な廃墟のサイトに行くと、不法侵入をしていますが、汗。)  某鉱山みたく、合法的に入れる場所には入りますけどね。  今年の春からは軍艦島も一部見学可能になるみたいですが。 まぁ、廃墟は(自分もやってるにも関わらずですが)そっとして置いた方が良いんですけどね(説得力に欠けますが)。 (お礼回答へ続く。)

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