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鎌倉幕府の謎

前にも類似の質問があったのですが、やはり分からないので質問しますが、北条氏はなぜ将軍にならなかったのか、というものです。他の御家人が許さなかった、というのは分かりますが、なら将軍なしでいけば良かったのでは?  もう一つ、高時が執権を辞めて、復帰しなかった理由が分かりません。

noname#55125
noname#55125
  • 歴史
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みんなの回答

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

北条家の桓武平氏 北条時政は頼朝の推挙で確かに従五位下遠江守に任官していますが、その父親は単なる在庁官人でしかありません。自称ではないかとも言われています。 対して、たとえば伊勢平氏、清盛の家系は父忠盛が最高位正四位上刑部卿、地方国守を歴任しています。その父正盛は従四位上でありこれも地方国守を歴任しています。その父正衡も地方国守を歴任。その父正度も国守を歴任。その父維衡も伊勢守。その父貞盛は鎮守府将軍や各種国守を歴任。その父国香は鎮守府将軍、常陸大掾。その父は高望王あるいは平高望であり遙任をせず任地へ下向し、武家平氏を作った人。 と、長々と書きましたが、国守、当時の用語としては、受領層としてずっと中央と地方の両方に基盤を持っていました。 源氏嫡流を自称する、頼朝の家系も同様な感じです。これと北条家とでは、まったく家格が違います。 実朝が殺された段階では、北条家の出自は皆知っていること。北条家をたたえるように書いてある吾妻鏡でも、千葉氏は千葉介と書かれているのに、北条氏は北条殿であり伊豆介とは書かれていないとのこと。つまり、各国の在庁官人のトップとも認識されていなかった言うことだと思われます。 権力の簒奪はわりと頻発しますが、権威の簒奪は頻発していません。 日本史に於いてもっとも権威の簒奪が起こっていない例が天皇となります。中国においても王朝の交代という権威の簒奪は百年単位でしか発生していませんが、権力の簒奪は、結構頻発しています。外戚の横暴とか宦官の専横とか歴史上表記されているのは、外戚なり宦官が権力を簒奪した状況を示しています。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.5

追加の疑問にお答えします。 例え実力がなくとも、天皇が不必要という論議がないように国家というものは意識の中心を必要とするものです。 お飾りであっても内裏雛のように存在する事に意義があります。 もし不必要だからといって空位とすれば日本は恐らくバラバラになったでしょう。 皇室が長く存続出来たのは、無力な存在であったからです。 実力を持とうとした天皇は全て挫折している歴史が証明しています。

noname#55125
質問者

補足

いや、天皇が不必要という議論はありますよ。天皇家が続いたのは単なる偶然です。  話を戻すと、鎌倉幕府に将軍が必要であった理由には、それはならないでしょう。執権がいればいいのですから。幕府の長は将軍であるというのは、むしろ鎌倉幕府が作った観念で、頼朝が将軍となる以前には、まったく存在しなかったものです。頼家にしても、将軍になるのは権力を奪われた後です。将軍不要論というのはなかったのでしょうか。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.4

北条氏が将軍職につかなかったのは、その必然性も必要性もなかったからです。 北条氏は出自はともかく、伊豆の一郷族でその他のご家人と同格です。 頼朝が始めた将軍職は朝廷による官位で朝廷の承認がなければなりません。 もし北条氏が将軍になれば、その他のご家人達にもその機会があることになり争奪戦になる事は必定で、当時三浦、安達など北条と比肩しうる豪族が多い時期にまだ基礎の脆弱な北条氏が冒険出来る時期ではなかったのです。 この為承久の乱にあたり関東で大軍を召集編成する際、頼朝未亡人である北条時子がご家人達に頼朝のご恩を思い出させ、そのご恩に報いることこそご家人の責務と演説しなければならなかったのです。 中期以降北条氏の支配体制も確立し安定してきても、朝廷の承認が得やすいお飾りの将軍をたてたのも実権は既に執権である北条氏が握っており敢えて将軍職を望む必要がないからです。  またそれが争奪戦を防ぐ知恵でもありました。 高時については彼は政治に興味を持たなかったのではないかと想像します。 政治の実権は高一族など他に移っていた時代です。

noname#55125
質問者

お礼

ありがとうございます。では、なぜ成長すると必ず京へ送り返すような将軍を置いておく必要性があったのでしょう。将軍こそ必要ないのでは?

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

木曽義仲 あるいは 一時候補に挙がった 平賀朝雅レベル、あるいは平将門の貴種性と 北条家の貴種性はレベルが違います。 伊豆国の在庁官人でしかありません 北条家は

noname#55125
質問者

補足

北条氏は桓武平氏ではないのですか? いや、それが疑わしいとしても、では桓武平氏は本当に桓武天皇の子孫なのでしょうか。高見王などという人物が本当にいたのでしょうか。家康が源氏だというのが嘘であるように、系図などというのは後からこしらえられるものでしょう? 前期北条氏にそれをするだけの力がなかったということでしょうか。しかし中期以降はほとんど北条氏独裁ですから、将軍になっても良かったのでは?  しかし、なぜ将軍が必要だったか、やはり分かりません。

noname#58790
noname#58790
回答No.2

この頃から江戸時代までの天皇の直轄地「保」の変遷の質問をしようと悩んでいたのですが、年末忙しいんです。^^; 平安時代、既に律令制度は崩壊していました。 貴族、自社の荘園は無税でしたので、墾田をここに寄進して脱税をしたのです。 この頃平家、源氏が出現。 当時はバランス良く使っていました。 平将門の乱以降、乱、役が目立ちはじまります。 源義経を使い、頼朝討伐の院宣を下し討ち取ろうとしますが、頼朝は大群を率いて京に上り、頼朝討伐の院宣を撤回させ、逆に義経討伐の院宣を出させます。 今度は、 承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に破れます。^^; 北条氏は、従四位ですので、天皇から名前を貰っていないようです。 また、天皇は、名前を与えるつもりは全く無かったと思います。 (領地は死活問題なので) 棟梁は必要です。 他の源氏に食われてしまいます。 >高時が執権を辞めて、復帰しなかった理由 病が主な理由と聞いています。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

統治行為における権威と権力の分離問題が根本にあります。 鎌倉幕府に限らず、また日本の歴史に限らず、権威の変更は大事業となります。権力の変更は、権力自体が常にその実行力を問われる点で変更されます。なぜ権威と権力がそうなっているかは問わないでください。 統治行為に於いて、正統性を問われて変更しづらいものを権威であり、実行力を問われて変更されやすいものを権力と名付けると理解してください。 なので、新しい権威が発生した場合には、常に権威者=権力者になります。権力によって新しい権威が確立するからです。 鎌倉幕府に於いて、権威が将軍位となります。これは実際にこの権威を作り上げた権力者である源頼朝によって、作り上げられました。二代目頼家、三代目実朝と将軍位が継承された段階で、頼家・実朝の権威は、権力の実行力から頼朝の血脈を引いているという血統・貴種性に還元されました。実朝が死んだ段階で頼朝の血統は事実上無くなったので、将軍の正統性を確保するために、頼朝以上の貴種性が求められました。それが摂関将軍であり、皇族将軍です。 この貴種性において、北条家は何もなかった。 では、将軍なしでいいのか?というと、鎌倉幕府という統治体制が将軍という権威を前提に作られた、つまり将軍と将軍に個別に忠誠を誓う御家人の集団という性格を有している以上、将軍なしでは成立しえません。「鎌倉幕府」という生身の人間でない法人に忠誠を誓うほど人間社会は進歩していません。経済行為に於いて、法人という概念が生まれるのは1602年のオランダ東インド会社設立。政治行為に於いて、法人、つまり国家自体への忠誠という概念が実行されるのは、フランス革命によるフランス共和国成立を待たねばなりません。 高時が執権を辞めて復帰しなかった理由 権力装置として得宗体制が成立していたからです。 得宗+その御内人による権力が成立していたので、執権に戻る必要がなかったということになります。

noname#55125
質問者

お礼

ありがとうございます。 しかし、「征夷大将軍」というのは蝦夷を討伐する将軍の職であり、木曾義仲も任ぜられていますね。幕府筆頭者が将軍であるというのは、たかだか頼朝死後、頼家と実朝が継いだことでできた実に歴史の浅い体制でしかありません。また承久の乱によって朝廷の権威は甚だしく低下していたはずで、たとえば平将門が新王を名乗れたなら、平氏である北条氏はなぜ名乗れないのか、また「執権」が幕府筆頭者ではなぜいけないのか、やはり分かりません。

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